一五三
レオポルドの主導による税制改革やサーザンエンド辺境伯軍とムールド伯軍の合流問題などに赤獅子館をはじめとするハヴィナ貴族が反発を示し、連日のようにハヴィナ城内の議論は紛糾していた。
その上、徴税請負人制度の廃止の噂が広まり、徴税請負人を務めていた富裕な市民たちは市参事会を動かして反対運動を繰り広げたが、徴税請負人に苦しめられてきた中流下級の市民たちはこれを歓迎するなどハヴィナは財政と税制を巡って混乱に包まれていた。
極近い未来のサーザンエンド辺境伯夫人であるリーゼロッテ・アントーニア・フライベル嬢が南都ハヴィナに入ったのはそのような時期、帝歴一四一年が最後の月を迎えようという頃であった。
形だけではあったが未だにサーザンエンド辺境伯宮廷の侍従長という地位を保持しているレッケンバルム卿がイスカンリア地方との境まで出迎えに向かった。
レオポルドはサーザンエンド辺境伯軍の近衛連隊の制服である真紅の軍服を身に纏い、近衛大隊の騎兵中隊とサーザンエンド・フュージリア連隊の一個中隊の合わせて二個中隊を従え、ハヴィナの城門で花嫁を待ち受けた。
リーゼロッテには数多くの人々が付き従っており、その隊列は相当な長さで、ちょっとした軍隊のようにも見えた。
警護の騎兵が五〇騎。マスケット銃を担いだ歩兵が一個中隊。その他にお付の家臣や女官、十数人の侍女、医師、司祭、書記、画家、演奏家、料理人、馬丁、荷運び人夫まで含めればその人数は数百人にも及ぶ。
荷物の量も人数に比して大量となるのは必然というものであろう。旅に必要な糧秣や水の他、百着以上の衣装、装飾品、新居で使う家具家財までが二〇台以上の馬車と一〇〇頭もの荷馬に積まれていた。
「相手は一個連隊くらいか。戦争だったら我々は負けているな」
あまりに大規模な隊列を見たレオポルドは傍らに控えた近衛大隊長代理のサライ少佐に漏らす。
彼の従える兵力は少なかったものの、随伴する高官は多く、赤獅子館に席を持つハヴィナ八家門のうち、出迎えに行ったレッケンバルム卿とレオポルドに敵対してハヴィナを脱したルーデンブルク卿以外の六卿が揃っており、その他のハヴィナ貴族もほとんどが顔を揃えており、ハヴィナ教会の上級聖職者たち、ハヴィナに駐屯する各連隊の指揮官たち、ムールド諸部族の族長らが揃っていた。レオポルドが呼んで集めたわけでもないのに我も我もと出迎えを志願し、断る理由もないと考えたレオポルドが拒まないうちに高官たちとその従者の人数はレオポルドが従える二個中隊に匹敵する規模になっていた。
その上、未来の辺境伯夫人を一目見ようというハヴィナ市民が大挙して街路に繰り出しており、レッケンバルム准将は慣れない群衆警備に四苦八苦していた。
リーゼロッテの隊列は恐ろしい程に遅く、地平線に見えてからハヴィナの城門に達するまでに半日近くを要した。レオポルドはその間に数え切れないほどの欠伸をして、馬に跨ったまま読書を始める始末だった。
「閣下。来ましたっ。来ましたぞっ」
サライ少佐に声をかけられ、レオポルドは本を従者に手渡した。
ハヴィナの城門の前に整列したレオポルドに向かって隊列の先頭から一騎駆け寄ってきた。騎乗しているのは煌びやかな水色の服装を纏った大変整った顔立ちの若い貴族だった。
若い貴族は大きな白い羽飾りを付けた帽子を脱ぎ、優雅に礼をしながら溌剌とした声で言った。
「サーザンエンド辺境伯閣下っ。お出迎え頂きまして痛み入りますっ。私めはレウォント方伯が家臣エーリヒ・オスカー・シュトレーマンと申します」
「遠路遥々御苦労である」
内心まだ辺境伯に就任していないと思いながらレオポルドは無表情で答える。
「我らが姫リーゼロッテ嬢を無事にハヴィナまでお連れ致しました」
「……御苦労であった」
レオポルドは仏頂面で同じような台詞を繰り返すが、シュトレーマン卿は気にする様子もなく親しげに話しかけてきた。
