表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
サーザンエンド辺境伯戦記  作者: 雑草生産者
第九章 ハヴィナへ
139/249

一三三

 軍高官たちの意見によれば、レオポルド軍の再編成が完了するまでに、あと一月程度を要するとのことであった。

 それよりも重要な問題はサーザンエンド遠征に要する物資、特に糧秣の確保であった。

 サーザンエンド遠征ともなればレオポルド軍をほぼ総動員する必要があるだろう。組織力も武装も練度も不十分だったムールド諸部族やハルガニ地方の部族との戦いと比べ、サーザンエンドでの戦いは厳しいものとなるに違いない。

 また、ムールド伯領の後背地であるハルガニ地方を平定したことにより、軍勢の大半を動員できる環境が整っていた。

 動員兵力は一万に迫る勢いとなろう。ともなれば、消費する物資の量も莫大なものとなることは言うまでもない。

 レオポルド軍の兵站を担当するルゲイラ兵站総監によればおよそ半年分の食糧として少なくとも小麦一三二〇〇ブッシェル、羊六〇〇〇頭、麦酒一八〇万パイント、水は三〇〇万パイントもの量が必要になるとのことであった。

 この大量の物資を如何にして調達すべきかムールド伯領政府及びレオポルドの官房では検討が重ねられた。

 最も簡単で手軽な方法は現地調達である。つまり、行軍途中の集落から買い上げたり、強制的に徴発したりして調達すれば良いだけの話である。とはいえ、将来的に統治する予定の地の住民感情を悪化させるような強引な現地調達は避けたいところであり、そもそも、それほど豊かとは言い難い地勢のサーザンエンド中部からそれだけの物資を調達できるか疑わしい。

 万全を期す為にはできる限り大量の物資を携えて行軍することだが、資金的な問題はともかくとして、果たしてそれなりの量の物資をムールド中から掻き集めることができるのだろうか。

「市場からそれだけの小麦を買い上げれば小麦価格は今以上に高騰する可能性が非常に高いと思われます」

 そう言ったのはテオドール・ゲオルグ・ヴァンリッヒ男爵であった。男爵はレオポルドの伯父であるバイデン伯の妹婿であり、財務に通じた手腕を買われてレオポルドの下でサーザンエンド銀行総裁代理兼本店支配人を務めている。

 レオポルドの執務室にはヴァンリッヒ男爵の他、キスカ、官房長レンターケット、バレッドール将軍、ルゲイラ兵站総監といったいつもの面々、それに内務長官のレオナルド・エティー卿、農政及び食糧問題を担う農業顧問官カスパル・フォーザンハルト博士が顔を揃えていた。

「備蓄していた小麦を放出したはずだが、小麦の価格はどうなっている」

 伯領政府は飢饉や敵の侵略などに備えていくらかの小麦の備蓄を進めていたが、レオポルドは市場の小麦価格の高騰を受けて、この小麦を放出するよう指示を出していた。

 食糧価格、特に主食であるパンの原料となる小麦の価格高騰は住民に大きな不満を抱かせる危険な要因としてレオポルドは特に注視していた。

 よく分からない帝国貴族の若造に支配される状況には我慢できる人々も、明日の食事も満足にできなくなりそうな状況には我慢できないものだ。統治者の交代よりもパンの価格が倍に上がる方が直接的に人々の生活に大きな影響を与える。

「御指示通り備蓄の小麦五〇〇〇ブッシェルを市場に放出しましたが、市場価格は一時的に低下したのみで、現在は再び価格が上昇しつつあります」

 レオポルドの問いにフォーザンハルト博士が渋い顔で答える。

「やはり、小麦の買い占めや売り渋りが発生しているのか」

「ファディ市内の主要な小麦商の在庫を調査致しましたが、どこも小麦が不足気味のようで、買い占めや売り渋りと思しき行為は見られませんでした」

 短い産休を終え、レオポルドの副官にして近衛大隊長兼特別監察官に復帰したキスカがいつもどおりの無表情で報告する。彼女は出産前後も情報調査部門の責任者であり続け、忠実なムールド人たちを使った情報網を使ってムールド各地の情報収集を続けていた。今回の小麦の在庫調査も彼女の手の者が行ったのである。

「ということは、小麦はまだ不足しているということか」

 レオポルドは腕を組んで渋い顔で考え込む。

「このところ、価格が高騰しているのは小麦だけではないようです。野菜、布、酒、家畜、家畜用飼料、燃料の薪なども軒並み値が上がっています」

「いやはや、何でもかんでも値段が上がっては困ってしまいますな」

 ヴァンリッヒ男爵が報告するとレンターケットがお手上げとばかりに両手を上げながら言った。

「なんだって、いきなり、なんでもかんでも色んな物の値段が上がっているんだ」

 困り果てたレオポルドが呻くように言ったところ、ヴァンリッヒ男爵が険しい表情のまま口を開いた。

「確信があるわけではありませんが、推論ならば思い当たる要因があります。おそらく、物価の上昇は品不足ではなく、貨幣価値の低下が要因ではないかと思われます」

「貨幣価値の低下だと。金貨や銀貨の切り下げをしたわけでもないのに、貨幣の価値が下がったというのか」

 エティー卿が険しい表情で言い、その場にいる人々は首を傾げたり、顔を見合わせたりしていた。

「ムールドで流通する貨幣の量が大幅に増加していることが貨幣価値の低下を招いているのではないかと思われます。商品が大量にあれば安くなるように貨幣においても同じことが言えます」

