一一五
「そろそろではないか」
レオポルドの言葉にネルサイ族の長老たちは顔を見合わせた。
今、ファディには全ムールドの諸部族の代表者が集まっている。レオポルドは今日から彼らとそれぞれ会談を行い、改めて主従関係をしっかりと構築し、特権や税に関する取り決めを確認するつもりだった。
部族の代表者は多くの場合、族長やその一族の長老であったが、ネルサイ族の代表としてレオポルドとの会談に臨んだのは部族でも経験豊かで世情に通じた老人たちであった。
ネルサイ族の族長一族はレオポルドに味方する振りをしながら裏切り離反した罪によって「ファディの夜」に尽く粛清されてしまっているのだ。女子供は実家に戻され、族長の血統を残しているのは粛清を実行したキスカただ一人という有様であった。
一応、キスカが族長代理という立場だったが、彼女はレオポルドに付き従い、ずっと部族を留守にしていた為、ネルサイ族では族長不在の状況が続いていた。
今回の代表者をファディに参集させよという指令にネルサイ族は困惑したが、とりあえず、部族でも経験豊かで世情に通じた長老たちを出席させることにした。
その長老たちがレオポルドの前に平伏し、ムールド伯就任と先の戦いの勝利の祝賀を述べ、贈り物の上等な敷物を差し出す。それに対してレオポルドは礼を述べ、彼らの忠誠を労り、謝礼として各々に金貨一〇レミューを下賜した。
その後、先に本題を口にしたのはレオポルドだった。
「そろそろ、と言いますと……」
ネルサイ族の長老の中でも最高齢の老人イブラムがしわがれた声を発した。
彼はさりげなくレオポルドの傍らに控える面々に視線を走らせる。
レオポルドの傍らにいるのは副官にしてネルサイ族の族長代理であるはずのキスカ。ムールド伯官房の官房長となったレンターケット。少し離れた場所に書記のコンラートとリズクが小机に着いて記録を取っていた。
「そろそろ、遊牧生活を止めてもいいのではないか」
ネルサイ族は親帝国である七長老会議派の中で唯一昔ながらの遊牧生活を続ける部族だった。他の六部族はそれぞれの町や村に居住している。
とはいえ、ネルサイ族は純粋に家畜を飼うことだけによって生計を立てているわけではない。彼らの収入の多くは貿易によるものと隊商の護衛によって齎されている。それらは遊牧しなければできない商売というわけではない。それどころか定住していた方が取引などでは便利なことが多い。
彼らが遊牧生活を続けるのは先祖代々続いてきた伝統によるところが大であり、実益は最早ほとんど無いに等しい。
部族の現状を熟知している長老たちがそのことに気付いていないわけがない。
それでも定住生活を送らないのはムールド人特有の伝統と慣習を重視する性質によるものだろう。
「ファディに諸君の住む地区を用意させよう。無論、それらの費用はこちらで負担する」
「お待ち下さいっ。閣下っ」
イブラムが声を上げる。
「不服かね」
レオポルドが目を細めると長老たちは気まずそうに視線を落とした。
「お恐れながら申し上げます。ネルサイが定住せずに遊牧の生活を続けたきたのは一〇〇代に及ぶ伝統でございます。易々とその伝統を捨て去ることなどできましょうか」
イブラムは深々と頭を垂れながら言った。
「それはカルマン族ら他の定住生活をしている部族も同じだろう。彼らは遊牧生活を続けるよりも定住した方が利が大きいと判断したから、このように都市を築いているのではないか」
カルマン族ら定住六部族も元は遊牧民だったのだ。彼らにできたことが何故ネルサイ族にできないというのか。
「古の教えを守ることが重要なことは私も理解している。しかしながら、時代と共に変わらなければならないことがあることも事実だ。伝統と慣習に拘泥して時代の流れに逆行することは部族を衰退へと導くことになりはしないか」
レオポルドの問いかけに長老たちは沈黙を続ける。
「言うまでもないことですが、時勢に逆らう輩がどのような命運を辿るか。よくよくお考えになることです」
キスカが無表情で氷のように冷たい声で言い、長老たちは表情を硬くした。
彼女が何をしでかしたのか知らない者などいるはずがない。特にネルサイ族の者にとっては重大な意味を持っている。