「しかし、サーザンエンドは暖かいですな。冬でもこれ程に気温が高いとは思いもよりませんでした。レウォントも温暖な地ですが、これほどではございません。確か、閣下は帝都の御生まれでしたな。サーザンエンドの気候に慣れるには如何程の時間が必要でしたか」
「私は未だにサーザンエンドの酷暑には辟易としている」
そう言い切るとレオポルドは傍らのサライ少佐に視線を向け、声を潜めて言った。
「散々待たされたからな。さっさと城に戻ろう」
「リーゼロッテ様とお言葉を交わさずとも宜しいのですか」
「どうせ、これから嫌でも毎日のように顔を合わせるのだから些かばかり後でも構わんだろう」
レオポルドの率いる二個中隊とリーゼロッテの隊列、ハヴィナの高官たちは列を作ってハヴィナの大通りを進み、ハヴィナ城へと向かった。
馬上のムールド伯は相変わらず無愛想で、その花嫁は馬車の窓を開けて民衆に手を振ることもなく、花嫁の姿を一目見たいと思って集まっていた市民はただただ人と馬と荷物の列を眺める羽目になり、口々に不満を漏らした。
一行は半時ほどもかけて市内を行進し、ハヴィナ城の敷地に入っていった。
レオポルドとその兵たちは広大なハヴィナ城の敷地の中央にある広場に整列し、その前を煌びやかな六頭立ての馬車が横切る。白塗りで縁を金で飾り、扉にはフライベル家の三つ葉の紋章が描かれていた。馬車はレオポルドの前でちょうどよく停まり、素早く降り立った従者が踏み台を用意して、扉を開ける。
馬車から姿を現したリーゼロッテ・アントーニア・フライベルは帝都にいた頃と変わらぬ美貌であった。
肌は血管が透ける程に白く、長い髪は一流の職人が手掛けた銀細工の如く、今日は真珠の髪飾りを幾つも付けていた。その様はまるで雪山を流れる滝のようで、真珠飾りは太陽の光に反射して輝く水飛沫のように見えた。
切れ長の目尻は釣り上がり、黄金の如き瞳は爛々として視線鋭く、見る者に強い印象を与え、視線が合った者はその金色の瞳を夢にまで見ると云われるほどであった。
すっと筋の通った鼻は高く、ほっそりとした頬に顎は細く尖り、桃色の唇は不機嫌そうに横一文字に結ばれているか皮肉っぽく歪んでいるのが常であった。
冷然として無愛想な彼女の面持ちは、人々に一流の彫刻家が彫り上げた見事な氷像を想起させるような冷たい美しさとも言うべきものであった。
身に纏う白いサテン地の着物はフリルで飾られ、刺繍を施され、日の光にキラキラと輝いている。胸元は広く開き、白い肌と胸の谷間を露わにしていた。スカートはそれほど長くなく、広がりの小さなもので、それは西方や帝都で田舎風と言われるものだった。宮廷で貴婦人たちが履くものよりは動き易く外出にも向いているものだ。
リーゼロッテは歩み寄ってきた花婿を一睨みしてから不機嫌そうに鼻を鳴らす。黙って踏み台に足を乗せると、すかさずレオポルドが紳士らしく彼女の手を取る。
「ようこそ。サーザンエンドへ」
レオポルドのエスコートを拒まず、手を預けて馬車から降りながら彼女は帝都にいた頃と変わらず不機嫌そうな顔で開口一番に言い捨てた。
「酷い旅だったわ」
率直な感想にレオポルドは苦笑いを浮かべて答える。
「私も初めてここまで旅した時に同じことを思ったよ」
その答えに彼女は口の端を吊り上げ、ようやく笑顔らしきものを見せた。
「内海は荒れて波が高くて気持ちが悪くなったし、イスカンリアからここに来るまでの道路では馬車が揺れて揺れて、また気分が悪くなったし、山脈を越えた後は砂埃が酷くて馬車の中にまで砂が入って来て髪や服が汚れて心地が悪いし」
リーゼロッテがぶつくさと並べ立てた文句にレオポルドは心中で同意しながら、次に馬車から降車する人物にも手を差し伸べる。
「ニーナ・アレクシア・フライベル嬢。ご機嫌麗しゅう。長旅でお疲れではありませんか」
リーゼロッテの妹であるニーナは姉と同じ白い肌と銀色の髪と黄金の瞳を備えていたが、それ以外は正反対と言って良いような容姿をしていた。
