一〇七
年の始めにムールドを発したレオポルドが再び南部の土を踏んだのは、帝歴一四〇年も半分が過ぎた頃であった。
帝国本土の港湾都市アルヴィナを出港したレオポルド艦隊は七隻で成っていた。
帝都に向かうときに借りたダウとガレー、途中で手に入れた元海賊船のジーベック、帝国海軍から払い下げられた五〇門戦列艦と二八門フリゲート、それに二隻のブリッグ・スループという小型の軍艦である。
船を動かす水夫はアルヴィナで徴募した元帝国海軍の水兵たちだ。滅多に海戦が起きない為、帝国海軍は多くの水兵を解雇しており、仕事を探している元水兵は少なくなかったのだ。
元々商船であるダウと戦列艦には大量の荷物を積み込み、人員を乗せるスペースは十分にあるが、他の船にはあまり余分なスペースはなかった。
レオポルドが持ち帰る荷物は大砲や銃火器や弾薬の他、ムールド産のものよりも大きな帝国本土の馬や羊、南部では手に入り難い物産、航海中の食糧と水などなど。
人員はレオポルドに随行して本土までやって来た将兵や人夫の他、ウェンシュタイン男爵家の家来たちとその家族、帝都で編成させた傭兵連隊、南部の発展に寄与してもらおうとレオポルドが勧誘し雇用した学者や技術者たち。それに水夫を合わせると総員は三〇〇〇名にも及ぶ。
それらの荷物と人員をどうにかこうにか積み込んで艦隊はアルヴィナを出港し、およそ半月の船旅を経て帝国南部西岸部カルガーノに到着したのだった。
「レオポルド様っ。お待ちしておりましたっ」
カルガーノに着いたムールド伯レオポルドを待ち受けていたのは出迎えに現れたカルガーノの市参事会のお偉方の他、数人のムールド人だった。いずれもレオポルドが編成したムールド人軽騎兵連隊で士官を務めている者たちだ。
レオポルドの船団がカルガーノの港に入り、レオポルドがおよそ半年ぶりに南部の土を踏むなり、彼らは参事会の面々を押し退けるようにして駆け寄り、真っ先に声を掛けたのだ。
「おぉ、久しぶりだな」
数ヶ月ぶりの再会にレオポルドは顔を綻ばせるが、ムールド人士官たちの顔は険しい。
「ムールド伯に叙任されたとのこと、まずはお祝い申し上げます」
ムールド人軽騎兵連隊の大尉を務めるイルマンという髭面の若者が祝いの言葉を述べた。彼は七長老会議の一員であるジッダ族の族長の子息で、この中では最も年長で階級も上である。
「しかし、一刻も早くお伝えせねばならぬことがあり、急ぎ参った次第であります」
「あぁ、アルトゥール殿とエリーザベト嬢の婚約の話か。それは聞いている。いくら当人同士の同意があろうとも、私に無断でそのような話を進められては困る」
レオポルドはありありと不快感を表す。傍らに立つキスカも不機嫌そうに顔をしかめて頷く。
「何にせよ。ファディに着いたら話をするつもりだ」
「確かにその件は一大事ですが、それ以上に重大な問題が起こりました」
イルマンの鬼気迫る表情にレオポルドは嫌な予感がした。
「ブレド男爵とウォーゼンフィールド男爵の連合軍総勢六〇〇〇がムールドに南下しております」
「なんだとっ」
その報告にレオポルドは思わず叫んだ。船から荷降ろしの作業をしている兵や人夫が一斉に視線を向けてくるほどの大声だった。
しかし、これが叫ばずにいられようか。
「ブレド男爵は北のガナトス、ドルベルン両男爵と睨み合いをしているのではなかったのかっ」
南都ハヴィナを落とし、ウォーゼンフィールド男爵と手を結んでサーザンエンド中部を手中に収めたブレド男爵に、サーザンエンド北部を領する帝国人系領主ドルベルン男爵とアーウェン人系領主のガナトス男爵は警戒感を抱いた。
その結果、関係の悪かった両者は一時的に手を結んで、ブレド男爵に圧力をかけ、両勢力は一触即発の状況に陥っていた。
