一五二
レオポルドは頻繁に会議を催す君主であった。
それは彼の権力基盤が比較的弱く、その治世が全体的に不安定であったからである。
軍隊の指揮権を握っているとはいえ、将兵の大半を占めるのは異民族にして異教徒であるムールド人で、彼らの忠誠心に全幅の信頼を寄せられるほど、彼は楽観的ではなかった。
統治機構を構成する高官や役人の出身母体である同族にして同じ正教徒であるハヴィナ貴族や帝都から招かれた学者や技術者、ウェンシュタイン男爵家出身の陪臣たちにしても、レオポルドに絶対服従というわけではない。
それでも彼らがレオポルドに臣従し、支持しているのは彼を頂点に頂いた統治体制が概ね彼らの利益と安定に繋がっているからに過ぎない。
そもそも、レオポルドの今の地位は正統なる血統によって難なく継承されたものではないし、ましてや神から授かったものでもなく、自分たちの支持によって、流された多くの血によって獲得できたものだという意識がある。
故にレオポルドの治世が絶対主義的な色彩を帯び、彼らの意向や利益を全く無視するような統治と化した場合、彼らはそれまでの支持を取り下げて、反抗を始めるだろう。
その為、レオポルドは彼らの君主ではあったものの、正当な理由も無く気に入らない者を排除したり、ましてや粛清するようなことは不可能であった。それができるのは基本的には彼らが公然と武器を取って反抗したり、法を犯したりした場合等に限られる。
ただ、レオポルドにとって都合の良いことに、ムールド諸部族とハヴィナ貴族、帝都出身者は一致団結しているわけではなかったし、それぞれの勢力も一枚岩ということはなく、各々の意向や目的、レオポルドに対する距離感はバラバラであった。
そこでレオポルドが統治手段として用いたのが会議である。
各勢力や有力者たちの意向や不満等を把握し、利害を調整し、妥協点を見出し、ある程度の同意を取り付けてから施策を実行しようというのがその目的であった。
会議によって各々の同意を取り付けておけば、施策を実行する時に反発されることも少なく、現地に影響力を持つ彼らの協力を得ることもできる。会議の出席者のバランスを考慮し、一部の参加者に根回しをしておけば、有力者の反対を封じることもできる。
また、会議には各勢力に統治への参加意識を持たせる意味もある。自分がレオポルドの政府の一員であり、統治の蚊帳の中にあるのだという自負を持たせるのだ。統治への参加意識を持たせることは反抗心や不満を抑えることに繋がるだろう。
とはいえ、会議を催したところで反対意見が多数になってしまうと、施策の実施に大きな支障となるので、事前に反対が予想される施策については会議に諮らず実施することもあった。
レオポルドはこのように会議を上手く使ったり使わなかったりする人物であったが、概ね大抵のことは会議を催して臣下に議論させることを好んだ。
宮廷財務会議と呼ばれる会議が始められたのはこの頃であった。
君主の他、財務関係の諸高官や財務官僚が顔を揃えるのが常であり、議題は宮廷の財務関係に留まらず、フェルゲンハイム・クロス家が統治する諸領地の財政・経済・金融・市場問題、つまり、財政が関係する多くの事柄が議論され、政府財政の実質的な最高機関と見做されることもあった。
この宮廷財務会議が開催されるきっかけが何であったかは言うまでもない。
フェルゲンハイム家、言い換えるならばサーザンエンド辺境伯宮廷が抱える一二億五〇〇〇万セリン及びレオポルド、ムールド伯領政府が抱える七〇〇〇万セリンの負債の処理について議論する為であった。
宮廷財務会議はレオポルドが起居している青い小宮殿の広々とした書斎で行われた。
冒頭、官房長レンターケットが莫大な債務問題について説明すると会議の出席者たちは一様に唖然とした様子を見せた。
「まったく、大した金額ですな」
ムールド伯領の財務長官を務めるカール・ウルリヒ・マウリッツ卿が溜息混じりに呟く。
