一三八
「中央後方の低い丘にガナトス男爵の本陣五〇〇とアーウェン槍騎兵一〇〇〇騎。その前に歩兵二〇〇〇余。敵右翼にはアルブレヒト・ブレドとルーデンブルク家の軍勢が歩兵一五〇〇と騎兵五〇〇騎。敵左翼には傭兵主体の歩兵二〇〇〇の他、駱駝騎兵五〇〇騎。中央と両翼に砲兵が配置されています。その他、西からカウラント軍五〇〇、東からウォーゼンフィールド男爵軍五〇〇が接近中との知らせ」
ムールド伯軍司令部が置かれた天幕の中、机に広げられた地図の各所を指しながらバレッドール将軍が敵の戦力を説明していく。図上には自軍と敵軍の位置を示す駒が置かれていた。
「先程、敵左翼を見てきたが、あれは高地クライスのベッゼルの連隊ですな」
いつものように赤ら顔のドレイク卿が言った。
「そのベッゼルの傭兵連隊は強いのかね」
「まぁ、金だけ貰ってトンズラという連中じゃあないですな。金さえ払えば戦える兵隊を用意しますよ。無論、うちの連隊程ではありませんがね」
そう言ってドレイク卿が酒臭いゲップをした。
「君のような酔っ払いでないならベッゼル氏を雇うべきだったかな」
レオポルドは皮肉を一つ言ってから地図に視線を戻す。
ガナトス男爵軍に対するムールド伯軍はマルサラという小さな町に本陣と近衛大隊を置き、その前面にサーザンエンド・フュージリア連隊が配置していた。予備としてドレイク連隊をマルセラの後方に残している。
レッケンバルム准将が指揮を執る左翼はサーザンエンド歩兵連隊とサーザンエンド騎兵連隊。
アルトゥール・フェルゲンハイム将軍が指揮する右翼は第一ムールド人歩兵連隊とムールド人軽騎兵連隊。
砲兵隊は中央に半分を置き、左右に一個中隊ずつを配していた。
横に大きく広がった格好のガナトス軍に対して、ムールド伯軍はマルサラの町を中心としてまとまった布陣をしていた。
「カウラントとウォーゼンフィールドの軍が厄介だな」
地図の端に置かれた二つの小さな駒を見つめながらレオポルドが呟く。この二つの別働隊はまだ戦場に現れてはいないが、ムールド伯軍の後背を脅かしかねない存在であった。
全体的な兵数でいえば、別働隊を除けばほぼ同数であり、別働隊が到着すると兵数において劣勢に立たされる。
それでも彼はナジカを出立し、野戦に打って出たことを後悔はしていなかった。
ハヴィナに入ったガナトス男爵は兄シュテファンを殺害したアルブレヒト・ブレドの恭順を受け入れ、アルブレヒトはカウラント家の独立を認めた。ハヴィナ貴族と教会もガナトス男爵に対して抵抗するようなことはなかった。
この事態にレオポルドは前進を躊躇し、急遽ナジカ出立を見合わせた。
レオポルドの動きを見たガナトス男爵はハヴィナに落ち着くこともなく、アルブレヒト・ブレドとハヴィナ貴族のヨハンス・ルーデンブルク准将が率いる軍勢と合流して南下を始めた。
ムールド伯軍をナジカから動かそうという思惑があっての軍事行動であることは明らかであった。男爵は決戦をお望みらしい。
糧秣や約定の関係もあってナジカに長期駐屯するわけにはいかなったレオポルドもナジカを出ることを決めた。
北への進軍の途上、斥候からカウラント家の兵五〇〇がカウラント地方を発してこちらに向かいつつあるとの報を受けた。その翌日、クライセンバート城を囲んでいたウォーゼンフィールド軍独立派の兵のうち五〇〇が陣を引き払い、この軍も接近しつつあることを知った。
この時、引き返していればガナトス男爵軍の追撃を受けることは必定であり、ナジカが敵方に寝返るようなことがあればムールドへの退却も容易ならざるものとなることが予想された為、レオポルドは前進を続け、マルサラの町を占拠して本陣を置いた。
同日中にはガナトス男爵軍も視認できる位置まで進軍してきて、マルサラの北にある低い丘に本陣を構え、両軍は対峙することとなった。
ガナトス男爵に上手く野に引き摺り出され、包囲される危険性を抱える羽目になった格好だが、男爵がハヴィナに立て籠もり、それを攻め落とすよりは楽だとレオポルドは考えていた。攻城戦となればより現状の兵力と物資では心許無く、ほとんど不可能と思われたからだ。