ふっくらとした頬に、控え目な小さな鼻と口で、幼さと愛らしさを残した容貌で、やや人見知りではあったが愛想良く、人好きのする笑顔を浮かべていることが多い。
「レオポルド・フェルゲンハイム・クロス閣下。再びお会い出来て光栄です。確かに旅は長く慣れないものでしたが、中々に興味深いものでした」
ニーナが愛想の良い笑みを浮かべて言い、釣られたようにレオポルドが微笑を浮かべると、すかさずリーゼロッテが刺々しい声で釘を刺すように言い放つ。
「私のニーナに色目を使うのは止めなさい」
貴婦人はフライベル家の姉妹だけではなく、後続の馬車から数人の女官が降車し、先程ハヴィナの城門でレオポルドと挨拶を交わしたシュトレーマン卿を含む幾人かの貴族たちが下馬する。
彼らはリーゼロッテ付の女官と侍従で、いずれもレウォント方伯領の貴族階級の出身者である。
レオポルドは彼ら一人一人と挨拶を交わし、その間にリーゼロッテとニーナの姉妹はサーザンエンドの高官たちの挨拶を受けていた。
この挨拶を交わすだけの儀礼にかなりの時間を要している間にリーゼロッテの荷物は次々とハヴィナ城内へと運び込まれていく。
リーゼロッテの居住区域としてはハヴィナ城の宮殿の東にある大きな寝室と居間、衣裳部屋の他、更にいくつかの部屋が割り当てられており、更に彼女付の侍従と女官には個室が宛がわれ、女中や従者たちの部屋も用意されていた。荷物はそこへと運び入れられた。
一通り挨拶を交わした後、レオポルドとリーゼロッテは並んでハヴィナ城内へとようやく足を踏み入れた。その頃には二人とも疲れ切っていて揃って溜息を漏らしていた。
「挨拶なんてどうせ後でもできるのだから、今日くらい休ませてくれれば良いのに」
リーゼロッテが愚痴っぽく呟くとレオポルドはうんざりとした顔で答えた。
「その通りだと思うが、この後、昼食会があるし、夜には晩餐も控えている」
その言葉に彼女は苛立たしげに隣を歩く未来の夫を睨み付けた。
「どうかしてるわ」
「同感だ」
仰々しく長たらしい儀礼を好まないのは二人の共通点だった。
リーゼロッテがハヴィナに入った後、数日の間はリーゼロッテを迎える宴が連日繰り返され、レオポルドと彼女を辟易とさせた。
その歓迎ムードがいくらか落ち着きを見せた頃、今度は一個中隊くらいの隊列を従えた皇帝の使者がハヴィナに入り、レオポルドがサーザンエンド辺境伯位を継承することを正式に認めるという皇帝の勅令と帝国議会の決議を伝令した。
これにより、レオポルドは名実ともに正式なサーザンエンド辺境伯に就任し、晴れてハヴィナ城の主となった。
レオポルドの軍隊は祝砲を放ち、全ての将兵とハヴィナ市民に下賜金が配られ、ハヴィナ城は再び祝宴ムードに包まれて晩餐会が繰り返され、レオポルドとリーゼロッテを再びうんざりとした気分に陥らせた。
連日の祝宴と下賜金による出費は一〇〇万セリンにも上り、レオポルドの財政にささやかなれど無視し難い悪影響を与えた。
レオポルドのサーザンエンド辺境伯就任を受けて、リーゼロッテとの婚儀の日取りが正式に定められることとなった。慣例や慣習、高官たちの都合や何やを考慮に入れ、喧々諤々の論争の果てに来年初めの早い時期に行われることが決められ、既に始まっていた準備作業は具体的な目標が定まったことによって、より加速した。
花婿と花嫁が着る衣装の準備、宮殿の改修や飾り付け、数日間に渡って続く宴に供される食材や酒の調達、参列者に配る記念品の用意など、行うべきことは多かったが、レオポルドは可能な限り節約するように指示をして、どうにかこうにか数日間続く祝宴の時間は昼から深夜まで、開催時期は長くても七日間に抑えることとした。
それでも高官や市民への下賜金などを含めると費用は三〇〇万セリンを上回ると見積もられ、レオポルドの莫大な債務の山の頂上を飾ることになりそうだった。