卿はウェンシュタイン男爵家の家宰を務め、小さな男爵家ながら負債を抱えない健全経営を行った実績を持っている。伯領政府の財務長官に就任した後もレオポルドの強い指示の下、伯領政府の財政・徴税機構の構築に尽力してきた。
「収支の方も酷いですな。税務調査は行っていないも同然といった有様のようです」
「徴税機関の職員が少な過ぎて検査が実質的に不可能なのでしょう」
一同が囲む大テーブルの上に散らばった書類に目を通しながら二人のムールド人が呆れた様子で言い放つ。両人とも豊かな髭を蓄えた壮年である。
一人はレオポルドの夫人アイラの伯父サイド・オンドル・アリ伯領議会議員。彼は伯領議会発足までレオポルドの下で徴税部門を監督していたことがある。カルマン族が戦乱に巻き込まれるまでファディに商会を持ち、貿易業を手掛けてきた経歴を持っており、ムールドのみならず南部一帯の経済に明るい。
サイドの隣に座るアルマド・タヒル・ルスタム財務顧問官はサルザン族の族長ラハリ・ブリ・ルスタム大佐の従兄弟で、塩の町において長く財政関係の職務を務めた経歴を持つ。
二人は流暢な帝国語を話し、財務や経済に通じているばかりかムールドを含む南部の経済事情に詳しい為、レオポルドの財政顧問の一員であった。
「まずは債務整理についてですが」
レンターケットが言う通り、債務整理は最優先に取りかからなければならない事案の一つである。
辺境伯の債務にはある問題があった。莫大な金額であるということは勿論であるが、不統一に乱発されていることが大きな問題であった。
辺境伯及びその政府の借金方法は予算が不足した時に金を融通してくれる者からその時々の交渉によって借り入れを行うという行き当たりばったりなもので、債務の金額も利率も返済時期も条件もバラバラであった。
これでは返済計画を立てる際の大きな支障となり、返済に係る事務も極めて煩雑となる。
そもそも、フェルゲンハイム家が抱える債務はいずれも高利で返済時期も短期であった。これは王侯の債権は彼らが恣意的に債権放棄したり、後継者が債権の継承を放棄したりして、返済不能に陥ることが度々あった為である。
ロバート老の交渉によって大部分の債権の利率は一割まで引き下げられ、返済時期が延期されているものの、全ての債権者と話が付いたわけではない。中には依然として高利かつ返済時期が短期のものもある。
また、債権者の中には所在が不明な者もいるだろうし、先のナジカの戦いによってナジカ商人の多くが処刑され、財産はレオポルドに没収されており、その財産の中に辺境伯家の債権も含まれているはずだ。
債務に関係する書類は数百枚にも及びそれらに目を通すだけでも一苦労だろう。その仕事はレンターケットらレオポルドの官房に任されることになった。
「債務の状況を把握し、整理するには数週間かかると思われます」
レンターケットの言葉にレオポルドは難しい顔で頷いた後、二人のムールド人に顔を向けた。
「サイドとアルマドには税制の改革を頼みたい」
財政再建の為には安定した財源が必要不可欠であることは言うまでもない。より多くの税収があれば債務返済が容易になることは勿論のこと、収入が安定していれば、より好条件の債務を得ることができるだろう。
「まず、徴税請負人制度は廃止とする。徴税請負人組合は清算させねばなるまい」
徴税請負人に不正と怠惰が横行していることは明らかであり、現行制度を維持することは許されない。
「となると税務職員を多く増員せねばなりませんな」
サイドが顎鬚を摘まみながら呟く。
徴税業務には専門の知識を有し、勤勉で公正な人間が数多く必要となるが、辺境伯領では徴税業務を民間に請け負わせてきた為、徴税部門の官吏は非常に少なかった。徴税請負人制度を廃すとなると当然、多くの徴税役人を雇用する必要がある。
「何人くらい必要になる」
レオポルドの問いにサイドは暫く考えてから答えた。
