一三九
戦いの火蓋はムールド伯軍の砲撃によって切って落とされたが、それは昼をとっくに過ぎた頃で、太陽は空の頂点からいくらか傾きつつあった。
戦闘開始の時刻が軍議から数時間後となったのは昼食後の兵士たちを整列させるのに数時間を要した為である。数千もの兵を整然と並べさせ、戦列を形成するのは容易なことではない。
予定よりも随分と時間を食ってしまったが、ともかく、戦端は開かれた。
中央と両翼にそれぞれ配置された大砲が白煙と轟音を盛大にぶちまけながら砲弾を撃ち放つ。
ムールド伯軍が有する大砲は全部で四〇門で、その全てが一斉に砲撃を開始した為、辺りには砲声が轟き、砲声に驚いた馬たちが戦場のあちこちで嘶き、落ち着かなそうに蹄で地面を蹴る。
砲弾は真っ直ぐガナトス男爵軍の方へと飛んでいくが命中した砲弾は僅かであった。
砲兵士官たちは着弾点を観測し、次こそは敵の陣営のど真ん中に砲弾を撃ち込もうと砲身の向きの微調整を指示する。
ムールド伯軍の砲兵が第二弾を見舞う前にガナトス男爵軍の砲列が火を噴いた。再び轟音が戦場に響き渡り、戦場を漂う白煙が更に増える。
「両翼の砲撃は程々で良い。砲撃が終わり次第、砲兵は中央に移動させよ」
頭上を飛び越えていく砲弾を見上げながらレオポルドはバレッドール将軍の指示を聞いていた。
「敵の砲弾は随分とよく飛ぶな」
レオポルドが顰め面をして呟く横で将軍が指示を飛ばす。
「両翼の部隊は速やかに前進し、敵両翼を攻撃せよ」
すぐさま伝令が左右へ走る。
数分後、左翼ではレッケンバルム准将が顰め面で頷き、右翼ではアルトゥールが口角を吊り上げ、それぞれの配下の連隊に前進を命じた。
左翼のサーザンエンド歩兵連隊を率いるコンラート・ディエップ大佐はレッケンバルム准将からの指令を聞くと馬上で配下の兵たちを見回して叫んだ。
「諸君っ。今こそ、我らの家に帰る時であるっ。異教徒どもに神の鉄槌を食らわせてやろうではないかっ。前進っ」
連隊の諸兵士が連隊長の怒声に応じるように鬨の声を上げ、連隊旗が高く掲げられた。
喇叭が吹き鳴らされ、太鼓が連打される。揃いの白い軍服に身を包んだ兵士たちはマスケット銃を担ぎ、号令一下、戦列を維持したまま歩きはじめる。
前進を始めたサーザンエンド歩兵連隊に対し、その正面に布陣するガナトス男爵側のアルブレヒト・ブレドとルーデンブルク家の軍勢は動きを見せることはなく、砲兵隊は相変わらず砲撃を続けていた。
サーザンエンド歩兵連隊の兵士たちは降り注ぐ砲弾など気にも留めないような顔をして銃剣の着いたマスケット銃を担ぎ、軍楽隊が奏でる意気揚々とした音楽に合わせ、きびきびと歩を進めていく。
時折、戦列に砲弾が飛び込み、直撃弾を受けた不運な兵の四肢はバラバラに吹き飛び、その肉片や舞い上がった土砂によって周辺の兵達が負傷する。
砲撃による戦列の空隙は後列の兵によって素早く埋められる。負傷兵はその場でじっとしているか、どうにかして自力で後方に下がらなければならない。運が良ければ戦闘が終わった後に助けられるだろう。
彼我の距離が二〇〇ヤードを切った頃、ガナトス男爵軍が動きを見せた。
士官たちの号令が響き、歩兵は担いでいたマスケット銃を肩から下ろし、その銃口をサーザンエンド歩兵連隊の白い横列に向けた。
士官が掲げたサーベルが振り下ろされた直後、ずらりと並んだ数百の銃口から一斉に白煙と共に数百の鉛玉が吐き出された。銃声が響き渡り、驚いた馬たちが嘶く。
