一二〇
ムールドの二大産業といえば、牧畜と貿易である。
多くのムールド人が従事している牧畜は羊や山羊などを遊牧して、羊毛や革、肉などを生産、加工するといった素朴なものであり、生産品の多くは自家消費されているか、或いは他の家族や部族と売買する程度である。
一方、貿易業はムールドにとって重要な外貨獲得源である。多くの隊商がムールドを行き来しており、ムールド人はそれらの隊商の出資者に名を連ねることもあるが、多くは警護や輸送のみを担うことが多い。自ら隊商を組織することは稀である。
運ばれる商品は帝国産のガラス、銀製品、鉄製品、毛織物。東方大陸産の絹織物、陶磁器、茶。南洋諸島産の香辛料、砂糖、珈琲。ナグララ族が住む翡翠の谷から産する翡翠とサルザン族の支配する塩の町から産する岩塩も重要な商品の一つである。翡翠は主に東方大陸に運ばれ、岩塩は主に南部内陸部で消費されている。
ムールド人は海岸部の港でこれらの商品を駱駝の背に乗せて砂漠を一ヶ月以上かけて横断するのだ。
この内陸部の交易ルートは実質的にムールド人によって独占されていると言って過言ではなかった。目印となる山も川もほとんどない砂漠を旅することは非常に難しく、僅かな判断ミスが容易に死へと直結する。ムールド人は砂漠に点在するオアシスや危険極まりない地割れ、入り込むと二度と出ることができないと噂される死の谷、危険な野獣が徘徊する地域などを伝承、言い伝えなどによって子子孫孫へと受け継いでおり、これらの知識は一族のみに相伝されているといったことが多々あった。故にムールドの砂漠を彼らの助けなしに旅することは無謀極まりないというものであった。
また、彼らに無断で彼の地に入った者は漏れなくムールド人の獲物となる運命であり、ムールド人に支払う金を渋ったばかりに荒野に躯を晒すことになった者は一人や二人といったものではない。
故にムールド人の富の多くはこの砂漠の交易ルートの独占によるものである。警護や道案内の報酬だけでなく、通行料、水源、休息地の使用料、糧秣などの補給物資の販売といった多くの収入を齎してきた。
ムールドの交易ルートにはこういった多くの支出が必要ではあったが、他のルートに比べればまだ割安で安全であったのだ。
南岸部を迂回する海上ルートには多くの海賊が潜んでおり、通行料の支払いを要求したり、船や商品を強奪したりしていた。しかも、海賊どもはムールドの部族のように組織化されているわけではない為、何隻もの海賊船から何度も襲撃されてしまうという危険があった。
ムールドより北の地域を横断するルートもないわけではなかったが、より横断距離が長く、多くの諸侯、中小領主の領地を横断する度に関税を課され、ムールド以上に金がかかる交易路であった。
故に古来から砂漠の交易ルートはムールド人に任せれば最も安全で確実であり、これがムールド人に多くの富を齎してきたのである。砂漠の交易ルートがある限り、生活は安泰であるというのが多くのムールド人の認識であった。
これがレオポルドには気に食わないらしい。
「つまり、その交易ルートがたった一本の命綱ということだろう。その綱が切れたらどうするつもりなのだ」
レオポルドの問いかけに五人のムールドの長老たちは顔を見合わせた。彼らはいずれも枢密院或いは伯領議会に席を置くムールドの有力者たちであり、本日はレオポルドに意見を聞きたいということで呼び寄せられていた。
「閣下。お恐れながら申し上げます」
ネルサイ族の長老であり、伯領議会で副議長を務めるイブラムが口を開く。
「我々が行く砂漠の道は古来より続いてきた最も安全で確実な交易路であり、東岸部の商人たちも西岸部の商人たちもそれをよく理解しております。彼らがわざわざ危険を冒して別の交易路を選択する必要性はないでしょう」
イブラムの言葉に他の長老たちも頷くが、レオポルドは硬い表情を崩さない。
「今まで命綱が切れなかったからといって、これからも切れないとは限らんのだ」
「つまり、閣下は砂漠の交易路が使われなくなる可能性があるとお思いなのですか」
サルザン族の長老であり枢密院副議長のタヒルが尋ねると、レオポルドは首を縦に振った。
「閣下。それは杞憂というものです。この交易路はもう何百年と続いておるのですよ。我々が生まれるずっと前から続いておるのです。その間、交易路を行き交う隊商が途切れることは一日としてなかったのですぞ」
タヒルの口調は浅慮な若造を窘めるようにも聞こえた。彼はレオポルドの三倍も長く生きているのである。自然とそのような言い方になったとしてもおかしくはないだろう。
傍らに控えるキスカが「無礼な物言いだ」と警告する前にレオポルドが尋ねた。
「そなた、船に乗ったことはあるか」
ムールドは内陸の地であり、船が行き交うような大きな川や湖は極めて限られている。多くのムールド人は一生船に乗ることはなく、海を見ることもなく、人生を終えるだろう。
「……ございません」
