一一九
数日を経てレオポルドのムールド伯領政府の主要な人事が決められた。
まず、伯領政府の最高機関である枢密院については、議長にゲオルグ・フライヘア・レッケンバルム卿を任じ、副議長には塩の町を支配するサルザン族の長老であり、族長ラハリの伯父であるタヒル・ルスタム・イスマイルが就いた。
枢密院を構成する枢密院議官には伯領総監ヨハン・シュレーダー卿、副総監アルトゥール・フェルゲンハイム卿、ムールド伯軍軍事評議会議長カール・アウグスト・ジルドレッド卿、外務長官クレメンス・ヴァン・キルヴィー卿、エミール・ムスターベルク主任司祭ら帝国人貴族と旧七長老会議派のサイマル族の族長ウサム・ムハッバト・ベスタル、ムラト族の長老タイカル・ハガン・ムスタムが名を連ねた。
レッケンバルム家、シュレーダー家、ジルドレッド家はいずれも有力なサーザンエンド貴族であり、アルトゥールは辺境伯フェルゲンハイム家の庶子、キルヴィー卿はウェンシュタイン男爵家の家臣筆頭と、帝国人議官については文句の出ようもない人選だと言えるだろう。
ムールド人議官についても政治的な配慮から人選が為されている。
サルザン族は南部内陸部に供給される塩の大部分を生産する塩の町を支配し、レオポルドと早期に同盟を組み、長くレオポルド軍の主力を担ってきた。
その上、レオポルドは彼らが一手に担う塩の生産と流通に介入し、生産量の一割を伯領政府に納入し、流通する塩に税を課すという恩を仇で返すようなことまで行っているのだ。
レオポルドとしては彼らの貢献と忠誠に応えなければならない。その結果が枢密院副議長という重職である。
サイマル族は一貫して親帝国であり続けた七長老会議派の有力部族であり、今でもレオポルド軍の主力を担う部族の一つである。キスカの出身であるネルサイ族とアイラの出身であるカルマン族から選ばれなかったのは、既に両部族が非常に重用されている為だ。あまりに特別扱いをすると無用な諍いの原因となりかねない。
ムラト族は長く反帝国を続けてきた南部の有力部族であり、ムールドの王を僭称したレイナルの率いるクラトゥン族と同盟関係にあった。レオポルドと幾度か争って敗れた後、レイナルと結んだ族長一族は粛清され、今は長老たちの合議体制によって部族運営がなされている。
そのかつての敵であるムラト族から枢密院議官を選んだのは反抗した部族も許して受け入れるというレオポルドの寛大さをアピールすると共に不満を持つ者を減らそうという狙いからである。いつまでも冷遇しているのでは不満を鬱積させて再び反抗しかねないからだ。
その枢密院の下に置かれる伯領総監府の総監にはサーザンエンド貴族の長老格であるヨハン・シュレーダー卿。副総監にアルトゥール・フェルゲンハイム卿。
総監直属の機関としていくつかの顧問官職が置かれる。それぞれ農業、商業、工業、教育を監督し、いずれも帝都からやってきた学者や技術者が任じられる。その他に道路建設と整備、維持を所管する道路管理官、各行政機関の監察を行う特別監察官が置かれた。なお、特別監察官は近衛大隊長を務めるキスカが兼務する。
総監の指揮を受ける長官としては次の通り。
主に治安関係を所管する内務長官にサーザンエンド高等法院筆頭評定官時代に「冷血判事」と呼ばれたレオナルド・エティー卿。
帝国本土や東方、南洋との外交交渉などを担う外務長官にクレメンス・ヴァン・キルヴィー卿。
財政関係を所管する財務長官にウェンシュタイン男爵家出身のカール・ウルリヒ・マウリッツ卿。
法務行政と罪人の訴追を統括する法務長官に就任したのは総監ヨハン・シュレーダー卿の子息であるゲハルト・シュレーダー卿である。
宮中行事や伯家の家政を担う宮内長官には辺境伯宮廷で衣装長を務めていた経歴を持ち、レッケンバルム卿に近いとされるゲオルグ・ハルトマイヤー卿が任じられた。
以上の長官人事については伯領議会に諮られ、特に問題なく承認が得られた。
また、ムールド伯領における上位司法機関である高等法院の院長としてカルマン族の長老であり族長一族であるアルナフ・バティル・アリが任じられ、これも議会の承認を得た。
