一三一
レオポルド率いる軍勢がファディに入ったのは春も終わりが近づき、ムールドの暑い夏の足音が聞こえ始める頃であった。
ファディ市民は軍勢を歓声で迎え、家々の窓からは色とりどりの花びらが降り注ぎ、兵士の家族は戦地へ赴いて無事に帰ってきた息子や夫、兄弟を見つけるやいなや歓喜のあまり抱き付き、肩を組み、口付けを交わす。士官や下士官はなんとか隊列を維持しようと努めたが、レオポルドは無駄な努力を止めさせた。
兵士と家族、市民は散々に乱れて、ほとんど隊列を組んでいなかったが、どうにかファディの広場まで行進した。
広場に到着したレオポルドは兵士たちに向き合って声を張り上げた。
「兵士諸君っ。此度の戦いは酷く辛く厳しいものであった。しかしながら、神の恩寵により、また、将軍たちの優れた指揮により、そして、何よりも諸君の比類なき勇気と忠誠によって、ラジアの要塞は打ち破られ、残忍な敵の犬どもは追い散らされ、愚かなラジア市民たちは我々の前にひれ伏した。勝利の女神は我々に微笑んだのであるっ」
レオポルドの言葉に兵士たちは武器を掲げてファディ中に響き渡るような歓声を上げる。
「万歳っ。ムールド伯レオポルド閣下万歳っ」
歓声が落ち着いたところで、レオポルドは言葉を続ける。
「私としては諸君の忠誠と貢献に報いなければならない。まず、諸君全員、そして、戦死した仲間全員にも褒賞として金貨一〇レミューを与える。一人残らず全員にである」
その言葉に兵士たちが歓声が響き渡る。
金貨一〇レミューは銀貨でいえば五〇〇セリンに値する。月給三〇セリンの一兵卒にとっては一年分の給与をかなり上回る大金である。
後日、下士官以上にはより高額の褒賞が与えられた。下士官二〇レミュー。中隊長未満の士官三〇レミュー。中隊長五〇レミュー。少佐六〇レミュー。中佐七五レミュー。大佐一〇〇レミューである。これは一個連隊五年分の給与に相当する大盤振る舞いである。
「また、諸君の多大なる献身を鑑み、除隊を望む者についてはこれを許可する」
この言葉にも兵士たちは一斉に沸き立った。兵役はムールドの全ての男子に課された義務ではあるが、家族と離れ離れにならなければならないし、戦地に赴けば危険があるのは勿論のこと、その他にも多くの制約があり、望んで兵役に就く者は極めて少ない。
しかも、今ムールドはレオポルドによる積極的な財政政策によって建設・土木工事が相次ぎ、いくつかの工場が建設され稼働を始めており、帝国本土への輸出も盛んに行われている。つまり、巷に仕事は溢れており、再就職には難儀しないに違いない。となれば、除隊が許可されて喜ぶ兵は少なくないだろう。
勿論、レオポルドも何の考えもなく兵の除隊を許可したわけではない。
ムールド伯領では年の初めから徴兵制に基づいた徴兵検査が全土で行われ、数千人もの新兵が徴収されており、新たにムールド伯軍に加わる予定が立っているのだ。
長い者で二年近く、短い者でも一年以上の軍務に就き、ラジア攻防戦の苛酷な戦場を潜り抜けて疲労困憊の極地にある現在の兵員を新鮮な兵士と入れ替えようという計画なのである。
元々予定されている入れ替えを恩賞に仕立て上げた姑息な手とも言えるだろう。
ちなみに、褒賞金の財源は例の如くである。
レオポルドは右手を高く掲げて、多額の褒賞金と除隊に喜ぶ兵達を静めた後、厳粛な面持ちで言葉を連ねた。
「しかしながら、この戦いで多くの仲間の命が失われたのも事実である。彼らは忠勇を示し、私や諸君の盾となって天に召されたのである。この場でもって彼らの犠牲に対し、祈りを捧げようではないか」
兵士と再会できなかった遺族が顔を覆い、啜り泣く。歓喜に包まれていた兵士たちも顔色を曇らせ、神妙な顔になって亡き戦友の為に祈った。
「また、一命は取り留めたが、深い傷を負った者、恐ろしい病を患った者もいる。私は彼らを見捨てることはしない。戦死した兵士の遺された家族や傷付いた兵士とその家族が満足に生活できる補償を行い、子供たちが十分な教育を受けられるようにすることを約束しよう」
レオポルドの言葉に広場に集まった多くの兵士、市民から称賛の声が上がる。
傷病兵や遺族は言うまでもなく社会的困窮に陥り易く、これを放置して不満を持たせるのは防ぎたいとレオポルドは考えていた。ムールドの統治は圧倒的に少数である帝国人が大多数のムールド人を支配する脆弱な体制であり、民衆の不満を溜めないような配慮が欠かせないのである。
とはいえ、これらの措置に少なくない額の出費を要すことは言うまでもない。褒賞金も莫大な金額になるし、新兵の徴収、訓練、編成、配備にも少なくない額の出費をしている。