数百の鉛玉のうちの十数程度がサーザンエンド歩兵連隊の兵士たちに命中し、軍服と皮膚と切り裂き、肉を穿ち、骨を砕き、腸を貫いていく。鉛玉の餌食となった男たちは悲鳴を上げながら倒れ込む。
それでも連隊の歩みが止まることはない。昼飯の時に馬鹿話をしていた隣を歩く戦友が砲弾が吹き飛ぼうとも、銃弾に貫かれ、膝を屈しようとも彼らの足が止まることはない。彼らが止まる時は連隊長が決めるのだ。
「臆すなっ。歩みを緩めるなっ。進み続けよっ」
馬に跨ったディエップ大佐がピストルを片手に握りながら鋭く命令を飛ばす。
その傍らにはサーベルを肩に担いだ下士官が従っていて油断なく兵たちを睨んでいた。
士官と下士官は部下たちが臆して歩みが遅くならないように気を配っているのだ。無論のこと、列を離れる者がいれば脱走と見做してピストルで撃ち殺したり、サーベルで撫で斬りにすることも彼らの仕事だ。
敵兵を一方的に射殺したガナトス男爵軍の兵士たちは再び一斉射撃を見舞おうとマスケット銃を立てて新しい弾と火薬を詰め直し、銃口を前に向けた。一番のノロマがようやく銃口を前に向けたところで指揮官がサーベルを振り下ろす。
再び一斉射撃が繰り返され、先程よりも多くの兵士が悲鳴を上げながら地に伏し、ある者は呻き声を漏らしながら地面をのたうち回り、ある者は悪態を吐きながら傷口を塞ぎ、ある者は二度と声を発すこともなく動くこともなかった。
サーザンエンド歩兵連隊はそれでも何事もなかったかのように変わらぬ速さで前進を続け、両軍の間の距離は五〇ヤードにまで迫った。これくらいの距離になると向かい合う敵の顔も見えそうな程の近さである。
そこでようやくディエップ大佐は手綱を引きながら片手を挙げた。連隊に停止が命じられ、直ちにマスケット銃を構えるように号令が発せられる。ずらりと銃口が並ぶ前で、敵の兵士たちが同じように銃口をこちらに向け始める。
「放てーっ」
命令が発せられた直後、何重にも重なり合った銃声が荒野に響く。少し遅れてあちこちから悲鳴が上がり、バタバタと哀れな犠牲者が地に伏していく。
「ぐずぐずするなっ。再装填を急げっ。奴らに先んじて鉛玉を食らわせてやれっ」
士官の怒号が飛び、兵たちは未だに煙を吐き熱を持つ銃身を掴んで再装填作業に入る。如何に早く装填作業を終え、自らの武器を再び射撃できる状態に持っていけるかは日頃の訓練と戦場という特殊な状況にあっても正確に素早く作業ができるかにかかっている。
その点においてサーザンエンド歩兵連隊は優れた能力を示し、敵よりも早く仕事をやってのけた。真正面に並ぶ男たちがマスケット銃を構え直す前に二度目の一斉射撃を食らわせた。ガナトス男爵軍も負けじと一斉射撃を見舞う。
両軍は交互に一斉射撃を繰り返し、その度に銃声が戦場に響き渡り、両軍の間には向かい側に並んだ敵兵の顔も見えない程に濃い白煙が濛々と立ちこめた。
同様の光景は右翼においても見られ、そちらでもムールド兵がベッゼル傭兵連隊に猛烈な一斉射撃を浴びせていた。
対するガナトス男爵軍は攻撃を受けた両翼も中央の歩兵部隊も、レオポルドが恐れるアーウェン槍騎兵も特段の動きを見せなかった。砲兵隊は砲撃を続け、両翼の歩兵は迎撃に努めていたが、前進しようという意思はないようであった。
「敵の戦列に空隙が多くなってきたように見えます」
サーザンエンド歩兵連隊副長のヨナタン・ライマン中佐がディエップ大佐に声を掛けた。ライマン中佐は以前まで輜重隊の隊長を務めていたサーザンエンド辺境伯軍生え抜きの軍人である。