そういったサーザンエンド北部と中部の情勢によってレオポルドは比較的自由に行動する余裕を得た。ムールドを留守にして、帝都まで足を運ぶことができたのはその為である。
それが何故、こんなにも早くに六〇〇〇という大軍を編成して南下してきたというのか。六〇〇〇ともなると、ブレド、ウォーゼンフィールド両男爵が動員できるほぼ全軍といっていいだろう。
「六〇〇〇の兵を動かせば、サーザンエンド中部は空同然だぞ。北への備えはどうするつもりなのだ」
「私どもに詳しい話は回ってこないのですが、レッケンバルム卿が仰るにはレオポルド様がムールド伯に叙任したという話を聞いた男爵方はサーザンエンドからのムールド分離に反対するという方向で意見が一致したとか」
レオポルドは不機嫌そうに舌打ちした。ムールド人に情報を回さないレッケンバルム卿に対しての不満からでもあったが、四男爵の動きも彼の機嫌を十分に損ねた。
どうやら、男爵たちはかなり早くにレオポルドのムールド伯叙任の話を聞きつけ、その点に関して断固反対という立場を同じくしたらしい。
ムールド伯という地位を認めることはサーザンエンドからムールドが分離することを認めることと同義だ。
彼らもムールドは手を加えれば金を生み出す土地柄に変化できるということを知っている。ムールド人を手懐けることができないのが問題であって、その問題さえクリアすれば、手つかず同然の鉱山は富の源泉となり得るし、貿易の中継地としての利用価値も十分にある。
また、レオポルドがムールド伯になったことはサーザンエンド辺境伯の座を狙うレースの先頭に立ったことを意味していると言っても過言ではない。他の男爵よりも格段に広い領域の支配権を公式に認められ、帝国本土に対する発言力、影響力も格段に大きいのだから。
前述の理由から、男爵たちは自分たちの争いを一旦棚上げしてでも、一歩先んじたレオポルドを協力して叩くべきだと判断したのだろう。
皇帝から公式にムールドの支配権を与えられたレオポルドを攻撃することは帝国に反抗する行為と帝国政府に受け取られる可能性はある。
しかしながら、武力によって既成事実を作り上げてから、後で異端や反逆の容疑をかけてしまえば黙認されることが多いのも現実である。死人に口なし。敗者に権利などないのだ。
四男爵は武力によってレオポルドを排除し、帝国政府には後で言い訳すればよいとでも考えているのだろう。言い訳するときには贈り物が付いていることは言うまでもない。
男爵たちの迅速な行動はレオポルドにとって大きな誤算だった。彼は対立していた男爵たちがそれほど容易に共同に団結できるはずがないと考えていたのだ。
「そこで、レイナル捜索を行っていた二個連隊は捜索を断念して、モニスに帰還。バレッドール准将指揮下の三個連隊は構築中だった北部防衛線に拠って、ブレド男爵軍を迎え撃つべく待機しています。ファディや周辺の集落に移動していた住民の多くは再びモニスへと避難を始めています」
「クソッタレめっ」
イルマンの説明にレオポルドは不機嫌と不快を露わにして悪態を吐く。
とても出迎えの挨拶などできないと思った市参事会の面々は来た道を戻り、レオポルドも彼らには目もくれず背後に控える部下に指示を飛ばす。
「聞いての通りだ。下船作業を急がせろ」
指示を受けてジルドレッド大尉は船に向かって走り出す。
「コンラート。非戦闘員は暫くここで待機してもらうことになる。宿の手配を頼む。リズクはカルガーノ中から弾薬、糧秣、それに馬、駱駝を掻き集めろ。金はレイクフューラー辺境伯が出す。キスカ」
「直ちに斥候と伝令を走らせます。バレッドール准将には何と」
