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サーザンエンド辺境伯戦記  作者: 雑草生産者
第六章 ムールド伯
111/249

一〇六

「あぁ、こんにちは。お邪魔してるわ」

 リーゼロッテは何でもないことのように言って、手にしていたティーカップを傾けた。

 ぴったりとした藍色の更紗の軽やかな装いで、スタイルの良い彼女が身に纏うと美しく細い体躯を際立たせている。

 彼女の背後にはフライベル家の女使用人テレザが無表情で突っ立っている。

「いいお茶ね」

「ありがとうございます」

 向かいの席でそう言って微笑んだのはアイラである。

 こちらはムールドの伝統的な精微な刺繍の施された身体の線が目立つ紅色の衣で身を包んでいた。女性的な体つきが強調され、女性的な魅力を放っている。

 アイラの後ろにはソフィーネが突っ立っていて、レオポルドをじろりと睨んだ。

「あぁ、ようこそ。狭い屋敷だが」

「一家族が暮らす分には十分な広さでしょ。王侯の屋敷が馬鹿みたいに広いのはつまらない矜持と見栄と虚勢でしかないんだから」

 リーゼロッテはそう言って鼻を鳴らす。

 彼女の相変わらずの言動にレオポルドは呆れつつ、一瞬アイラに視線を向ける。この二人はどこまで話しているのか。

 レオポルドはキスカとアイラを妻としているが、これはムールドの慣習に則ったものであり、帝国他西方諸国における民法と言っていい教会法においては無効な婚姻である。

 そもそも、教会法は一夫一妻を定めており、正教徒以外との婚姻を禁じている為、複数のムールド人妻を持つことは明らかな違法行為である。

 とはいえ、そんなものは教会に言わなければいいだけの話であり、何か言われたときには聖職者の妻に贈り物でもすれば大抵、御咎めはない。言わずもがなだが、教会法上、聖職者の妻帯は禁止されている。

 従って、教会法ではレオポルドは未だ独身の身であり、リーゼロッテが婚約、婚姻することは法律上何の問題もないのだが、それはあくまで法律の話だ。結婚する当人たちがどう思うかなんてことは全くの別問題なのである。

 王侯貴族の中には公然と愛人を囲っている者も少なくないし、侍女やら領民の娘やらに片っ端から手を付ける不届きな輩も少なくない。妻以外に寝所を共にする女が二人いるくらい珍しいことではないが、それは夫婦の関係性によって許されたり許されなかったりするものである。公然と許されている場合もあれば、隠れてこそこそやっている場合もあるし、夫人の立場が弱くて反対できない場合もある。

 なんにせよ褒められた行為ではないし、大抵の夫人は不機嫌になるというものだろう。

 婚約までしておきながら、レオポルドはこの特殊な事情を彼女には全く話していなかった。

 話す必要性は感じていたものの、はっきり言って非常に面倒で気が重いこの話題を彼は避けていたのだ。問題の先送りでしかないが、彼にはこういった面倒な問題を先送りする悪癖があった。

「それで……」

 レオポルドは二人の顔を交互に見つめて、ついでにソフィーネを見て睨み返されてから言葉を続ける。

「お互いに自己紹介は終わったのかな」

 二人は互いにどこまで自己紹介したのか。具体的に言うとアイラは自らの立場をリーゼロッテにどこまで話してしまったのか。包み隠さず真実を述べてしまっているのか。それによってレオポルドの取るべき言動というものも変わってくるというものだ。

「ええ、もう自己紹介は済んでいるわ。ムールドの部族の族長の娘さんなんですってね。とても帝国語が上手ね」

「恐縮です」

 リーゼロッテの言葉にアイラがやんわりと微笑む。

 その場の空気は和やかで落ち着いており、二人の表情は穏やかなものであった。もしも、アイラが実はレオポルドの実質的な妻だと知れば、リーゼロッテはもっと険悪な様子になりそうなものだ。

