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サーザンエンド辺境伯戦記  作者: 雑草生産者
第九章 ハヴィナへ
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一三四

「ムールドの地は嫌いではないが、この暑さばかりはさすがに耐え難いというものだ」

 執務室で書類の山に目を通しながらレオポルドはむっつりと不機嫌そうな顔で呻いた。

 ムールドには長く厳しい夏が訪れていた。

 レオポルドが南部で夏を過ごすのは今年が三度目であるが、未だに彼は灼熱とも言われるムールドの酷暑に慣れていないようであった。

 彼が生まれ育った帝都は比較的冷涼な気候で、真夏でも気温はムールドの初夏にも及ばない程度にまでしか上がらないのである。

 その上、レオポルドが常に身に纏っている西方風の衣服はお世辞にも暑さに適しているとは言い難い。ムールドの酷暑を快適に過ごすのは極めて難しいのである。

 日増しに日差しが強くなり、暑さが増していく中、レオポルドは机の上に堆く積まれた書類に片っ端から目を通し、キスカやレンターケットをはじめとする側近たちに指示を与え、報告を聞き、たまに外に出ては貴族や長官、有力者たちと会食や会談をして、帰宅するという日々を過ごしている。

 直射日光に晒された屋外では勿論のこと、日差しのない屋内であっても、ムールドの厳しい暑さから逃れることは難しく、レオポルドはいつもじっとりと滲み出す汗の不快さに顔を顰めていた。

「こう暑くては堪らん。シャツが汗で貼り付いて気色が悪い」

 レオポルドはぶつくさと文句を言いながら書類にサインを書き込んでいく。

 彼が暑さに文句を言い出すのは日常茶飯事で、近くの机で同じように書類仕事をするキスカは何も言わず、開け放たれた扉の向こう側にある官房事務室に机を並べるレンターケットや書記たちも何も言わなかった。

「というわけで、私は汗を流してくる」

 そう言ってレオポルドが席を立つのも既に日課と化していた。

 酷暑に見舞われたムールドを治めることになったレオポルドの日々の楽しみの一つは屋敷の一角に設けられた浴室で汗を流すことであった。

 帝国には古来から入浴の習慣があり、貴族や大商人の邸宅には浴室が設けられていたし、都市には大規模な浴場があり、ある程度の町には必ず風呂屋が店を構えていた。

 レオポルドの帝都の屋敷にもかなりこじんまりとした浴室があったし、レオポルドはたまに市街の浴場に足を運んだりもしたもので、毎日のように入浴を欠かさなかった。

 しかし、ムールドには入浴の風習がなく、汗や垢を布で拭い、香油などを肌に塗ることが一般的で、オアシスなどで水浴びすることも稀であった。水は貴重なものであったし、ムールド人は湿気を病の原因として忌避する文化でもあったからだ。

 これがレオポルドには長らく不満であったが、屋敷に浴室が出来たことによってその不満は解消された。

 設計は西方人の建築家ヨハネス・ピウス・バジルカ博士によるものだが、実際に建設したのは浴室なんてものを見たこともないムールド人の大工で、なんとなく違和感のある造りではあったが、入浴に支障はなく、レオポルドはそれなりに自分の浴室を気に入っていた。

「レオポルド様。恐れながら」

 執務室を出ようとするレオポルドにキスカが声を掛ける。いつもの如く無表情ではあるが、どことなく冷たい怒気のようなものを含んでいる。

「御入浴なさるのは宜しいのですが、またですか」

 彼女の呆れたような怒ったような声音にレオポルドは一瞬固まった後、ゆっくりと口を開いた。

「……入浴は一日に一度しか許されないというものではない」

「毎日四回も五回も入浴なさるのは帝国では普通のことなのですか」

 言うまでもなく、帝国において入浴の文化があるとはいえ、一日に五回は入り過ぎというものだ。

 しかし、最近のレオポルドの入浴の頻度は極めて多かった。起床直後、昼食前、夕食前、就寝前の入浴を彼は欠かさず、それに加え、外出後にも頻繁に入浴したし、暑い日は執務中に浴室に入ることも多々あって、多い日は一日に六回も浴室に入り浸っている有様であった。

