一三
レオポルドと修道院長代理の会談は上々の結果に終わり、二人はお茶を飲みながら、世間話に花を咲かせていた。帝国本土から遠く離れた南部においてはレオポルドが話す昨今の帝都での話は非常に重宝されるのだ。
互いのティーカップが空になった頃、窓の外から何やら騒動が聞こえてきた。
「はて。何事でしょうかね」
修道院長代理は怪訝そうな顔で立ち上がると窓の方へ向かった。なんとなく、レオポルドも付いて行き、傍らに立って窓の外を見やった。
前述したとおり、窓からは回廊に囲まれた中庭を見下ろすことができる。
その中庭では先程まで修道士たちが木剣を振るって修練に励んでいた。
しかし、今、修道士たちは木剣を振る手を止め、レオポルドから見て右手の方を向いている。そちらにはやたらと図体の大きな若い貴族が突っ立って、何やら喚き散らしていた。
何事かとレオポルドと修道院長代理が並んで、暫く観察していると要するにこの青年貴族はいくらか己の剣術に覚えがあるようで、優れた剣士が多いと聞く、この剣の修道院の修道士と手合せがしたいと、そういうことらしい。
今にも剣を抜いて戦いたがる貴族に対して、修道士は自分たちの剣は信仰と精神修行の為に磨いているもので、その剣を振るうのは神の敵を相手にするときだけであり、それ以外では原則として剣を交えることはない。という旨を述べてやんわりと拒絶するが、相手の貴族がそれを聞き入れる様子はない。
とかく、貴族という連中には自分の思い通りにならないと我慢がならないという自分勝手で我儘な輩が少なくないのだ。
修道士たちは困惑し、互いに顔を見合わせる。
いつまで経っても煮え切らない態度の修道士たちに苛立つ貴族は手にした木剣で一人の修道士を指して、
「おい、貴様、私と勝負せよっ」
と傲慢にも言い放つ。
周りの修道士たちはそんな勝手をされては困ると抗議するが貴族は聞く耳を持たない。木剣を構えてすっかりやる気満々である。
指名された修道士は木剣を構えることもなく、事の成り行きを見守るかのように黙ってただ突っ立っている。レオポルドからはその修道士の顔も表情も見ることはできなかったが、その立ち姿を見るだけで厄介なことに巻き込まれたと思っている様子がありありと伝わってくる。
離れた場所から観察するレオポルドに分かるのだから、青年貴族にも当然わかるだろう。その面倒臭そうな態度が余計に癪に触ったのか。若い貴族は気合の入った怒号を放ちながら木剣を突き出す。
正式な剣術の試合や勝負ではないものの、不意打ちのようにいきなり攻撃を仕掛けるなどは許されることではない。唯一、許されるとすれば、それは剣の本来の使い場所である戦場においてのみである。戦場においては卑怯もクソッタレもないのは言うまでもない。戦場で卑怯などと言ったら笑いものだ。
しかし、ここは戦場ではない。修道院である。
しかも、勝負というか試合というか手合せをしようという互いの認識が成立もしていないうちに手を出すとは卑怯極まりない愚劣な行為である。手を出した貴族の中では試合が成立していたのかもしれないが、客観的に見れば明らかに不意打ちであり、一方的で身勝手な行動である。その行動にその場にいた誰もが驚き呆れ軽蔑する。
突然の奇襲を受けた修道士も唐突な攻撃に驚いたのか一瞬動きが遅れたものの、素早く屈んで突き出された木剣を避けた。木剣は修道士の頭上をすり抜け、フードの上端を微かに掠めていく。その勢いで修道士が被っていたフードが脱げた。そこから現れたのは長く艶やかな漆黒の闇の如き黒髪である。
相手が姿勢を直す前に黒髪の修道士は右脚を勢いよく踏み出し、石畳を踏みしめる。折り曲がった膝を伸ばしながら、立ち上がる勢いに乗せて、右手に握っていた木剣を突き出す。その勢いと速さたるや相手の貴族の比ではなく、目にも止まらぬと言っても過言ではない速度で木剣の丸みのある剣先が貴族の腹に突き刺さる。真剣であれば衣服と肌を突き抜け、肉を切り裂き、内臓を貫き、骨を砕いて背中から剣先が飛び出るくらいの勢いだった。
無防備な腹に先に丸みのある木製のものとはいえ、剣を突き刺された貴族は唾液と胃液を噴き出しながら仰向けに卒倒する。
その一部始終を見ていたレオポルドは唖然としていた。相手の貴族の愚劣さと修道士の素晴らしい剣技もさることながら、その修道士が黒髪だったことに最も大きな衝撃を受けた。
