一二一
レオポルドがムールド伯領の統治機構の組織化とファディの再開発に力を注いでる頃、レオポルド軍のムールド旅団は南部に展開し、クラトゥン族の元族長レイナルの残党掃討作戦に当たっていた。
レイナルの出身部族であるクラトゥン族は既にほとんどがレオポルドに帰順していた。その際、部族の大部分を占める帰順派とあくまでも抵抗を続けようというレイナルやその一族や側近たちとの間で内紛が起こっている。レイナル派はその抗争に敗れ、ムールドでも最も南の荒涼たる砂漠地帯に逃れた。
レオポルドはそこにも追手を差し向けていたのだ。
彼はムールドの王を僭称したレイナルを殊の外危険視していた。ムールドの慣習や伝統に囚われず、非常に強引な手法も駆使してムールド民族を統一しようとしたレイナルはレオポルドの大きな障害であったし、その勢力が壊滅した今でも油断できない相手なのである。
ジルドレッド兄弟の弟であるジルドレッド准将に率いられた第一ムールド人歩兵連隊、第二ムールド人歩兵連隊、ムールド人軽騎兵連隊から成るムールド旅団はムールド南部、南岸部のハルガニ地方にまで侵入してレイナルの足跡を追い、彼が休息できそうなオアシスや休息地、牧草地を占拠していった。およそ三〇〇〇名もの兵を動員しての掃討作戦は功を奏し、ムールドに居場所を失ったレイナルは僅かな手勢と共にムールドを捨て、ハルガニ地方へと落ち延びた。
レイナルが逃げ込んだ先はハルガニ地方で最も大きな港湾都市ラジアである。ラジアを支配するアルファル族はレイナルの姉の嫁ぎ先であり、ハルガニ人の中では最も有力な部族であった。
西方大陸最南端の地にある港湾都市ラジアは古代帝国の時代に築かれた都市を基にしており、街全体が古代帝国時代から数百年に渡って改築と増築、修復が繰り返されてきた城壁に囲まれ、峻険な崖が連なる南岸部では唯一とも言える大きな港を抱えている。
ラジアを含むハルガニ地方は法的には神聖帝国領と言うことになっているが、帝国の統治が及んだことはなく、代官の一人も派遣されたことはなく、実質的には部族による統治が行われている。この点は以前のムールドとほぼ同じである。
ともなれば、レイナルを追ってラジアを包囲したジルドレッド准将が使者を送って、レイナルの引き渡しを要求したところで大人しく応じるわけもなく、こちらの要求に対する返事は城壁から放り投げられた使者の躯であった。
レイナルを追ってラジアを包囲したものの、本格的な攻城となるとレオポルドの許可が必要と考えたジルドレッド准将は一旦包囲を解くと共にレオポルドに指示を求める伝令を送った。
諸部族の拠点で馬を乗り継ぎながら駆けに駆けた伝令がファディに入ったのは灼熱とも言える夏が終わり、秋も半ばを過ぎつつある頃だった。
その時、レオポルドはムールド伯領高等法院に出席していた。
高等法院はムールドにおける最高司法機関であり、各管区に駐在している地方裁判官の判決に不服である場合の控訴審であり、地方裁判官では判断できない案件を審議する場である。
ムールド伯レオポルドの他、高等法院長と四人の評定官が臨席する前で、ハズバル族のアルアハン家とイスカル家の論争が紛糾していた。その論争の種は駱駝丘という駱駝の瘤のように見える丘周辺の牧草地の使用権についてであった。
双方の主張を整理するに以下の通りらしい。
アルアハン家の娘が遠縁であるイスカル家に嫁いだ際、婚資として駱駝丘周辺の牧草地がイスカル家からアルアハン家に譲られた。その後、家畜が増えて牧草地が不足したイスカル家はアルアハン家と交渉して、羊一〇〇頭と引き換えに牧草地を取り戻した。
しかし、アルアハン家でも牧草地が不足し、やっぱり羊を返すから牧草地を戻して欲しいということになった。両家は交渉した結果、羊五〇頭をイスカル家に返す代わりに牧草地はイスカル家所有のまま両家が使用権を半分ずつ有するということで合意した。
