一四七
「おはようございます。リーゼロッテお嬢様」
カーテンが開け放たれた窓から差し込む朝日にリーゼロッテ・アントーニア・フライベルはその端正な顔を顰めた。
「ぅぬー」
彼女は不機嫌そうに唸りながら掛布団を引き上げて顔を覆ったが、それは容赦なく剥ぎ取られる。
「お嬢様。おはようございます」
再度掛けられた挨拶にリーゼロッテは苛立たしげに舌打ちをして金色の鋭い視線を向けた。吊り上った彼女の目は平素でも威圧的に見えるが、睨むとそれ以上に恐ろしい。
ベッドの傍には並の男よりも背の高い女中が立ち、平然といつもの朝の支度をしている。
まず、冷たくもなく熱くもない丁度良い温度の水を張った盥に浸した布巾を差し出し、リーゼロッテがそれで顔を拭っている間にお茶を用意をする。
目覚めの一杯には砂糖とミルクをたっぷりと入れ、すぐに口を付けられる程度の、しかし、温くはなく、どちらかと言うとやや熱めの温度に仕上げる。
リーゼロッテは顔を拭った後の布巾を放り投げ、黙ってカップを受け取ると冷ます仕草もなくやや熱めのお茶を一気に半分くらい飲み、ベッドの脇に柱みたいに立っている女中を睨みつける。
「おはようございます」
糸のように細い目の女中が愛想の欠片もない顔で三度目の挨拶を口にすると、我儘なお嬢様はご機嫌斜めな様子で口を開いた。
「……今朝は寒いわ」
「もう秋ですからね」
朝の挨拶が無いことを気にした様子もなく女中は平然と答える。
これが目覚めが壊滅的に悪いリーゼロッテのいつもの朝であった。
朝は普段から偏屈で怒りっぽい彼女が特に不機嫌な時間帯であり、フライベル家の使用人たちはなるべく朝のリーゼロッテとは顔を合わさないように避ける程だった。近侍する女中テレザだけが唯一の例外で、彼女は主がどんなに不機嫌でも癇癪を起しても、いつでも平然と淡々と朝の身支度を手伝うのであった。
リーゼロッテが黙って残りのお茶を飲み干し、カップを突き返すと代わりに一枚の手紙が差し出された。
「何」
「若旦那様からのお手紙です」
テレザの答えに彼女は早くも本日二度目の舌打ちをした。
「その辺に放っておいてっていつも言ってるでしょ」
「早くお読みになりたいかと思いまして」
「そんなわけないでしょ」
「そうですか。ところで、私、うっかり御着替えを持ってくるのを忘れました」
「何やってんのさ。さっさと持って来なさいよ」
いつもより余計に不機嫌そうなリーゼロッテを後にしてテレザは寝室を後にした。
特段急ぐ様子もなくのんびりと廊下を歩き、窓の外なんかを眺めてみたりする。
窓からは広くはないが手入れの行き届いた屋敷の前庭と上流階級の住宅地の清潔な道路、そして、御向かいの屋敷が見えた。相変わらずの面白味もない景色であったが、彼女は前庭の片隅に造られた花畑なんかを見下ろす。
彼女たちが生まれ育った地である帝国南部レウォント地方から帝都へとやって来たのはもう二年近くも前のことになる。
最初の頃は縁戚であるファンブロント伯の屋敷に滞在していたが、一年後にはレウォント方伯ハインツ・アルフォンス・フライベル、リーゼロッテの兄と随行の家臣の多くはレウォント地方へと帰り、リーゼロッテたちは居を移すことにした。縁戚とはいえ、いつまでもファンブロント伯の厄介になるのは憚られた為である。
彼女たちが居を移したのはクロス家の屋敷だった。
リーゼロッテの婚約者であるレオポルド・ウェンシュタイン・フェルゲンハイム・クロスは帝都に屋敷を二つ持っていた。一つは彼が男爵位を継承したウェンシュタイン家の屋敷。もう一つは彼が生まれ育ち、一度手放すこととなったが、一年半前に取り戻したこの家である。
