一四
レオポルドたちは昼前に訪れたばかりの剣の修道院をその日の夕方には発していた。当初は修道院に一泊し、翌朝出発という予定だったのだが例のソフィーネとウィッカードルク伯の一悶着があった為、予定を大幅に繰り上げたのだ。
ソフィーネの突きが余程堪えたのか、泡を噴いたまま起き上がらないウィッカードルク伯が目覚める前に、さっさと離れて面倒事を回避しようというわけだ。
当初、彼女は修道院を離れることに難色を示していた。それもそのはず。孤児として拾われた彼女にとって修道院は生まれ育った家なのである。しかも、今回の件は唐突で、彼女自身には何の落ち度もないのだから。
とはいえ、世の中、道理が通らないことは多々あるものである。レオポルドが修道院長代理にしたような説得をするとソフィーネは意外と素直に納得した。
レオポルドは些か拍子抜けしながら荷物を纏めて、旅支度をするように指示し、ついでながら、女性用の宿舎にいるキスカとフィオリアを呼んでもらい、全員が集合したところで逃げるように修道院を後にした次第である。
「ウィッカードルク伯ね。噂は聞いたことがあるわ」
道中、ソフィーネを連れて行くことになった経緯を聞いたフィオリアが不機嫌そうな顔で言った。
「騎士道物語にハマって騎士だか剣士だかを気取って、そこら中で迷惑を振りまいてるボンクラでしょ。騎士道を気取ってるくせに都合の悪いこととか気に入らないことがあると、すぐに父親の権威に頼って、裁判だ何だって騒ぎ出すって話じゃない。確か白鳥騎士団とか恥ずかしい名前の団体を作って、正義の味方ごっこみたいなこともしてなかったかしら。あぁ、それから、領地で町娘とか村娘に手を出してるらしいわ。まったく、本当に糞みたいな野郎ねっ」
「随分と詳しいな」
フィオリアの言葉にレオポルドは感心して言った。とはいえ、最後の方の汚い言葉使いは感心できないが。
「キレニア様に聞いたの」
「キレニア様って、レイクフューラー辺境伯か」
キレニアはフィオリアが一時就職していたレイクフューラー辺境伯の名前である。辺境伯ともなれば貴族の中でも非常に高貴な身分である。一介の女中と気軽に話をするようには思えない。
「あの人、お喋り好きなの。部屋の掃除とか身支度の手伝いとかしてたらよく話しかけてくるのよ。で、その話のほとんどが本当か嘘かよくわからないゴシップとかスキャンダルとか、あとは他人の悪口と陰口なの。性格悪いよね」
フィオリアはそう言って、面白そうに苦笑する。
今まで雲の上の人みたいに感じていた高位の貴族の意外と人間らしい一面を知って、レオポルドは妙な気持ちになった。
「あの」
レオポルドとフィオリアの会話が一段落したのを見計らってか背後から声をかけられた。低く落ち着いているがどこか尖った感じの声音だ。
二人は歩きながら振り返る。最後尾を歩いていた白色の長い衣服に身を包み、深くフードを被ったソフィーネがレオポルドを見つめていた。眉間に皺を寄せ渋い顔をしている。鋭く尖った視線がレオポルドに向けられている。
「私はこれからどうなるのですか。というか、貴方は私をどうするつもりなのですか」
そう言われて、レオポルドは黙ってフィオリアを見る。何故かフィオリアも険しい顔をしていた。
「それは私も聞きたいところね」
フィオリアからも質問を浴びせられる。
「こんな綺麗な修道女さんを連れてきて、どうするつもりなの」
レオポルドはどういうわけだか責められているような気がして視線を前に向ける。前方ではキスカが黙って歩いていた。こちらの会話や様子は耳に入っているはずだが、ずっと前を向いて黙々と歩いていて気にする素振りもない。本心では気にしているのかもしれないが口を挟む気はないようだ。
「いや、別に、どうもこうも。まぁ、これはアレだ。人助けみたいなものだ」
誰かに助けを求めるのは諦めて、レオポルドはソフィーネとフィオリアを交互に見やりながら答える。
「目の前に窮地に陥っている人がいれば助けるのは当たり前というものだろう」
レオポルドの言葉にフィオリアとソフィーネは非常に似通った胡乱な目でレオポルドを見つめる。まるで信じていないのは言うまでもない。
「というのは建前だ」
