一三六
「それでは、採決を行います。賛成の諸卿は御起立願います」
伯領議会議長老ライテンベルガー卿の言葉に議場に居並ぶ議員たちが一斉に立ち上がる。帝国人議員は一人残らず全員が起立し、ムールド人議員団も殆ど全員が立ち上がっていた。着席したままの議員はいないが、いくつかの議席が空だった。立ち上がったムールド人議員の中には半月前に開かれた議会でハヴィナへの遠征に強く反対論を唱えたマスカルの姿もあった。
「賛成多数。よって、本案は可決致します」
議長の宣言に「異議なし」との声が響く。
レオポルドは満足げに頷き、レッケンバルム卿へと視線を向ける。
同じく満足げな卿の隣には壮年の貴族や長老が多数を占める議会の中では一際目立つ金髪碧眼の美しい少女が席に着いていた。彼女の大きな目はやや赤らんでいる。それもそうだろう。先程、涙を流したばかりなのだ。
ウォーゼンフィールド男爵家の令嬢エリーザベトは父である男爵がブレド男爵と同盟を結んだとき、ブレド男爵と婚姻するはずであった。ブレド男爵はこれによってサーザンエンド辺境伯フェルゲンハイム家の姻族であるウォーゼンフィールド男爵家と縁戚になり、辺境伯の椅子に近付けるはずであった。
しかし、エリーザベトの母である男爵夫人をはじめとする家中の保守派はこれに強く反対し、彼女自身も自身の倍以上も歳の離れたブレド男爵との結婚を嫌がった。
とはいえ、男爵家を掌握しているのは同盟を主導した独立派で、優柔不断な当主は独立派の傀儡と化しており、婚姻を破棄するのは困難であった。
そこで保守派はエリーザベト嬢を居城のクライセンバート城から脱出させ、当時、ムールドに独立した勢力を築いていたレオポルドの下に亡命させた。
以来、エリーザベト嬢はムールドの酷暑と厳しい環境に文句を言いつつも他に居場所もなくレオポルドに保護されていた。フェルゲンハイム家の血を引く彼女はレオポルドにとっては重要な客人であったが、同時に十分に注意して扱わなければならない存在でもあった。
以前、レオポルドがムールドの統治権の正統性を得る為に帝都へと赴いていた時、彼女とアルトゥールの婚姻が試みられたことがあった。辺境伯家の庶子であるロバート・フェルゲンハイムの令孫アルトゥールは彼女のとの婚姻によって辺境伯位を継承する正統性を得ることができるだろう。それはレオポルドの辺境伯位獲得の大きな障害となり得る。
この婚姻を画策したのはレッケンバルム卿とのことであった。当時、ムールド伯に就任し、主導権を握りつつあったレオポルドへの牽制だったのだろう。
その時はレオポルドが慌てて帰国し、強硬に反対して婚姻を潰すことに成功している。
レオポルドはそのエリーザベト嬢をムールド諸部族を説得する為に使うことにした。
ブレド男爵家の分家であるカウラント家が武装蜂起し、北部のガナトス男爵軍が南下を始め、サーザンエンド中部が混乱の最中にあるのを利用してウォーゼンフィールド男爵家の保守派に武装蜂起させたのだ。
元より保守派はカウラント家と同じようにレッケンバルム卿と通じており、卿はレオポルド軍がサーザンエンド中部に侵攻した際に彼らを内応させようと画策していたから下準備は整っていた。
レオポルドがレッケンバルム卿を通じて保守派に武装蜂起を命じると彼らは独立派の家臣やその軍勢がブレド男爵軍と合同してハヴィナに駐屯している隙を突いてクライセンバート城を占拠して立て籠もった。
とはいえ、家中において彼らは少数派であり、このままでは独立派の軍勢に城を取り囲まれ、壊滅は必至であろう。
そこで保守派はレオポルドに救援を求め、彼はそれに応える。
「我々に援けを求める者たちを見殺しにすることは騎士と戦士の名誉に大いなる傷をつけるであろうっ。援けを求めるその手を振り払うような者は戦士などではないっ。臆病な犬畜生と同類ではないかっ」
レッケンバルム卿にそう言われたムールド人議員たちは苦い顔で黙り込む。
