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サーザンエンド辺境伯戦記  作者: 雑草生産者
第九章 ハヴィナへ
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一四二

 マルセラを発って五日目の朝。

 レオポルドは自力で起き上がることができなくなっていた。

 前日から体調を崩していたが、くらくらする頭を抱え、気力を振り絞って重い足を動かし、休むことなく無理に歩き続けたせいで、遂に立ち上がることすら難しくなってしまった。

 ソフィーネが彼の額に手を当てると大変な高熱を感じた。彼女には医術の心得はないから、彼の容体が如何程のものか判断することはできなかったが、早急に医師に診せなければならないと思われた。

 とはいえ、医者に診せられる状況ではないことは言うまでもない。

「仕方ありませんね」

 ソフィーネはそう言うと持ち運ぶときは背負っている十字剣を腰に帯びた。長大すぎる十字剣は腰に履くと端が地面を擦ってしまうのだ。

 毛布や残り少ない食糧などの荷物の多くは思い切って捨てることにして、革袋だけを腰に提げる。

 そうして背中を空けると彼女はレオポルドの前に屈み込む。

「私の背中に乗って下さい」

 力なく灌木に寄りかかっていたレオポルドは熱の為に赤い顔を横に振る。

「いい……。結構だ……」

「女に背負われるのは恥ずかしいかもしれませんが、これしか方法がないんです。さっさと乗って下さい」

 レオポルドは渋い顔をしてぶつぶつと呟く。

「……大体、君は私を背負って歩けるのか……」

「常日頃から十字剣を背負ってますからね。きっと、貴方の方が軽いですよ」

「馬鹿を言うな」

 似合わない軽口を言ったソフィーネに苦笑しながらレオポルドは渋々と腰を上げる。地面に手を突いていればどうにかこうにか動くくらいはできた。

「君は頑固、だからな」

「そうです。貴方が背中に乗るまでここを動きませんよ」

 仕方なくレオポルドはソフィーネの背中に体を預けた。

 彼女は彼を背負うと鼻息荒く気合を入れてから立ち上がる。一瞬、ぐらぐらとバランスを崩しかけるが、なんとか体勢を立て直す。

「無理なんじゃないか」

「もう十分無理をしていますよ。煩いから黙って寝てて下さい」

 心配になったレオポルドが声をかけるとソフィーネは刺々しい口調で言い放ち、毅然と前を向いて歩き出した。

 既に意識も朦朧としているレオポルドは声を発することも苦のようで言われた通り黙って彼女の背中に背負われていた。

 レオポルドは細身とはいえ、背の高い大人の男だ。彼女自身よりも重い。その上、彼女は腰に子供くらいの重さのある十字剣を提げている。いくら幼少の頃から剣の修道院で武術を学び、心身を鍛えてきたと言っても限度があるというものだろう。

 数時間も歩くとソフィーネはすっかり消耗してしまっていた。

 その上、季節は夏であり、ムールドよりも北とはいえ、サーザンエンドの夏は厳しい。強い日差しが容赦なく彼女を熱し、滴る汗が地面に落ちていく。

 となれば、歩みが遅くなるのは当然というものである。レオポルドを背負ったソフィーネの歩みは昨日までの半分以下の遅さであった。

 それでも彼女は荒い呼吸を繰り返し、止まりそうになる足を無理矢理に動かし続けた。一度止まってしまうと再び歩き出すのが辛いような気がしたからだ。

 額から流れ出る汗が不快で仕方がないが両手はレオポルドの足を抱えている為、顔を拭うことすらできない。

「糞っ。暑すぎる。主よ。何故、太陽なんぞを作ったのですか。クソッタレめ……」

 修道女らしからぬ悪態を吐きながら一歩一歩重い足を動かして、亀のような歩みで南へと向かっていく。

 予定ではナジカには今日中にも到着するはずだったが、前日は体調不良で歩みが遅かったレオポルドに歩みを合わせていた為、かなり遅れているはずだ。あと丸一日か二日、下手をすれば三日くらいはこの調子で歩き続けなければならない。

 彼女はあまりそういうことを考えないようにした。いつまで自分が彼を背負って歩き続けられるか分からなかったからだ。ただ黙って歩いていると、どうしても未来のことに考えが及んでしまうので、太陽や歩き辛い地面に対する悪態を吐く以外は聖典を延々と唱えながら歩き続けることにした。伊達に毎日聖典を読み続けてきたわけではない。

「主、は、はぁ、仰られた。汝の家族を愛せよ。な、汝の、友を愛せよ。汝の、隣人を、愛せよ……」

 息も絶え絶えに聖典の一節を呟きながら行く手を見るが、先程から変わらぬ地平線が見えるばかり。村どころか家も人も家畜すら見えない。オアシスの一つもない。

 行く手に視線を向けていた為か、疲労と暑さで集中力を欠いていた為か、地面の石に躓き、転倒しそうになる。どうにか転倒はしないで済んだものの、それまで止まらずに動かし続けてきた脚は止まり、膝が地に突いてしまう。

