一五一
レオポルドは眩暈を覚えた。
「これは……」
思わず漏らした言葉に目の前に座ったポール・ボスマン財務長官は体を縮ませる。
ボスマンは帝国人ではない外国の生まれで教会軍南部管区の会計責任者を務めた経歴からハヴィナ教会の事務長に就任し、教会の財務を改善させた功績から辺境伯政府の財務長官に抜擢された経歴を持つ人物である。
彼が財務長官に就任した八年前の時点で既に辺境伯政府の財政は危機的状況にあった。
これを改善すべく彼は大幅な減税によって市場に流通する金や物の流通を活発化させて、税収を増加させようと考えた。
ところが、彼を抜擢した後ろ盾である侍従長ルーデンブルク卿が急死。後任のレッケンバルム卿は減税に強く反対した。一時的にせよ税収の減少は辺境伯政府の財務状況を著しく悪化させ、辺境伯の返済能力の信用低下を招き、新たな借り入れが困難になるというのが卿の主張であった。
この対立によって財政改革は遅々として進まず、第一一代サーザンエンド辺境伯コンラート二世の逝去とその後の継承問題から発生したサーザンエンド継承戦争によって辺境伯政府は機能不全状態に陥り、財政問題は放置され、債務だけが増え続けた。
故に帳簿に記入された莫大な債務残高を見たレオポルドもボスマン財務長官を責める気にはなれなかった。この債務の山を築いたのは彼ではないし、この山を片付けるどころか少しばかりでも低くすることすらできなかったことにも相応の理由があるのだから。
とはいえ、あまりにも大きな金額である。
「二五〇〇万レミューか」
レオポルドは眉間に深い皺を刻み、唸るような声で呟く。
レミューは帝国金貨のことであり、極めて高額で日常生活ではまず滅多に使わない貨幣である。そのレミュー金貨はセリン銀貨五〇枚と等しい。
つまり、二五〇〇万レミューは一二億五〇〇〇万セリンである。
例の如く兵士の給料で計算すると一二億五〇〇〇万セリンは兵一人の給料三五〇万年分くらいに相当する。一般庶民では永遠に縁のなく、帝国有数の商会や富豪であっても目にする機会など殆どないだろう。
仮にこの借金の山をレオポルドの現在に収入四五〇万セリンを全額当てて返済しようとしても二七七年以上かかる計算になる。
レオポルドの累積債務七〇〇〇万セリンが可愛らしく思えてくる程の、借金を作り作って一一代百年以上の歴史を感じさせてくれる莫大な債務と言えるだろう。
「いやはや、辺境伯の債務が莫大な金額であるということは聞いておりましたが、いや、全く、これほどの金額とは恐れ入りましたな」
レオポルドの傍に控えたレンターケットが苦笑いを浮かべて言った。
「笑い事じゃないぞ。莫大な借金といっても、さすがに二五〇〇万レミュー以上だとは全く予想外だ。正直、俺はさすがに一〇〇〇万レミューは超えないだろうと思っていたんだが」
「私としても最悪でも二〇〇〇万レミューを超えることはないと予想しておりましたが、まさか、最悪を上回るとは、いやはや、困りましたねぇ」
レンターケットは声を出して笑うが、全く笑い話ではなかった。
三年にも満たない短時間で雪だるま式に七〇〇〇万セリンの借金をこさえたレオポルドから見ても一二億五〇〇〇万セリンは手に負えない額としか思えなかった。文字通り桁違いなのである。しかも桁が二つも違う。
有益な鉱山を一山二山見つけて採掘したくらいでは返済しきれない程の金額と言えるだろう。金銀財宝が山ほど溢れ出るような山でもなければ話にならないし、そんな山はお伽噺か夢の中にしか出てこないだろう。
ボスマン財務長官が提出した資料の中には債権者の一覧も含まれていた。
それは数十どころか数百にも及ぶリストで、債権者の名前と所在地、債権額などが長々と書き連ねられていた。
「呆れる程、長いリストだ。連隊の兵員名簿くらい長いな。債権者だけで一個連隊作れそうだ」
レオポルドは呆れと諦めを含んだ声で言い、リストに目を通していく。
債権者名簿にはハヴィナやナジカ、コレステルケといった領内諸都市、東岸部エサシア地方の諸都市、レウォント地方、西岸部イスカンリア地方、とにかく南部中の商会の名が連なり、更に帝国本土の帝都や南東部の主要都市アルヴィナやロンドバークといった商会も債権者として肩を並べていた。それに加え、サーザンエンドの四男爵、レッケンバルム卿やシュレーダー卿、ジルドレッド卿といったハヴィナ貴族まで名を連ねている。サーザンエンド辺境伯は臣下からも借金をしているという惨状であった。
「待て。ということは、ハヴィナ貴族の連中は辺境伯に金を貸して利子を受け取っているのか。年金や棒給はどうなっている」