 ということは、アイラは上手く自らの立場をぼかして自己紹介することができたのだろう。と、レオポルドは理解した。

 リーゼロッテはレオポルドの背後に立つキスカへ視線を向けた。

「彼女はキスカだ。ネルサイ族の族長の娘で、私の、副官を務めている」

 レオポルドに紹介されて、キスカはぎこちなく会釈した。些か礼を欠いた行動だが、リーゼロッテは気にしていないようであった。

「そう。私のことは御存知かしら」

 キスカが頷くと、リーゼロッテは素っ気なく、

「よろしくね」

 と言って、ティーカップを傾けた。

 二人とも愛想の欠片もないが、これはいつものことなので、レオポルドは密かに安堵の息を吐きながらアイラの隣に腰を下ろす。

「そういえば、貴方。近々、南部に帰るそうね」

「あぁ、南部で些か良からぬ事態になっているようなので準備が整い次第、帝都を発つ予定だ」

 レオポルドが頷くと、リーゼロッテは眉間に皺を寄せた。

「婚約者に黙って帝都から出ていくつもりだったのかしら」

 確かに彼はリーゼロッテに帝都出立の予定を伝えていなかった。勿論、黙って南部へ行こうと思っていたわけではなく、既にレウォント方伯には帰国の旨を伝えているし、いよいよ、出発となれば会って話をしておこうとは思っていた。

「あんたね。詳しい日時が決まっていなくても、近いうちに帝都からいなくなることくらい、言っておくべきでしょ。ていうか、兄さんには連絡があって、私に連絡がないってどういうことよ」

「方伯から伝わるから問題ないかと思ったのだが」

「いいわけないでしょっ。普通は真っ先に私に連絡を寄越すべきじゃないのっ」

 さっきまでのご機嫌はどこへやら、リーゼロッテはすっかり怒っている。相変わらず感情の起伏が大きい人だとレオポルドは思っていたが、大抵の人はこういう事態になったらちゃんと連絡を寄越さない奴に文句の一つも言いたくなるというものだろう。

「あんたはもうちょっと気配りができる奴だと思ってたんだけど」

 リーゼロッテは呆れたような様子で呟く。

「これからはすぐに会える所にいるわけじゃないんだから、もう少し近況とか連絡を寄越してちょうだい。あんたのとこに嫁入りする時期とか準備の問題なんかもあるんだし」

 レオポルドとリーゼロッテの関係は今のところはまだ婚約者でしかなく、結婚は時期を見て、ということになっている。おそらくはリーゼロッテがムールドまで下って行って嫁入りすることになるだろう。その時期は現地の情勢次第というところだ。

「わかった。ムールドに着いたら手紙を書こう」

「忘れないでよ。私も返事を書くから」

 そう言い合う二人のやりとりは恋人同士のそれのようで、アイラは穏やかな表情を変えなかったが、キスカは渋い顔をしていた。

「ところで、あんた、もう一つ、私に言わないといけないことがあるんじゃないかしら」

 リーゼロッテはそう言って獰猛な笑みを浮かべた。

「いや、特には……」

 レオポルドは嫌な予感がしながら言葉を濁した。口を滑らせて余計なことを言ってしまいたくなかったのだ。

 とはいえ、今回ばかりは彼の言動は逆効果というもので、リーゼロッテの機嫌を余計に損ねただけであった。

「あんた、いつまですっ呆けてるつもりなの」

 リーゼロッテは何かしらの確信を持っているようで、鋭い眼光を彼に向け、婚約者の隠し事を糾弾するかの如き口調で言い切る。

「この二人について、言うべきことがあるんじゃないかしら」

 この二人、というのが誰のことを指すかは言うまでもない。

 アイラに視線をやると彼女は珍しく狼狽した様子で首を横に振った。何も言っていない。ということだろう。

 レオポルドの二人のムールド人妻の存在を知っている人間はそれほど多くはない。特に帝都でそれを知っているのはレオポルドの家来衆の他はレイクフューラー辺境伯とその家臣のうちレオポルドとの折衝を担当している者たちくらいのものだろう。

 リーゼロッテに彼らとの繋がりがあるとは思えない。アイラが話したわけでもないとなると、一体、如何にしてこの隠匿された関係を知ったというのか。

 レオポルドが渋い顔で黙っていると、彼女は口の端を吊り上げて言い放った。

「バーカ」

 リーゼロッテの蔑むような視線と冷笑を浮かべた表情、全く笑っていない瞳を見て、これはカマをかけられたらしい。とレオポルドは気が付いた。

 聡く勘の鋭い婚約者は、将来の旦那と彼に侍る二人のムールド女の関係について疑いを持ち、何かしらの確証を得ているかの如き言動で探りを入れたのだろう。レオポルドはまんまとそれに釣られてしまったわけだ。