これとは別に首都ファディの行政を担うファディ長官職に伯領議会議長ライテンベルガー卿の子息ハルトムート・ヨハン・ライテンベルガー卿を任じ、ムールドを四分した各管区の管理官と財務官、治安官、地方裁判官を任命した。
伯領政府の陣容が固まり、レオポルドはかなりの仕事を長官たちに委ねることができ、彼の負担軽減と行政事務の迅速化が進んだ。
伯領政府における諸法律の整備についてはシュレーダー父子に任せ、現在はムールド諸部族と軍が行っている治安維持を担う機関の組織をエティー卿に託した。マウリッツ卿には税制の整備と効率的な税徴収を企画させると共にサーザンエンド銀行を通じて帝国本土からムールドへの投資を呼び込む施策を行わせる。帝国政府上層部との良好な関係構築という名の書状と贈り物のやりとりはキルヴィー卿に一任した。
しかしながら、軍事行動に関する最高指揮権、都市政策、産業政策、国土政策、農業政策などはレオポルドの直轄とし、顧問官に据えた学者や技術者に輔弼させることとした。
言うなれば、これらはレオポルドが重視している政策なのである。
とはいえ、大まかな方向性を示し、最終的な判断は彼自身が下すものの、具体的かつ細部の取り扱いや技術的な問題に関しては顧問官たちに任せることにしていた為、レオポルド自身がやらなければならない仕事量は非常に少なくなった。
一日中天幕に籠って書類の山と格闘し、側近たちとアレコレ話し合う日々から脱却し、いくらか自由にできる時間を確保できるようになったのである。
「キスカ、ちょっと出かけようか」
ムールド西部に派遣している農学者からの報告書を読み終えたレオポルドは近くの机で書き物をしていたキスカに声をかけた。
彼女はぴくりと僅かに肩を震わせてから、ゆっくりと顔を上げ、レオポルドを見つめた。
「外出ですか」
「あぁ、ちょっと市内をあちこち見て回ろうかと思って」
キスカは無表情で視線を揺らす。
「仕事が残っているなら、いいんだが」
「いいえ、大丈夫です」
レオポルドが声をかけると、彼女は机の上にあった書類をまとめて近くの机で仕事をしていた書記のリズクに押し付けた。リズクが顔を上げて口を開く前に、キスカは視線だけで彼を黙らせた。
「仕事は今片付けました」
キスカは立ち上がってレオポルドに向き直るといつも通りの無表情できっぱりと言った。
「……そうか」
レオポルドは一部始終を見ていたが、余計なことを言わない方がいいような気がして、それ以上の言葉を発するのは止めた。
「少々お待ち頂いても宜しいでしょうか。少し、準備をしてきます」
「ん。あぁ、いいとも」
レオポルドが頷くとキスカは速足で天幕を出て行った。
彼女の背中を見送ってからレオポルドは事務掛のリゼを呼び、指示を与えた。
「会堂はあとどれくらいで完成する予定だ」
「設計をかなりシンプルにしており、装飾などを極力排しておりますが、やはり、人手不足の為、早くても来年の遅くか再来年の初め頃になるかと思われます」
レオポルドの問いに都市計画官ヨハネス・ピウス・バジルカが答えた。バジルカは西方の内海諸都市連合の出身の老建築家で、帝都において宮殿の維持修繕に携わる仕事をしていた人物である。
その設計は過剰な装飾を省き、機能性を重視したシンプルなもので、帝都の貴族たちからの評判はあまり良くなかったが、派手なものを嫌うレオポルドには気に入られ、ムールドに招聘されたのであった。
ムールドには西方式の設計ができる者が全くいない為、多くの建物がバジルカによって設計されていた。しかも、レオポルドはあまり細かい注文を付けず自由にやらせてくれる依頼主だった為、彼は自分の思うままの仕事をすることができていた。
「閣下の館については今年中にどうにか入居できるよう最優先で作業を急がせております」
帝都で不遇されていた自分を抜擢して思う存分に働く場を提供してくれたことにバジルカは非常に感謝しており、レオポルドの館に対する力の入れようはファディ中に知られていた。毎朝と毎夕、現場に足を運ぶほどであった。
「いや、私の館は後回しでもいいんだ。暫くは天幕暮らしでも困らないからな」
しかし、何故かレオポルドの耳にその評判は入っていないようで、素っ気ない反応しか返らず、バジルカは残念そうに肩を落とす。