 その為、浴室係は常に火を焚いて、湯が冷めないようにしなければならなかった。燃料の薪も水もムールドではそれほど安いものではなかったから大変な贅沢である。

 とはいえ、彼の贅沢といえばそれくらいのもので、諸侯に準ずる貴族の贅沢としてはささやかなものであると言える。ムールド伯領の財務はそれほど潤沢というわけではないが、毎日湯を焚き続ける金も捻出できないほど苦しいというわけではない。

 キスカも費用的なことを問題としているわけではなかった。

「レオポルド様が一日に何度も浴室に足を運ばれては事務が滞ってしまいます。机の上の書類の山が目に入りませんか」

 彼女が指差す先には文字通りの書類の山が築かれていた。全てレオポルドへの報告、陳情、法律や命令の決裁文書などなど。いずれも目を通さなければならない書類の数々である。レオポルドは重要なものは勿論のこと街角の噂話や他の大陸の風聞まで多種多様な情報を収集することを好んでいた為、その量は特に多く、レオポルドが執務室で仕事をするようになってから、その山が低くなることはなく、逆に徐々にその山は高さを増すばかりであった。

 毎日毎日、自分の机の上に積まれた書類の山が徐々に高くなっていることに気付かないほどレオポルドも間抜けではない。その山の標高を低くする為には、ただひたすら淡々と書類を処理していくしかないことも理解している。一日に何度も風呂に入っている程、暇ではないのだ。

「入浴は健康に良いのだ。体の内に溜まる老廃物を汗と共に排出する効果がある。一日の終わり、就寝前の入浴は百薬に勝る。身を清め、身体の悪しき瘴気を除き、体温と体内の水分を適切な状態に戻し、心身のバランスを保つ」

 レオポルドは言い訳がましく、以前読んだ西方医術書に記されていた一節を諳んじる。

「しかし、あまりに多くの入浴は体に障るとも書かれていましたな」

 扉を開け放った隣室からレンターケットの冷静な声が飛んでくる。キスカが無言でレオポルドを睨む。

 レオポルドは黙り込んで腰を椅子の上に戻し、書類の山から一枚を摘まみ取った。

「ある東方大陸の富裕な商人が語るところによると、東方大陸を更に東へ東へと行った先には黄金の島があり、その地の家々の壁や柱、屋根や扉は全て黄金でできており云々」

「ある南洋諸島の原住民の長が語るところによると、南洋諸島を更に南へ南へと行った先には南の大陸があり、その地には空を飛ぶ蜥蜴や見上げる程に巨大な獣が生息し云々」

 各地の風聞を書き留めた報告書には絵空事としか思えないような内容が書き連ねてあった。何でも報告しろとは言ったが、このような空想めいた内容は鼻で笑って読み飛ばすしかない。

 極東の黄金島や空飛ぶ蜥蜴や山のような獣の話ほどではないが、この書類の山を構成する報告書の多くは似たり寄ったりな空想や憶測、下らない噂や誹謗中傷で、有益となる情報は僅かしかないだろう。有象無象とも言える雑多な情報の中から有益な情報を見つけ出すのは藁の山に紛れた針を探すようなもので多大な労力を要する。

 レオポルドは南部のジャト族が税を誤魔化しているというダルアンニ族からの密告を読んだ後、ダルアンニ族が密輸に手を染めているというジャト族からの密告を読みながら情報を収集する組織だけでなく、情報を分析・整理する組織の必要性を痛感する。

「キスカ。ジャト族とダルアンニ族は仲が悪いのか」

「ええ。もう五代前から険悪の仲です」

「こいつらは俺を使ってお互いを貶めようとしているのか。馬鹿馬鹿しい連中だ」

「一応、調査致しましょうか」

 レオポルドが目を通す書類は全てキスカとレンターケットの目が通されている。レオポルドの話から彼が何を読んだのか彼女は理解したのだろう。

「どうせ根拠のない誹謗中傷の類だろう。こいつらの下らん喧嘩に付き合ってやる必要はない」

 レオポルドは忌々しげに吐き捨てるように言った。

 その後も暫くの間、似たり寄ったりな内容の報告書を消化していくものの時間が経つにつれ、根拠のない妄想や下らない誹謗中傷の類を読んで苛立つ度に彼の入浴欲求は高まっていく。

 レオポルドは無言で席を立つ。

「レオポルド様」

 キスカが咎めるように言った。

「キスカ。風呂に入りたいときに入れないというのは俺にとって耐え難い苦痛なのだ」

 レオポルドはキスカの説得を試みる。

 彼の私的な行動を制限できるのは彼女とフィオリアくらいなのだ。ここ最近、フィオリアはキスカの仕事中のルートヴィヒの世話や妊娠中のアイラの介抱で忙しく、レオポルドが一日中風呂に入っていても文句を言わないだろう。

