一二五
ハルガニ地方に入った翌日、レオポルド率いる近衛大隊の隊列が相も変わらず荒野を歩いていると、斥候として先行していた騎兵がムールド人の軽騎兵を伴って駆け戻ってきた。
「閣下っ。ラジアからの伝令ですっ」
伝令はレオポルドに駆け寄ると書状を手渡す。一兵卒が下馬せず直接物を渡すのは無礼というものだが、レオポルドはそのようなことに頓着する性質ではなかった。
ソフィーネは彼を貴族的と称したが、このような面では全く貴族的ではない。
ラジアからの伝令が彼の手渡した書状はバレッドール将軍の報告書であった。
報告書の肝要は、まず第一にラジア攻囲軍は危機的な状況にあるということであった。物資は一ヶ月前から欠乏状態にあり、特に糧秣の不足は危機的な状況にある。ムールド軽騎兵連隊の騎馬も半数が失われているという。
この半月の間、断続的に降り続いた降雨によって弾薬の多くが使用不可能となり、砲撃が継続できない状況になっている。攻城用の塹壕も雨で崩れ、その補強に時間を費やし、攻城は遅々として進んでいない。
また、不衛生な環境と栄養不足の為、伝染病が蔓延し、一〇〇〇名以上の兵員が倒れ、既にその半数が死亡している。
制海権を有し、周辺の村落も支配する敵軍は奇襲を繰り返しており、ラジア攻囲軍は防戦するのが精一杯で周辺地域の掌握もままならない。
報告書を一読したレオポルドは不機嫌そうに鼻を鳴らして、その紙をサライ少佐に渡した。
「これは……。極めて憂慮すべき事態ですな」
「まったくだ」
少佐の言葉にレオポルドは渋い顔で頷きながら二枚目の報告書を見る。一枚目の報告書は先述の如く現下のバレッドール軍の状況説明。二枚目以降にはラジア近郊の地図や味方と敵の配置図、ラジアを守る城砦の状況を説明したものだった。
バレッドール将軍の報告によると、ラジアは城壁の外郭に大規模な土塁を築いており、容易に攻撃ができない堅固な防衛体制が構築されているという。
大規模な土塁は砲撃に対して有効な防御施設である。石の城壁を砕く砲弾も、相手が分厚い土の壁では辺りの土砂を巻き上げる程度のものである。
しかも、敵軍には少なくない数の大砲を含む銃火器が備えられている為、バレッドール軍はラジアからかなりの距離を取って布陣せざるを得ないらしい。
「ラジアは大砲まで備えているのですか」
バレッドール将軍からの報告書の内容を聞いたサライ少佐が驚くのも無理はない。
ハルガニ人はムールド人とは父祖を同じくし、同一の言語を使い、内陸の遊牧民と沿岸の漁民という違いはあれど、非常に似通った文化を持っている。両者の違いは駱駝に乗って羊肉を食うか、小舟に乗って魚を食うかの違いでしかないとも云われている。
故にムールド人が長く銃火器にあまり触れていなかったように、ハルガニ人にとっても銃火器は馴染みのないものであった。
マスケット銃は少し練習すれば百姓でも遊牧民でも使えるが、大砲の取り扱いとなると非常に高度な知識と技術が必要となる。レオポルドの軍勢においても大砲の操作は帝国人、特にレイクフューラー辺境伯から派遣されたフューラー人砲兵が担っており、砲兵隊にムールド人はほとんどいない。
そもそも、少なくない量のマスケット銃や大砲を何処から手に入れたというのか。ハルガニ人はこれまたムールド人と同じく帝国に服していなかったから、ムールド軍のように帝国から大量に輸入することはできないはずだ。
「西、つまり、帝国や西方諸国からでなければ、東しかあるまい」
「東というと……」
サライ少佐は渋い表情を浮かべた。
サーザンエンド、ムールド、ハルガニ地方の東に位置しているのは東岸部エサシア地方である。
エサシア地方はサーザンエンドと同じくテイバリ人が多数を占め、いくらかの帝国人、東方大陸人が居住する地域である。東方大陸との交易の拠点であり、いくつかの帝国自由都市、数多くの中小領主が乱立している。
以前、レオポルドは自身の影響力を東岸部に及ぼそうと試みたことがあった。その方策と言うのはエサシア地方の領主キンケル子爵の娘ユリア嬢と婚姻して、キンケル子爵領の相続権を得ようというもので、レンターケットを送り込んで密かに工作を試みていた。
ところが、豚女と蔑称される程の食通だったユリア嬢が食中毒で死亡し、レオポルドはムールド北東の諸部族と同盟してクラトゥン族と戦う必要が生じた為、東岸部への工作は中止されていた。
もう一年以上前の出来事で、レオポルド自身もエサシア地方に食指を伸ばしかけたことを忘れていた。
「エサシアから武器や弾薬を手に入れたとしても、一体、その金を何処から出したというのでしょうか」
少佐の疑問も当然というものであった。レオポルドもレイクフューラー辺境伯から大量のマスケット銃や弾薬、大砲を買い込むのにかなりの借金をしている。
ラジアは南洋諸島や東方大陸といくらかの交易をしてはいるが、商業システムが未熟な為、交易の規模は大きくはない。交易よりも漁業や海賊業の方を主としているのだ。
また、小銃の操作や小銃を使った戦い方を指南する者や大砲の操作を担う要員も必要だろう。誰がそれをやっているというのか。
「金を払って買ったわけではないのかもしれん」
レオポルドは苦々しげな顔で呟く。
「ということは、エサシアの者たちがラジアに武器や兵を送り込んでいるということですか」
「可能性は高い」