その数年後、イスカル家に嫁いだアルアハン家の娘が病で亡くなってしまい、両家の繋がりが失われ、イスカル家はアルアハン家に駱駝丘周辺の牧草地から出ていくように通告し、アルアハン家はこれに反発して、争いとなったものである。
イスカル家が主張するところによれば、駱駝丘周辺の牧草地は婚資としてアルアハン家に譲られたものである。となれば、その花嫁がいなくなってしまえば、当然、牧草地も返還されるべきであるというのだ。
一方、アルアハン家の主張としては娘が亡くなったからといって婚資を返すなど慣習にはないことである。また、確かに当初は婚資であったかもしれないが、羊一〇〇頭と引き換えに一時返還されるなどして、通常の財産と同じ扱いとなっている。その上で、両家の契約によって使用権を折半しており、これを娘の死亡と関連づけて返還を求めるのは契約違反であるとのことであった。
とはいえ、イスカル家からすれば、牧草地の使用権を半分と羊五〇頭を失っており、一方的に損を被っているという意識があった。
一昔前ならば剣を抜いて争うところであったが、レオポルドが全部族に対し、私闘の禁止を申し付けていた為、高等法院へと争いを持ち込んだわけである。
レオポルドと評定官、多くの傍聴人が見守る中、両家の代表者はムールド語で激しい論争を繰り広げた。ムールド語を学んではいるものの、まだあまり聞き取れないレオポルドにとっては彼らが何を言っているのかチンプンカンプンであった。傍らにはいつものようにキスカが控えており、通訳をするはずだったが、彼女はもう暫く黙っていた。
「キスカ。黙っていないで通訳してくれ」
キスカはじろりとレオポルドを見て答える。
「訳すに値しません」
「あ、そう……」
レオポルドが呟いた直後、高等法院長アルナフ・バティル・アリが杖で台を叩きながらムールド語で怒鳴った。アルナフはカルマン族の前族長オンドル(アイラの祖父)の甥であり、カルマン族の有力者の一人で、たっぷりと黒髭をたくわえた大男で、顔面に刀傷のある強面である。
アルナフの怒号はレオポルドにもわかった。あまりにも短い簡単な意味の言葉だったからだ。つまり、「黙れ」である。
強面の大男の剣幕に論争というよりは相手を罵倒することに夢中になっていたアルアハン家とイスカル家の代表たちが黙り込む。
法院長は咳払いをした後、レオポルドに顔を向けた。
「両者の意見は十分に聴取できましたので、口頭弁論は以上と致したいと思います。閣下に異論はございますか」
「私は傍聴に来ただけだ。法廷のことは、法に基づいて諸君らが決めたまえ。私に口出しする権利はない」
レオポルドの言葉に法院長は頷くと、両家の代表たちに口頭弁論は以上とし、後は評定官が協議する旨を伝達して、本日は閉廷と相成った。
「閣下。今回の訴訟ですが、如何すべきでしょうか」
法廷となっている大天幕を出たレオポルドに評定官の一人であるレーダー卿が意見を尋ねた。卿はウェンシュタイン家の法務関係を担当していた人物である。
ちなみに、他の評定官はサーザンエンド貴族のジル・ビッカード卿。ネルサイ族の長老ナイマン・アブドラ・イスハク。北東部族の一つであるナナイ族の族長の兄ナブラム・アル・ヒヴィンである。院長を含めるとムールド人の方が多いのは、扱う訴訟の多くがムールド人同士の争いである為だ。
「先にも言ったが、私には法廷の訴訟に口出しする権利はないし、する気もない。評定官は法に基づき、自らの見識と良心によって判断せよ」
レオポルドはやや不機嫌そうに言うとキスカを連れてその場を離れ、つい先日、完成なったばかりの屋敷に帰宅した。