「海を見たことはあるか」
タヒルは渋い顔で首を横に振る。
「最近の造船、航海技術の向上は目を見張るものがある。この頃では世界周航を達成する船も年に十隻以上を数えるほどだ。多くの大砲を積んだ大型の交易船もある。雑魚な海賊どもなど蹴散らせるほど武装した交易船が多くの船を引き連れて集団で航海するようになりつつある」
レオポルドの言葉に反論する者はいなかった。いずれも彼の倍以上の年齢の長老たちではあるが、彼らのうち船や海を見た者は一人としていなかったし、多くの商品の行き着く先である帝都を知っている者もいなかったからだ。
「世に恒久なるものなどありはしないものだ。諸卿もそこに異論はなかろう。何百年何千年も変わっていないように見える砂漠であっても、実際には毎日その姿を変えていることを諸卿は存じているだろう」
「仰る通りでございます。閣下。我が不見識を恥じるばかりです」
タヒルが頭を下げて謝罪を述べた。
レオポルドはすぐに頭を上げるよう言ってから話を続ける。
「世は移り行き、変わらぬものなどない。そのことを踏まえた上で我々は如何にすべきか」
交易路が干上がってしまった時、ムールドに残る産業は貧弱な遊牧しかないのでは、未来はないも同じである。
「つまり、金になる新たな産業を作りだす必要がある」
「閣下が西部で行っている農業もその一環ですかな」
枢密院議官にして伯領議会議員でもあるサイマル族の族長ウサムの問いをレオポルドは否定した。
「いや、西部やオアシスで行わせている農業によって生産された食糧は輸出用ではなく、ムールドの中で消費されるものだ。どこかに売って儲けようという趣旨のものではない」
レオポルドは人口増加を政策目標として掲げているのだから、人口増加に対応できるだけの食糧を生産できるようにという考えによって推進されているもので、生産された食糧は全てムールドの人々の口に入れるつもりである。また、軍隊の糧秣を十分に保持できるようにという思惑もある。
「では、鉱山の開発をなさるおつもりですか」
「鉱山開発にも取り掛かるが、道路建設や採掘設備の整備などにはもっと時間と金がかかるだろう」
「我々の手で隊商を組織して、東方や南洋の物産を買い付け、帝都に売り込んではどうですかな。砂漠を移動するのは我々にとっては容易く、帝都には閣下の人脈もおありでしょう」
「それも妙手の一つではある。が、東方や南洋の物産を買い付けるのは、それほど容易くできるものなのか。東方大陸や南洋諸島に話が通じる者がいるかね」
レオポルドの問いに応えられる者はいなかった。ムールド人は例えば、東方の物産を買うときは東岸部エサシアの商人たちから買い入れ、南洋の物産は南岸部ハルガニの商人から買い付けるのである。彼らの頭越しに物を買い入れる人脈をムールド人は持っていなかった。
「それに、東方や南洋の物産を買い付け、売り飛ばすのでは東方や南洋の情勢次第で価格が上下することもあれば、流通が滞ることも有り得る」
レオポルドの指摘通り、ムールドの交易量は東方や南洋の情勢に大きく左右されていた。東方大陸の王朝が鎖国政策を取った時代に交易量は大きく減じたこともある。もっとも、その時は盛んに密貿易が行われた為、完全に交易路が封鎖されたことはなかったようだが。
多くの献策が却下され、天幕の中は重苦しい沈黙に包まれる。
「となれば、我々の手で何か商品価値のあるものを作りだすしかないでしょうな」
アイラの伯父でカルマン族の伯領議会議員であるサイドの言葉にレオポルドは頷く。
「それが最も良い手だろう」
キスカがじろりとレオポルドを睨む。最初から決まっているなら、さっさと言えばいいのに。と彼女は思っていたのだが、レオポルドとしては自分の中で結論があっても、それをムールド人に押し付けるような真似をしたくなかったのだ。
というのも、統治機構や法整備、軍隊の編成などとは違って、産業振興は住民であるムールド人たちが主役となるからである。レオポルドが施策を押し付けても実際に仕事とする者たちにやる気がなければ成功は難しい。
「工場や工房を建設し、帝都などで売れる商品を生産し、それを輸出すれば安定的な高い収入が期待できる。諸君の生活環境が改善されることは私の統治を安定化させ、多くの収入がムールドに齎されれば、税収も増えるというものだ」
レオポルドの説明にムールドの長老たちは納得したように頷く。
「しかし、帝都で売れる商品とは如何なるものでしょうか」
サイドが首を傾げ、他の長老たちも思い悩む表情を浮かべた。彼らにとって帝都は未知の世界であり、帝国人の趣向も彼らには想像するしかないのである。
彼らの視線がレオポルドに向くのも当然というものだろう。
レオポルドは帝都に二十年近く住んでいた帝都人であり、帝都の社交界にも出入りできる身分であったのだ。
「閣下のお知恵を拝借して頂きたいのですが、我々に生産できるような物で、帝都で売れるような商品はあるでしょうか」