「くっ、うぅぅ……」

 ソフィーネは唸り声を上げながら脚に力を入れたが極度の疲労で膝は震え、腿の筋肉はぴくぴくと痙攣している。膝は地面から離れようとしなかった。

「ソフィーネ。下ろせ」

 背後でレオポルドがか細い声で呻くように言った。

「もう、限界だろう」

「何を、言って、るんですか」

「いいから。一旦下ろせ。俺は君ごとひっくり返りたくないぞ」

 ソフィーネは渋々といった様子で、その場にレオポルドを下ろそうとしたが、バランスを崩し、二人揃って地面にひっくり返ってしまった。

 二人は起き上がる気力も体力もなく、強い日差しに晒された熱い砂地に寝転がった。

「……すいません」

 荒い呼吸の合間にソフィーネが謝る。

 レオポルドは答えることもなく、目を閉じて辛そうな顔をして黙り込んでいた。

 二人は暫くの間、その場に倒れ込んでいたが、太陽が頂点を過ぎたくらいの頃になって、ソフィーネは上体を起こした。

「もう大丈夫です。行きましょう」

 彼女が声をかけてもレオポルドは何の反応も見せなかった。

 ソフィーネは眉間に皺を寄せる。

「まさか、死んでないでしょうね」

「……生憎とまだ生きてる」

 レオポルドは掠れた声で呻くように言った。

「紛らわしいことをしないで下さい」

 いつものように醒めた顔で言いながら彼女は立ち上がり、白い服に着いた砂を叩き落とす。

「早く起きて下さい。こんな所でいつまでも寝ていたら干からびてしまいますよ」

「……君に一つお願いがある」

 レオポルドは起き上がる代わりに目を閉じたまま掠れ声で言った。

「背負って運んであげているっていうのに、これ以上何を願うっていうんですか。貴族は我儘で困ります」

「告解をしたい」

 彼の言葉にソフィーネは声を失う。

「私は、全く不信心な正教徒だったと思う。教会と確執があったとはいえ、主への奉仕を怠り、祈りを欠いていたと思う。それに」

「ちょ、ちょっと待って下さいっ」

 ソフィーネはレオポルドの言葉を遮る。

「何を言っているんですか」

「……私だって、腐っても正教徒だ。事ここに至って何を為すべきか分からない程、不信心というわけではない」

 人は生きている限り、間違いや失敗を犯すものである。聖典に書かれている清く正しい行いを産まれてから死ぬまでの間、完璧に遂行することは不可能に近い。

 では、間違いや失敗を犯した多くの人々は神に救われることなく、地獄へと落とされてしまうのか。

 それではあまりにも酷というものである。

 自らの罪を自覚し、告白し、反省した者には神が赦しを与え、最期の時には救済されると西方教会では教えられている。

「私は、聖職者ではありませんから、告解を聞いて赦しを与えることはできません」

 ソフィーネはひりつくような喉の渇きを覚えながら呟く。

 告解は聖職者に対して行うものである。修道女は聖職者ではない。

「そんなことは知っている。ここには聖職者なんぞいないからな。しかし、そこらの俗物めいた聖職者よりも君の方が、私の告解を聞くに相応しい気がする」

 レオポルドはそう言って口の端をひくりと微かに引き上げた。

 それから深呼吸をして、呻くような声で言葉を続ける。

「私がこれまで行ってきたことは、きっと主の御心には叶うことではなかっただろう。私はサーザンエンドに、ムールドに、災厄と戦禍を撒き散らした悪魔だ」

「サーザンエンド辺境伯を巡る争いは以前からありました。ムールドの内紛とて同じです」

 レオポルドの告白にソフィーネが反論するように言い返す。

「私のせいで争いは間違いなくより大きくなった。サーザンエンド辺境伯の地位を巡る争いはより複雑になり、長期化してしまった。ムールドとてレイナルが統一していた方が多くのムールド人にとっては幸せだったかもしれない」

「ムールドの多くの部族はレイナルの支配を嫌っていました」

「それは部族の有力者たちがレイナルによって権力を奪われることを恐れていただけだ。多くの一般のムールド人にとっては私もレイナルもさほど違いなどないだろう。部族の有力者たちはレイナルに屈服するよりは私に協力して権力を維持した方が得策だと考えたのだ。私は彼らの思惑を利用した。その上、彼らをムールドの外の戦争にも駆り出し、より多くの血を流させた」

