一五〇
レオポルドが起居している青い小宮殿には三つもの寝室があったが(言うまでも無く主人用の寝室であり、客人用の寝室はまた別にあり、使用人の部屋は数に入っていない)、レオポルドはそのいずれも使っていなかった。どの寝室も無闇に広く感じたし、巨大な寝台は大き過ぎ、羽毛を詰め込んだふかふかの布団は彼にとって寝心地が宜しいものではなかった。
代わりに彼は書斎として使っている部屋の隣、本来は使用人の控室として使われていた部屋を私室として使っていた。
ムールド絨毯を敷き、戦場で器用な兵士に造らせた無骨だが丈夫でしっかりとした造りの机と椅子と硬い板張りの寝台を持ち込み、鍵付衣装箱を三つ置いていた。衣装箱の中には一つは文字通り衣服を仕舞っていたが、残りの二つにはさほど重要ではない報告書や書類、私的な手紙、地図などを詰め込んでいた。
彼はそのあまり広くはないが使い勝手の良い部屋で寝起きし、手紙を書いたり報告書を読んだりするような簡単な事務仕事もこの部屋でこなした。
隣の立派な書斎には高い天井に届く程に巨大な本棚がいくつもあり、学問好きであるレオポルドの学習意欲を大いに刺激したものの、仕事をするには広すぎる為、彼の図書室兼側近との打ち合わせ室のような使い方をされていた。
寝室のうちの一つはキスカと彼女が連れて来た息子ルートヴィヒの部屋としていた。主人よりも妻子の方が立派な部屋を使うことに違和感を覚える人々は多かったが、彼が気にしない性分であることは言うまでもない。
ところで、彼の第二夫人であるアイラの方はといえば、夏の中頃にレオポルドにとっての第二子となる娘を出産し、彼はファディからの手紙によってそれを知り、自分の長女にソフィアという名を与えていた。
出産後も心身共に健康で乗馬も長旅も平気で戦場にすら出られると豪語するキスカとは違って、アイラは産後の状態があまり思わしくないようでファディに留まっていた。レオポルドの姉代わりであるフィオリアも彼女に付き添っている。
初産なのだから心身が疲弊するのも無理はなく、キスカが元気過ぎるくらいなのだが、レオポルドにとっては心配の種であった。
とはいえ、サーザンエンド辺境伯領の支配権を確立する重要な時期にハヴィナを離れるわけにはいかないレオポルドは、アイラに宛てて彼女と娘を気遣う手紙を書き、フィオリアにはアイラ母子をくれぐれも頼むというお願いの手紙を何通も書き送って、ついには義理の姉から同じような手紙を何通も書いて送るなと叱られる始末であった。
一方で彼は帝都にも毎日のように手紙を書き送っていた。
手紙魔であるところの彼の手紙の送り先は帝都だけでも数十人に上っていた。
帝都にある彼の邸宅の一つであるウェンシュタイン邸に駐在する家臣たちの他、レイクフューラー辺境伯と彼女の側近、親類であるベルゲン伯夫妻、懇意にしている帝国政府高官たち。
レオポルドはサーザンエンドの情勢を仔細に知らせ、サーザンエンド辺境伯の地位が自身に叙任されるよう働きかけていたのである。
帝国諸侯の地位は慣習によって世襲することが認められており、皇帝といえどこれを無視して赤の他人をその地位に就けることは極めて難しいものであるが、形式的には神聖帝国皇帝によって臣下に授けられるものである。
とはいえ、皇帝としても自身が任命した諸侯がその地で支配権を行使できないような状況に陥ることは帝国の名誉と矜持を傷付けることになる。故にスムーズに世襲されないような相続問題が発生する場合、極めて慎重な判断が必要となる。皇帝が叙任した方が敗れでもすれば面子が丸潰れになりかねない。
そういったわけで、皇帝とその政府はサーザンエンド継承戦争についても傍観を決め込んでいた。
そもそも、帝国にとって重要とは言えない遠方の辺境伯位に彼らは関心が薄かったのである。
しかし、既にムールド伯の地位を認められているレオポルドがハヴィナを含むサーザンエンドの大半を制したことによって情勢は大きく変化した。
これまで突出した勢力が存在していなかったサーザンエンドにおいてレオポルドの勢力は比類無きものとなり、当地のサーザンエンド貴族も概ね支持しているし、彼はフェルゲンハイム家の血統を継承していて法的にも相続するに不足はない。
その上、彼は帝国中枢にある程度の人脈があり、皇帝に対しても忠実である。
レオポルドはこれらの点を強調し、自身にその地位の継承が認められるよう工作に励んでおり、その手応えは上々であった。
レイクフューラー辺境伯からの手紙には来年頭にもレオポルドはサーザンエンド辺境伯の地位を継承することが認められるだろう。という予測が綴られていた。ついでにレオポルドの莫大な借金の返済計画についての問い合わせが来ていた。