傍らに控えた彼の忠実なる副官は自分の役割を十分承知していた。
レオポルドは少し考えてから口を開く。
「住民をモニスに避難させる時間を稼がせる。できる限り損耗を抑えながら後退せよ。ファディは失陥しても構わん」
「承知いたしました」
キスカは踵を返して、馬を乗せた船に向かった。
「いやはや、帰って早々大変なことになりましたなぁ。長い船旅で疲れた体をゆっくり休む暇もないとは」
指示を受けて走り出した連中を見送ったレンターケットが苦笑いを浮かべて言った。
「まったくだ。男爵たちも少しは大人しくしていて欲しいものだ」
「男爵方の情報収集能力を甘く見ておりましたな」
レンターケットの言う通り、レオポルドは男爵たちの情報収集能力を甘く見ていた。所詮は辺境に土着化して数世代を経て帝都に行ったこともない田舎貴族と帝国に降伏した異民族の有力な豪族と侮っていたのだ。彼らに帝都との繋がりがあるはずもない。あったとしても、それは非常に細い紐で、情報の伝達にはかなりの時間を要すると考えていた。
確かに、彼らにはレオポルドほど帝都との有力な繋がりはなかったが、レオポルドのムールド伯叙任を一ヶ月程度の間に聞きつける情報網は持っていたようだ。
「帰国を急いで正解でしたな」
「レッケンバルム卿とアルトゥールとエリーザベトのおかげだな」
レオポルドは心底機嫌悪そうに皮肉を言ってから、ハワード・ドレイクを呼ぶように命じた。
ハワード・ドレイクはグリフィニア人の傭兵隊長である。
父親はグリフィニアのさる伯爵、母親はそこらの町娘であった。つまり、彼は貴族様が町娘に手を付けて孕ませた庶子なのである。この時代にはよくある話であり、家を継ぐ権利を持たない子が軍隊に入るのもよくある話である。
ハワードは最初グリフィニア海軍に入ったが、酷い船酔い体質であることが発覚して船を降り、陸軍に転じた。
いくつかの国の軍隊で経験を積んだ後、傭兵稼業を始めた。父と兄は庶子の彼にもある程度の財産を寄越してくれる程度の気前の良さがあり、その資金を元手に傭兵稼業を始めて十数年になるという。
幾多の戦場を渡り歩き、数多の戦いを生き抜いてきた生粋の軍人である。戦場に身を置いて十数年も野垂れ死ぬこともなく生きていること自体が、彼の軍人としての資質の証左であると言えよう。
とはいえ、平素の彼はただの酔っ払いのおっさんにしか見えない。
茶色い髪と髭は伸び放題で、鳶色の瞳は濁り、頬はこけ、酒を飲んでいないときは顔色が悪く、酒を飲んでいるときは赤ら顔であった。
覚束ない足取りでやってきたハワード・ドレイクは薄汚れた緑色の軍服を肩に引っ掛け、三角帽を頭に乗せていた。
「お呼びですかな。閣下」
そう言ってからハワード・ドレイクは大きなゲップをした。ドレイク傭兵団の酔いどれ団長は今日もいつも通りだった。つまり、酔っ払っていた。両隣に立つ副長のトマス・バーンと主計長のイレーヌ・リブルが顔を顰めた。
吐く息が猛烈に酒臭く、レオポルドは眉間に皺を寄せて、思わず苦言を漏らす。
「酒臭いぞ」
「酒に酔わねば船に酔うもんでしてね」
ドレイクはそう言って、くっくっくと笑う。
レオポルドは呆れたように嘆息するが、すぐに気を取り直す。ハワード・ドレイクがどうしようもないほどの飲んだくれなのは以前から知っていたことであり、それを承知の上で彼を雇ったのは自分だ。
「敵軍が我が領に侵攻しつつある。早々に出立できるよう準備を整えよ」
「おやおや、もう戦ですかな」
ドレイクは再び愉快そうに笑う。
「遺憾ながらその通りだ。準備が整い次第、カルガーノを発つ。その前に君の連隊を閲兵したいと思う」
「承知致しました。ウェげぇっぷっ」