ファディの中央広場の西側にある屋敷はカルマン族の族長邸であったが、今ではレオポルドがあカルマン族の族長である為、彼の所有となっていた。元々の建物を改装する他、西に帝国風の新館を建造しており、そのうち旧館の改装が終わった為、レオポルドたちはようやく天幕暮らしを終えることができたのだった。未だに新館の工事が行われており、周囲では多くの建造物が建設中だった為、工事の音が非常にやかましかったが、帝都育ちのレオポルドやフィオリアには天幕よりも屋敷の方がずっと暮らし易かった。
レオポルドは自室に入り、上着を脱ぐと、やや機嫌悪そうに呟く。
「どうにも私の意向と顔色を窺う者が多くて困る」
「それは悪いことではないではありませんか」
キスカは「何が問題なのか」とでも言いたげに尋ねる。
「下手に勝手なことをされるより良いではありませんか」
「そりゃあ、余計な火遊びや大失態をされるのは困る。だが、今日の訴訟のような案件でも、私の顔色を窺われるというのは厄介極まりない。はっきり言って、駱駝丘の牧草地がどっちの家の所有になろうが私の知ったことではないぞ。そんなもんは勝手に処理してくれ」
レオポルドは椅子に腰かけてから、ちょうど自室へやって来た給仕からお茶のセットを受け取るキスカへと視線を向ける。
「特にムールド人だ。彼らは飯の食い方から糞の仕方まで私の意見を聞きに来る勢いだ」
「レオポルド様。下品です」
「あぁ、失敬」
キスカがお茶を淹れるのを見ながらレオポルドは言った。
「キスカ。彼らが委縮しているのは君のせいだと思うぞ」
レオポルドの指摘にキスカは心外だとばかりに顔を顰める。
「私は食事から排便の仕方までレオポルド様の御指示を賜れと言った覚えはありません」
「排便は忘れろ」
キスカから差し出されたお茶を飲んでからレオポルドは話を続ける。
「君があんまりにも厳しいから、皆、一から十まで全て指示に従わなければという気風になりつつあるんじゃないか。厳しさにも限度というもんがあるだろ」
レオポルドの指摘に彼女はむっとした顔で言い返す。
「それを言うならば、レオポルド様が今まで諸卿の意見に耳を傾けず、全て自分で考えて、自分で決めて、決定済みの事項を伝達してしまっていたからではありませんか。レオポルド様は配下の者が意見を述べても聞き流してしまうことが多いですから」
キスカの思わぬ反撃にレオポルドは言い返そうとしたが思い当たる節が多く、言葉に詰まってしまった。
レオポルドはお茶を飲んでから溜息を吐く。
「君の言うことも一理ある。今後、気を付けよう。あと、各々の職権や権限について、より分かり易いよう布告を出そう」
疲れたように彼が言った時、扉がノックされた。
キスカが扉を開くと砂埃と汗に塗れた若いムールド人の伝令が部屋に入ってきた。
「ジルドレッド准将よりの伝令であります。これを」
「御苦労。しっかり休むように」
伝令が差し出した文書をキスカは受け取って言った。
キスカから掛けられた言葉に伝令は一瞬呆気に取られた顔をしてから、慌てて頭を下げて部屋を退出した。
「ほら見ろ。休めなんて珍しいことを言うから驚いていたじゃないか」
キスカに睨まれてレオポルドは口を閉じた。
「文書を解読しますので、少々お待ち下さい。バレッドール将軍を呼びますか」
「そうしてくれ」
伝令が運ぶ文書は敵に捕まった時のことを考えて暗号化されている。帝国語とムールド語を組み合わせた暗号で、両方の言語を十分理解していないと解読は難しい代物で、帝国語をよく理解しているムールド北部の部族が昔から使ってきた暗号だという。
キスカが暗号文を解読している間にレオポルドの軍事面での側近であるバレッドール将軍とルゲイラ兵站総監、それに官房長レンターケットがレオポルドの部屋に参集した。
側近たちが集まったのを見て、キスカが解読した暗号文の内容を報告する。