そう言いながらもレオポルドはほぼ確信していた。ラジアの背後にはエサシア商人がいるに違いない。
エサシア地方の有力者たちはレオポルドが東岸部に関心を寄せたことを察知していたのだろう。そして、そのレオポルドはムールドを統一し、領内を通過する商品に関税を課している。
エサシア商人の重要な交易路は二つである。一つはムールドの砂漠と荒野を行く陸路。そして、半島を南回りに行く海上ルートである。半島南端にあるラジアはその海上ルートの経由地である。
エサシアから東岸部沿いに北へ行くルートは彼らの商売敵であるフューラー・レウォント商人の商業圏であるから、ムールドの陸路、ラジアを経由する海上ルートの両方がレオポルドに握られるとなれば、エサシアの経済はレオポルドの機嫌一つで大きく左右されるようになってしまう。両方のルートの商品の行き来、課税される関税額はレオポルドの意のままなのだから。
彼らはその事態を避けるべく、公然とラジアを支援することにしたようだ。エサシアに食指を伸ばしかけたレオポルドに対する意趣返しでもあるのかもしれない。
レオポルドは不機嫌に舌打ちをして、馬を進めた。
「なんだか臭いですね」
ハルガニ地方に入って約半月が経ち、先行した斥候がラジアを視認したと報告を寄越してきた翌日。ソフィーネが鼻をすんすんと鳴らして言った。
「……砂の臭いしかしないぞ」
同じように鼻を鳴らしたレオポルドは呟き、少し後ろを進むサライ少佐と大隊旗手のハルトマイヤー中尉を見る。
「確かに何か妙な臭いがしますな」
「微かに臭いような気がしますね」
少佐と中尉も異臭を嗅ぎつけているようだった。
「貴方の鼻は飾りですか」
ソフィーネに呆れたように言われ、レオポルドは閉口した。
更に半時程度、行軍するとレオポルドの飾りのような鼻でも明らかに分かるほど異臭は濃くなっていた。
異臭というよりは腐臭である。
見渡す限り乾き切った灌木やサボテン、茶色い土くれ、岩ばかり目につく荒野を数週間歩き続け、乾き切った砂埃と自身の汗の臭いに慣れた鼻を腐った肉の臭いが突く。
その臭いの元は探らずとも分かるというものであった。
ラジアの陸側をぐるりと囲むように掘られた壕の外側にあるムールド軍の陣営には数百もの陣幕や小屋が建てられ、更にその外側に雑然と並べられたモノが何か分からぬわけがない。
その付近では憔悴しきった様子のムールド兵たちが緩慢な動きで巨大な穴を掘っていた。
レオポルドと彼が率いる軍勢に気が付いた兵たちは手を止め、茫然とした様子でその場に立ち尽くす。
レオポルドは馬を駆けさせ、兵に声を掛ける。
「バレッドール将軍は何処か」
声を掛けられて意識を取り戻したように兵はビクリと震えて、陣営の中でもある程度大きな天幕を指差す。
「少佐っ。物資を貯蔵庫に移送させろ。略奪や混乱が起きないように警備は厳重にせよっ」
兵の無礼な態度を意にも介さずレオポルドはサライ少佐に指示を飛ばすと馬腹を蹴る。
レオポルドがラジア攻囲軍の司令部である天幕に入ると、バレッドール将軍と幕僚たちは不機嫌そうな様子で地図を睨んでいた。
「将軍っ。状況はどうなっている」
レオポルドが開口一番に言うと将軍と幕僚たちは慌てた様子で起立し、レオポルドを出迎えた。
「閣下。遠路はるばるご足労頂きまして」
レオポルドは将軍の向上を遮った。
「おかげで尻の皮が剥けた。そんなことよりも重要なのは戦況だ」
「大変面目次第もないことではございますが、ラジア攻略は極めて難航しております。以前、報告書にて報告させて頂きました通り、ラジアの城塞は思った以上に要塞化されており、武装も予想以上に充実しています。また、長期に渡って降り続いた雨と糧秣の不足によって兵卒の栄養状態は非常に悪化しており、伝染病が蔓延し、一〇〇〇名以上の将兵が罹患し、そのうちの半数が死亡しました」
ラジア攻略軍は約五〇〇〇名の兵員であったから、五人に一人が病に倒れ、全体の一割が失われているということになる。
「伝染病患者は隔離しているのか」
伝染病に罹患した者、罹患の疑いがある者を隔離するのは至極初歩的にして最も重要な対処である。
「罹患した者は専用の天幕に移しています」
「その天幕は他の天幕と十分な距離を取っているか」
レオポルドの問いにバレッドール将軍は答え辛そうに渋い顔をした後、答えた。
「……いいえ、閣下」
「何故、十分に離さないのだ」
「陣営から離すと敵の夜襲に遭います。隔離した天幕を離した場所に置きますと、警備が手薄になり、夜襲の被害が増えます」
ラジア攻囲軍の陣営は既に幾度もの夜襲を受けているという。制海権を有し、近隣の集落を支配下に置くハルガニ人は自由にラジア攻囲軍の後背を脅かすことができ、ラジア攻囲軍はその攻撃に怯えなければならなかった。
「将軍が指揮を執りながら、なんたる状況か」
レオポルドは苦々しげに呟き、バレッドール将軍は沈痛な面持ちで頭を下げた。ムールド旅団の旅団長ジルドレッド准将や各連隊の大佐以下幕僚たちも揃って暗い表情を浮かべていた。
ただ一人、ドレイク連隊を率いるドレイクだけは椅子に座ったまま動かない。寝ているようだ。酔っ払いの相手を真面目にするのは無駄というものなので、皆放っておいているのだろう。
レオポルドは苦々しげに顔を顰めて黙り込んでいたが暫くして口を開く。
「まぁ、何はともあれ、まずは昼食にしよう」