レオポルドはレイクフューラー辺境伯へ、これまでの援助に対する御礼を長々と書き連ね、加えてサーザンエンドの産業振興とアーウェン諸侯の攻撃に対する備えの為に多くの現金が必要であり、至急送金願う。と書き足した。
レイクフューラー辺境伯は彼が大変頻繁に文通する相手であったが、それ以上に手紙を送る相手がいた。婚約者たるレウォント方伯女リーゼロッテ・アントーニア・フライベル嬢である。
彼は帝都を離れ南部へと戻る途上から半月に一通くらいの頻度で彼女宛ての手紙を送っていた。
手紙の内容は南部の情勢や戦況、風土や習俗、食べ物や特産品などといった差し障りのないものが多く、およそ恋人に書き送るようなものではなかったが、辺境伯夫人となる彼女にとっては大事な情報であるとレオポルドは大真面目に思っていたし、他に書くことが思い浮かばなかったのだ。
手紙に好きだの愛してるだのといった歯の浮くような台詞を書くような真似ができる性質ではなかったし、愛する気持ちを詩にするような気恥ずかしいことができるはずもなかった。そもそも、彼は詩を楽しむ才能を欠いていた。
逆にリーゼロッテ嬢からの手紙は三ヶ月くらい届かなかったり三通連続できちんと返事が来たりと大変に気紛れではあったが、概ね三通に一通くらいは返事が届いていた。
内容は常に簡潔で時候の挨拶と最近の身の回りや帝都の出来事を数行書き連ねるくらいで、彼女の気持ちを推し量れるようなものは一切無い。
それを読むレオポルドの方は読んでから三日以内にはきちんと彼女の書いた内容について感じたことを書き、それからいつもの如く南部の情勢や何やらを数枚の手紙に綴って返していた。
彼はリーゼロッテ嬢が自分との政略結婚を好ましく思っていないことを理解していたから、さして気分を害することもなかった。彼女を政略結婚の道具として使ってしまっていることに負い目を感じていたし、彼が彼女以外にも愛人を有していることも負い目と言えるだろう。
それに加え、リーゼロッテ嬢の存在はレオポルドにとって極めて重要であった。
異民族や異教徒が幅を利かせる不安定な地域が多い帝国南部では数少ない有力な帝国人諸侯であり、レオポルドと敵対したガナトス男爵の後ろ盾であるアーウェンの東隣に位置するレウォント方伯との関係が如何に重要なものであるかは言うまでも無いだろう。
しかし、二人の関係は未だ婚約の状態であり、正式な夫婦となったわけではない。政治情勢の変化や彼女の兄であるレウォント方伯の気分次第で婚約が解消される可能性も存在しないではない。
二人が婚約状態に留まっていたのはサーザンエンドの情勢が不安定で、結婚どころではなかったからである。レオポルドがハヴィナを含むサーザンエンドの大半を制し、辺境伯の地位を目前に控えた今となっては結婚を阻むものはない。
レオポルドはハヴィナ入城後間もない時期にリーゼロッテ嬢を呼び寄せることとして、本人の他、関係各所に手紙を書き送った。
リーゼロッテ嬢のハヴィナ到着は年末近くが予想された。婚礼については辺境伯叙任後が予定されている。
ムールド伯とレウォント方伯女の婚姻は形式上不釣り合いであり、辺境伯の地位を叙任した後であれば、釣り合いが取れると考えられた為である。
となると、レオポルドは来年早々にサーザンエンド辺境伯の地位を正式に継承し、リーゼロッテ嬢と婚礼を挙げることになるだろう。重要な行事が二つも立て続けに行わなければならない。
叙任と婚礼には祝宴が付き物である。
レオポルドは仰々しい儀式や豪勢な祝宴や贅沢を好まないものの、辺境伯の地位の継承と自らの権威と勢力を誇示する為に盛大な祝宴は不可欠である。
客人としてハヴィナ貴族をはじめとするサーザンエンドの中小領主、ムールド諸部族や領内の都市の有力者たちを夫人や子息同伴で招くことになるだろう。その人数は百人どころの話ではあるまい。レオポルドの官房長であるレンターケットとその部下たちは客人のリストアップ作業を行っているが、数百人規模になることは間違いない。
祝宴に供される食事は贅を凝らしたものでなければならない。小鳥や去勢鶏、若鶏、アヒル、ガチョウといった鳥が数百羽、羊や子牛を数十頭は必要になるだろう。それに加え、内陸のサーザンエンドでは入手し難い魚も揃えておかなければならないし、果実や豆、新鮮な野菜も山ほど調達しなければならない。香辛料や砂糖、茶、蜂蜜なども忘れてはならないし、とびきり上等な酒だって何百樽と必要になるに違いない。
リーゼロッテ嬢やキスカ、アイラといった夫人に着せる衣装も新調しなければならないだろう。勿論、首飾りや髪飾り、指輪、腕輪といった装身具だって必要だ。
優れた料理を作り上げる調理人と十分な数の給仕の確保、警備に動員する兵の配置の計画や褒賞、会場となるハヴィナ城宮殿の修繕と飾り付け、市民への褒賞……。
考えなければならないことは山のようにあり、金は湯水の如く必要となる。