「さて、各種の消費税、関税で合わせて最低でも五〇〇人は必要でしょう。無論、この人数で十分というわけではありません。例えば、密輸の取り締まりには竜騎兵隊の助力が必要となるでしょう」
現行の辺境伯領の税務職員は一〇〇人を上回る程の数ではなく、明らかに不足であった。
しかも、その一〇〇人のうち使える者がどれだけいるか分からないのだ。
レオポルドは暫く考えた後、口を開く。
「ムールド伯領から人員を異動させよ。あとは適当な人員を新たに雇用するしかないだろう」
「適当な人員といいますと……」
「徴税請負人の部下などを税吏の下役として雇用せよ」
徴税請負人は商人や地域の有力者が務めていることが多く、実際に現地に赴き業者の納税額を査定し、徴税を行っているのは彼らに雇われた者たちである。
徴税請負人制度が廃されれば、実務を担ってきた彼らの多くは解雇されるだろう。これを徴税職員の下役として再雇用しようというわけである。中には不正に手を染め、怠惰な働きの者もいるだろうが、使える者も少なくないはずだ。
「なるほど。手配致しましょう」
レンターケットが納得顔で承った。
「それでも人手が不足するようであれば、我が一族や部族で適任の者を使っても宜しいでしょうか」
「無論、構わん」
アルマドの提案にレオポルドは鷹揚に頷く。
ムールド人が徴税吏だと正教徒の住民が反発する可能性はあるものの、帝国人によってほぼ独占されている辺境伯領の行政にムールド人を入れることによってハヴィナ貴族の勢力をいくらか削ることができるとレオポルドは考えていた。それに官職を与えることによってムールド人の忠誠も期待できる。
サイドとアルマドは広大ではるが貧しい土地柄で人口も希薄なムールドから四五〇万セリンの税を徴収できる組織を構築した実績があり、レオポルドは彼らの仕事ぶりに満足していた。サーザンエンドでも十分な成果を挙げるものと期待していいだろう。
徴税機構の充実が成れば徴税率は上がり、税収が増えるだろう。サーザンエンドの経済規模であれば適切に徴税すれば収入は倍増するとレオポルドは予測していた。
安定的な財源があれば、今までのような短期で高利の債務に頼らなくても済むだろう。確実に返済が為されるという信用があればより返済期間が長期で低利の辺境伯債を発行できる。
しかしながら、まとまった税収が金庫に納入されるのは今暫く先のこととなるだろう。
その間、レオポルドはぼんやりと手を拱いているつもりはなかった。
「ヴァンリッヒ男爵。サーザンエンド銀行の経営は如何か」
サーザンエンド銀行はレオポルドはムールド伯に即位した頃に設立させた銀行で、レオポルドの叔母の夫であるベルゲン伯の末の妹の婿テオドール・ゲオルグ・ヴァンリッヒ男爵が総裁兼本店支配人を務めており、男爵もこの会議に出席していた。
サーザンエンド銀行は帝都やレイクフューラー辺境伯の地盤であるフューラー地方、帝国本土の南岸地方などから出資を募り、ムールド地方の鉱山開発会社や東方貿易を行う貿易商などに融資を行っていた。レイクフューラー辺境伯や彼女の息のかかった商会が出資を行っていることもあって、取引額は増加傾向にある。
「今のところ順調です」
鉱山開発は軌道に乗り始めており、サーザンエンドとムールドの騒乱が一段落し、レオポルドが通行の安全を保障したことによって貿易量が増えつつある。融資した事業は順調に成長していた。
「資金は如何程か」
「五〇〇〇万セリンはあるでしょう」
レオポルドは難しい顔をして唸った後、口を開いた。
「より多くの資金を集めよ。ハヴィナやコレステルケの商会などにも出資させるよう取り計らうべきではないか」
「承知致しました」
ヴァンリッヒ男爵は生真面目な顔で頭を下げる。
「サーザンエンド銀行には潤沢な資金を持たせねばなるまい。できるだけに早期にサーザンエンド銀行の手形で兵や官吏の給与支払いを行いたい」