 レオポルドはレイナルに敵対する部族の有力者たちの危機感を利用し、彼らの地位を守ってやる代わりに支配者に収まった格好である。

 レオポルドの支配下に入ることによって諸部族の有力者たちはその地位を守られることとなったが代償としてレオポルドの行う戦争にムールド人が動員されるようになってしまった。先の戦いでも多くのムールド兵が故郷から遠く離れた地で命を落としている。

「私の命令によって、私が始めた戦争によって、数千もの人々が殺され、死んでいった。その多くは私がいなければ死なずに済んだ命だ。私さえいなければ、彼らの命は救われていただろう。私は、あのまま、帝都の街角で貧困と困窮の中で餓え死ねば良かったのだ」

 レオポルドは傍らに佇むソフィーネに視線を向けて言葉を連ねた。

「君にも迷惑をかけた。私に関わったばっかりに、君は人殺しなんかに手を染めなければならなくなってしまった。君の平穏な主への奉仕の生活を奪ってしまった。申し訳ないと思っている」

 彼女は黙ってきゅっと唇を噛む。

 そして、レオポルドの腕を掴んで引っ張り起こした。

「おい、何をする。まだ途中だ」

「いつまでも貴方の暗い話を聞いてるのは御免です」

 ぶっきらぼうに言い切るとほとんど強引に再び彼を背中に背負った。

「もう、いい。俺は置いていけ」

「嫌です」

 レオポルドの言葉にソフィーネはきっぱりと言い返す。

「このまま私を背負って運んでいたら君まで体力を消耗するぞ。また倒れる前に、私のことは捨てて行け」

「病人を見捨てることを主はお許しになりません」

 そう言われるとレオポルドは黙るしかなかった。主に仕え、主に奉仕することが修道女の役目である。

「異教徒や神の敵を断罪することは主に認められた行いです」

 西方教会がそのように認めているのだ。過去数世紀の間に、異教徒、異端を討伐する神聖なる神の軍隊は幾度も組織され、多くの神の敵を撃ち滅ぼしてきた。「神の敵を殺すことは主の御心に適う」と宣言した総大司教もいる。それが正しい解釈か否かはさておき、ソフィーネはそう言うことにした。

 しかし、正教徒である病人を見捨てても良いとは聖典に書かれていないし、教会もそうは言わないだろう。

「剣の修道院の者は誰もが神の敵をこの十字剣によって断罪することを自らの使命と心得ています。故に神の敵を幾人か斬り捨ててきたことは使命を果たしただけのこと。誉れにこそなれ、罪にはなりません。貴方が責任を感じているのは全く見当違いというものです」

 そう言ってソフィーネは再びレオポルドを背負って歩き出す。

「貴方は病で気が弱り、いささか自己嫌悪に陥っているのでしょう。心身が弱ったときは益体もないことを考えてしまうものです」

 ソフィーネは真っ直ぐ前を見据えながらゆっくりと一歩一歩前へと進んでいく。

「この地における戦禍は全てが貴方一人の責任というわけではありません。貴方がいなくともサーザンエンドの諸侯は辺境伯の地位を巡って争っていたでしょう。レイナルとてムールドを統一した後、何をしでかしたか分かりません。好戦的な彼のことです。ムールドの外へと侵略に乗り出したかもしれません。また、統一戦の過程でより多くの血が流されたかもしれません。彼には四つの部族を虐殺した前科があるのですから」

 少し休んだせいか、ソフィーネはまだまだ歩けるという根拠のない自信に満ちていた。相変わらず地平線しか見えないが、その向こうにナジカの城壁がもうじき見えるような気がしていた。

「貴方が戦いを選ばなければ、貴方を頼った人々はどうなっていたでしょうか。貴方が敗北したムールド南部の諸部族に示したような寛大さを敵もまた発揮したでしょうか。貴方の愛する人や貴方に従ってくれた人、貴方と共に歩むことを選んだ人がどうなっていたかを考えてもみて下さい。そして、貴方が今ここで諦めた時、残された人々がどうなるか考えて下さい」

 レオポルドはソフィーネの背中で不機嫌そうに唸る。

「だから、貴方は諦めてはいけません。何としても生き延びて、貴方の使命を果たすべきです」

 彼女の言葉を聞いたレオポルドは不服そうに鼻を鳴らした。

「綺麗事を言う」

「綺麗事を言うのが聖職者のお仕事です。まぁ、私は聖職者ではありませんが」

 そう言ってソフィーネはニヤリと口角を吊り上げた。遥か彼方の地平線に薄らと見えるものがあった。今はまだ茶色い豆粒のような大きさで、その輪郭はぼやけていて、その正体は視力では判断できなかったが、彼女は何の根拠もなく確信していた。

「さぁ、あと少しですよ。運が良ければ、今夜はふかふかのベッドで眠ることができるでしょう」

 ソフィーネは気合を入れるように言って歩を進めた。

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