一一八
一一八
「レオポルド様。街中でこのような文書が売られていました」
そう言ってキスカが差し出したのはのったくったミミズのような文字が綴られた紙切れだった。書かれているのはムールド人と更に南に住むハルガニ人が使う文字だった。
「何て書いてるんだ」
レンターケットと共に事務仕事をしていたレオポルドは紙切れを眺めながら尋ねた。ムールドの言語をいくらか勉強している彼はいくつかの単語は読めるものの、文章を読むことは難しかった。
「先の議会の議事の模様を報道したものです」
つまり、これは新聞みたいなもののようだ。議会は野外で行われ、ファディに住むカルマン族は概ね帝国語を解している為、多くの市民が議会の模様を見物に来ていたが、見物に行けなかった者も少なくないだろう。そういった市民に向けて新聞を発行して売るという商売を始めた者がいるらしい。
「議会での主な発言と決議された議長及び副議長の人事について記述されています。概ねレオポルド様の思惑通りに議事は進んだ。レッケンバルム派はシュレーダー卿を議長に推薦したが、多数派を形成できず失敗した。ムールド人議員団はまとまりがなく、議長人事を主導することができず、副議長人事を巡っても紛糾した」
キスカが簡易なムールド版新聞を読み上げていく。ここまでは概ね議会の模様を描写した通りだ。
「ムールドが名実ともに帝国の支配下となり、ムールド伯レオポルド閣下の支配を受け入れることとなった今、我々は結束して、ムールド人の権利を守り、公正な統治を求めて行かなければならない。過去の因縁やしがらみを捨て去り、一つにまとまって新たな時代を乗り切っていくべきではないか」
続けて読み上げられたのは筆者の論説だろう。
「このパンフレットを書いた方は中々先見的な考えをされているようですな」
レンターケットが感心したような感想を述べる。
「如何しましょうか」
「如何も何も放っておけばいい」
レオポルドはそう言って机の上の書類に目を落とす。
「しかし、全てのムールド部族が結束して、一つになることはレオポルド様の統治の障害になりはしませんか」
自身もムールド人であるにも関わらずキスカはそのような懸念を口にした。
確かに全てのムールド諸部族が結束し、一つの勢力としてまとまることはレオポルドにとって大きな脅威になりかねない。彼の支配下にある民の大半はムールド人であり、彼らの一致した要求を拒むことは不可能だろう。これを防ぐ為に、レオポルドは全ての部族が結束できないよう様々な方策を取っている。
この新聞のようなパンフレットのような紙切れに書かれた論説はレオポルドの目的を阻害するのではないかとキスカは危惧しているらしい。
「これくらいの文章で考えを変えたり行動を取ったりできるほど人間は単純じゃないし、利口でもないからな。気にする必要はない。それよりも犯人捜しをやって、強権的な政府と見られる方が彼らの団結を促進しかねない」
手にした道具は使いたくなる或いは手にした力を行使したくなるのは当然の欲求ではあるが、それでは統治者としては失格の烙印を押さねばなるまい。手にした力を無駄に振り回すのは愚策というものだ。
強権的な力によって反抗勢力やその予備軍を抑え付け、恐怖によって支配するのも一時は有効かもしれない。とはいえ、それが長続きするとは限らないものだ。その力が失われた時、或いは統治者が死に、後継者の時代となった時もそれを続けることができるのか。
レオポルドはムールド人の主としてムールドに君臨したいわけではなく、それよりは自身が安定的にムールドを統治できる基盤を整え、その地位を平和的に後継者に遺すことができる環境を作りたいのである。
ムールド人の自由を抑圧し、強権的に振る舞う施策はこの目的に悪影響しか齎さないだろう。
「力を行使する者は三流である。力を誇示する者は二流である。力を隠す者こそ一流である。と、古代の哲学者が言っている通りだ」
レオポルドが古典の文句を諳んじると、隣に立っていたレンターケットが呟いた。
「その哲学者は、いざ自分が権力を握ると独裁官に就任して政敵を次々と粛清し、恐怖政治を敷いたものの、それに反感を抱いた民衆に襲われて袋叩きにされ、その死骸は一年間晒し者にされたそうです。いやはや、言行不一致とはまさにこのことですなぁ」
「反面教師というやつだ」
レオポルドは素っ気なく言い、キスカは無表情で突っ立っていた。