現状、ムールド伯領の財政はレイクフューラー辺境伯からの援助と辺境伯を保証人とした借金によって賄われているが、その額はこの二年で莫大な金額に膨れ上がっていた。
レイクフューラー辺境伯としては、これだけの大金をつぎ込んだのだから、それ相応の成果がなければ困るし、そろそろ、借金も限界に近付きつつあった。
それでもレオポルドが出費を惜しまないのは、帝国でも屈指の富裕な大貴族であるレイクフューラー辺境伯にはまだ財政的な余力があることを知っているからでもあったが、新しい財源の目途が立っているからでもあった。
レオポルドがラジア攻略に専念している間、ムールド伯領は放置されていたわけではない。枢密院議長レッケンバルム卿や伯領総監シュレーダー卿らを中心とした伯領政府はレオポルドと緊密に連絡を取り合いながら、ムールド伯領を統治していた。統治機構や法律の整備、新兵の徴収と訓練、道路や水道の建設、ファディの再開発、ムールド西部高地での農地開発など、やらねばならないことは多岐にわたり、彼らはそれらの政策を着々と推進していた。
産業振興はその中でも最も重要な施策である。
レオポルドはムールドに産業を振興させ、帝国本土や東方大陸、南洋へと売ることができる商品を生産しようと考えていた。それらの商品を生産、販売することによってムールド人の雇用を増やし、彼らは豊かになるし、伯領政府には諸税の増収が見込まれる。
その中で彼が目を付けたのは絨毯、陶器、硝子。それに鉱物である。
絨毯はムールドの数少ない特産品と言ってもよい品で、ムールドの婦人ならば誰でも精緻な模様を織り込んだ絨毯を生産することができる。これらを買い上げて帝国本土に輸出するのだ。ムールド絨毯生産協同組合が生産計画の企画やムールドの各家庭からの買い上げと帝国本土への輸出を担う。精緻な異国風の模様の絨毯は高級品として主に帝都の上流階級に売り込み、模様を簡単にしたものや小さいものは中流階級に供給する。
陶器は帝国本土において旺盛な需要があり、東洋大陸産のものは高級品として人気が高く、帝国本土でも一部の地域で生産され、高い利益を上げている。レオポルドは陶器工場をムールドに建設して、東洋風の、しかし、東洋大陸産よりも安い品を市場に供給しようと目論んでいた。
硝子は南部一帯で消費される他、南洋諸島でも需要がある。
陶器と硝子は帝国本土から招聘した技術者の指導の下、既に工場が建設されており、試作品の生産を開始していた。
そして、レオポルドが手っ取り早く大きな利益を上げることを期待しているのが鉱山開発であった。
彼はムールド全土をほぼ掌握した頃、既に鉱脈を探る山師を何人も呼び寄せており、彼らはレオポルドがラジア包囲にかかりきりになっている間にいくつか銀山や銅山、鉄鉱山、炭鉱などの鉱脈を発見していた。
これらの採掘や開発する権利、つまり、採掘権はフューラー地方の商会に売却されることとなった。採掘権を手にしたのがレイクフューラー辺境伯の息のかかったフューラー商人なのは辺境伯からの支援に対する対価であることは言うまでもない。フューラー商人の利益は辺境伯の利益にも繋がるのだ。
また、この商会はレイクフューラー辺境伯からの要請によりレオポルドに多額の融資を行っていたから、この商会が選ばれるのは当然というものであった。
売却額は総額でおよそ二〇〇〇万セリン。売却益のうち、一〇〇分の一が鉱脈を発見した山師への報酬として支払われ、ムールド伯たるレオポルドに一〇分の一、鉱山を有する地域の部族に合わせて五分の一が配当された。その結果、ムールド伯領政府の収入となるのは一三八〇万セリン程である。
また、鉱山生産額の五分の一は鉱山税として伯領政府に納税される為、伯領政府の恒久的な財源の一つとなるだろう。
レオポルドが当てにしていた財源はこの鉱山採掘権の売却益である。そのうち一〇〇〇万セリン余はそのまま融資の返済に充てられ、レオポルドの抱える莫大な債務の一部が軽減されることとなったが、残る三八〇万セリンがラジア攻略に参加した将兵への褒賞金や傷病兵、遺族への補償に充てることができたのだ。
レオポルドの思惑が何であれ、伯領政府の財政状況が何であれ、傷病兵や遺族、ファディ市民にとって歓迎すべき事柄であることには違いない。レオポルドは市民や兵たちの歓呼の声を背中に受けながら、自身の屋敷に向かった。
ファディ中央の広場に面した彼の屋敷は外装の装飾や庭園、一部の部屋の工事がまだ終わっていなかったが、居住することが可能なほど完成しており、キスカやアイラ、フィオリアは既に入居していた
屋敷に入ったレオポルドをキスカが出迎えた。以前顔を合わせたときよりも美しい銀色の髪がだいぶ伸び、なんとなく少し痩せているように見えた。彼女の腕には精微な刺繍を施された色とりどりの布に包まれた赤子の姿があった。
