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サーザンエンド辺境伯戦記  作者: 雑草生産者
第六章 ムールド伯
110/249

一〇五

 レオポルドがムールドを発して、早五ヶ月が経過していた。訪れた時、雪が舞っていた帝都はすっかり春の装いを見せている。

 屋敷の前にあるちょっとした花壇や菜園には色とりどりの花々が咲き乱れ、青々とした草が生い茂っている。

 レオポルドにとっては見慣れた、しかし、一年ぶりの懐かしい帝都の春であるが、彼には呑気に春の訪れを味わっている暇などなかった。

 引き続きレオポルドは多くの仕事に追われており、しかも、それらの仕事の始末を付けなければならない段階にあった。

 ムールド伯叙任とレウォント方伯の妹リーゼロッテとの婚約という二つの大きな目的を達したレオポルドはできるだけ早期にムールドに戻りたいと考えていたのだ。

 勿論、用が済んだというのが帰る理由なのだが、それを急ぐ理由の第一は、先日ムールドより齎された重大な知らせ、レッケンバルム卿が企んでいるというアルトゥールとエリーザベトの婚約の件である。

 フェルゲンハイム家の庶子の家系であり、優れた騎兵指揮官であるアルトゥールとサーザンエンド辺境伯配下で最有力の家臣でありながらフェルゲンハイム家の血筋を受け継ぐ名家ウォーゼンフィールド男爵家の令嬢であるエリーザベトの婚姻は、アルトゥール或いはその子にフェルゲンハイム家の後継者としての正統性を持たせることに繋がる。

 つまり、レオポルドの強力なライバルを生み出すことになる。フェルゲンハイム家の家臣たちがレオポルドに不満を持ったときに担ぎ出す神輿になり得る。その可能性がある限り、レオポルドは家臣たちが反レオポルドで結束しないよう、彼らに配慮した統治を余儀なくされる。

 レオポルドとしてはそのようなことは断じて許されぬことであった。当人たちが政治的な判断で結びついたのか、恋愛的な感情で惹かれ合ったのか、なんてことは彼にとってはどうでもいい。とにかく、自分の統治の妨害になりかねない存在の確率は断固阻まなければならない。

 既に書面では「断固反対」という意思表示を送ってはいるが、紙切れ一枚で言うことを聞くほどレッケンバルム卿は生易しくはないだろうし、アルトゥールやエリーザベトだって素直ではないだろう。他の貴族たちにも反対する理由はない。レオポルドに近しいバレッドール准将やルゲイラ兵站監らは北部防衛線の構築で忙しく、老シュレーダー卿だけでは孤立しかねない。ムールド諸部族は帝国人同士の婚姻など関係のないことと口出ししないだろう。

 となれば、レオポルドが直接乗り込んで「断固反対」と強引に婚姻を妨害するしかない。今やレオポルドは彼らの主君なのだから、そうする権利を有している。

 そういったわけで、帝都に残された仕事を一気に片付けなければならなかった。

 学者や技術者など、ムールドの開発と発展に必要だとレオポルドが目を付け、勧誘し、快諾を得た有為な人材は五〇名以上になっていた。彼らに支度金を配り、早々にアルヴィナへ向かうよう指示する。

 帝都で世話になった、知り合った人々には別れの挨拶をしなければならない。それとて一日二日で終わるようなものではない。挨拶に寄ればお茶の一つも出され、数十分くらいは歓談を楽しんでいかねばならないから、一日に数軒回れればいい方で、これを毎日繰り返して、百軒近くの邸宅に挨拶をしていく。

 ムールドで必要と思われる物資、武器弾薬の他、財源となる金塊、木材などの資材、日常生活に使う食器類からガラス製品、家具の類まで買い集めて送る支度を整える。その金は勿論レイクフューラー辺境伯の財布から出ている。

 サーザンエンド銀行は、とりあえず、皇帝の勅許や資本金(勿論、レイクフューラー辺境伯からの借金)など書面上の体裁は整った。サーザンエンド銀行の総裁にはレオポルドが就任し、総裁代理兼本店(まだ書面上にしか存在しないが)支配人にはテオドール・ゲオルグ・ヴァンリッヒ男爵を任じた。帝都中心部の借り事務所に設けられた帝都支店の支配人は銀行設立に奔走したマウリッツ卿の子息が務める。

 帝都留守居役にはキルヴィー卿の弟を任じ、ウェンシュタイン男爵邸とクロス家の屋敷、ウェンシュタイン男爵家の荘園の管理を任せた。

 ウェンシュタイン男爵家の家臣のうちキルヴィー卿、マウリッツ卿、ディーテル兄弟らはレオポルドに同道してムールドへ行くことになり、彼らにも旅支度を命じる。

 レオポルドたちを運ぶ船の調達は順調だった。海軍主計長官ロッセルメーデ提督の口利きの結果、四隻の古い軍艦を帝国海軍からレオポルドへと払い下げられた。

 最も大きなものは五〇門戦列艦であり、戦列艦と呼ばれる軍艦の中では最も小型に類される。戦列を形成して大海戦を戦うには小さすぎるが、フリゲートと呼ばれるより小型の軍艦よりも鈍重で遅すぎるという中途半端な大きさだったが、海賊相手には十分な戦力になるし、積載量も大きい。