二人に無言の圧力をかけられて、レオポルドはすぐに直前の発言を撤回し、本来の理由を述べた。
つまり、これから向かうサーザンエンドは情勢が不安定であり、治安も良いとは思えない環境で、いつ山賊やら盗賊やらに襲われるか全くわからない状況である。その地を行くのに戦うことができる人間はいくらいても多過ぎるということはない。
「あなたは神に仕え信仰に生きようとしていた私に人を殺せというのですか」
「まぁ、そうなるのかもしれないな。いや、そう言っているようなものだな」
ソフィーネの刺々しい視線を受けながらレオポルドは認めた。
「とはいえ、君が剣を向けるのは教会の教えに従わぬ神の敵ばかりだ。ある聖人の言葉にあるだろう。神は殺人を犯した者を許さないが、異教徒を百人殺した者を英雄として祝福するってな」
見事なまでに自分勝手な理論である。同じ人の命に別々の価値があるとでもいうのだろうか。おそらくそうなのであろう。ある聖典に準ずる扱いを受けている古典には神に仕える英雄が延々と異教徒を殺し、異教徒の町を焼き、異教徒の国を滅ぼすような話がある。それを教会は賛美し、教会での説教で引用されることまであるのだ。教会が異教徒の命をどう思っているかなど言わずともわかるというものだろう。
「それを言ったのは聖人ではありません」
レオポルドの言葉に対して、ソフィーネは苦い顔で否定した。
「あれ。そうだっけか」
「かつての教会騎士団総長オルベンデールの言葉です。彼は福者にはされていますが、聖人ではありません」
「そうだったか。まぁ、どちらににせよ、教会の見解としては異教徒はいくら殺しても問題ないってことに間違いはあるまい。ならば、君が異教徒相手に剣を振るうことに何の問題がある」
ソフィーネは険しい顔をして彼を睨みつける。黙り込んだ彼女に向かって、レオポルドは更に言葉を重ねた。
「それに、君とて修道院にそれほど未練があるわけではないだろう」
「何故、そんなことがあなたにわかるのですか」
「修道院に残りたいという気持ちがあれば、俺の説得にもっと強く反抗してもよかったはずだ。本当に生まれ育った家から離れたくないって奴はあんな説得くらいじゃ納得しないもんだ。それこそ、泣くわ喚くわ殴るわ蹴るわで、もう」
「レオっ。何言ってるのっ」
レオポルドの言葉の途中でフィオリアが口を挟む。顔を真っ赤にして、レオポルドに掴みかかる。
「痛っ。痛いから、フィオっ」
義姉の攻撃に悲鳴を上げる辺境伯候補を見つめながらソフィーネは呆れ顔で溜息を吐く。
確かに彼の言うとおり、自分にはそれほど修道院に強い未練はなかった。
昔ならば違ったかもしれないが、少なくとも今の修道院はあまり彼女にとって居心地の良い場所ではなかった。
そもそも、拾われてそこにいただけで、別に自分から進んで修道院に入ったわけでもないし、それほど、神に仕え信仰に生きたいと真面目に思っているわけでもない。
それでも、修道院にいたのは野垂れ死ぬか悪魔の子として焼かれるしか道がなかった自分を拾ってくれた修道院長に対する恩義と生まれてこの方ずっといるという愛着からだった。
前の修道院長が死に、帝都から新しい修道院長が来て以来、悪魔色の髪を持つ彼女の立場は非常に苦しいものになっていった。
その上、新しい修道院長は剣術を磨くことによって信仰を極めるという剣の修道院の方向すらあまりよく思っていないようであった。確かに修道院としては特徴的過ぎて異端と思われてもしょうがないような気もする。
しかし、これはれっきとした聖人に因んだものであり、長い歴史を持っている。新参の余所者修道院長が偉そうに言うなと彼女は考えていたのだが、どうにも修道院長代理をはじめ、修道院のお偉方は修道院長にヘイコラ頭を下げるばかりで、彼女の不満は鬱積していた。
やたらと偉そうに絡んできた何某とかいう伯に本気の突きを繰り出してしまったのも、そういった鬱積した気持ちで苛々していたからかもしれない。
修道院を去ることにあまり未練を感じなかったのも修道院における自分の境遇と修道院のお偉方の情けない状態のせいだろう。
何の問題もなく、修道院から離れられたのは逆に好都合だったような気もしてくる。古い因習とよくわからない教義に縛られて髪の色なんかで差別されるような狭い社会から逃れられて自分はもう自由なのだ。そう思うと晴れ晴れした心地すら感じた。