「ジルドレッド准将の報告によりますと、レイナルは南岸の港湾都市ラジアに逃げ込んだとのことです。ラジアを支配するアスファル族はハルガニ人の中では最も有力な部族で、族長の妻がレイナルの姉という縁戚関係にあります。おそらく、その関係でレイナルを迎え入れたのでしょう。アスファル族はレイナルの引き渡しを拒絶したばかりか、こちらの使者を殺害してその躯を城壁から投げ捨てたとのこと」
「ラジアとは厄介な所に逃げ込まれましたな」
そう呟いたルゲイラに視線が集まる。
「南部のムールド人に聞きましたところ、ラジアは古代に築かれたという港湾都市で、陸側を高く堅固な城壁に囲まれておるそうです。元々の城壁は非常に古いものなのですが、修繕や改築、増築が重ねられており、攻めるのは容易ではないようです」
彼はムールドの風習や文化に大きな興味を持つ人物で、何かの機会にラジアのことを聞いていたのだろう。
ルゲイラの説明にレオポルドは顔をしかめた。堅固な城壁を持つ港湾都市を攻めるのは容易ではないからだ。攻城には多くの兵と攻城用の重い砲弾を放つ大砲が必要となるだろう。レオポルド軍は比較的軽量の野戦砲は多く装備していたものの、攻城砲の類を所有していなかった。
「攻城砲の手配が必要だな」
そう言ってレオポルドはレンターケットに視線を向けた。
「いやはや、またレイクフューラー辺境伯閣下から怒られてしまいますなぁ」
レンターケットは苦笑しながら言った。攻城砲となれば帝国本土から買い入れるしかなく、その購入経路と資金は例の如くレイクフューラー辺境伯頼みなのは言うまでもないのである。
レンターケットの言葉にレオポルドは満足げに頷き、バレッドール将軍とルゲイラ兵站総監に視線を向けた。
「将軍。ドレイク連隊を率いてラジアに向かい、レイナルと我が軍の使者を殺害した犯人の引き渡しを要求し、尚も拒絶するようならば攻囲せよ。兵站総監は軍資金、糧秣、武器弾薬を整えるように。少なくとも一ヶ月分確保できるように努めよ」
「承知いたしました」
「現地での作戦行動については将軍の判断に任せるが、無用な損失は避けた方が賢明だろう」
レオポルドはそう言ったものの、バレッドール将軍は慎重で防御的な指揮官である為、無理な攻勢はしないと半ば確信していた。
サーザンエンド旅団からドレイク連隊を引き抜いたのは傭兵である彼らに高い賃金を支払っている為であり、余所者である彼らの方がムールド人や帝国人の損失よりもムールド統治に与える影響が少ないからである。つまり、ムールド人や南部在住の帝国人はムールドの住民であり、彼らの損耗は生産人口の減少を意味し、残された家族の対策も必要である。余所者である傭兵ならば失われたところで、ムールド伯領の統治に与える影響は非常に少ない。
合わせてレオポルドは西岸部イスカンリア地方の港町カルガーノにある艦隊に出動準備を指令した。港湾都市を包囲するには陸側を軍隊で封鎖しただけでは不十分であり、港湾を封鎖する海軍が必要不可欠なのだ。
レオポルドの命令を受けたバレッドール将軍は直ちに準備に取り掛かり、翌週にはドレイク連隊を率いて南へと向かった。
月末にはディーテル卿率いるレオポルド艦隊がカルガーノを出港した。艦隊は五〇門戦列艦と二八門フリゲート、二隻のブリッグ・スループから成る。
ラジアに拠るアスファル族は南岸部を根城とする海賊と関係があるらしいが、彼らの有する船はフリゲートよりも小型のものしかなく、砲の搭載数も一〇門以下の船ばかりだという。強力な五〇門戦列艦を擁するレオポルドの艦隊は容易に制海権を握ることができるだろう。
レオポルドは年内にはアスファル族は降伏するだろうと予測し、日々の政務をこなしながら、その後のハルガニ地方の統治について思案を巡らせていた。
彼の予測を裏切る知らせが届いたのは帝歴一四〇年最後の月が半ばまで過ぎた頃だった。