レオポルドに視線を向けられたボスマン財務長官は一瞬ビクリと体を震わせ、視線を泳がせた後、大きな咳払いをしてから答えた。
「継承問題が発生した後、債務の利率は大きく変更されておりますが、利子払いは継続しております。年金と棒給については戦争中は停止されておりましたが、それ以前には支給されておりました」
貴族には宮廷費から貴族年金が支給され、何らかの官職に就いている貴族にはそれに加えて棒給が支給されている。当然、雀の涙という金額ではなく、庶民から見れば羨む程の大金である。
つまり、ハヴィナ貴族は辺境伯から年金や棒給を受け取りつつ、その辺境伯に金を貸して利子収入を得ているというのだ。辺境伯は借りた金の一部を彼らの年金や棒給の支払いに充てているのだから馬鹿馬鹿しいとしか言いようがない。
とはいえ、年金や棒給を支給するのはサーザンエンド辺境伯宮廷の法で定められた義務であり、その収入を何に使うかは当人の自由というものだ。そのうちの一部を辺境伯に貸すのも法に触れた行為ではないし、利子を受け取るのは債権者の権利である。
こんなことが許されてきたのは歴代の、特にここ最近の辺境伯がいずれも若年であったり、病弱であったりして強い指導力を発揮することができず貴族たちの言いなりになっていたからであろう。もう何十年もの間、サーザンエンド辺境伯宮廷はハヴィナ貴族によって牛耳られてきたのである。
「これも彼らの既得権ということか。なんとか整理しなければならないが……」
レオポルドは疲れたような顔で呟く。考える前から憂鬱であったが、とにかく、この莫大な債務を整理しなければ財務状況の改善にも着手できないことは明白であった。
彼が期待を込めた視線を向けるとレンターケットは変わらぬ苦笑いを浮かべて答える。
「さすがにレイクフューラー辺境伯閣下でもこれだけの債務整理は不可能でしょうなぁ」
レオポルドが思い描いた整理案は、一二億五〇〇〇万セリンに上る債権を全てレイクフューラー辺境伯が買い上げて債権者を彼女一人に一本化するというものであったが、如何に帝国でも有数の富裕な大貴族たる彼女であっても一二億五〇〇〇万セリンもの債権を買い集めるだけの資金力は無いだろう。それはレオポルドに貸している七〇〇〇万セリンの返済計画に神経を尖らせている彼女に新たに一二億五〇〇〇万セリンの借金を申し込むようなものなのだ。
「これは破産を宣言しないとどうにもこうにもならないかもしれないな」
破産宣言することは債務返済を放棄するようなものである。実行すればレオポルドにとっては不名誉なことに二度目の破産ということになろう。
「しかし、これだけの債務を抱えて破産を宣言するとなりますと、莫大な額の不良債権が生み出されることになりますな」
レオポルドの言葉にレンターケットが懸念を示す。
サーザンエンド辺境伯が破産を宣言し、返済不能に陥るということは、南部の多くの商会が抱える大量の辺境伯債が不良債権化し、紙屑同然となるようなものである。辺境伯債はあまりに多額で大量であり、これらが全て不良債権になると多くの商会が道連れに破産してしまうだろう。
それに加え、ハヴィナ貴族が猛烈に反対するのは明らかである。
レオポルドにとっては負担でしかない辺境伯債だが、彼らにとっては利子収入を産み出す財産なのである。これを返済不能としてしまうと他の商会と同様に損失を抱えることになりかねない。
また、一度破産を宣言してしまうと、その後、資金を調達することが困難となることが予想される。過去に破産した辺境伯の返済能力を信用するような者は皆無であろう。それでも資金を調達するとなると高利を覚悟しなければならない。
言うまでもないことであるが、現在の債務を帳消しにした後、無借金で財政が運用できるなどというような夢物語を思い描く程、レオポルドは間抜けではない。
とにかく、破産宣言は最終手段と言うべきものであり、可能な限り回避しなければならない。
莫大な債務に心痛めつけられたレオポルドは嘆息しつつ、次の資料に目を通す。
ボスマン財務長官が提出した資料は債務に関するものだけでなく、辺境伯宮廷の収支についての資料も含まれていた。
これらの資料は分かり易く集計、整理されていなかった為、レオポルドとレンターケットは手分けして大量の紙の束に目を凝らし、雑紙にメモをして、大まかな実態を掴もうと苦労した挙句にどうにかこうにか収支状況を把握することができた。