「キスカ。悪いんだが、シュレーダー卿を呼んできてくれないか」
「どちらのシュレーダー卿でしょうか」
シュレーダー家はサーザンエンドでは高位の貴族であり、代々多くの有力者を輩出してきた家柄である。その為、シュレーダー家は父子で伯領議会に議席を与えられていた。
父ヨハン・シュレーダーは伯領総監となることが内定しており、その息子ゲハルト・シュレーダーはレオポルドに近い立場を明らかにしている議員の一人だった。
「二人ともだ」
老シュレーダー卿とも呼ばれるヨハン・シュレーダーは真っ白な山羊のような髭を蓄えた痩せ細った老人だ。この頃は脚の調子が良くないようで背を曲げ、杖を突いている。濃緑色のローブを着て、赤い頭巾を被っていた。
老父に付き添うように隣に立つのは子息のゲハルト・シュレーダー。若シュレーダー卿と呼ばれることもある。その呼び名は父親と区別してのもので、年齢的には四十代半ばであり、それほど若くはない。常に灰色の髪と髭をきっちりと整え、生真面目そうな表情を崩さない人物である。
「シュレーダー卿。御足労感謝する。まずはそこに」
「いえ、閣下。お気遣い痛み入ります」
レオポルドが椅子を勧めると老シュレーダー卿は恐縮しつつも言われた通り、腰を下ろし、若シュレーダー卿はその隣に立った。
「お二人を呼んだのは他でもない。伯領総監への就任を正式にお願いしようと思った次第だ」
レオポルドの言葉に老シュレーダー卿は曲がった背筋をどうにか伸ばして応えた。
「私のような老いぼれを起用して頂き光栄の極みというもの。老骨に鞭打ち励む所存です」
老シュレーダー卿を伯領行政のトップに就ける理由は前述した通りである。サーザンエンド貴族の有力者であるレッケンバルム卿に権力を握らせない為には、彼を抑えられる人物をその上に置くしかない。老シュレーダー卿はレッケンバルム卿より一回りも年上であり、家柄も引けを取らない。辺境伯の宮廷でも法務長官をはじめとする重職を務めていたから経験にも不足ない。
「ゲハルト殿には法務長官をお願いしたい」
法務長官はその名の通り、法務行政を司る。
伯領政府において法務行政は極めて重要な分野と言える。というのも、ムールド伯はレオポルドによって創始された為、その領地を統治する法整備が未だほとんど為されていない。その上、ムールドにはムールド諸部族の慣習もあり、これと帝国法、サーザンエンド辺境伯領での過去の法令とを矛盾なく整備することは極めて難しい問題なのだ。
若シュレーダー卿はサーザンエンド辺境伯領高等法院の評定官を務めていたことから法務行政に明るく、父ヨハンも法務長官を務めていた経歴もあり、適材と言えるだろう。
「微力ながら閣下とムールドの為、尽力致したいと思います」
レオポルドの要請に若シュレーダー卿は表情を変えることなく慇懃に頭を下げて応え、顔を上げてから尋ねた。
「して、他の長官職は如何なさるおつもりですか」
「ある程度考えているが、総監と卿の意見も拝見したい」
レオポルドの示した案にシュレーダー父子は異論なく同意し、指示を受けたキスカが部屋を出た。
呼び出されたのはレオナルド・エティー卿とレオン・ジル・ブラウンフェルス卿である。両名とも伯領議会に議席を持つサーザンエンド貴族であり、レオポルドに近しい立場である。
エティー卿はサーザンエンド辺境伯領高等法院筆頭評定官を務めており、若シュレーダー卿の同僚でもあった人物である。レッケンバルム卿の妹の夫でもあり、卿に近いと見る人も少なくなかったが、以前からレオポルドに法律面での助言を行い、先の議会ではレオポルド派として行動している。
すらりと背が高く、立派に整えた口髭を蓄えた紳士で、常に険しい顔つきをしている。その性格は極めて冷厳で、高等法院評定官時代には容赦ない厳しい取り調べと一切の情状酌量を認めない冷酷な判決で恐れられたという。
「エティー卿には内務長官を務めて頂きたい」
内務長官は主に伯領内の治安維持を担当し、その他に統計調査や部族対策、宗教政策などを所管することになる重職である。
治安維持は何よりも優先される行政の最も根源的な役割であることは言うまでもない。治安が不安定では経済活動は満足に遂行されず、需要を喚起することも投資を呼び込むことも不可能となるだろう。
レオポルドは犯罪の撲滅、徹底した治安維持活動の為、「冷血判事」と名高いエティー卿を抜擢したのだ。サーザンエンドからムールドへと侵入せんとする悪党どもはこの報に震え上がり、ムールドにおける不法の徒も直にエティー卿の名を聞くだけで逃げ出すようになるだろう。