「私にもそう見える。そろそろ、突撃させても良いかもしれん」
大佐はそう言いながら白煙の向こうを見ようと目を凝らす。
そこへ連隊左翼を構成する中隊の士官が馬を走らせてきた。
「大佐っ。敵の右翼が崩れ始めましたっ」
その声に連隊の幹部たちは一斉に敵右翼方向に視線を走らせるが、濛々と立ちこめる白煙で殆ど何も見えなかった。
「少尉。それは確かだな」
ディエップ大佐に睨みつけられ、まだ少年のように若い少尉は興奮と緊張で顔を赤らめながら、ぎこちなく頷いた。
「うむ」
ディエップ大佐はしかめ面で頷くとサーベルを引き抜いてライマン中佐に言った。
「次の一斉射撃の後、突撃させよ」
サーザンエンド歩兵連隊は数度目の一斉射撃の後、大佐の命令の下、雄叫びを上げながら銃剣の着いたマスケット銃を構えて走り出す。硝煙臭い白煙の向こう目がけて走る彼らを出迎えたのは自分たちを狙うマスケット銃の横列であった。怖じ気づく暇もなく、立て続けに銃声が鳴り響き、白煙が一層濃くなる。一斉に仲間たちが悲鳴を上げながら倒れ込んでいくが、それでも彼らは足を止めることはない。
一斉射撃を食らわせたガナトス男爵軍の兵達も煌めく銃剣を構え、喊声を上げながら走り出した。
「臆すなっ。奴らに銃剣を食らわせてやれっ」
ディエップ大佐が怒号を発しながら馬を駆けさせる。
大佐の怒声に押されるようにサーザンエンド歩兵連隊の兵たちは数十ヤードを駆け抜け、向かい側から走り寄って来た敵兵と衝突した。鉄と鉄が、人と人が、肉と肉が、ぶつかり合う音が響く。
両軍の兵がぶつかり合い、入り混じり、前の敵を倒したと思ったら、背後の敵に倒されるような熾烈な白兵戦が展開される。
銃剣が肉を突き刺し、銃床が骨を砕き、サーベルが手足を切り、ナイフが喉笛を掻き切り、拳が体を打ち、指が首を締め上げ、軍靴が腹を踏みつけ、サーザンエンド歩兵連隊の白い軍服を茶色い土と誰のものとも知れぬ血が染めていく。
歩兵連隊が敵歩兵と揉み合い、掴み合う白兵戦を展開している最中、クリストフ・アイゲル卿に指揮されたサーザンエンド騎兵連隊は最左翼へと展開していた。これに対応するように敵騎兵が同じような動きを見せ、歩兵連隊の横で騎兵隊同士の衝突が生じていた。
しかしながら、騎兵の数はムールド伯軍が優勢であり、馬術に秀でたムールド人騎兵を多く含むサーザンエンド騎兵連隊は初めから優位に戦いを進め、さしたる時間も要さずに敵騎兵を追い払ってしまった。騎兵連隊は退却する敵騎兵を追って更に前進する。
左翼を指揮するレッケンバルム准将は敵の後退を見て、敵を追いつめる好機と感じたが、中央との間に空隙が生じることを恐れて、前進を躊躇していた。
一方、右翼においてもムールド兵たちが突撃を開始し、傭兵たちの抵抗を打ち破り、ムールド人軽騎兵は駱駝騎兵を打ち負かしていた。
右翼を指揮するアルトゥールは後退する敵を追いつめようと右翼全体を更に前進させる命令を発した。
「アルトゥールは進み過ぎではないか」
中央にあって伝令から両翼の動きを知らされたレオポルドは懸念を口にした。
「このままでは右翼との間に空隙を生じる。左翼もこのまま前進を続けると離反しかねない」
そう言ってレオポルドは地図上に示された各軍の配置を示す。
ムールド伯軍の右翼は敵を追って開戦時の位置よりも北東方向に半マイル以上前進しており、開戦以来そのままの位置に留まっている中央との間に大きな空隙を生じさせていた。北西方向に進んだ左翼はまだそれほど進出していない為、辛うじて中央との連絡を保っているが、このまま敵を追えば離間してしまう恐れがあった。