 レオポルドは苦虫を噛み潰したような顔で黙り込み、キスカは彼と全く同じ顔をして、アイラは苦笑を浮かべていた。

 不意にリーゼロッテは立ち上がり、氷のように冷たい声を発した。

「あんたと結婚してよかったと思う」

 彼女の意外な言葉にレオポルドが視線を向けると、彼女は嘲笑すら失われた硬い表情で彼を見下ろし、蔑むような視線を向けたまま言い放った。

「あんたがニーナの婚約者だったらぶっ殺しているところよ」

 そうして、彼女は不機嫌そうに鼻を鳴らし、大股で部屋を出て行った。

「それでは、失礼いたします」

 残されたテレザは無表情でそう言って頭を下げ、のんびりと主の後を追っていった。

 応接間に残されたレオポルドたちは、顔を見合わせて、疲れたように息を吐く。

「まぁ、自業自得って感じですね」

 ソフィーネが呆れたような顔で呟いた。


 リーゼロッテの訪問というか、来襲によってレオポルドは精神的にかなりの疲労を感じたものの、仕事を減らすわけにはいかなかった。仕事の処理速度を減らせば減らすだけ、ムールドへの帰国は遅れることになる。ムールドにおけるレッケンバルム卿の策動をこれ以上放置することは許されない。

 手に入れた船の艤装を急がせると共に、人や荷物を次々とアルヴィナに送って、準備の整った船に積み込ませる。同時に帝都に駐在する人員とムールドとの連絡体制の整備にも取り組んだ。

 帝都におけるレオポルドの代理たる留守居役はキルヴィー卿の弟であるが、南部からレオポルドと共に帝都に来ていたジルドレッド将軍の子息カール・ジギスムント・ジルドレッドを駐在武官として帝都に残していくこととした。

 また、帝都の南にある港湾都市アルヴィナと南部の港湾都市カルガーノに数隻ずつ快速艇を用意して、その間の連絡が速やかに行われる体制を整えた。

 全ての準備が整い、レオポルドが隊伍を組んで帝都を発したのは帝歴一四〇年の半分を過ぎようかという頃であった。

 見送りにはレイクフューラー辺境伯やその家来たちの他、ベルゲン伯夫妻やレウォント方伯、儀典長のベゼー男爵、海軍主計長官ロッセルメーデ提督らが姿を見せ、レオポルドや彼に従う者たちに別れの言葉を告げ、隊伍を組んで南へと進み出したレオポルド一行に手を振って見送った。

「去年は、まるで追い出されるみたいに帝都を出たのに、今度は、なんか、全然違う感じね」

 レオポルドの向かいに座っていたフィオリアが感慨深げに呟き、その隣に座ったキスカが黙って頷いた。四頭立て、向き合って四人が座れる馬車に乗っているのは奇しくも、昨年、帝都から逃げるように南へと向かった三人だった。

 彼が帝都を発ち、南部へと下って行ったのはちょうど一年と一月ほど前のことで、その時は見送りなど一人もいなかったし、先行きは何も見えず、まるで手探りのまま暗闇の中を進むかのようであった。進む先に希望があるかどうかも分からなかったし、手許には何もなく、身近に頼れる人は誰もいなかった。

 しかし、今は違う。増えたのは見送りの人だけではない。今や、レオポルドはムールド伯、ウェンシュタイン男爵の称号を持ち、広大なるムールドの地を支配し、指揮下には数千もの軍勢がある。地道に築いてきた人脈もあり、帝国の最高権力者たる皇帝陛下との謁見すら叶った。全幅の信頼を寄せられない部下もいるが、信頼できる仲間もいるし、愛すべき人もいる。破産したときを遥かに上回る多額の債務もあるが、これは余計といってもいいが、後援者と自分を繋ぐものと考えれば、借金すらも財産である。

 一年前の何も持たぬ頃に比べ、レオポルドは多くのものを得た。

 しかし、彼はそれだけで満足しているわけではない。彼の目標はより高みにあり、彼は歩みを止めるつもりはなかった。この向上心と目的も、一年前に彼が持っていなかったものだろう。

 馬車から見える外の景色は、帝都の街並みを過ぎ、帝都を出て、青々と茂る小麦畑へと変わっていく。遠方に見える帝都の白い城壁を見つめながら、彼は一年前とは全く違う感慨を胸に抱いていた。

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