「卿には、まず、ムールドの安定化に向け、治安機関の設立と運営をお願いしたい。また、ムールド諸部族の人口把握などの統計調査は、我々にとって極めて重要な課題の一つであり、その遂行に全力を尽くして頂きたい」
「畏まりました」
エティー卿は慇懃に頭を下げたが、すぐに顔を上げて険しい表情のまま言葉を続けた。
「しかしながら、地域の治安維持と安定化を齎すには犯罪に対し厳罰によって報いるだけでは不十分です。まず、一つは十分な教育と雇用政策、救貧政策によって貧困を根絶することが重要です。多くの犯罪の根源的な要因は貧困であることは明らかというものです。次に地域の安定化には地域住民、つまり、ムールド諸部族の協力が不可欠。この二つを実行する為、私の配下にはムールドの事情に詳しい者、できれば、ムールド人の有能なる者を起用しなければならないと考えます」
レオポルドは「冷血判事」の噂とは違ったエティー卿の一面を見て、一瞬呆気に取られたものの、言っていることは極めて的確であることを認めた。
「その通りだ。適任なる者を就かせよう」
レオポルドの応えにエティー卿は満足そうに頷いた。
彼の隣に立つブラウンフェルス卿は小柄で小太りの男だった。背の高いエティー卿よりも一回り背が低く、年齢も一回り下だが、エティー卿が未だに豊かな髪を維持しているのとは対照的に彼の頭髪はかなり後退していた。
「ブラウンフェルス卿には院内総務を任せたい」
院内総務は正確には長官職というわけではないが、その職責は長官職と同じくらい重いものがある。その主たる役割は政府と議会の間の調整である。
伯領議会は形式的なお飾りの議会というわけではなく、伯や伯領政府の施行する法律は議会で審議され、可決されなければ有効ではない。
しかし、レオポルドに近い党派は議会内で多数派を形成できておらず、議席の半分近くを有するムールド人議員の動向は不透明というのが現状である。議会対策は極めて重要と言えるだろう。
この議会対策の責任者が院内総務である。まず、第一の任務はムールド人議員の中に確固としたレオポルド派を形成することになるだろう。
彼らの他、ウェンシュタイン男爵家の家臣であったクレメンス・ヴァン・キルヴィー卿を外務長官。カール・ウルリヒ・マウリッツ卿を財務長官。レッケンバルム卿に近いサーザンエンド貴族のゲオルグ・ハルトマイヤー卿を宮内長官に任命することとされた。
レオポルドは彼らウェンシュタイン派がどれほど自身に忠誠心を抱いているのか、確信を持てないでいた。特に家臣団の筆頭であるキルヴィー卿はレッケンバルム卿に近い性質の策謀家である節があり、油断ならない人物と考えていた。
彼を外務長官に任じたのは主な外交先である帝国本土との交渉では、帝都に繋がりのないサーザンエンド貴族やムールド人では不適であるからだが、ムールド統治に直接関与しない役職であるからだ。
マウリッツ卿はウェンシュタイン派の長老格であり、温厚な人格者という評判であった。長くウェンシュタイン男爵家の財務を担当してきた経歴を持っているが、一男爵の荘園経営と伯領の財政では規模が違い過ぎ、卿の財務能力は未知数と言えた。
とはいえ、バランスを考えれば、ウェンシュタイン派から二人は長官職に任ずる必要があり、キルヴィー卿に次ぐ地位にある卿を空位のまま放置するわけにもいかない。言うなれば、残った席に残った人物を当てはめただけの話である。安直な人事と言えるが、レオポルドは伯領の財政と経済政策は自らとその顧問によって主導しようと考えていた為、あまり強力で自我の強い人物でなければ誰でもいいというのが本音であった。
ハルトマイヤー卿はレッケンバルム派議員の中では最年長であり、サーザンエンド辺境伯宮廷の衣装長を務めていたことから宮中儀式等には精通していることから宮内長官とされた。
とはいえ、レオポルドは貴族的な豪奢を嫌う性質で、宮中を構成する一族もいない為、宮内長官の役割はかなり小さいものになり、形式的な儀礼などの役割に留まるだろう。
伯領政府の中核を為すことになるのは経済政策と財政を自ら指揮するレオポルド、主に法整備を担当するシュレーダー父子、治安政策と統計調査を担うエティー卿、議会対策を担当するライテンベルガー議長とブラウンフェルス院内総務、それに実質的な軍事指揮権を握るバレッドール将軍と言える。これを副官のキスカ、官房長のレンターケット、兵站部門を統括するルゲイラ大佐、それに帝都から移住してきた多くの学者や官僚、技術者が輔弼することになる。