ウェンシュタイン邸は帝都に駐在するレオポルドの家臣たちが仕事場としていた為、リーゼロッテはほとんど空き家となっていたクロス邸を新しい住まいに選んだ。
彼女はクロス邸に滞在している間、家の付き合いの為に社交の場に顔を出したり、帝都や周辺を散策したり、自由気侭に過ごしていた。
帝都での暮らしにもすっかり慣れ、テレザもクロス邸をもうレウォントの城と同じくらいに使い勝手良く感じていた。
「テレザ。何をやってるの」
ぼんやりと窓の外を眺めているテレザに同僚が訝しげに声を掛ける。
「いや、帝都に来てもう二年になりそうだなぁと思いまして」
「そうだけど。リーゼロッテお嬢様を放ったらかしにしておいて平気なの」
「怒られるでしょうねぇ」
「じゃあ、何でのんびりしてるのよ」
「早く行った方が怒られると思うので」
「はぁ」
同僚は怪訝そうに首を傾げていたが、やがて自分の仕事を思い出す。
「よく分からないけど、朝食が冷める前に食卓に連れて来てよ」
そう言って彼女は忙しそうにその場を後にした。
テレザも頃合を見計らって衣装室に行き、リーゼロッテの今日の衣服を選んで寝室へと戻った。
「お待たせ致しました」
テレザの言葉にリーゼロッテは不機嫌そうに鼻を鳴らす。
「遅いっ。着替えを持ってくるのに何分かかってるのっ」
「申し訳ありません」
脇机に置かれた封の切られた手紙に一瞬視線をやってからテレザは主の長い銀髪を櫛で梳き始める。
「若旦那様は何と」
「……戦況が良くなかったみたいね。あと、体調を崩していたみたい」
「あぁ、それで、ここ暫く手紙が無かったのですか」
レオポルドが帝都を離れたのは一年以上前のことである。
その間、彼は半月に一度くらいの頻度で手紙を書き送っていた。それがここ一月程途絶えていたのである。
「良かったですね。愛想を尽かされたわけではなかったようで」
「はあっ。何言ってんのよっ」
「私はてっきりお嬢様が三通に一通の割合でしか返事を書かないので、若旦那様が愛想を尽かしたのかと思っておりました。若旦那様は寛大な御方ですね」
「煩いっ」
リーゼロッテに怒鳴られてテレザは黙り込む。
「……何を書けばいいか分からないし……」
暫く口をへの字にして着替えていたリーゼロッテは顰め面でぼそぼそと呟く。
「何も特別なことを書く必要はないと思いますけれど。若旦那様はいつも何を書いていらっしゃるのですか」
「南部の戦況とか情勢とか、季節の事柄とか、ムールドの風習についてとか。あと、その、なんていうか……」
リーゼロッテにしては極めて珍しくごにょごにょと口籠る。
「若旦那様が抱えている愛人についてとかですか」
「そんなこと書いてあるわけないでしょっ。そんな手紙が来たら燃やしてるわっ」
「じゃあ、何ですか」
「私のこととか……」
リーゼロッテの言葉にテレザは冷かすように口笛を吹く。
「ちょっとっ。止めなさいよっ。本当に無礼な使用人ねっ」
「失礼しました」
テレザは形だけ謝り、リーゼロッテは呆れたように溜息を吐く。主の前で口笛を吹くくらいはいつものことでそれくらいでは大して怒る気にもならないのだ。
呆れ顔のリーゼロッテは立ち上がると寝間着を脱いで、テレザが持って来た着替えを着始める。
「それで、お嬢様のことを何と書いているのですか」
「……言わない」
「何故ですか」
「いいからっ」
着替えの終わったリーゼロッテはテレザを一喝すると足音高く寝室を出た。のっぽの女中は動じた様子も無く彼女の後を追う。