 となれば、彼の入浴を妨げる者はキスカただ一人なのである。

「そうだ。キスカ。君も風呂に入ってみてはどうだ」

 その提案にキスカはピクリと体を震わせた。

「ムールド人に入浴の習慣がないことは存じておる。しかし、何事も経験である。一度経験してみてもよいではないか」

 レオポルドが更に言葉を重ねると、キスカは一瞬だけ彼に視線を向けてから、すぐに手許の書類に視線を落とす。

「私は西方式の入浴の作法というものを知りません」

「作法など、そのような堅苦しいものはないぞ。本場の帝国式の浴場には垢すりやマッサージなどがあったが、まぁ、湯を浴びて、身体を清め、湯に浸かるだけでよい」

「レオポルド様にとっては至極簡単なことかもしれませんが、私にとっては経験のないことですから……」

 そう言ってから彼女はそっと視線をレオポルドに向ける。

「もしも、その、帝国式の所作を教えて頂ければ、吝かではありませんが……」

 彼女の言わんとしているところが理解できないレオポルドではない。

「そうか。じゃあ、ちょっと……」

 隣室でレンターケットが苦笑していることに気付きつつもレオポルドは席を立ち、キスカを促す。彼女は大人しく席を離れ、彼に付いて行った。


 レオポルドの屋敷の浴室は全体的には白いタイル敷きで、赤や青、黄など色とりどりのタイルによって花や鳥などが描かれており、三方の壁の高い位置に換気用の四角い窓が設けられていた。

 大人が五人は入れそうな大きな四角い浴槽が一つあり、石造りの獅子の口から別棟で温められた湯が吐き出されている。近いうちに蒸し風呂も増設したいとレオポルドは考えていたが、今のところはまだない。

 白いタイルに囲まれた浴室にエキゾチックな褐色の肌は良く映え、彼女の高く張った胸、細い腰、長い手足をより一層際立たせているように見えた。

 夫とはいえ、裸体を異性の視線に晒されたキスカは恥じ入るように背を向け、湯を湛える浴槽から立ち昇る湯気を見つめる。

 レオポルドはキスカの美しい四肢に目を奪われつつも入浴の習慣がないムールドに生まれ育った彼女に入浴の作法を教えた。

 同じ西方においても諸国や地方、都市や町村、家庭によって入浴の慣習は様々であるが、レオポルドが慣れ親しむ帝都式の入浴の作法としては、まず、オリーブ油と海藻灰を原料とした石鹸で体や頭髪を清め、湯を浴びて汚れを洗い流してから湯に浸かるというものであった。富裕な市民は湯に浸かりながら飲食を楽しむこともある。

 また、風呂屋には垢すりやマッサージ、娼婦がいてその手のサービスを受けられる所も少なくない。その為、度々教会から入浴が非難されることがあり、禁令が発せられることもあった。

 入浴中の飲食、垢すりやマッサージはさておき、とりあえず、石鹸で体や頭髪を洗う。当然のことながらキスカは石鹸の使い方も分からない為、レオポルドが彼女の身体を洗ってやることにした。

 その身体は身体能力に優れた彼女らしく、触れるとしなやかな筋肉を備えていることが分かる。素肌には細かな古い傷跡がいくらかあったものの、女性的な柔らかさと滑らかさも併せ持っていた。

 キスカは羞恥に身を赤く染め、慣れないくすぐったさに身悶えし、レオポルドの手が体の繊細な部分に触れる度にひっそりと艶っぽい吐息を漏らしながらも概ね大人しく全身を洗われていた。

