一四八
ハヴィナは広大なサーザンエンド平原のほぼ中央に位置する。
平原は概ね起伏の少ない平坦な地勢であるが、ハヴィナの辺りはやや窪んでおり、そのせいか古くから地下水に恵まれている地として知られ、太古から人が住んでいたらしい。
歴史学者によれば古代ミロデニア帝国の植民都市が築かれたという記録が残されているそうで、以来千年以上に渡ってハヴィナはサーザンエンド一帯の中心的な都市であり、サーザンエンド辺境伯領が形成されてから地域行政の中心地として栄えてきた。ハヴィナが南都と呼び称されるのはそれ故である。
人口は五万人を超え、サーザンエンドでは最も大きな都市で、人口の半数近くを帝国人が占める南部では数少ない地でもある。
ちなみに南部で言う帝国人とは帝国本土から移住してきた人々の子孫を指す。
サーザンエンドの帝国人はハヴィナ貴族と呼ばれる都市貴族の他、聖職者や官吏、将校、学者、教師といったサーザンエンドの上流・知識階級を占め、多くはハヴィナに居住している。
ハヴィナの中心部よりやや北側にある小高い丘にある官庁街が彼らの職場であり、その丘の頂上にハヴィナ城は築かれている。
ハヴィナ城にはサーザンエンド辺境伯の宮廷や辺境伯政府の諸機関が入っており、まさにサーザンエンド行政の中心である。
城壁に囲まれた城内にはいくつかの建物と塔があり、赤獅子館はその一つである。
フェルゲンハイム家の象徴たる黄色の獅子とは色違いの赤い獅子の紋章を正面に掲げたその建物はサーザンエンド政治を主導する重臣の執務室として使われてきた他、重要事項について重臣たちが会議を行う場所でもあった。
この館を使ったことがあるのはハヴィナ貴族の中でも八つの貴族に限られる。俗にハヴィナ八家門と呼ばれる名門貴族で、レッケンバルム、ライテンベルガー、ルーデンブルク、ジルドレッド、アイルツ、シュレーダー、ヘーゲル、ハルベルヒの八家である。
サーザンエンド政治の多くは、長らくこの八家門によって支配されてきた。サーザンエンドで赤獅子館と言えば、この八家門の会合を指し、それは法的な根拠のある正式な組織ではないにも関わらずサーザンエンド政治の事実上の最高機関であった。
しかしながら、この二年半の間、赤獅子館は殆ど機能を失っていた。というのも、八家門の半数がレオポルドと共にハヴィナを脱出し、ムールドへと逃れていたからである。
その後、ムールド伯軍がハヴィナを解放したことによってムールドに逃亡していたハヴィナ貴族は二年半ぶりにハヴィナに帰還し、赤獅子館はその機能を取り戻した。入れ替わるようにハヴィナを脱したルーデンブルク家を欠いていたが大きな問題ではない。
ルーデンブルク家を除いた七家門は赤獅子館に入って会合を重ね、ハヴィナの新たな支配者となったムールド伯レオポルドに対抗しようとした。
「先の戦いでのバレッドール将軍の失策は明らかであろう」
すっかり、館の主の風格を取り戻したレッケンバルム卿は居並ぶ七家門の当主たちを前にして言い放った。
卿が問題としているのはバレッドール将軍が実質的な指揮を執るムールド伯軍がガナトス男爵軍に敗れたマルセラの戦いである。
この戦いでムールド伯軍は甚大な損害を被り、後退を余儀なくされ、ムールド伯レオポルドは一時行方不明になり、危うくアーウェン槍騎兵の捕虜になるところだった。
その後、ナジカへの夜襲、アルトゥール軍の有効な機動によって、ムールド伯軍はナジカの戦いに勝利し、ガナトス男爵を退けることができた。
「最後にはこうしてハヴィナを取り戻すことができたとはいえ、運が悪ければ、失敗がもう一つ重なれば、我々は再びムールドに逼塞せねばならない瀬戸際であったのだ。マルセラにおける将軍の指揮は硬直的で、状況の変化に適切に対応できていなかったようではないか」