「お恐れながらお聞きしたいことがございます」
「何だ」
「何故、我々をファディに定住させようとなさるのですか」
疑問を持つのは当然のことだろう。説明もせずにいきなり定住しろ。と言い出すレオポルドの方が乱暴というものだ。
「諸君がファディに定住することには多くの利点がある」
イブラムの問いを道理と思ったレオポルドは説明を始める。
「まず、先の述べたように定住化は貴君らの利益になる。生活環境は改善され、商売もやりやすくなるだろう。諸君がより良い生活を営み、商売を活発に行うことはムールドの利益にもなり、私の利益でもある」
レオポルドは第一に経済上の利点を挙げた。
ムールド人は言葉では砂漠の戦士だの遊牧の民だのと気取ってはいるが、実際のところ、彼らの収入の多くは貿易によって齎されている。
東方や南洋の物産、塩の町で産する岩塩、翡翠の谷で採れる翡翠、その他の鉱石。オアシス近辺で栽培されるナツメヤシ。羊毛で仕立てられた毛織物。それらの物産を北へ南へ西へ東へと運び、帝国或いは異国の商人と取引することによって多くの財を得ているのだ
つまり、彼らの本質は商業民族なのである。
彼らの義理堅く仁義を尊び裏切りや偽りを好まぬ性質も商業的性格と相反するものではない。それらは彼らに信用を与える。彼らは部族や一族で何世代にも渡って商売を行うから、嘘偽りで信用を失うことは大変な損失に繋がる。詐欺や偽りによって得られる一時の利益よりも長期的な取引によって築かれる財を彼らは重視するのである。
レオポルドが第一に経済上の利点を挙げたのはこのような理由からであった。
「また、私としては力強い味方である諸君がムールドの首都であるファディにいてくれれば、安心して首都を留守にすることができる」
次にレオポルドは安全保障上の利点を挙げ、同時にネルサイ族に対する信頼を強調する。
「その上、近々正式に決定する政府や軍の人事ではネルサイ族から有能な者を少なからず起用する予定だ。政府の役職に就いた者は当然ながらファディに居てくれなくては困る。軍にも多くのネルサイ族の者が参加するだろうから、残された家族も落ち着いた生活先があった方が良いだろう」
レオポルドの説明に長老たちは顔を寄せ合い、小声で話し合う。
ネルサイ族をファディに定住させる利点は少なくない。前述の通り経済上、安全保障上、大変有益である。
ファディの人口を増やすことはレオポルドの大きな目的の一つでもある。人口が多いことはそれだけ市場が大きくなることであり、経済規模の拡大に繋がる。徴兵可能な人員が増えるという軍事上の利点もある。その為に需要を喚起して、仕事を増やし、食糧の安定供給と増産にも取り組んでいるのだ。近いうちには病院や学校も建設、整備し、人口の増大を支える計画も立てている。
長老たちは渋い顔で話し合った後、レオポルドに向き直った。
「古より続く伝統的な生活を捨て、新しい道を歩むとなると、それが合理的で利益を生むと分かっていても中々踏み出せないものです」
イブラムの言葉にレオポルドは黙って頷き、理解を示す。
「我らの生活に大きな影響を与え、将来をも変えかねない決断でありますから、一度、持ち帰り、部族の衆と話し合い、御返答致したいと思います。何卒、御理解頂けますようお願い申し上げます」
そう言って長老たちは平伏する。
ムールドの部族は族長や一部の者が特権的な地位と権力を握る社会ではない。勿論、有力な者とそうでない者の間には発言力に大きな違いはあるものの、部族にとって重大な事態に際しては成年に達した男たち全員の話し合いで決められる。この部族会議を無視した決定は無効とされるのが慣例であり、長老たちがこの場で明確な決断を示せないことは当然というものであった。
「宜しい。よくよく話し合って決めて頂きたい」
その辺りの事情はよく理解しているレオポルドは寛大な態度を見せ、回答を猶予した。
「ところで、予てより要望のあった件だが」
そう言って彼は傍らに控えるレンターケットに視線をやる。
レオポルドは予めレンターケットに命じて、諸部族からの要望や陳情、希望、意見などを取りまとめさせていた。