敵と戦っている両翼を後退させることなど不可能である。となれば、その空隙をどうにか埋めなければならない。
「フュージリア連隊を前進させて空隙を埋めるか。空隙に予備のドレイク連隊を当てるべきだろう」
レオポルドの言葉にバレッドール将軍は難色を示した。
「ドレイク連隊は敵の別働隊に備えねばなりません」
将軍は敵別働隊の動きを警戒しているようであった。確かに斥候から東から敵の部隊が接近中との報が入っていた。この別働隊に右翼の後背を突かれない為にもドレイク連隊は手許に置いておきたいというのが彼の考えのようであった。
「では、前進しかあるまい」
「移動中に槍騎兵に襲われますと十分に迎撃できない恐れがあります」
レオポルドたちが最も恐れているのがそれであった。南部最強と名高いアーウェン槍騎兵の突撃は半ば伝説と化しており、それは将兵の間にも広く信仰されていた。槍騎兵を迎撃することに彼らは不安を覚えており、ましてや移動中に突撃を受けた場合は致命的であると考えられていた。
「我が軍は攻勢に出ており、戦いを優勢に進めています」
「しかし、この空隙は致命的だ。我々を破滅に追い込むぞっ」
レオポルドは地図上の中央と右翼の間に生じつつある隙間を拳で叩きながら怒鳴った。
「フュージリア連隊が前進すれば、敵はアーウェン槍騎兵を突撃させてくるでしょう。移動中に突撃を受けてはひとたまりもありません。中央が破られれば我が軍の戦線は壊滅です」
バレッドール将軍はあくまでもサーザンエンド・フュージリア連隊はアーウェン槍騎兵に備え、前進を差し控えるべきだと主張した。
「前進が不可能と言うのならば、近衛大隊で空隙を埋めるしかないぞ」
レオポルドの言葉にバレッドール将軍は渋い顔をしたまま唸った。
中央と右翼の間に生じた空隙の危険性は将軍も勿論理解しており、これを埋められる部隊は近衛大隊くらいしかないということも十分に理解していた。
将軍の唸り声を同意と受け取ったレオポルドが指示を飛ばす。
「サライ少佐。近衛大隊を率いてサーザンエンド・フュージリア連隊の右側面に布陣し、右翼との連携を保つよう努めよ」
「宜しいのですか。閣下と本営の守りが手薄になってしまいますが」
サライ少佐は困惑顔で言った。
近衛大隊の第一の役割は君主にして総指揮官であるレオポルドの護衛であり、彼とその幕僚が詰める本営の守備である。近衛大隊を移動させてしまうと本営は無防備同然と化してしまう。
「本営はフュージリア連隊とドレイク連隊に挟まれているから差し迫った危険性はあるまい。それよりも危険なのはこの空隙だ」
「承知致しました」
レオポルドの指示を受けて、サライ少佐はレオポルドたちが司令部として使っているマルサラの町長宅を出た。
数分後に喇叭の音が鳴り響き、近衛大隊の兵卒が呼び集められた。
バレッドール将軍はこれで良いのかと物問いたげな顔をしていたが、レオポルドは少し落ち着いたような気分でいた。自身の身辺が守られなくなったことよりも中央と右翼の間の空隙を埋める方が気休めになったのだ。
レオポルドが溜息を吐いて、暫くぶりに椅子に腰を下ろした時、部屋に伝令が駆け込んできた。
「敵中央が動き始めましたっ」
「動いたのは歩兵かっ。それともアーウェン槍騎兵かっ」
バレッドール将軍が怒鳴りつけるように尋ねると伝令は汗を拭いながら叫んだ。
「両方でありますっ」
レオポルドは再び落ち着かない気持ちに囚われ、椅子から腰を浮かせた。