提出された資料によると現在の辺境伯宮廷の年間の収入はおおよそ一二三〇万セリンで、その内訳は直轄領からの年貢が約五〇〇万セリン。関税収入が約二〇〇万セリン。各種の商品税(塩税、砂糖税、酒税、茶税、紙税、樽税等々)が合計三七〇万セリン。人頭税が約一〇〇万セリン。住宅税四〇万セリン。裁判や公共施設の利用料などの手数料収入が約二〇万セリンといったところであった。
収入についての集計表を改めて眺めたレオポルドは不機嫌そうに鼻を鳴らす。
彼が治めるムールド伯領は人口は希薄で、土地は貧しく、産業に乏しく、産出する商品といえば羊毛とそれを加工した絨毯、岩塩、翡翠くらいのもので、最近になってようやく鉱山の採掘が始まり、いくらか軌道に乗り始めたところである。そのムールド伯領から徴収される税収が四五〇万セリンである。その大部分は関税収入で、その他の税は未だ整備されていない状況にある。
それに対し、ムールドを除いたサーザンエンド辺境伯領は面積こそ倍程度であるが、ムールドに比べれば農産物の収穫があり、未だに物々交換が行われるようなムールドに比べれば商業活動も盛んで、貨幣経済が浸透している。人口は五倍以上であり、流通する商品や金の量は十倍と言ってもいいかもしれない。
そこから徴収される税収が高々一二〇〇万セリン程度というのは解せない話である。経済規模から言って税収が少なすぎるというのが彼の抱いた感想であった。
「税の徴収機構はどうなっているのだ」
不機嫌そうなレオポルドの問いにボスマン財務長官はしきりと脂汗を拭いながら答える。
「多くの税については徴税請負人が担っております」
徴税請負人は辺境伯と契約して徴税を担う私人である。彼らは農民や市民から年貢や税を徴収し、辺境伯と契約した額を宮廷に収めている。この契約金額を上回った剰余が彼らの収入となる。故に、彼らは厳しい徴収や取り締まりを行い、契約額以上の税を徴収して自己の利益を増大させようと目論むのが常であった。
庶民からすると厳しい徴収や取り締まりを行う徴税請負人は怨嗟の対象以外の何者でもなかったが、辺境伯宮廷からすれば少ない徴税費用で一定額の税収が確保される効率的な制度であった。
「ふむ。では、その徴収する契約金額は如何にして決めているのだ」
「は、それは、そのぉ……」
財務長官は口籠り、視線を泳がせた。
レオポルドが厳然たる態度で黙って回答を待っていると彼は観念したように口を開く。
「前年同様という契約が常でありまして……」
「前年同様、というのは、金額は据え置きなのか。何年前から」
「具体的には分かりかねますが、少なくとも私の在任期間中はずっと……」
「大体でいい。どれくらい前からだ」
「は、えー、十年や二十年前といったくらい前からでしょうか……」
回答は全く具体性を欠き、曖昧であったが、相当前から同じ徴収金額での徴税請負契約が続けられていたということは確かのようであった。
サーザンエンドに限らず大陸全土においてであったが、ここ暫くの間、物価は上がり続けており、十年前と比べると物価は概ね倍以上に上昇していた。物の値段が上がれば、当然、税率が同じであっても徴収される税は同じ分だけ上昇しているはずだ。
しかし、徴税請負は毎年同じ金額で契約されている。つまり、その物価上昇分が契約では考慮されていないのだ。おそらく、その剰余は徴税請負人の懐に入っているに違いないだろう。
その上、更に調べたところによるとサーザンエンドでは貴族や聖職者に対する免税特権は勿論のこと、多くの富裕な市民や商会が免税特権を獲得しており、納税義務から免れているようであった。これらの特権は寄付や債務の負担といった功績に対して歴代の辺境伯や宮廷が無秩序に付与してきた結果のようである。
つまり、サーザンエンド辺境伯の徴税機能は甚だ脆弱かつ不正が横行しており、サーザンエンドにおける富裕層が免税特権を享受し、中間層と下層民から厳しく税の取り立てが行われているというのが現状のようであった。
収入の次は支出である。
辺境伯宮廷の年間の支出は貴族への年金や褒賞金、棒給を含む宮廷費が約八一〇万セリン。辺境伯軍の将兵の給与や補給物資等の費用などの軍事費が約一〇〇〇万セリン。公共工事や官吏の給与等を含む行政費が約三三〇万セリン。辺境伯債の償還費が約一一〇〇万セリンであった。総額は約三二四〇万セリンである。
年間の収入が一二〇〇万セリン程度であるから、辺境伯宮廷は収入の三倍近い出費をしている計算になる。当然不足であり、不足分の約二〇〇〇万セリンが新たな借金ということになる。
平時において二〇〇〇万セリンもの借金をしている状況であるから、戦争や災害などがあれば借金の額は更に大きなものとなるだろう。
レオポルドは頭を抱えた。