ハワード・ドレイクの盛大なゲップにレオポルドは何も言う気を失くして、その場を後にした。
翌朝、貴族らしく朝食をとった後、キスカとレンターケットを従えたレオポルドはカルガーノの郊外に設けられた即席の閲兵場へ向かった。閲兵場と言っても、実態は街道脇のだだっ広い平坦な野原である。そこにハワード・ドレイクが徴募し、訓練した一二〇〇名の将兵が整列している。
ずらりと並んだ兵達は揃いの軍服に身を包んでいる。白いシャツに緑色の丈の短い上着。紺色の長ズボンに革のブーツを履いている。三角帽をかぶり、ほとんど全財産が詰まった背嚢を背負い、腰に銃剣を提げ、マスケット銃を担いでいた。
紅色の軍服に身を包んだレオポルドは馬上から彼らを閲兵する。
「帝国は勿論、クライスからも壮健かつ勇猛な男たちを寄り集めました」
レオポルドに従う連隊主計長イレーヌが言う通り、確かに整然と並んだ兵たちは背は高く、体格も良く、屈強に見える。背をぴんと伸ばし、微動だにせず真っ直ぐ前を見据えている。
「ふむ」
馬を歩ませながら、レオポルドは鼻を鳴らす。
横隊の端から端まで進んだ後、不意に馬から下りると、兵と兵の間に割って入った。
最高指揮官の突然の行動に兵達はぎょっとした顔で彼の進路から体を避ける。
レオポルドは最前列に並んだ屈強に見える兵の間を通り、その後ろに並んだ、それほど体力もなさそうな貧弱な体つきの若造と顔付きの悪いそこらの浮浪者か監獄から引っ張って来たと思しき連中を眺める。兵の数も一二三〇が定数のはずだが、一〇〇か二〇〇は少ないに違いない。
「壮健かつ勇猛な男たち、ね」
レオポルドが呆れたように苦笑を浮かべて振り返ると、相変わらずふらふらとした覚束ない足取りのドレイクはニヤニヤと笑みを浮かべ、バーンはいつも通りの仏頂面。イレーヌは素っ気ない顔で空に浮かぶ雲なんかを見ていた。
ともあれ、兵たちは全員軍装に身を包み、マスケット銃を担いで整列している。それだけで十分というものだ。
レオポルドは馬上に戻ると、居並ぶ連隊幹部たちを見下ろす。
「よろしい。準備が整い次第、可能ならば今日明日にも連隊をハジまで向かわせよ。私は砲兵と輜重隊を組織し、後から追う」
ハジはムールドの北西の端にあるキオ族の町である。貿易の中継地であり、ムールドではファディの次に大きな町である。歩兵であればカルガーノから半月以上かかるだろう。
「了解しました。明朝にはカルガーノを発しましょう」
ドレイクはそう言って、いつもの如く酒臭いゲップを放った。
レオポルドの傍に侍るキスカは「こいつに任せて大丈夫なのか」と怪訝そうな顔をしたが、とりあえず、自分が生まれた頃から戦場に立ち続けるベテラン傭兵隊長の経験を信じることにして、開きかけた口を閉じた。せめて作戦行動中は酒を止めろと言いたかったが、レオポルドが何も言わないので黙っていることにしたのだ。
ドレイク連隊の状態に満足したレオポルドはカルガーノに戻り、他の部下たちに指示を飛ばした。キルヴィー卿とディーテル卿の弟、ムールド人士官のイルマンらには連隊に同行するよう指示し、自身の名代と道案内を務めるよう命じ、マルトリッツ卿とレンターケットにはカルガーノに残る非戦闘員のまとめ役、ディーテル卿には艦隊の管理を任せる。
また、大砲の牽引と大量の糧秣や水、弾薬を輸送するには多くの駄獣、輓獣が必要となる為、カルガーノ中から馬や駱駝、驢馬を掻き集めた。
数百頭にも及ぶ馬や駱駝、驢馬、羊や牛などの家畜を集め、砲と物資を輸送する支度が整ったのはレオポルドがカルガーノに到着して一週間ほどした頃だった。レオポルドはそれらの部隊をまとめて、カルガーノを発ち、ムールドへと向かった。