レオポルドはざっと簡単に必要経費を計算してみた。自ら経費を計算する貴族は稀であったが、彼はその数少ない例外の貴族だった。
「一〇〇万セリンくらいか……」
レオポルドは雑紙にメモして計算した結果の数字を見て呻いた。
彼の現在の収入は四五〇万セリン程度であるから年収の二割以上ということになる。七〇〇〇万セリン以上の借金を抱える身からすると非常に苦しい出費であることは言うまでもないだろう。
しかも、これはざっとした見積もりである。実際にはこれ以上に、ひょっとすると倍以上の金額が支出されることが多々あることを彼は知っていた。
とはいえ、これは必要な経費であり、支出しないわけにはいかない。名誉と矜持、面子を何よりも重要視する貴族たちを招いた祝宴で金を惜しめば、彼らから侮られることは間違いないだろう。どうにかして資金を捻出する必要がある。
とはいえ、レオポルドの資金調達の方法と言えば、いつもの調子でレイクフューラー辺境伯から借金するより他にない。七〇〇〇万セリンの借金に一〇〇万セリンだか二〇〇万セリンだかが上積みされたところで大した問題ではないような気がした。
早速、彼はレンターケットを呼び寄せた。
「辺境伯叙任及び婚礼の祝宴の経費だが、多分、一〇〇万セリンか二〇〇万セリンは必要になるだろう」
「まぁ、そんなところでしょうなぁ」
レンターケットは顎を擦りながら、のんびりと言った。
「またレイクフューラー辺境伯閣下にお願いしようと思う」
「またですか」
「今更、二〇〇万セリンくらい増えたところで大したことないだろう」
中流市民の年収が一〇〇〇セリンを超えることが稀な世であり、庶民からすれば二〇〇万セリンというのは想像もできない程の大金で、クロス家が破産した時の借金よりも多額であるが、今のレオポルドから見ると眩暈がする程の大金というわけではなかった。
「しかし、閣下から借金の返済計画を立てさせろという指示が来ておりますからなぁ」
レンターケットは困ったように苦笑しながら言った。彼はレオポルドの諸々の事務を所掌する官房長であると共にレイクフューラー辺境伯から送り込まれた目付役でもある。
「なんだ。閣下もケチ臭いな」
レオポルドが不機嫌そうに言うとレンターケットは黙って苦笑いを浮かべた。
「まぁ、そろそろ、別の資金源を探すべきかもしれないな」
呟いてから彼はふと思い出す。
「そういえば、ボスマン財務長官はまだハヴィナにいるんだったな」
サーザンエンド辺境伯宮廷の財務長官を務めていたポール・ボスマンはブレド男爵に近い立場を取っていたものの、反レオポルド派の立場を取った貴族たちのように逃げ出すこともなく、ハヴィナに留まっていた。
同じようにアルトゥールの祖父であるフェルゲンハイム家の庶子であるロバート老もハヴィナに留まっている。もっとも、ロバート老の場合は病気が重く、寝台から身を起こすこともままならないという。
レオポルドは両人を処分することもなく、自宅に逼塞するよう命じていた。いずれも積極的に敵対行動に加担したわけではなかったし、辺境伯位継承を前に厳しい処分をして評判を悪くしたくなかったからだ。
「ボスマン財務長官を呼ぼう」
「辺境伯政府の予算から支出するおつもりですか」
レオポルドの言葉でレンターケットは上司の思惑を理解したようだった。
「辺境伯位に叙任された祝宴だ。宮廷の金を使って悪いことはあるまい」
サーザンエンド辺境伯に就任すれば辺境伯宮廷の金はレオポルドの物になる。辺境伯の名の下に徴収されている税や手数料などもあるはずで、その金を当てにできるとレオポルドは考えたのだった。
ムールドを除いたサーザンエンド辺境伯領はムールド伯領の倍以上の面積と数倍にも及ぶ人口を抱えている。ハヴィナ、コレステルケ、ナジカをはじめとする都市もある。経済規模はムールドの倍どころか三倍、四倍はあるだろう。当然、それ相応の税収があって然るべきだ。
何はともあれ、まずは辺境伯宮廷の財務状況を把握する必要がある。
辺境伯政府の財政を担っていたボスマン財務長官ならば財務状況を説明できるだろう。
「財務資料を持って来いと指示せよ」
「承知いたしました。しかし、フェルゲンハイム家の資金が如何程あるか……」
レンターケットは渋い顔で呟いた。
サーザンエンド辺境伯フェルゲンハイム家の財政状況が極めて悲惨な状態にあることは帝都でも知られているくらいだ。具体的には不明であるがかなりの額の債務があるはずだ。
「それも把握しておかねばなるまい。とはいえ、何年か前にロバート老が債権者と交渉して、利子を低く設定し直して返済に猶予を貰ったと聞いている。不要な支出を削って、剰余金を使えば祝宴の費用くらいは捻出できるのではないか」
レオポルドの言葉にレンターケットは渋い顔で考え込んだまま頷いた。