 市場に貨幣が増えれば、その価値が下がり、その貨幣によって購入できる商品の値が相対的に上昇するのは道理というものである。

「流通貨幣が増加した要因は、それまで貨幣の流通量が非常に少なかったムールドに閣下が大量の帝国貨幣を持ち込み、また、軍需物資の購入を手形によって為された為ではないかと思われます」

 レオポルドはレイクフューラー辺境伯からマスケット銃や大砲、弾薬といった物資のみならず少なくない額の現金も受け取っており、その多くをムールドに持ち込み、建設工事の支払い、物資の購入代金、将兵や官吏の給与の支払いに充てていた。

 それまで貨幣経済が未発達で物々交換も多く行われていたムールドは急速に貨幣社会に組み込まれ、人々が使用する貨幣、市場に流通する貨幣が急速に増大した結果、貨幣価値が下がり、物価が上昇した。というのがヴァンリッヒ男爵の推測であった。

 また、およそ一〇〇年前に新大陸が発見され、大量の銀が西方大陸に輸入されるようになって以来、大陸全土で物価上昇が続いており、レオポルドの登場によってムールドも大陸経済に取り込まれつつあり、その影響を受けるようになっているとも言えるだろう。

 流通する貨幣の量と物価の関係性については帝国本土においても研究が始まったばかりで、全てを理解することは難しかったが、とりあえず、物価上昇の犯人は判明した。他ならぬレオポルド自身だったのである。

「では、どうすれば物価上昇を抑制することができるのか」

 レオポルドがこのような問いを発したのは当然というものだろう。

 しかし、疑問に思うのは簡単だが、その対策は容易ではない。

 単純に考えれば、流通貨幣が増加したせいで物価が上昇したのだから、流通する貨幣を少なくすればよい。つまり、緊縮財政を行えば物価上昇は抑制できるだろう。

 或いは通貨の価値を上げれば良い。金貨や銀貨に含有される金銀の純度を上げて、通貨を切り上げれば通貨価値が上がる。

 しかしながら、現状のムールド伯領において沸き立つ好景気は都市開発や道路、水道の整備といった公共事業によるところが大である。

 この状況で物価抑制の為に公共工事を縮小し、財政支出を縮減してはムールド経済を急速に冷え込ませるおそれがある。また、ムールドの都市開発、インフラ整備にも遅延が生じてしまう。

 一方、貨幣の切り上げには多額の資金と準備、時間を要し、そもそも、ムールド伯領政府は独自の貨幣を発行していない為、この手段を取ることは難しい。

「恐れながら、昨今の物価上昇を無理に抑制することは却ってムールドの経済に悪影響を及ぼす可能性があります。ある程度の物価上昇は許容せねばならないでしょう」

 ヴァンリッヒ男爵はこのように主張したが、すぐにエティー卿が異を唱える。

「他の商品はともかく、小麦価格の高騰は放置するのは危険ではないか。小麦の値上がりは異常である。このままの調子で高騰が続けば多くの民がパンを買うことができなくなりかねない。そうなれば、民は政府の統治に不満を抱き、治安の悪化や暴動を招きかねん」

 内務長官の発言は至極尤もであった。レオポルドも同様の懸念を抱いている。故に物価の抑制を思案しているのだ。

 ヴァンリッヒ男爵は少し考えてから口を開いた。

「物価が高騰しても、人々が手にする所得が増加すれば人々の生活に与える影響は限定的かと思われます」

 確かにパンの価格が倍になっても所得が倍になれば生活に与える影響はほとんどないだろう。

「では、人々の所得は物価の上昇と同程度に上昇しているのか」

 レオポルドの問いに男爵が淀みなく答える。サーザンエンド銀行は人々の概ねの所得についても調査を行っているらしい。

「商人や職人は販売する商品の価格が上昇している為、比例的に所得も上昇しているようです。遊牧民や農民も市場で売る羊毛や肉類、野菜などの価格が上昇しており、同様と思われます。問題は単純労働者、使用人、兵士、官吏などの給与生活者でしょう」

「いや、小麦価格に比べ、他の商品の価格の上昇は大きくはない。となれば、所得の上昇よりも小麦価格の上昇が上回っているのではないか」

 またしてもエティー卿が鋭い指摘を行う。

「小麦価格の高騰も一時的なもので、時期が過ぎればある程度安定すると思われますが」

「それがいつになるか分からないのでは市民の不満解消にはならん。物価全体の上昇抑制は難しいかもしれんが、小麦価格だけは抑制策を検討すべきであろう」

 内務長官の提案に他の面々も賛意を示し、その抑制策は極めて単純なものが採用された。

 小麦価格の上昇は貨幣価値が下がったからだが、特に小麦が高騰しているのは、実際に小麦が供給不足になっていることが拍車をかけているに違いない。元々食糧事情が良くないムールドで大量の小麦を徴収した為、例年以上に小麦不足が深刻化し、更にはこの先も戦いが断続的に続くと予想されていることから、小麦不足が懸念されているのだろう。