ムールド人は名誉と義理を重んじる誇り高き民である。援けを求める声を無視することは彼らの正義が許さない。ムールド諸部族が余所者であるレオポルドたちと同盟してまでレイナルに強い拒否反応を示したのはレイナルがそういった名誉や義理を軽視する残虐な行為に手を染めていたからだ。
しかも、レオポルドは窮地に追い込まれたムールド諸部族と同盟を結んで、レイナルと戦っている。レオポルドがムールド人の救援に応えたのにムールド諸部族は同じような状況で苦境に陥り、援けを求める者を見捨てるというのか。
そして、エリーザベトの出番である。彼女は両親と忠実な家臣たちを助ける為に戦って欲しいと涙ながらに訴え、レッケンバルム卿が更に畳み掛ける。
「諸君は家族や仲間を想う少女の願いに応えずして誇り高き戦士と云えるのかっ。その正義と名誉は傷付かないのかっ。それでも誇り高き砂漠の戦士として胸を張っていられるのかっ。か弱い少女を助けず、見捨てるような輩が名誉ある戦士を自称するなど片腹痛いというものであろうっ」
卿が吐き捨てるように怒鳴るとムールド人議員たちは誇りを傷つけられたように顔を歪ませた。
彼らとて、それくらいの説得で名誉の為に戦おうと踊らされるほど単純ではない。
ウォーゼンフィールド男爵家保守派の武装蜂起とエリーザベト嬢の救援の訴えがレオポルドとレッケンバルム卿の画策であることくらい理解できる。
しかし、これだけ戦う理由を並べられて、それでも開戦を拒否すれば、苦境に陥った者の援けを拒み、か弱い少女の切なる願いにすら耳を傾けない臆病者との謗りを逃れられないだろう。臆病者、卑怯者と指差されることをムールド人は最も忌み嫌う。誇り高き砂漠の戦士という民族の誇りを傷付けるわけにはいかないのだ。
また、族長、長老たちとしては戦いの理由として、レオポルドへの忠誠、交易での利益よりもムールドを頼る者の救援に、家族を助けたいという少女の願いに応えるという方が部族の民を説得しやすい。
そうして、ムールド人議員たちは反対する道を塞がれることとなった。一部の議員は採決の前に席を離れ、残った者たちは内心は渋々ながらも誇り高き戦士として救援に応えようと開戦に賛成した。
議会の賛同を得た布告はレオポルドが署名を行い、公に発表される。
ムールド伯領議会が入る四角い議事堂は会堂に面している。
平らな石敷きの床に円筒型の列柱に支えられたドーム型の屋根を持つ会堂はムールド市民が強い日差しを避けてちょっとした集会を行ったり、商売や取引をしたりする場所として建設された。議会での討議や決議の内容が発表されるのも会堂においてである。
伯領議会の内容を発表するのは議会書記の職務であった。
「神の恩寵による神聖なる皇帝陛下よりムールドの地の正当なる統治者いと尊きムールド伯レオポルド・ウェンシュタイン・フェルゲンハイム・クロス閣下は、以下の通り布告され、宣言され、命じられた次第である」
回りくどい文句に続き、ムールド伯の布告が読み上げられる。
「神の恩寵による神聖なる皇帝陛下よりムールドの地の正当なる統治者たるムールド伯レオポルドより、当該布告を目にする者、耳にする者全てに心より挨拶を送る。余はいとも親愛なる人民と諸部族の代表たるムールド伯領議会、いとも親愛なる正当なる政府の長官たち、その他余の領土のいとも親愛なる名高き人々の意見と賛同により、かつ余の確実なる学識、完全なる権威、伯としての権限、正義と名誉により、手ずから署名せし布告により、告げ、宣言し、命ずるものである。余は以下を望み、以下が余の意に適うものである。余はサーザンエンドの地に平和と安寧と安定を取り戻し、全ての人民の生命と財産を護る為に、彼の地にて行われている残虐にして不当な侵略行為を強く非難し、悪辣なる侵略者に対し宣戦す。その為に、余は直ちに遅滞なく強力な軍を編成し、然るべき準備を行い、然るべき装備を整え、然るべき物資、資金を供出し、その他必要な措置を講ずることを命ず」
議会書記の読み上げる議会の討議の内容を聞く為に集まっていたファディ市民たちは非常に長たらしく格式ばった布告を耳にして一様に不安や不満を表情に浮かべた。怒鳴ったり騒いだりする者はいなかったが口々に不安や恐れ、不平不満を囁き合う。