もっとも、無理に進軍せず、ナジカの恭順を受け、ハヴィナとナジカの間辺りまで勢力圏を拡大したことに満足して兵を退くという選択をしても良かっただろう。
しかし、レオポルドはガナトス男爵がハヴィナを出たという好機に食い付いた。この戦いに勝利すればサーザンエンド中部が手に入るのだから、まさに好機なのである。欲を出したツケを払う羽目になるか否かはこれからの戦いの結果如何にかかっている。
「別働隊が現れる前に眼前の敵を叩くべきだ」
サルザン族の族長であり、第一ムールド人歩兵連隊の指揮官であるラハリが声を上げた。
「我が軍は総勢八〇〇〇。今現在戦場に在る敵もほぼ同数。しかし、敵の別働隊が現れてしまうと敵軍が我が軍を一〇〇〇程上回り、布陣も敵方有利になってしまう。その前に敵主力を叩くことが肝要というものであろう」
報告によればカウラント軍、ウォーゼンフィールド軍はいずれも戦場まで一日か二日程度の距離にあるという。
「戦いの最中に後背を脅かされては厄介だしな」
バレッドール将軍が口髭を撫でつけながら呟き、隣に立つレッケンバルム准将が黙って頷く。
他の指揮官たちも同様の意見のようであった。
また、彼らは自軍の糧秣が限られており、出来るだけ早くに戦争を終わらせなければならないことも理解しているのだ。
「兵たちの食事が済み次第、攻撃を開始致したいと思いますが宜しいでしょうか。閣下」
バレッドール将軍がそう言ってレオポルドの承諾を求めると、彼は異議を口にすることなく頷く。実質的には将軍が全軍の指揮を握っているのだが、最高指揮官は主君たるレオポルドなのだ。
軍議が行われている時刻は昼少し前で、その間、兵には食事を取らせていた。兵たちの昼食が終わり次第、戦いは始められるだろう。
「攻撃に当たって注意すべきは敵中央の槍騎兵でしょう」
レオポルドの承諾を得た将軍は地図上の一点を指して言った。
ガナトス男爵軍の中央にはおよそ一〇〇〇騎のアーウェン槍騎兵が控えていた。この槍騎兵隊はアーウェン人であるガナトス男爵の元にアーウェン諸侯から送り込まれた援軍であることは間違いなかった。
アーウェン槍騎兵は帝国南部のみならず帝国本土、大陸全土で勇猛と知られる精兵として知られていた。
その特徴は鞍に固定して騎兵の背後に立てられた長大な背中の羽飾りと一五フィートを超える長槍である。それに加え、彼らは煌びやかに装飾された甲冑を身に纏い、湾曲したサーベルとピストルを装備した。
戦場では密集陣形を取り、槍衾も銃火も恐れず突進して敵を粉砕する。
彼らはアーウェン士族と呼ばれる階級の戦士である為、農民から徴兵された軍隊や傭兵よりも戦闘技術や士気が高く、決して敵に背を向けないという。
そもそも、アーウェン地方は元々独立した王国であり、国政は国民大会議という議会によって運営され、国王すら国民大会議で行う選挙によって選出されていた。
この国民大会議に参加する権利を持つ人々がアーウェン士族で、彼らは議会の出席、発言の権利と免税特権などを有すと同時に国の危機に際しては武装を整え、王国軍に加わる義務を帯びている。
アーウェン王国は長く独立を維持したものの百数十年前に神聖帝国の支配下に入ることとなった。
とはいえ、王国は易々と膝を屈したわけでも戦場において惨敗したわけでもない。
王国は神聖帝国の侵略を三度迎え撃ち、その度に精強なアーウェン槍騎兵の突撃によって帝国の大軍を打ち破って来た。
しかしながら、大規模な王国軍を維持するには莫大な予算が必要となり、王国は財政破綻寸前にまで追い詰められていた。
また、四度目の戦いにおいて王国軍は勝利を収めたが不運にも当時の国王が流れ弾に当たって戦死してしまった。
これらの苦境にあって国民大会議は神聖帝国との和睦を決議し、神聖帝国との和平交渉の結果、王国は形式的には独立を維持しつつ、神聖帝国の支配下に収まることとなった。