 その後、レオポルドは自分の身体をキスカのときよりも幾分粗っぽく洗う。

「レオポルド様。あの、申し訳ありません……」

「ん。何がだ」

「本来であれば、私がレオポルド様のお体を清めるはずが、逆に、その、して頂き……」

 レオポルドの傍で所在なさげに座り込んだキスカの言葉にレオポルドは軽く笑いながら応える。

「あぁ、そんなことを気にする必要はない」

 貴族育ちでありながら臣下に傅かれることを好まず、自らの手で仕事をすることを厭わぬ彼にとっては大した労ではないし、愛する人の肌に触れることは喜びですらあった。

 それにキスカが入浴を好むようになれば、彼も入浴し易くなるというものだ。

 体を清めた二人は一緒に湯の中に身を入れる。最初、キスカは少し躊躇っていたが、レオポルドに手を引かれると大人しく従って、彼の隣に腰を下ろした。

「こうやって汗を流し、熱い湯で体を温めることは健康に良いだけでなく、心身に溜まった疲労を回復し、精神を休め、心を鎮める効果があるという。俺はよく一人で湯に浸かりながら考え事をしていてな。こうやってゆっくりと湯に浸かっていると考えもよくまとまるような気がするんだ」

 キスカは隣に座るレオポルドを見つめながら大人しくその話を聞いていた。

「だから、入浴は俺にとって極めて大事な時間なのだ。この時間がなければ仕事に身が入らないし、心が苛々としてしまう。願わくば、君もこの習慣を気に入ってくれれば嬉しいのだが」

 レオポルドが視線を向けると彼女はその視線を避けるように俯き、水面を見つめる。両手で湯を掬うと自分の顔面に思い切りよく浴びせてからレオポルドの視線に応える。

「まだ少し慣れませんが、こうしてレオポルド様と一緒に入浴できるのは、嬉しい、です」

 キスカの言葉に彼は嬉しそうに微笑む。

「じゃあ、また一緒に入ろうか」

 彼女は顔の朱に染めて再び視線を水面に戻したが、しっかりと頷いて見せた。

「そうだ。今度はルートヴィヒとも一緒に入ろう。幼い頃から入浴に慣れさせるのもいいかもしれないな。親子三人で入浴というのも悪くないだろう」

 レオポルドの提案に彼女は黙って頷く。

 そうして、二人が入浴を楽しんでいると浴室の扉の向こうから声がかかった。

「閣下。火急の知らせです」

「そこで述べよ」

 レオポルドと二人きりの時とは打って変わった冷たく刺々しい声でキスカが言うと伝令は躊躇したように一瞬黙った後、報告を始めた。

「ブレド男爵家の分家で、レッケンバルム卿と連絡を取り合っていたカウラント家が武装蜂起したとのことです。これに対し、北部のガナトス男爵がカウラント家支援を名目に軍を南下させたとの情報が入っております」

 カウラント家はシュテファン・ブレド男爵に反発する分家で、男爵からの分離を企んでいた。男爵が負傷し、病に臥せったのは彼らにとっては大きな好機で、カウラント家と繋がりを持つレッケンバルム卿はこの機に北上し、カウラント家やウォーゼンフィールド男爵家の保守派を味方に付けて、ハヴィナを奪還すべしと主張していた。

 しかしながら、レオポルドは自軍の再編成と遠征に必要な物資の調達に時間を要すると考え、早期の軍事行動には否定的であった。

 彼の意向はレッケンバルム卿からカウラント家にも伝わっているはずであった。彼らも支援の見込みがない中で軽はずみな行動はしないものとレオポルドは考えていた。

 しかし、その予測は間違っていたらしい。

「カウラント家はレッケンバルム卿を通じてレオポルド様に支援を求めると同時にガナトス男爵とも通じていたのでしょう」

 キスカの予想にレオポルドも頷く。そうでなければ、こんなにも都合よくカウラント家の武装蜂起とガナトス男爵の南下が同時に行われるものか。計画的な共同作戦と見るべきだろう。

「連中は私の腰が重いと見て、ガナトス男爵の援けを得てブレド男爵から独立を図ろうというつもりか。ガナトス男爵としてもブレド男爵の力が弱まり、中部を侵すには好機だろう」

「しかし、ガナトス男爵の動きをドルベルン男爵は黙って座視しているのでしょうか」

 ドルベルン男爵は北部をアーウェン人系のガナトス男爵と二分する帝国人貴族である。サーザンエンド辺境伯位を巡る争いが起きてから両者は対立関係にあり、長く睨み合いを続けていた。

「四男爵は私がムールド伯に就任した時、一時的に休戦を結んだと聞く。その休戦の間にガナトス・ドルベルン両男爵の間で何らかの話を付けたのかもしれんな」

 レオポルドは顎を擦りながら考え込む。

「どちらにせよ。これからはあまりゆっくりと風呂に入っている暇もなさそうだ」

 彼の忌々しげな言葉にキスカもしっかりと頷いた。

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