これはファディ市民だけでなくムールド人全体の反応といえるだろう。
彼らは長引く戦闘に辟易としているのだ。現実に彼らの親兄弟、父親や夫や息子は戦場へと駆り出され、少なくない数の者が帰ってこなかったのである。それが再び繰り返されるのだ。
しかも、次の戦場はムールドでもなければ、ムールドの一部と見做せなくもないハルガニでもない。古くはテイバリ人の土地、一〇〇年以上前からサーザンエンド辺境伯という帝国人諸侯が治める地で、ムールド人にとっては外国のようなものである。何故、そのような自分たちとは関係のない土地での戦いで若者たちが死ななければならないのか。
その上、多くのムールド人は新たに施行された徴兵制度や新たに導入された各種の税、ここ最近の食糧価格の高騰に不満を抱いていた。
レオポルドはキスカを通じてムールド人の間に広がる厭戦気分や不平不満の満ちた空気を敏感に察知していた。これらの不平不満は暴動や騒乱、或いは反乱などに発展しかねない重大事であると彼は考えていたのだ。
そこで彼はハヴィナ遠征の準備は全て将軍たちに任せ、ムールドの有力者たちと会合を設け、連絡を取り合い、配下の部族の不満を抑えるよう指示をしていった。
ムールド諸部族の族長や長老は部族内において絶対的な権威を有しているわけではないが、年長者を尊び、部族や一族の団結を重視する慣わしもあり、その発言力は決して小さいものではない。部族の多くの者は族長や長老に説得されればある程度の不満は抑え、それに従うだろう。
あとはそれでも反抗的な過激な連中の動きに目を光らせておけば良い。
ムールドには治安維持機関としてムールド竜騎兵隊が編成されており、首都ファディの他、五つの管区ごとに中隊が置かれ、不穏な人の集まりや武器弾薬の動きなどを監視していた。その他、キスカの息のかかったネルサイ族の者やそれに協力する者が各地に散らばって情報収集に当たっている。
治安政策を所管する内務長官はレオポルドに近い立場を明確にしているエティー卿が務め、竜騎兵隊を統括する治安総代官はキスカの親類であるアリ・トゥルガン・レオコル、ファディの警察代官はその弟ハルベク・トゥルガン・レオコルと、治安関係の役職は尽くレオポルドやキスカに近い者たちが占めており、最近のキスカの役割にはそれらの諸機関の連絡調整も含まれていた。
そういったわけで、ムールド情勢は甚だ不安定であり、レオポルドと彼が率いる軍勢が出払った後のファディ及びムールドの治安維持、情報収集は極めて重要である。
「というわけで、君にはファディに残ってもらう」
レオポルドが告げるとキスカはあからさまに不満そうな顔をして彼を睨んだ。
前述の如く、キスカは治安維持機関の連絡調整とムールド伯領内の情報収集活動の要とも言うべき立場にある。情報は全てファディに集められ、内務長官や治安総代官、警察代官と共有され、必要であれば治安機関を動かし、不穏分子に対処しなければならない。その役割は特に信頼ができ、ムールドの言語や風土、情勢に堪能である必要がある。キスカが適任であることは言うまでもないだろう。
その彼女をハヴィナ遠征軍に帯同させてはムールド情勢や治安状況の変化に適切に対応できない可能性がある。
という理由もさることながら、レオポルドとしては出産してからまだ日が浅い彼女を生後半年にも満たぬルートヴィヒから引き離すことが母子双方に好ましくないと考えていたからでもある。
キスカとしても自身の職務と我が子の為という理由は理解できるのだろう。
とはいえ、離れている間のレオポルドの身の安全が心配であり、それよりも何よりも再び離れるのが嫌なのであった。
「近衛大隊は引き続きサライに率いてもらう。護衛もまたソフィーネに頼もうと思う。嫌な顔して嫌味をぐちぐち言われそうだが、断られはしないだろう」
レオポルドの言葉にキスカは渋々といった様子で不承不承ながら頷いた。