レンターケットは要望をまとめたメモをレオポルドに手渡す。
ネルサイ族からの要望は兵役に就いている兵の帰還について。そして、族長の件だった。
ネルサイ族は早くからレオポルドに従い、その軍の主力を担ってきた。そのことは彼らの発言力を強めもしたが、同時に経済的な疲弊を招くことに繋がっていた。
ネルサイ族はそれほど人口の多い部族ではない為、若い男子の多くが軍に参加しているのが現状である。一家の柱や稼ぎ頭、若い男手がいなくなった家族の困窮は言うまでもない。それが短期間ならばまだしも既に一年以上の長期に渡っている。
その為、ネルサイ族からは早期に兵役から解放してほしいという要望が強く出ていた。せめて、他の部族からも公平に徴兵し、兵役期間を定めるべきだというのだ。
「兵役によって諸君に大きな負担が圧し掛かっている現状は憂慮すべきものであり、早急に改善したいと思う。しかしながら、現下のムールド情勢は不穏な状況である。周囲には敵対的な勢力が多く、軍を縮小し、兵たちを帰宅させることは難しい」
「仰る通りでございます。ただ、どうか寛大なるご配慮を頂けますようお願い申し上げます」
「考えておこう。遠からず新たな徴兵制度を整備したいと考えている。その折には長く兵役に就いている兵たちが帰宅できるよう配慮しよう」
レオポルドとしても現在の兵制は改善したいと考えているところだった。
兵役の長期化は兵たちの士気低下にも繋がり、経済活動の停滞も招く。改善が求められる事項でもあったのだ。また、特定の部族だけに将兵の供給を依存することは避けたいところであった。
「族長の件だが……」
レオポルドがそう言いかけると、ネルサイ族の長老たちは期待を込めた目で彼を見つめた。
ネルサイ族では長きに渡って族長不在が続いている。前の族長であったキスカの父の死後、族長の地位の継承は部族中の問題であり続けた。ムールドの慣習によれば族長の地位はその末の男子に継承されるのが慣わしである。男子がいない場合は女子の婿が継承し、子がいない場合は甥の中から適任の者を養子に迎えて族長の地位を継承させる。
父亡き後、ネルサイ族ではキスカの婿を誰にするかで部族内に対立が起こり、一時的にキスカの伯父カリエイが族長代理の地位に就いていた。
その後、キスカの婿にはカリエイの子オルバイが選ばれたが、そのキスカによって彼らは尽く粛清され、彼女が族長代理の席に就いているのが現状である。
キスカはレオポルドと婚姻した為(帝国法、教会法では正式な妻ではないが、ムールドの法では正式な妻である)、ムールドの慣例によるならば、族長の地位はレオポルドが継承するはずである。
ネルサイ族としてもレオポルドを族長に迎え入れることは歓迎すべきことであった。
ムールド人の同胞意識というものは人種や宗教、言語ではなく、血縁関係によるものである。
彼らは同一の先祖ムールドの子孫であるという認識があり、ムールド人たちが外部の介入を嫌うのは異教徒、異民族を排外するという意識によるものではなく、血の繋がりのない他人に身内のことに口出しされたくないという感情によるものなのだ。
その為、縁戚関係を結んだレオポルドはムールド人の認識では同胞として迎え入れることに抵抗は少なく、族長として頂くことにも大きな問題は生じないのである。
また、ムールド伯レオポルドを族長として頂けばネルサイ族の権威と存在感、発言力は今以上に格段に高まることは言うまでもない。ネルサイ族の族長がムールド全体を統べることは彼らにとって格別な意味を持つ名誉であった。
「諸君が私の族長就任を希望していることは光栄に思う。その地位に就くことは吝かではない」
レオポルドの発言に長老たちの顔色は目に見えて明るくなった。
「とはいえ、私は基本的にファディに滞在する身だ。遊牧民であるネルサイ族を族長としてまとめていくことは極めて困難である。諸君が定住生活を選ぶならば、族長の職を務めることに支障は少なく可能であると考える」
彼は族長就任の条件はネルサイ族の定住化だと明言した。
長老たちは再び額を寄せ合って話し合い、レオポルドに向き直った。
「必ずや、閣下に良いお知らせができるよう善処致します」