レッケンバルム卿はバレッドール将軍の責任を鋭く追及する。
シュレーダー卿とライテンベルガー卿は渋い顔をして唸り、他の貴族たちは同調するように頷く。七家門の中でレオポルドに近しいのはシュレーダー卿とライテンベルガー卿のみで、他の五家はレオポルドに服従しているとは言い難かった。
彼らはレオポルドを害しようというわけではないが、かといってレオポルドに多くの権限を委ねることには反対であった、それは自分たちの権威と立場、利益を損なうことに繋がりかねないからである。
そこで、レッケンバルム卿がレオポルドの勢力を削ぐ為に持ち出したのがマルセラの敗戦の責任問題である。
マルセラの敗戦が全てバレッドール将軍の責任とされるべきではなく、右翼を率いたアルトゥール軍が突出しすぎたことも敗因の一つであり、その他にも細かい敗因はあるだろう。とはいえ、将軍は実質的な指揮官であり、最終的な責任を負うべきというレッケンバルム卿の指摘は的外れというわけではない。
また、バレッドール将軍に指揮を任せたのはレオポルドであり、将軍の責任を問うことは、レオポルドの任命責任を問うことにも繋がりかねない。
とはいえ、この問題をいつまでも引きずることの方が厄介である。
「その件については私から閣下にお伝え致そう」
苦渋の判断をしたシュレーダー卿の言葉にレッケンバルム卿は満足げに頷くが、彼の不満は将軍の責任問題だけではない。
「ところで、ムールド兵はいつまでハヴィナにいるつもりなのだ」
レッケンバルム卿は南の方を指しながら苛立たしげに言った。
「多くの市民から早く異民族の兵をどこかへやって欲しいという陳情が相次いでおる」
ハヴィナの南には四〇〇〇名以上ものムールド伯軍が数十もの天幕を張って野営していたが、彼らは上官の許可があればムールド市内に入ることも可能であった。
いつもの如く、レオポルドは戦勝を祝って隷下の将兵に賞金を配っていた為、財布に余裕があるムールド兵たちはハヴィナ市内に繰り出し、店で故郷の家族に送るお土産を買ったり、酒場で飲み食いしたりしていた。
となれば、調子に乗って酔って騒いだり、出くわした余所の部族と喧嘩に及んだりする者が出てくるのは必然というものである。
また、そこにはレオポルドが雇った傭兵たちも加わっていて、騒ぎや喧嘩に加わることも度々であった。
ハヴィナの夜警や住民による自警団では、幾多の戦場を潜り抜けてきたムールド兵や傭兵の集団をどうにかすることもできず、多くの市民がハヴィナ貴族の有力者であるレッケンバルム卿に泣きついていた。
「ガナトス男爵との和睦もなったのだから、ハヴィナの防衛は辺境伯軍に任せて、ムールド兵は早々に故郷へと帰してやるべきだろう。傭兵どもはさっさと解雇してしまうべきであろう。ムールド伯はいつまで軍をハヴィナに留めておくつもりなのだ」
常に異民族の侵入や騒乱と隣り合わせであったサーザンエンド辺境伯は近衛連隊と二個騎兵連隊、六個歩兵連隊から成る辺境伯軍を組織していた。
この軍は二年半前まではジルドレッド将軍が指揮していたが、聖オットーの戦いの後、レオポルドと共にムールドに逃れた将兵以外はルーデンブルク准将の指揮下に入れられ、ブレド男爵軍やガナトス男爵軍の援軍として使われたりしていた。
しかし、辺境伯政府が機能不全に陥っていた為、新たな兵員の補充が為されず、その定員は三分の一程度まで落ち込んでおり、満足に働ける連隊は少なかった。
とはいえ、少なくとも二〇〇〇程度の兵は残っており、再編すればハヴィナの防衛程度であれば可能であろう。
「レッケンバルム卿の仰る通りだ。和睦が成った今となってはサーザンエンドに敵はいない。閣下はあれほどの軍勢を保持して何と戦うおつもりなのか」
ハルベルヒ卿がレッケンバルム卿に同調する。