イブラムの問いにレオポルドは暫し考えに耽ってから口を開く。
「いくつか思いつくものがある。まず、絨毯。次に陶器、それに硝子も製造できるだろう。硝子は帝都に売るよりも東方や南洋に売った方が儲けになるかもしれないな」
レオポルドの答えに長老たちは顔を見合わす。
「確かに絨毯や陶器は我々が多く生産している物です。しかし、そのようなものが帝都で売れるのでしょうか」
「無論そのままでは駄目だ。しかし、模様をもっと東方風にしたり、異国情緒漂う感じにすれば、あとは売り方次第でかなり売れるだろう。帝都の金持ち連中は異国風のものに目がないからな」
不安そうなイブラムの問いにレオポルドは自信ありげに応えた。
レオポルドの強い勧めにより、ムールドの北部の各所に絨毯と陶器、硝子の製造工場が建設されることとなり、女性も含めた多くのムールド人が雇用されることとなった。
また、この頃、帝都出身の統計調査官ゲルトラウト・ラインベルカのその部下たちがファディを出発した。
彼らの役目はムールド伯領内を巡り歩いてムールドの各部族の人口、世帯数、世帯主の名前と職業、成年男子の人数と職業、使用権を持つ放牧地や居住地、水源などを調査することである。
彼らの統計調査の結果は、レオポルドの今後の政策の重要な判断材料となり、各種税の課税基準になり、徴兵検査にも活用されることになるだろう。
レオポルドは兵員の徴募をこれまでのように部族からの提供に頼るのではなく、伯領政府の主導による徴募に切り替えるつもりであった。
統計調査によって各部族の人口、成年男子の数に応じて各部族から毎年一定の人数の兵員を徴募する計画である。
兵員の徴募に当たっては各管区の管理官、兵員を受け入れる連隊の徴募担当士官(基本的には連隊副長)、部族の代表者などからなる徴募委員会が組織され、兵員として適正な者を選抜する。
徴兵検査の対象となるのは一五歳から二〇歳までの男子であり、健康面の問題や家族の経済状況などによって免除となった者以外は兵員適格者とされる。兵員適格者のうち何人かが連隊の欠員状況によって各連隊に編入され、残りの者は徴収予備となる。
連隊に編入された兵は基本的に三年間の兵役を務めることになる。兵舎での生活が義務付けられ、有事は軍事行動に従事し、平時は訓練期間の他は休暇兵となり、副業として建設業などに従事することが許可される。
徴収予備の者は休暇兵扱いとなり、月一度の訓練の他は自由であるが、連隊の正規兵に欠員が生じた場合や緊急時には徴募される可能性がある。
兵役期間を全うした者は後備役となり、月に一度の訓練の他は自由であるが、これも緊急時に徴募される可能性がある。
この徴募制度は統計調査が終わり次第、実施される予定であり、現在従軍しているムールド兵の一部は退役することができるだろう。
ただし、これはムールド人の騎兵と歩兵に限る措置である。
レオポルド軍にはムールド人の将兵の他、多くの帝国人将兵と傭兵が参加しているのだ。彼らは全く別の扱いとなっており、レオポルドや帝国人貴族たちの身辺や重要施設、町の警備などの任務に就いていた。
もう一つ、レオポルド軍の大きな変化として、レオポルドが帝都で発注していた大量の軍服が届き始め、一部の将兵に軍服が支給され始めていた。
レオポルド軍の軍服には数種類あり、ムールド兵はややくすんだ白色のだぼっとしたムールド風の長ズボンを履き、長袖のシャツの上に赤いチョッキを着用し、東方大陸風のつばの無い円筒形の赤い帽子を被った。下士官はこれに飾り帯を付け、チョッキには黄色いラインが入る。
帝国人兵は赤色の長袖の上着に紺色のズボンを着用し、灰色の三角帽を被った。下士官には三角帽子に小さな羽飾りが付き、上着に黄色いラインが入った。
砲兵と工兵には青色の軍服が支給され、将校は各自が自由に軍服を仕立て、思い思いに飾り立てていた。
この他、内務長官エティー卿によってムールド竜騎兵連隊が組織されることが決められた。
ムールド竜騎兵連隊は内務長官とその配下の治安総代官の指揮下に置かれ、各一個中隊が各管区に配置されて、治安維持活動に従事する。隊員の多くは伯領軍の退役騎兵や志願者で、マスケット銃やサーベルを装備して乗馬し、砂漠では駱駝にも乗った。
彼らは白い制服を身に纏って、町や村を巡回し、事件や騒動が起きれば管区管理官や治安官の指示で出動し、犯罪者を捕えて、治安官の事務所に連行した。その他、重要書類や物品の輸送や犯罪人の護送、貴人の警備、揉め事の仲介、徴税官の調査の付き合いといった幅広い職務をこなすことになる。
西方式の統治機構の構築、法整備、都市の再開発、道路や水道の建設整備、産業振興、統計調査、治安機関の設立などが推進され、ムールドが急速に発展していく中、ムールド最南部の砂漠地帯から一人の男が更に南へと駱駝を走らせた。
彼は生まれ故郷であるムールドを捨て、自らを迎え入れてくれる南岸部ハルガニ地方の町ラジアへと向かった。