 次に大きなものは二八門フリゲートであった。戦列艦よりも小型でスリムな船型。快速性に優れた使い勝手のよい船だ。

 残りの二隻は砲を一〇門程度搭載した二本マストのブリッグ・スループと呼ばれる小型の軍艦である。

 それらの軍艦は既にアルヴィナに赴いているディーテル卿が受け取りの手続きを済ませ、水兵を募集して、荷物を積み込む作業を進めていた。

 卿は更にもう一隻、軍艦以外にフリュートと呼ばれる大型の輸送船を手に入れており、これにも多くの物資を積み込ませていた。

 これだけ色々なことをして、色々なものを買っていれば当然金はかかる。

 計算してみるとレオポルドの借金は累計五〇〇万セリンに上っていた。そのうちのほとんどはレイクフューラー辺境伯の債権だ。さすがにレイクフューラー辺境伯が富裕な貴族とはいえ、これだけの借金を肩代わりして支払を立て替えるのは苦労だったようで、辺境伯の家臣であるデリエム卿がレオポルドに出費を控えるよう強く要請してきたほどだった。

 レオポルドの借金の目的を知ったキスカはそれほど煩く支出の削減を控えるようには言わなくなっていたが、さすがに五〇〇万セリンという債務額を聞いて硬直した。

「レオポルド様は、これだけの額を見ても、平気でいられるのですか……」

 キスカの問いにレオポルドは顎を擦りながら唸った。

「我ながら、よくもまぁこれだけの借金を積み上げたものだなとは思うな」

 五〇〇万セリンともなれば一般的な庶民の年収の二万倍以上であり、平均的な貴族の年収と比べても三倍を超える。レイクフューラー辺境伯ほどの大貴族ならば一〇〇〇万セリン以上の年収はあるだろうが、領地経営や家臣への給与などの出費も多いはずだ。年収の半分をレオポルドの為に出費してやってはいくらなんでも大赤字だろう。

「まぁ、これだけ債務が山になれば、辺境伯も途中で投げ出すわけにはいかんだろう」

 レオポルドは帳簿を畳んで、目の前に座るキスカに手渡しながら満足そうに言った。

 彼にとって最も重要なものはレイクフューラー辺境伯との繋がりである。背後に帝国屈指の大貴族が付いていれば大抵の問題は解決できると彼は考えている。事実、ムールド諸部族を屈服させるまでの数度の戦いで活躍した大量の小銃は辺境伯からの支援物資であり、ムールド伯に叙任できたのも彼女の力添えあってのものだ。

 この命綱を太くする為に、彼が取った方策がレイクフューラー辺境伯から多額の金を借りることによって、彼を切り捨てると多額の債権が紙くずになってしまう構図を作りだすことだった。レイクフューラー辺境伯は既にレオポルドを切り捨てることができなくなっている。それは五〇〇万セリンを溝に捨てることと同義なのである。年収の半分に匹敵する大金を無駄にしたくなければ、今後もレオポルドを見捨てず支援し続けるしかない。

「御考えは十分に理解していますが、しかし……」

 レオポルドの思惑を知っていても、キスカは借金を積み重ねることに警戒感を拭えないようだった。いくら計画通りとはいえ、これだけ多額の、返済不可能ともいえるような債務額を見ると、不安にもなるというものだ。

 実際、レイクフューラー辺境伯側からは度々釘を刺されている。キスカの懸念はそれほど杞憂とも言い切れないものであった。

「君は心配性だな」

 しかし、レオポルドはそんな心配など無用だとばかりに笑って見せる。

「そんなことより、着いたようだ」

 レオポルドはそう言ったとき、二人を乗せていた馬車の揺れが収まった。

 御者が踏み台を用意してから馬車の扉を開いた。

 レオポルドは先に下りて、後から下りるキスカに手を差し出す。

「結構です」

 それをキスカは遠慮して断った。

「……そこは遠慮せずに手を取るところだ」

「しかし、馬車から降りるくらい一人でできます」

「一人で降りられるかどうかは別に問題じゃないんだが」

 レオポルドは呆れ顔で溜息を吐いた後、さっさと屋敷に向かって歩いて行く。

 その背中を見送りながら、キスカは自分の性格を少し恨んだ。


 二人がやって来たのはクロス家の屋敷である。レオポルドが生まれ育ち、二十年近くを過ごしてきた家である。

 昨年の冬の終わり頃、クロス家の経済状況の悪化によって止む無く、家具や調度品も含めて全て売り払う羽目になり人手に渡っていたのだが、レオポルドは帝都に戻ってから逸早く買い取っていた。帝都滞在中の拠点ならばウェンシュタイン男爵邸があり、旧クロス邸を売却価格の倍近くの金をかけて買い戻すことは何の利益もない買い物である。人々はレオポルドの高い買い物の理由は心情的なものだろうと考えていた。