確かに、ガナトス男爵との和睦によってレオポルドと表立って敵対する勢力はいなくなり、サーザンエンドは数年ぶりの平和を享受できそうな情勢となっていた。
それでもレオポルドが軍をハヴィナに留めている理由は明白である。ハヴィナ近郊に駐屯する軍勢はハヴィナ貴族に対する無言の強い圧力となっているのだ。
現状において、レオポルドはサーザンエンドにおける確固とした地位を獲得しているわけではない。
彼はまだムールド伯というムールドの地を統治する法的権利しか持たない状況にあり、正式には未だサーザンエンド辺境伯の地位を獲得していない為、彼はハヴィナに対して何の権限も持っていない。
ただ、ハヴィナが彼を解放者として迎え入れているだけで、ハヴィナや貴族たちに何かを命令する権限を有しておらず、主人というよりは客人(或いは将来、主人となる予定の客人)として扱われているようなものである。
その状況においてレオポルドは自らの軍事力を誇示することによってハヴィナや貴族たちに無言の圧力をかけ、自分を支持し、その指示に従うように促しているのだ。
これがハヴィナ貴族にとって面白いわけがない。
そこで彼らは軍事的危機の不在とムールド兵や傭兵の市内での騒乱、辺境伯軍の存在を理由にレオポルドの軍勢を遠ざけようと試みているのだ。辺境伯軍はムールド伯たるレオポルドの隷下にはなく、法的には辺境伯政府の指揮下、実質的にハヴィナ貴族の影響下に置かれている。
ムールド兵や傭兵をハヴィナから遠ざけることは、レオポルドが丸腰になることと同義である。これをレオポルドが受け入れるわけがないことは明白であろう。
「ガナトス男爵とは和睦が成ったとはいえ、その和睦を盲信するのは甚だ不安というものだ。軍勢は和睦が破られた時に備えてのものであろう。ムールド兵や傭兵の騒乱については私から閣下に対策を求めることとしたい」
赤獅子館でのレオポルドの代理人のようになっているシュレーダー卿の言葉に、レッケンバルム卿たちは不満そうではあったが、それ以上何かを言うことはなかった。
レオポルドが軍勢を遠ざけることがないことは彼らも理解している。だからといって黙って大人しくしているようでは自らの権威と地位を保持することなどできるはずがない。彼らの主張には法的根拠と住民に苦情という現実の問題があり、レオポルドとしても彼らの主張に耳を傾け動かざるを得ない。このような駆け引きによって影響力を拡大しようというのが彼らの目論見なのである。
赤獅子館での会合の後、シュレーダー卿は同じハヴィナ城内にある青い小宮殿に向かった。レオポルドはハヴィナ入城後、青い小宮殿に入っているのだ。
小宮殿は辺境伯宮殿よりもだいぶ小さな建物で、何代か前の辺境伯が隠棲する時に自らの隠居場として建てたものだという。
その名は南部風の模様の青いタイルが多く使用されていることに由来する。小さな果樹園のある中庭を囲むような四角い形をしており、炊事場と浴室は別棟になっていて渡り廊下で繋がっていた。
ハヴィナの貴族や市民の中にはレオポルドが辺境伯宮殿ではなく小宮殿に住んでいるのは未だ辺境伯ではないことの遠慮からだと考える者もいたが、実際のところはレオポルドにとって宮殿は大きすぎて使い勝手が宜しくなく、南部風の装飾が為された小宮殿の方が彼の好みに合っていたからに他ならない。
シュレーダー卿は青い小宮殿の執務室でレオポルドと面会し、赤獅子館の意向を説明した。
「ムールド兵と傭兵の騒乱については風紀を取り締まるよう徹底しよう。近いうちのキスカが来るから彼女に任せれば問題ないだろう」