「レオポルド様。おかえりなさいませ。御無事の御帰りと戦勝をお祝い致します」
そう言ってキスカは頭を下げ、背後に控える数人の女中も揃って頭を下げる。
「あ、あぁ……」
レオポルドはぎこちなく頷きながら、キスカの抱える赤子を見つめる。そのあどけない顔立ちの子は穏やかな寝息を立てていた。
「中々利発そうな面持ちだな。涼しげな目元が君に似ている気がする。髪も君と同じ銀色だ」
レオポルドがその子の頬を優しく撫でながら言うとキスカが答える。
「でも、瞳の色はレオポルド様と同じ美しい赤色です。鼻の形も貴方に似ています」
「そうかそうか」
初めて我が子のを目にするレオポルドの目尻と口端はでれっと下がり、顔全体がだらしなく緩みきっていた。
レオポルドの長男であるルートヴィヒ・ネルサイ・クロスは母親の腕の中で、父親に頬を突かれても眠りから覚めることなく、穏やかな寝息を立て続けた。
妊娠七ヶ月になるというアイラはもうほとんど一日中寝台の上で寝ている生活を送っているようで、フィオリアがその世話を焼いていた。彼女は妊娠していたキスカの面倒も見ていたのである。
「まぁ、あんたの子供ってことは、私の甥姪みたいなもんだからね。それくらいの世話は焼いてあげるわ」
レオポルドが感謝を述べるとフィオリアは不機嫌そうな顔でぶっきらぼうに言い放った。
また、彼女はレオポルドのファディの新しい屋敷で既に女中頭のような立場にあって、新たに雇い入れた女中たちを指導してフェルゲンハイム・クロス家の家政を取り仕切っていた。
「奥向きのことは全てフィオリア様に任せておけばよいと思われます。キスカ様もアイラ様もムールド人ですから、帝国風の事柄には疎いですし、身重でもありましたからね。屋敷の工事や家具や調度品の調達、普段の家事に、両夫人の出産の手配まで全てフィオリア様が取り仕切って何の問題もありませんでしたからな」
屋敷に頻繁に出入りしているレンターケットはこのように言った。
「そうか。フィオには世話になりっ放しだな」
屋敷の書斎でレンターケットと面会したレオポルドが呟く。
二人がいる書斎の机や椅子、書棚や戸棚、敷物、壁に架けられた絵画までフィオリアの手配によるもので、屋敷中がほとんど同じような有様であった。
「ところで、私の留守中はどうだった。特に手紙が来なかったということは何もなかったということか」
「その通りです。特段、何もありませんでしたな。レッケンバルム卿はレオポルド様の代理として滞りなく政務を取り仕切っておられましたし、アルトゥール卿は気まぐれにムールド領内をぶらぶらと馬を駆けさせるくらいで毎日暇そうにしておりますな」
「辺境伯は何か言ってきてはいないか」
「鉱山採掘権を手に入れたことで少しばかり機嫌を良くされているくらいでしょう」
「そうか」
レオポルドはそう言って椅子に背を預け、顎を擦る。
「それでは本題だが、サーザンエンド、ハヴィナの情勢は如何なっている」
彼にとっての留守中の最大の関心事はムールドより北のサーザンエンドの情勢であった。ブレド男爵とウォーゼンフィールド男爵の軍勢はレオポルドに敗れ壊滅的な打撃を受けたはずだが、彼らが予想外の早さで軍勢を再編し、レオポルド留守中のムールドに侵攻する可能性をレオポルドは最も恐れていたのだ。
「サーザンエンドの情勢については私よりもレッケンバルム卿の方が詳しいでしょうが、私の方に入っている情報としてはブレド男爵は先の戦いで戦傷を負い、その傷が悪化して寝込んでいるという噂です。その為、軍勢の再編は成らず、ブレド男爵の家来とウォーゼンフィールド家の家来が主導権争いをしているとか」
元々ブレド男爵とウォーゼンフィールド男爵はそれほど良い関係ではなく、狡猾なブレド男爵がハヴィナ教会の仲介を得て、気弱かつ優柔不断なウォーゼンフィールド男爵と同盟を結んでいたのだ。ウォーゼンフィールド男爵家の中には異民族異教徒のブレド男爵と結ぶことに対する反発は少なくないようで、ブレド男爵の敗北と病によってその不満が噴出しているのかもしれない。
「それは良い話だな。上手く突けば両男爵を分断できるかもしれない」
「レッケンバルム卿に相談すべきでしょう。あの御仁ならば首尾よくなさるでしょう」
サーザンエンド貴族の中でも有力者であるレッケンバルム卿はウォーゼンフィールド男爵家中にも知人がいるし、繋がりも多いだろう。
「うむ。近いうちに枢密院会議を開いて、この関係について協議すべきだろう」
レオポルドの言葉にレンターケットは同意し、数日後、枢密院会議が開かれ、サーザンエンド情勢についての協議が行われることとなった。