二人はすれ違う使用人たちを委縮させながら食堂に入った。
「おはよう。お姉ちゃん」
食堂には既にニーナ・アレクシア・フライベルの姿があった。
整い過ぎているせいで怜悧にも見えるリーゼロッテと比べてニーナの顔立ちはだいぶ柔和で穏やかで可愛らしく、姉が母親の胎内に残してきた可愛らしさを全て拾ってきたかのようである。
「おはよう。ニーナ」
リーゼロッテも溺愛する妹に対してだけは普段の不機嫌面ではなく優しげな顔になり、声からは険が尽く失われる。
テレザたち女中から給仕を受けながら二人きりの朝食が始まる。
ニーナが帝都に残っているのはリーゼロッテが自分の目の届く場所に帰そうとしなかった為でもあるが、彼女自身が帝都に残ることを希望した為でもあった。
植物学を志す彼女はその手の書籍や学者が多くいる帝都で多くを学び、自らの見識を深めることに余念がなかった。
姉妹は帝都での暮らしをそこそこ楽しんでいた。
「今朝は寒いわね」
「うん、帝都は秋も冬も来るのが早いから。まだ慣れそうにないな」
リーゼロッテに声を掛けられたニーナはそう言ってひよこ豆のスープを飲む。
妹がスープを食べる姿を見つめながらリーゼロッテは顔を顰め、不機嫌そうな声を発した。
「今朝、ムールドから手紙が来たの」
姉の言葉にニーナはぱっと顔を輝かせたが、逆にリーゼロッテは不機嫌な顔を崩そうともしない。
「レオポルド様からのお手紙には何て書いてあったの」
「南部の戦況とかそういうのよ」
「リーゼロッテお嬢様についても書かれていたようです」
傍らに控えて給仕するテレザがしれっと言い、リーゼロッテは余計なことを言った女中を凶悪な目で睨みつける。
「まぁっ」
ニーナは姉と同じ金色の瞳を輝かせた。
「レオポルド様はお姉ちゃんのことを何て書いていたの」
「そんなことはどうでもいいじゃない」
リーゼロッテはテレザを睨みながら誤魔化す。
「手紙によると彼はサーザンエンドをほぼ平定したみたい」
「じゃあ……」
レオポルドの婚約者たるリーゼロッテがいつまでも彼の元に行かず帝都に留まっていたのはサーザンエンドの情勢が甚だ不安定であった為である。これがレオポルドの支配の下に収まりつつあるという。
つまり、リーゼロッテが帝都で自由気ままな生活を送り、彼女が婚約者という中途半端な立場に留まる理由はなくなったのである。
「近いうちに迎えが来るらしいわ」
「そっか」
リーゼロッテの言葉にニーナはスープ皿に視線を落とす。
「ニーナはどうする」
彼女たちが滞在するのはレオポルドの屋敷である為、彼の夫人となるリーゼロッテの妹が更に滞在していても問題はないかもしれない。ただ、親類や知人の少ない帝都に少女をただ一人残すのは心配というものである。
少女は暫く考えた後、姉を見つめた。
「お姉ちゃん。私も一緒に行ってもいいかな」
「そうね。たぶん、大丈夫でしょう。まぁ、駄目だなんて言わせないけど」
そうして、フライベル家の姉妹はその日から旅支度を始め、程無くレオポルドから彼女を迎えに行くよう指示を受けた帝都に駐在している家臣たちの護衛を受けてサーザンエンドへと向かった。
フライベル姉妹には彼女たちの使用人をはじめとする付き添いの家臣ら数十人が従い、護衛の家臣や人夫を含めると一行は百人近い人数となった。
彼女たちが行くのはレオポルドがムールド伯叙任を目指した旅路と同じ海のルートで、その旅程は一月半といったところであった。
フライベル家の姉妹がサーザンエンドへ向かっている間、レオポルドの支配するところとなったハヴィナは混乱に包まれていた。