レオポルドの第一夫人にして副官であり近衛大隊長でもあるキスカはレオポルドの半月刀とあだ名された側近中の側近であり、軍の風紀取り締まりを担当する立場でもあった。実際、妊娠と出産、育児で彼女が軍を離れるまで彼女は軍の風紀を維持することに務め、少なくない数の兵を軍紀違反や脱走の罪で処刑し、更に多くの将兵に鞭打ちなどの罰を与えていた。彼女の名を耳にしただけでムールド将兵は震えあがると云われる程である。
「軍を解散しないのは、シュレーダー卿が説明した通りだ。市内で騒ぎを起こしている連中を大人しくさせれば市民からの文句は少なくなるだろう。あとは辺境伯軍を再編するまで、なんとか言い訳しながら駐留を続ける」
レオポルドは損耗しきった辺境伯軍を再編成し、自らの指揮下に置いて、将来的にはムールド伯軍と統合することを目論んでいた。
とはいえ、それは辺境伯に就任するまで手の付けられない問題であり、それまではムールド伯軍を手放すわけにはいかない。何度も述べている通りムールド伯軍の軍事力によってレオポルドの権力は保障されているのだ。
そのムールド伯軍の指揮官のポストは大変重要であることは言うまでもない。
しかしながら、ここまで責任を問う声が強いと交替は不可避である。
「仕方ないが、バレッドールには一旦退いてもらう他ない」
「では、後任には誰を就けますか」
レオポルドが苦渋の判断を示すとシュレーダー卿が尋ねた。
バレッドール将軍を更迭したとしても問題は後任である。
全軍の指揮を委ねられる能力と経験を有する軍人と言えば、ジルドレッド兄弟かアルトゥール或いはレッケンバルム卿の子息くらい。いずれもレオポルドに絶対の忠誠を誓っているとは言い難い。
軍の主力を構成するムールド人将兵の多くはレオポルドに従属しており、ハヴィナ貴族の利害とはあまり関与しない為、軍司令官の絶対的な隷下に全軍があるというわけではない。万が一、軍司令官がムールド伯に反旗を翻すようなことがあってもムールド人将兵がこれに従うことは考えられないだろう。
つまり、軍司令官の座を明け渡すことが直ちに軍全体の指揮権を喪失するというわけではないのだが、そのポストが重要なことに変わりはない。
故にレオポルドはこれまでの戦いで常に傍らにあった最も信用できる軍人であるバレッドール将軍に指揮権を与えていたのである。
「ジルドレッド将軍に任せる他ないだろう」
レオポルドは渋々といった様子で言った。
ジルドレッド家はハヴィナ貴族の中では武門の誉れ高く、数多くの将軍を輩出した家柄であり、将軍自身も辺境伯軍の司令官を務めていた。格式と経験では文句なしである。この人事にはレッケンバルム卿も文句は言えないだろう。
また、ジルドレッド一族はレオポルドに近しいわけではないが反抗的でもない。レッケンバルム卿に唆されて変な真似をするようなことはないと思われた。
その上、レオポルドと一緒に育った姉のような立場であるフィオリアはジルドレッド将軍の子息と婚約している。
逆に他の候補、アルトゥールやレッケンバルム卿の子息ではレッケンバルム卿の影響下に置かれかねない。
こうして、アルバート・バレッドール少将は新設された軍事顧問官という役職に任命されることとなった。事実上の更迭であることは誰の目にも明らかであった。後任には予定通りカール・アウグスト・ジルドレッド中将が現職の軍事評議会議長在任のまま兼務することとなった。
レオポルドは軍事顧問官バレッドール将軍にムールド伯軍と辺境伯軍の統合に係る調整や事務。それに加え、サーザンエンド全土での徴兵制の計画と実施という重要な任務を与えた。
つまり、サーザンエンドの軍事力はレオポルドの側近であるバレッドール将軍によって再編成され、より強固な軍隊として生まれ変わることになるのだ。
喫緊の軍事行動が予定されていない現状ではこの任務の方が重要とも言えるだろう。
レオポルドは赤獅子館のおかげでバレッドール将軍をより重要性の高い任務に就けることができたと開き直ることにした。