政府の中核となる面々はレオポルドの天幕でお茶を飲みながら、長官を輔弼する顧問官たちの人事について話し合いを続けていた。
「ところで、レッケンバルム卿の処遇は如何なさるおつもりですかな」
ゲハルト・シュレーダー卿の問いかけに他の面々が興味深そうな視線をレオポルドに向けた。
レッケンバルム卿の処遇は多くの人々が関心を寄せていることであった。伯領政府人事の中で最も注目されていると言っても過言ではないだろう。
レッケンバルム卿がレオポルドに心から服従していないことは誰の目からも明らかであり、隙あらば伯領統治の主導権を握ろうと画策していることは疑いようのないことであった。その為、レオポルドは彼に重要な権限を握らせないように配慮していた。
とはいえ、彼はサーザンエンド貴族の代表格であり、彼の影響力を受けているサーザンエンド貴族は少なくなく、独自の人脈や情報網を持っており、今現在ブレド男爵の支配下にある首都ハヴィナにすら影響力を持ち続けている。
レオポルドとしては彼に強い権限を持たせたくもなかったが、決定的な敵対関係になることも避けたかった。となれば、さほど実権のない適当な役職に就けてお茶を濁すより他にない。
しかし、あからさまな名誉職であったならば、レッケンバルム卿の矜持を傷つけ、敵対関係に陥ることは明確である。
そのことにレオポルドはここ暫く頭を悩ませてきた。
「総監府の上に枢密院を設け、卿には枢密院議長に就いてもらうことにした」
そこでレオポルドはムールド伯領政府の行政機関である総監府の上に枢密院という機関を設けることにした。枢密院は伯の諮問に当たり、総監府を指導する役割を担う。総監府やその下の行政機関の命令は全て枢密院において審議し、認可を受け、枢密院令として発布されることを定め、実質的な権限を持たせる。
「枢密院の構成はどうなさるおつもりですか」
「レッケンバルム卿の他、シュレーダー卿、アルトゥール卿、ジルドレッド将軍、キルヴィー卿、主任司祭、その他、ムールド人の有力者三人ほどを考えている」
ブラウンフェルス卿の問いにレオポルドが答えると、諸卿は渋い顔をした。
「となると、我々の立場に近いのは老シュレーダー卿のみということになりそうですな」
エティー卿が尖らせた口髭の先をつまみながら言った。
「枢密院がレッケンバルム卿の牙城になりはしませんか」
「その可能性は低いだろう。アルトゥール卿もジルドレッド卿も我々の立場に近いとは言い難いが、レッケンバルム卿の腰巾着になるような人間でもない。キルヴィー卿や主任司祭も同じだろう。ムールド人にとってレッケンバルム卿は天敵だ。枢密院は我々の思い通りになる機関にはならないだろうが、レッケンバルム卿にとっても思い通りに動かせるわけでもない」
レオポルドの回答にエティー卿は相変わらずの険しい顔のまま頷いた。
「それに、枢密院にあからさまに我々の立場に近い面々が顔を揃えていたら、レッケンバルム卿がへそを曲げるだろう」
レオポルドは、アルトゥールはあからさまな閑職に追いやったものの、レッケンバルム卿を同じような閑職に追いやろうとは考えていなかった。そんな地位に追いやられたならば、卿はレオポルドへの反感を強め、敵対関係は決定的になりかねない。権限を持たせたくないという点では両者は同じだが、その性質と影響力、政治力は大きく違うのだから、それぞれに適した処遇とするのは当然である。
「レッケンバルム卿は枢密院議長の役職で満足なさるでしょうか」
ブラウンフェルス卿が不安そうに言うとレオポルドは顔を顰めた。
「満足してくれなければ困る。が、あの手の御仁は自らの地位に満足するということはないからな」
レオポルドはそう言って疲れたように溜息を吐く。
「色々と企んだり、誰かを騙したりするのが生き甲斐みたいなものなのだろう。とにかく、自分で自分の敵をつくっては、敵を陥れて、自分の立場をより強いものにしたがるものだからな。帝都にはそういう手合いの人間ばかりだった」
レオポルドはうんざりしたように言い、ティーカップを持ち上げて、口を付けようとする前に、ふと自嘲するように呟いた。
「いや、俺も似たようなものか……」