西方教会において黒とは大変縁起の悪い悪魔の色とされており、人々は異常なまでに黒という色を嫌悪し、忌避している。西方大陸において黒い髪の人間は滅多にいないが、たまに黒髪の子が生まれたりすれば悪魔の子だと糾弾され、生まれて間もない乳児であっても火刑に処されることも珍しくなく、その子を産んだ母親をも悪魔とセックスしたに違いないとして焼くことも多い。それほどまでに忌避され、嫌悪されている黒髪を持つ人間が修道院に入っているとは一体如何なることか。
隣に立つ修道院長代理を見やると、彼は明らかにまずいことになったと言いたげな苦々しい表情を浮かべ、慌てた様子で部屋を飛び出していった。
おそらく、中庭へと急いだのだろう。
ここにいてもしょうがないので、レオポルドも中庭へと降りてみることにした。
「ソフィーネっ。なんということをしてくれたのだっ」
レオポルドよりも一足早く中庭に達した修道院長代理は黒髪の修道士に向かって怒鳴った。
驚いたことに無礼な貴族を打ち破ったのは黒髪の修道女であった。女性にしては長身で、手足はすらりと長く、髪とは対照的に肌は新雪の如く白い。切れ長の細い吊り目に真紅の瞳。顎はほっそりとしていて、全体的にシャープなラインの顔立ちである。
「攻撃をされたので自衛の為に反撃致しました」
ソフィーネと呼ばれた黒髪の修道女は眉間に皺を寄せ、憮然とした調子で答える。
「それにしても加減というものがあるだろうがっ」
修道院長代理は額に青筋を立てて怒鳴り散らす。確かに彼女の攻撃は本気だったように思えた。相手を殺すくらいの覚悟で突きだった。
「恐れながら、戦いに加減はありません。いつ何時であろうとも、剣を振るうときは全力で振るうべきと信じております」
ソフィーネの精神論みたいな反論に修道院長代理は顔を真っ赤にして歯噛みした。
修道院長代理とソフィーネが言い合っている間にレオポルドは一撃でやられた愚劣にして見下げた人間性の持ち主である貴族様の御尊顔を拝見しに行った。周囲には修道士が集まっていて、大丈夫か。生きてるか。と口々に言い合いながら、無礼な若者を介抱している。
「げっ」
貴族の顔を一目見て、レオポルドは思わず声を上げていた。
「この方を御存知なのですか」
一人の修道士に尋ねられ、レオポルドは顔を歪める。御存知も何も。
「ウィッカードルク伯です。あー。白亜公の御嫡男です」
レオポルドの答えを聞いた修道士たちの顔が一挙に青くなった。
白亜公は帝国において最も力を有する大貴族である。
というのも、白亜公は現皇帝の伯母の夫にあたる皇族にして、若き皇帝を補佐する有力者である。大法官兼高等法院院長という役職にあって帝国司法界に強い影響力を持ち、帝国にいくつかある派閥のうち最大規模とされる法服派の領袖である。今の帝国で最も力を持つ権力者を挙げろと言われれば、十人に五人はその名を答えるほどの実力者。それが白亜公である。
その子息が全く出来損ないの愚劣極まりないダメ息子だということは帝国宮廷では公然にして暗黙の了解であった。大した腕もないくせに御伽話の騎士だか剣士だかを気取って、あちこちに武者修行に出かけて行っては勇名を馳せる剣士や軍人に勝負を吹っかけ、敗れると逆上して不正があったとか何とか言い出して、裁判だ何だと騒ぎ出すことで有名だった。
レオポルドは帝都にいた頃、幾度が白亜公の華麗なる宮殿の如き屋敷に父と共に招かれたことがあり、遠目ながら、そのバカ息子ウィッカードルク伯を見る機会もあったのである。
レオポルドからその話を聞かされた修道士の顔は瞬く間に青くなり、修道士からその話を聞かされた修道院長代理も顔色を赤から青に急激に変化させ、ついには土気色にまでなってしまった。
「こ、これは、困ったことになったぞ……」
修道院長代理は真っ白な顔でおろおろと右往左往しながら乾いた声を出す。
一方、最大の当事者であるソフィーネの白い顔はそのままで、顔をしかめて黙り込んでいた。
「い、一応、生きてはいるようですが気を失っておられます。あー、あと、おそらく、骨や内臓も、無事だとは思いますが……」
ウィッカードルク伯の様子を看ていた修道士の一人が報告した。伯は相変わらず無様に仰向けに倒れ込んだまま気を失って、口から泡を噴いている。
「生きていても怪我がなくても重大事には全く変わりないだろうがっ。正当な勝負に負けただけでも裁判沙汰にするような御仁だぞっ。これほどやられて黙っているはずがあるまいっ」
修道院長代理は怒っているのか泣いているのかよくわからないような顔で叫んで頭を抱える。
「聞くところによれば、この間ウィッカードルク伯を負かせて、打撲を負わせてしまったさる将軍は、先日ようやく五年に及んだ裁判が終わり、伯に治療代及び慰謝料として一〇〇〇セリン銀貨を支払うことになったそうです」