拍子抜けしたバジルカを余所に、レオポルドは会堂建設工事の現場を興味深そうに眺めていた。
彼の傍らにはバジルカ都市計画官の他、キスカとレンターケット、ファディ長官ライテンベルガー卿らファディ市当局の高官たちが随行していた。彼らはレオポルドの官房事務掛のリゼに「レオポルドの市内視察」に付き合うよう急遽呼び出されたのだ。
その中でキスカは、常とは異なる装いをしていた。体の線を目立たせるムールド風のぴったりとした爽やかな水色の衣を身に纏い、銀の髪飾りと真珠の首輪を身に付けおり、随行の高官たちは何事かとでも言いたげな視線を向けていた。
珍しい恰好をしているキスカは不機嫌そうな顔で市内視察の最初からずっとレオポルドを睨み続け、レオポルドはというと何故か恐ろしい視線を向けられていることは察していたものの、なんだか面倒くさそうな気がして彼女の様子には気付かない振りをしていた。
「水道工事の方はどうなっている」
「近隣の水源の調査は既に終わっております。地下水道の建設には高い技術を要しますので、工事には時間がかかると思われます」
工事現場から視線を外したレオポルドの質問に水道管理官ガストーネ・カルーディオが答える。彼もまた内海諸都市連合出身の技術者で帝都で宮殿の噴水や水道の維持管理の実務を行っていた技術者で、その技術を買われてムールドまでやって来た人物である。
「水道の整備は最優先で行ってもらいたい。人員や資金等、不足するものがあれば最優先で回すように」
レオポルドの指示にファディ長官ライテンベルガー卿は「仰せの通りに」と承った。
「水道工事が済み、十分に水が供給できるようになったら公衆浴場を建設したいと思っている」
「浴場ですか」
レオポルドの言葉にライテンベルガー卿は戸惑ったような表情を浮かべた。
「しかし、ムールドの民は入浴を嫌います。彼らは水気を体に良くないものと信じているようですので」
長官の言う通り、ムールド人入浴の習慣はない。身体を布巾で拭い、油を塗っているだけだ。それでも何故か肌はそれほど汚くないし、悪臭がしないのだから不思議なものである。
「そうなのだが、ムールド人にもこれから入浴の習慣を身に付けてもらう必要がある。これからファディに人や物が集まれば、自然と悪い瘴気が市内に溜まることがあるだろう。悪臭や不潔、淀んだ空気と湿気は悪病を蔓延させる原因で、入浴はそれを一掃するというからな」
これまでムールド人の多くは遊牧をするか、若しくは人口の少ない集落に住んでおり、人口密集型の生活を営むことはなかった。広大な草原や広々とした空間は淀んだ空気や湿気を吹き飛ばし、悪病の要因を自然と取り除いていたのだろう。
しかし、これからは身体に纏わりついた悪い瘴気を自ら落とす労をしなければ、悪病の蔓延を誘因するに違いない。と、レオポルドは考えていたのだ。
そこで公衆浴場を建設して、悪い空気や湿気を清浄な水で洗い落とし、身を清める習慣を身に付けさせようというわけだ。
「浴場の近郊には競技場も建設する。劇場も作りたいな」
「早速、浴場、競技場、劇場の設計に取り掛かります」
レオポルドの思いつきのような言葉を聞いたバジルカは早くもやる気満々である。
「しかし、それほど大きな建築物をいくつも建てるとなりますと、その費用はかなりのものになるかと思われますが、如何なさるおつもりですかな」
レンターケットの言葉に、レオポルドは何でもないような顔で言い放つ。
「そんなもんはレイクフューラー辺境伯から借りればよい」
そして、レンターケットに近付いて囁く。
「その為に貴様を近くに置いているんだからな」
「いやはや、私はともかく、レイクフューラー辺境伯閣下を金蔓扱いとは、困りましたねぇ」
そう言うレンターケットの表情は言葉とは裏腹にどこか楽しげであった。
「ところで、何でキスカがあんなに恐い顔をして俺を睨んでいるのか知らないか」
「それは私の知るところではありませんね」
「それはなんか知っていそうな口ぶりだぞ」
「私の所管する業務ではありませんから、回答致しかねます」
「この役人めっ」
レンターケットとこそこそ話し合うレオポルドの背中を睨みながらキスカはこっそりと呟く。
「出かけるって、二人きりじゃないんですか……」