とりあえずは自分を自由にしてくれたこの連中に付いていっても悪くはないような気がした。奴隷商人の類には見えないし、いざとなれば、とっとと逃げてしまえばいいだけの話だ。
ソフィーネを古い因習が支配する修道院から引き摺り出してくれたレオポルドはというと、未だにフィオリアに引っかかれたり叩かれたりして悲鳴を上げていた。
「やめっ、やめろっ。フィオっ。何だって、そんな機嫌が悪いんだっ」
「別にっ。なんでもないっ」
フィオリアはそう叫ぶと、ぷいっとそっぽを向いてしまった。
レオポルドは「わけがわからない」とぶつぶつ呟きながら頭を掻く。その様子をキスカは無表情でソフィーネは渋い顔で見守っていた。
剣の修道院での一悶着の後、レオポルド一行は元来た道を戻っていく。帝国南部を南北に貫く街道に復帰し、そのまま南へ向かう。サーザンエンドはもはや目と鼻の先である。
何日か歩くとアーウェン最南端の町ミカヴィラに入った。到着したのは夕刻近くで、いつものように適当に安そうな、でも、ノミやらダニやらがわさわさ出てこないような宿を探して部屋を一つ借りた。
と、そこでソフィーネがゴネた。
「こ、この部屋で寝るのですかっ」
「まぁ、そうね。お金の節約よ」
フィオリアがあっけらかんと言い放つ。一行の資金管理は彼女の担当なのである。彼女曰く、レオポルドは役に立たないものを買いそうだし、キスカは騙されて金を取られそうだということだった。そう言われた二人は微妙な顔で黙り込んでいた。
その資金管理者が宿の選択権も有しており、最終的に宿を決定し、部屋をなんとか安い値段で借りる交渉までの全てはフィオリアの裁量に任されている。その間、他の連中はボンヤリ荷物の番をしているだけである。
そんなわけで今夜も無事に選ばれた部屋にソフィーネはご不満らしい。
確かに部屋は狭いし、日当たりも悪いし、床には小さな穴が開いていて、下の物置部屋の様子を見ることができるくらいである。冬であれば寒さで耐え切れないだろう。
しかし、部屋は一晩借りるだけなのだ。我慢できないことはない。毛布は薄っぺらいが、どうやら、ノミやダニは付いていないみたいだし、第一、この辺りは気候が温暖なので、夜とはいえ屋内ならば薄い毛布一枚でもなんとかなる。
「私は部屋に文句を言っているわけじゃありませんっ」
ソフィーネはそう言って、今回泊まる部屋についてアレコレ説明していたフィオリアの言葉を押しとどめた。
「問題はその人も一緒の部屋で寝ることですっ」
そう言ってソフィーネは微かに赤い顔でレオポルドを指差す。
「年頃の男女が同室で四人も寝るなんてっ。おかしいですっ」
ソフィーネの主張に三人はあまりピンとこない顔で首を傾げる。
「貴方たち、ずっと一緒の部屋で泊まってきたんですかっ」
ソフィーネの問いに三人は当然といった顔で頷く。
どうやら、ここでは少数派らしい彼女は頭を抑える。
言われてみると、確かに年頃の男女が四人も同室で泊まるのは少々アレかもしれないとレオポルドは考えた。旅の始まりの頃は少々気恥ずかしさがあったりもしたものだが、長い旅の間にそんなものは吹っ飛んでしまっていた。
「着替えとかはどうしていたのですかっ」
「あたしらが着替えるときはレオは外に出てたし、レオが着替えるときはあたしらが外に出てた。気を付けることはそれくらいね。後は特に問題もなく」
「問題ですっ。こんなこと神がお許しにならないっ」
ソフィーネは真っ赤な色の険しい顔で言い放つ。
彼女は男女が同室にいることや会話すら制限する厳しい掟のある修道院で生活してきたのだ。男女が同室で寝るということに一般人以上に忌避感が強いのだろう。
「その神様が部屋代出してくれるっていうんなら、レオを別の部屋に寝かせてもいいけど。お金は節約しないといけないしね」
しかし、フィオリアはあっけらかんと言い放ってしまう。全く相手にしていない。
「それにレオは手を出してくるようなことないしね。紳士だから」
安全な男認定をされたレオポルドは少々微妙な顔をしたが黙っていた。