「打撲で一〇〇〇セリン……」
レオポルドが追加情報を提供すると、修道院長代理は余計に落ち込み、天を仰いだ。今にも神にでも祈り出しそうな勢いだ。
ちなみに一〇〇〇セリンともなれば都市の中に家を一つ建てられるくらいの金額であり、将軍からすれば年収ほどの金額であろうか。決して少なくない額の出費である。勿論、剣の修道院にとっても安い金額ではない。
「ところで、こんな時で申し訳ないのですが、彼女は一体」
レオポルドはふと関係ない質問をし始める。
修道院長代理は神の啓示でも降ってこないかと天を眺めるのに忙しいようなので、代わりに壮年の修道士がそっと小声で答えた。
「二〇年ほど前に近隣の町の教会に捨てられていた赤子を前の修道院長が引き取ったのです。前の修道院長は非常に開明的な考えの方でして、髪が黒いだけで悪魔の子とするのはおかしいと言われておりまして。まぁ、聖典も黒を悪魔の色とはしておりますが、黒という色を全て否定しているわけでもありませんし」
確かに聖典は黒を悪魔の色とはしているが、黒という色自体を否定しているわけではないのだ。あくまで悪魔の色は黒であるとしているだけで、黒い髪や目や肌をしていたら、そいつは悪魔だとか書いているわけではない。それがどういうわけだか長い歴史の間に黒は悪魔の色だから、黒が含まれているモノは全部悪魔の眷属みたいなものだという迷信が広まってしまっている。故に聖職者や神学者の中には黒を全て否定するのはおかしいという論を展開する者も少なくない。
「ただ、今の院長様は、あまり……」
壮年の修道士は渋い顔で呟きかけてから、修道院の中の事情を外の人間に話すことに躊躇いを覚えたのか、言いかけた言葉を飲み込んで口籠る。
「しかし、彼女は非常に優れた剣の腕を持っていますね」
「ええ、幼い頃から、この修道院で剣術を学んできたせいか、若い者の中では最も優れた剣士ですよ。ただ、加減を知らないというか、いつでも全力で相手と戦うのが少々厄介なのですが」
なるほど。と、レオポルドは頷き、壮年の修道士に礼を言う。
彼には一つ良い考えが浮かんでいた。
「私に良い考えがあります」
別室に移った修道院長代理にレオポルドが声を潜めて囁いた。
「良い、考えですか」
未だに青い顔の修道院長代理の言葉に彼はゆっくりと頷く。
「ウィッカードルク伯の怒りを逸らして、この修道院に害を及ばさない方法です」
「その方法とは……」
修道院長代理は僅かながら生気を取り戻して、身を乗り出す。
「あの黒髪の修道女に全ての罪を着せるのです」
レオポルドの言葉に院長代理は息を飲む。
「幸いに、と言うべきか、なんと言うべきか。今回の事件は正式な勝負ではなく、たまたま修道院内で起こった私闘に過ぎません。その勝負を修道院は認めていないし、そこに修道院は一切関与していない」
つまり、今回、起きたのはあくまで個人間の私闘に過ぎず、修道院が用意した勝負ではなく、修道院は一切関与していない。たまたま修道院の中庭で個人的な闘争が発生しただけである。そこに修道院の責任はない。全ては個人間の問題であり、トラブルは当人同士で解決すべきである。そこに修道院は関知しないと主張することは難しいことではないだろう。
要するに黒髪の修道女ソフィーネに全責任を押し付けてしまうということだ。
ウィッカードルク伯が文句を言ってきたら、修道院は知らぬ存ぜぬを決め込んでしまえばいい。うちはそんな勝負を認めていないし、あなたたちが勝手にやったことなのだから、その勝負で発生したトラブルはその当事者同士で解決して下さいよ。と、そう言って逃げてしまえとレオポルドは言っているわけだ。
修道院としては大変楽な決着であるが、全責任を自らの修道院の仲間に押し付けるというのはあまり夢見の良い話ではない。
「しかし、ソフィーネはうちの修道院に所属している者でありまして……」
修道院長代理も仲間を犠牲にするという卑怯な解決方法に難色を示す。
「それに所属元である修道院の監督責任を問われる可能性も」
「ならば、先手を打って、彼女を追放しては如何です」
レオポルドの提案に修道院長代理は唖然とする。
「ウィッカードルク伯の意識が戻る前に修道院内で私闘を行ったという罪で彼女を修道院から追放するような恰好で逃がしてしまうのです。そうなれば彼女は修道院とは関係ない存在になります。伯の関心も自分を倒した後、逃げ去ってしまった彼女の方へと向くでしょう」
「あ、いや、確かに、そうすれば、伯の怒りは修道院に向かないかもしれません。とはいえ、しかし、仲間である彼女を、そんな目に遭わせるのは……」