 この不足感を解消する為、イスカンリア地方や帝国本土から輸入する小麦の量を更に増やすこととした。そうして輸入した小麦を市場に安く大量に供給すれば当然価格は下落するだろう。

 金がかかり手間の多い方策だが、仕方ないだろう。

 こういった問題を解消する為、レオポルドは以前から食糧増産を計っていた。

 帝都農学校で農学の教鞭を振るっていた農業顧問官カスパル・フォーザンハルト博士の指導により最新の農業技術を取り入れ、水路建設や土地改良、帝国産の品種との掛け合わせを含めた品種改良などを進めており、それらの施策は今年から本格的に導入されていた。

「ナツメヤシの生産は順調ですな。まぁ、これは昔からオアシス周辺で栽培されていたので当然なのですけれども。少しばかり改良点を加えてみましたので、収量がどれほど増えるかですな。小麦の生産も今のところは問題はありません。西部の高地で行っている葡萄の生産も期待できるでしょう」

 フォーザンハルト博士は農作物の生産状況について説明した。

「最新の農業技術を導入すれば小麦の収量は昨年より二割か三割の増収が期待できます。しかしながら、それでも領内の民を養うに十分な量とは言い難いですな」

 それに加え軍事行動を行えばより多くの糧秣が必要となる。

「ムールド領内のみで食糧を自給自足することは難しいか」

「肉や果実は十分な供給量がありますが、小麦は難しいでしょうな」

 土地が痩せ、雨量が少なく、乾燥した地勢であるムールドで十分な量の食糧を手にすることは極めて難しいのだ。故にムールドは広大な面積に比べ人口が希薄で、人口の増加が抑制されており、ムールドの民は羊毛や毛織物、岩塩などを外の地域に持ち出して小麦などと交換するという交易を営んできたのである。ムールド人が交易の民となったのは生活上の必要からであったと言えるだろう。

 とにもかくにも食糧、特に小麦の確保、小麦価格の安定化は極めて重要で難しく、サーザンエンド中部への遠征はそれらの諸問題が解消され、遠征用の食糧、物資が十分に備蓄され、軍の再編成が済んでから行うべきであるとレオポルドとその側近たちは考えていた。


 側近たちとの会議の後、レオポルドはアイラの部屋に足を運ぶ。

 レオポルドの新しい屋敷には当然のことながら、多くの部屋があり、第二夫人と見做されているアイラにも個室が当てられていた。

「また戦が近いのですか」

 寝台に横たわったアイラは物悲しげな面持ちでレオポルドを見つめた。

「戦が起きないとは言えないが、それほど近い時期に出陣しなければならないというわけではないだろう」

 レオポルドは安心させるように言ったが、彼女の顔色は晴れない。

 フィオリアが言うにはアイラはつわりが酷いせいか、精神的に不安定で、かなり憔悴しているらしい。妊娠や出産に多くの苦労や悩みがあることは勿論だが、その苦労と悩みには個人差というものがある。

 キスカはさほど苦労せずに妊娠と出産を終えたらしいのだが、アイラの方はそうはいかないらしい。そもそも、妊婦は精神的に不安定になりがちなものだ。それが初産ともなれば尚のことである。

 クロス家の家政を担うフィオリアは妊婦の不安を拭う為に配慮や工夫をしていたが、最も効果的なのはレオポルドが傍にいることらしい。

 その為、彼はほぼ毎日のようにアイラの部屋に顔を出し、とりとめもない会話をしたりしていた。

「次の戦にも旦那様ご自身が出陣されるおつもりですか」

「状況次第ではそうなるだろうな」

 次の戦場となるのはサーザンエンド辺境伯領の首都たるハヴィナを含むサーザンエンド中部であり、敵の軍勢を破り、敵が支配する領地を占領すれば良いという戦いではないのだ。辺境伯宮廷のハヴィナ貴族や中小領主や領民、都市や町、村を服従させ、サーザンエンド辺境伯の地位を獲得する道筋を付けなければならない。それには軍事指揮能力よりも政治力や交渉力などが必要とされる。政治的、戦略的な判断を行う機会も少なくないに違いない。となればレオポルドが軍を率いて行く方が良いと考えられる。

 レオポルドの答えにアイラは表情を曇らせる。その表情から彼女の言いたいことはよく理解できた。

 しかし、彼女は何も言わず、レオポルドの手をぎゅっと握った。

「まぁ、俺が戦場に行くかどうかはさておき、暫くはここに留まるだろう。戦の準備に時間がかかりそうだし、サーザンエンド中部の情勢はもう少しの間は大きな動きを見せないだろう」

 レオポルドは再び安心させるように言い、アイラは黙って頷いた。


 しかし、準備万端に整ってから始まる戦争というものは極めて少ない。

 しばしば、戦いの多くは準備不足の状況で、当事者の思惑とは無関係に始まり、予想外の結末を迎えるものである。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