「そんなに心配ならソフィーはそっちの端に寝て、レオは反対側に寝ることにしましょ。レオはあたしが監視しててあげるから。もしも、怪しげな行動を起こしたら斬ってもいいわ」
そこまで言われては引き下がらないわけにもいかないようで、ソフィーネは渋々と承知した。
夕食の後、剣を抱き締めながら壁にくっつくくらい部屋の端に寝るソフィーネを見て、レオポルドは今夜は朝まで寝床から起き上がらないと心に決めた。便所に起きたところを勘違いされて斬り殺されては堪ったものではない。
なんだか散々な扱いをされているなと思いながらレオポルドは横になって、薄っぺらい毛布をひっかぶる。毎度の如く、明日起きたら虫刺されだらけじゃありませんようにと祈った。
レオポルドが斬られることもなく、無事に翌朝を迎えると一行は早々に町を出た。
すると、今まで何も言わずにひたすら黙って歩いていたキスカがくるりと振り向いて、後に続く三人を見つめた。
何事かと訝しむ三人に向かってキスカはいつものように無表情で告げた。
「ようこそ。サーザンエンドへ」
どうやら一行はいつの間にかサーザンエンドに入っていたらしい。
キスカから話を聞くに一般的には先程出た町よりも南の方はサーザンエンドと見做されているらしい。
というのも、アーウェン地方とサーザンエンド地方の境目はアヤフヤで明確に定まっているわけではないのだという。目印も何もない荒野に正確な境界線を敷こうというのが元より無理な話だ。
とりあえず、その辺りの町や村の帰属先がどちらかが決まっていればそれほど大きな問題はないに違いない。領主たちが最も気にかけるのは税金の入り先であって、金を生み出すことのない何もない土地にはそれほど興味もないのだ。農業が盛んな地域であれば農地の問題で一エーカーの土地を巡って訴訟沙汰を繰り広げるところだろうが、生憎とこの辺りは水不足の為、耕作には不適で少しばかりの雑草を食む家畜を放牧させる程度に利用できるだけである。
また、サーザンエンド北部にはアーウェン人領主も多く、いわば、ちょっと遠い所に住んでいる親戚みたいなもので、それほど厳格に境界を決めないでおいても、後で何か問題が起きても話し合いで解決できるのだろう。その問題といっても、境界辺りで犯罪者がうろついてるとか、家畜の群れが境界を通り越してるとかそのくらい。いくら揉めても大したことはない。
「いい加減な話ね」
「土地に対しての執着が少ないのだろう。農業をやらん民というものはそういうものだ」
呆れるフィオリアに対して、レオポルドの方はある程度事情を理解していた。以前読んだ本に農耕民族と放牧民族の思考の違いについて云々が書いてあったのだ。
「で、これからどうするの」
フィオリアが尋ねるとレオポルドは少し考え込んでから口を開く。
「まずは首都であるハヴィナに向かうべきだな」
ハヴィナにいるフェルゲンハイム家の生き残りや遺臣たちに正当なるフェルゲンハイム家の後継者としての立場を認めされることができればレオポルドのサーザンエンド辺境伯即位という野望は極めて実現性の高いものとなる。
また、今まで全く知名度も名声も地盤も軍事力も経済力もない状態から少しはマシな状態になるだろう。
問題は無事にフェルゲンハイム家の後継者と認められるかどうかだが、今まで後継者として適当な者がいなくて困っていたのだから問答無用で門前払いされることはないだろう。
何にせよ、いよいよ、ここからが本番なのである。
レオポルドは感慨深い気持ちで、南の地平線を眺め、傍らのキスカを見やった。突然の彼女の訪問から既に三ヶ月近くが経っている。思えば長い旅をして遠くまできたものだ。
キスカもレオポルドを見返す。二人は無表情で見つめ合って僅かに頷き合う。互いに今までもそれほど会話を交わしたわけでもないが二人の間には確実に見えざる絆のようなものがあった。というのも、この中で目的が一致しているのは二人だけなのだから。
レオポルドをサーザンエンドに連れて行き、辺境伯にするという目的は二人の目的であり、フィオリアとソフィーネはそれに付いてきているだけなのだ。
二人の目的は成就に向かって、僅かずつだが確実に実現に向けて進んでいる。二人はそう思いながら、願いながら、サーザンエンドの地を踏みしめた。