修道院長代理は青い顔で俯き口籠る。
レオポルドは声を抑えて囁く。
「これは好機なのです」
彼の言葉に修道院長代理は目を見開く。
「修道院に黒髪の女。良く思わない人間は少なくない。そうではありませんか」
レオポルドの指摘に修道院長代理は黙ったまま身動きもせず彼を見つめていた。
「修道院の中にも好ましく思っていない人間はいるでしょう。例えば、新しい今の院長様とか」
主要な修道院の院長職については教会の本部から派遣された名門出身のエリート聖職者が任命されることが多い。
剣の修道院においてもそれは同じで、前の修道院長が亡くなった後、帝都から新院長が派遣されてきたとレオポルドは聞いていた。
開明的であったという前院長と同じように新院長が開明的な思考の持ち主で悪魔の色だという黒い髪を持つ人間でも分け隔てなく扱ってくれる人物であればいいが、一般的にはそうでない人間の方が圧倒的に多いのが現実である。
また、教会から派遣された異端審問官やら何やらが彼女を見つけたとき、なんと言うか。今まではなんとか見つからずにきたか、若しくは院長が庇ってきたのかもしれないが、その院長亡き後も、今までどおり修道院として彼女を守ることができるのか。或いは守る気があるのか。何らかの理由をつけて追い出した方が得策なのではないか。
その考えは常に修道院長代理の頭の中にはあった。レオポルドもそれを察している。
「この一件が公になったとき、修道院に黒髪の女がいるという話が広まれば教会の上層部がなんと言うでしょうか」
黒髪の女を修道院の中に置いておくだけでも至難の業だというのに、その女が事件を起こして、それを庇うとなれば余計に大変な事態であることは言うまでもない。
修道院として、どのような手段を講じるのが最も被害が少なく、効率的かは明らかである。ただ、それでも仲間を斬り捨てるという卑怯としか思えない行動に踏み切るには勇気がいる。
「これは彼女にとっても最善の策なのです」
そこへレオポルドはすかさずこの方法の正当性を吹聴する。
「このまま修道院で彼女を庇い続けるのは非常に難しい。いつかは限界が来るでしょう。そのとき、害は修道院のみならず彼女にも及ぶのです」
「しかし、彼女は生まれてこの方、ずっとこの修道院の中で生きてきたのです。いきなり外に出されても……」
この問題にもレオポルドは素早く解決案を提示する。
「ならば、私が預かりましょう。私はこれから更に南のサーザンエンドに行く予定ですから、ほとんどの人の目の届かない場所に連れて行くことができます。修道院にとっても彼女にとっても悪い話ではないはずです」
教会の力も白亜公の力もほとんど及んでいないサーザンエンドであれば彼女の身の安全は保障されるだろう。修道院との繋がりを勘付かれる可能性も低い。
そして、ここまで言えばレオポルドの目的が何かは言うまでもない。
彼としてはこの機会に素晴らしい剣の使い手であるソフィーネを自分の配下に収めてしまいたいのだ。これから行くサーザンエンドは非常に不安定な情勢下にあり、当然、治安も宜しくないと考えた方がいい。そうなったとき、武器を扱える人間がレオポルドとキスカの二人だけでは心許無い。もう一人、しかも、抜群に強い剣士がいれば心強いというものだ。
レオポルドのこの目的に修道院長代理も気付いているかもしれない。気付いていたとしても両者の利害は共通しているし、レオポルドに恩を売ることもできるのだから修道院にとって悪い取引ではない。
結局、修道院長代理はレオポルドの提案を受け入れた。
『黒』
西方教会において黒は特別な色である。
聖典には「悪魔は黒色をしている」「黒は悪魔の色である」という文言があり、これを根拠として正教徒は黒色を嫌悪、忌避する傾向が非常に強い。黒が強くなる夜は悪魔の時間であり、屋内に籠って、外には出ないようにする。黒色の物体は害悪なので極力見たり触れたりしない。そして、黒い髪や目を持つ人間は悪魔との繋がりがあるとして、これを排除することが多々ある。
西方大陸の文化の中心地である西部において黒髪・黒目の人間はほとんど存在せず、東部においても少数派である。この為、度々黒髪・黒目の人間は悪魔信仰、異端の疑いにより迫害され、異端者、悪魔信仰者、魔女などとして処刑されることもある。
西方教会として正式に、黒髪や黒目の人間は悪魔と関係があると認めたことはなく、聖職者や神学者の間でもこの短絡的な結論に異議を唱える者は少なくないが、黒色に対する強い差別意識は根強く、今でも黒髪・黒目の人間が火刑に処される煙が消えることはない。