歴代の神聖皇帝はアーウェン王国の国民大会議によって国王に選出され、アーウェン王を兼ねるという一種の同君連合を組む形となっている。ただし、アーウェンの法は女王を認めていない為、現皇帝ウルスラは国王代理という称号を得ている。
そのような事情により、アーウェン王国には未だに国民大会議があり、アーウェン士族たちが特権を保持し、神聖帝国の大軍を四度破ったアーウェン槍騎兵も健在なのである。
アーウェン槍騎兵は帝国の支配下に入った後は帝国の戦争に援軍として参加し、数多くの戦いで活躍してきた。
アーウェン士族たちは神聖帝国を四度破り、戦場において無敵を誇る槍騎兵に絶対の自信と誇りを持っており、その精強は帝国全土のみならず大陸中に知れ渡っていた。
バレッドール将軍が警戒するのは当然と言えるだろう。
また、中央に置かれた二〇〇〇の歩兵はガナトス男爵の直属軍であり、ブレド男爵とハヴィナ貴族の混成軍である右翼、主に傭兵から成る左翼に比べ、精強と見られた。
「敵方は中央に比べ、両翼が弱いように見える。特に右翼は戦列が薄く、アルブレヒト・ブレドとルーデンブルクの混成軍だ」
サーザンエンド騎兵連隊を指揮するハヴィナ貴族のクリストフ・アイゲル卿が指摘した。
ガナトス男爵軍の右翼を構成しているのは兄シュテファンを殺し、ガナトス男爵に降ったアルブレヒト・ブレドの兵とハヴィナ貴族のルーデンブルク家の兵が中心となっているようであった。
ルーデンブルク家はハヴィナ貴族の中でも名家として知られていたが、ブレド男爵に内通し、その後も男爵に協力してきた一族である。
二年前の聖オットーの戦いでルーデンブルク准将は静観を決め込み、辺境伯軍の敗北を招いた。
レオポルドの他、バレッドール将軍、レッケンバルム准将、エリー・エティー少佐らはこの時の戦いに参加しており、味方の裏切りによって一敗地に塗れるという屈辱を味わっている。
「成る程。これは二年前の屈辱を晴らす好機というわけですね」
ムールド伯軍左翼の指揮官であるレッケンバルム准将の副官エリー・エティー少佐が冷笑を浮かべて言った。
その隣に立つレッケンバルム准将はいつも通りの無表情で黙って地図に示された両軍の配置を眺めていた。
「やはり、両翼を前進させるべきだろう」
「中央は砲兵と協力して防御に徹し、アーウェン槍騎兵の突撃に備えるべきではないか」
「ドレイク連隊は敵別働隊に備えると同時に攻勢局面において投入しては如何か」
議論が重ねられ、ムールド伯軍の方針としては両翼を前進させ、敵中央に比べて弱体な両翼を破り、然る後に敵中央を挟撃すると決定された。
アルトゥール・フェルゲンハイム将軍とレッケンバルム准将はそれぞれの指揮下にある歩兵連隊と騎兵連隊に関する指揮権を与えられた。
幕僚たちが去った後、軍議の最中、ほとんど口を開かなかったレオポルドは両軍の配置が記された地図を不機嫌そうに睨みつけていた。
「我が軍の方針に不満でもあるのですか」
「いや、そういうわけではないが」
気配もなく傍らに立ったソフィーネの問いを否定したが、彼は渋い表情を崩そうとはしなかった。
「じゃあ、不満ではなく不安があるのですか」
「まぁ、そうかもしれないな」
レオポルドは顎を擦りながら唸る。
「アーウェン槍騎兵の突撃は強力とはいえ、突撃が来ると分かっていて、防御に徹していれば易々と破られることはないだろう。しかし、サーザンエンド・フュージリア連隊は我が軍の中では精鋭だが突破を防げるか。時間の問題で濠も馬防柵も設けられていないのだ。フュージリア連隊の戦列が破られれば我が軍は破滅だ」
「じゃあ、どうするっていうんですか。他の手はあるんですか」
「両翼から兵を引き抜くことはできないだろう。逆に敵の両翼に押し込まれてしまうと、こちらが包囲されてしまいかねないからな」
そう言ってレオポルドは嘆息して、ソフィーネに視線を向けた。
「作戦はこれが適当だと思う。あとは各位の奮起に期待するしかないだろう」
「じゃあ、私は神にも祈っておくとしますよ。たまには修道女らしいことをしてもよいでしょう」
ソフィーネは呆れ顔で皮肉めいたことを言った。