手形は支払いを約束した証券のことで、後の銀行券と言ってもよい。正貨、つまり、セリン銀貨などの代わりとしてサーザンエンド銀行の手形を給与支払いに充て、市場で流通させようというのがレオポルドの目論見である。銀行の手形等を正貨の代わりに通用させることは帝都などでは既に広く行われている。
サーザンエンドやムールドでは正貨が著しく不足しており、正貨不足が経済成長の足枷になっているとレオポルドは考えていた。
また、サーザンエンド銀行の手形が広く流通すれば、正貨が一時に払い出されることは現実的ではない為、銀行が保有する正貨以上の手形を発行し、市場に流通する資金を増大させることが可能となろう。
「近いうちにハヴィナやコレステルケの主だった商会と話をせねばならんな。債権の処理や税の取り扱いについて協力を求めるべきだろう」
レオポルドの言葉に一同が頷く。
本日の宮廷財務会議はこれで終了となり、レオポルドは会議の出席者と昼食を取り、風呂に入った。
午後からは宮廷軍事会議が開催された。
ムールド伯軍の最高軍事機関は軍事評議会という組織で、ジルドレッド将軍が議長を務めていたが、レオポルドは軍の指揮権を自ら掌握していた為、軍事評議会は設立当初から形骸化していた。
レオポルドは軍の指揮官らと非公式な軍議を行って軍の作戦や方針を定めており、宮廷軍事会議はこの軍議の延長線上にあると言っていい。
会議場は同じ書斎で、今度はキスカやバレッドール将軍、ルゲイラ大佐らと顔を付き合せて、ムールド伯軍とサーザンエンド辺境伯軍の合流問題やサーザンエンド北部の情勢について話し合った。
夕刻近くに会議を終えたレオポルドは風呂に入る前に自らの居室に戻り、机の上に積まれた報告書や手紙の類に目を通していく。
そのうちの一枚は彼の夫人となるリーゼロッテについての知らせであった。
半月近く前に帝都を発った彼女はついに帝国南部イスカンリア地方の港町カルガーノに上陸したということであった。カルガーノからハヴィナまでは通常ならば一週間程度で到着できる距離である。
レオポルドはリーゼロッテの美貌と共に彼女の辛辣な口調や言葉を思い出して苦笑いを浮かべる。またぞろこっ酷く色々と言われるに違いない。
「レオポルド様。如何なさいましたか」
手紙を読みながら苦笑を浮かべたレオポルドを見て、キスカが訝しげに尋ねる。
「あぁ。リーゼロッテがカルガーノに着いたそうだ」
「そうですか」
キスカの反応はいつも通りに素っ気ない。
「……今更なんだが、君は……いや、なんでもない」
「何でしょうか」
聞きかけて止めたレオポルドにキスカが聞き返す。
彼は暫く逡巡した後、再び口を開いた。
「君は、やはり、私がまた別の女性と結婚することが嫌かな、と思ってな」
その問いに彼女はいつも通りの無表情を崩すことなく答える。
「ムールドの有力者は幾人もの妻を持つことが多々ありますから、それほど違和感はありません」
「それは知っているが、あくまでも君の気持ちというか心中はどうなのかと思ったんだが」
レオポルドが更に問いを重ねると彼女は眉間に皺を寄せた。
「レオポルド様にとって有益で望ましい婚礼ならば、私に反対する理由はありません」
キスカの答えはやはり建前めいている。
「そうではなくて、君の本心は」
更なる問いかけに彼女は黒い瞳を揺らし、顔を俯かせて囁くように言った。
「それ以上聞かないで下さい。嫌なことを言ってしまいそうですから……」
レオポルドは気まずい気分になって視線を泳がしてから、キスカの手を取る。
「嫌なことを聞いてすまない」
彼女が物憂げな顔で見つめると彼は穏やかに微笑んで言った。
「こういう時は風呂に入って嫌なことを忘れに限る。入浴は精神を安らかにする効果もあってだな」
入浴が精神に齎す有益な効果についての話を聞きながらキスカは、レオポルドが真正の風呂馬鹿だということを改めて認識し、呆れ顔で溜息を吐いた。