 つまり、無念にも手放さざるを得なかった生家を取り戻したいという、多くの人間が共感するであろう感傷的な理由である。

 勿論、生家を取り戻したいという気持ちはレオポルドにとって無視できないものであったが他にも理由があった。まず、自分以上に生家にこだわりのあるフィオリアのご機嫌取り。次にレイクフューラー辺境伯からの借金を増やす為。そして、周囲から利益度外視で金に糸目を付けず、生家を買い戻すような人間だと思われる為である。

 つまり、これはレオポルドの印象操作の一環なのである。

 帝都中の人々がレオポルドという若いムールド伯がどんな人間か興味を持って見つめている。嫌われたり敬遠されたりするよりは好意を持たれた方がいいに決まっている。経済性を度外視して生家を買い戻すことは、レオポルドが吝嗇ではなく、感傷的で情を解する人間であることを世に示すことになるだろう。気前よく寛大で人が良いと思われれば、何かと都合の良いことも多い。少なくとも血も涙もない冷血な人間だと思われるよりはずっとマシだ。そんな輩と親しく付き合いたいなどと思う者は滅多にいないからである。

 社会で生きていくということは、常に人との付き合いの中に身を置くということに他ならない。それは貴族であろうが庶民であろうが変わらないことなのだ。

 そういったわけで、レオポルドがクロス家の屋敷を買い戻したことには様々な理由を含んでいたが、彼はそのことを誰かに言うことはなかったから、レイクフューラー辺境伯やレンターケットはレオポルドも年相応に若者らしい行動をするものだと考えていたし、キスカやフィオリアはレオポルドの感傷と感じていた。

「レオっ。遅いじゃないっ。何やってたのさっ」

 彼が生家を買い戻す理由の一つであるフィオリアが玄関先でレオポルドを呼ぶ。

 彼女は一緒に生まれ育った弟みたいな彼がムールド伯になったくらいで態度を変えたりはしなかった。勿論、公的な場では弁えたものだが、私的な場面では相変わらずである。

「何って、仕事に決まってるだろ」

 彼には多くの仕事があり、移動中の馬車の中でも帳簿を見るほど多忙であった。

「だからってね。せっかく、改築が終わった私たちの家を見に来るのに三日もかかるってどういうことよっ」

 フィオリアの甲高い怒鳴り声にレオポルドは顔を顰める。

 彼女の言う通り、改築工事は三日前には完了し、その日のうちにフィオリアはアイラとソフィーネと一緒にクロス家の屋敷に移っていた。アイラが同行したのは改築したばかりの屋敷では色々と掃除や準備や整理整頓しなければならなかったので、その手伝いであり、ソフィーネは二人の警護役である。

「だから、仕事がだな……」

「仕事仕事って、あんた、いつからそんな仕事人間になったわけっ」

 レオポルドは不機嫌そうに溜息を吐きながら、さっさと生まれ育った我が家へと歩を進める。

 フィオリアもレオポルドが多忙であることは知っている。しかし、それとこれとは別なのだ。

 そもそも、レオポルドは帝都に戻ってからずっと何処かの屋敷に挨拶に行ったりパーティに出かけたり書斎に籠って書き物をしたりと、フィオリアを放置していたのだ。せっかく地元に帰ってきたというのに、この待遇は何だと彼女が機嫌を損ねるのもやむを得ないというものだろう。

「ちょっとっ。レオっ」

「フィオリアさん、本当にレオポルド様は色々と仕事があったのです」

 しかめ面で黙っているレオポルドに代わってキスカが言い訳がましいことを言ってフィオリアを宥める。

「……あっそ。ところで、キスカ。首のとこ、跡残ってるよ」

 言われて、キスカは咄嗟に首筋を手で押える。が、彼女はムールド人特有のフードを被っており、首筋は露出していない。余程のことがない限り見えるはずがないのだ。

 ただし、キスカの咄嗟の行動は、そこに跡が残っているという証左に他ならず、昨夜、首筋に跡が残るようなことをしていたと言っているも同然である。

「あんたらっ。乳繰り合ってる暇があるのに、こっちに来る時間はないっていうのっ」

 フィオリアが眉根を吊り上げて喚き、キスカは顔を朱に染めて俯く。

「おいっ。頼むから玄関先でそんなことを大声で言わんでくれっ」

 レオポルドは慌ててフィオリアを屋敷に引っ張り込む。

「お盛んなことよね。春だもんね」

 フィオリアはレオポルドを見つめながら呆れたように言い、レオポルドは苦虫を噛み潰して舌に練り込んだような顔をして黙り込む。

「あぁ、ところで、あんたに客が来てるけど。今日中にはあんたが来るって話したら待たせてもらうって。今は応接間に通してる」

「一体、誰だ」

「会えば分かるわ」

 フィオリアは不機嫌そうに言い捨てる。

「そりゃそうだが……」

 レオポルドは彼女の機嫌の悪さに首を傾げながら、客間へと向かった。

 クロス家の屋敷はそれほど大きなものではない。元々、一介の帝国騎士の住処に過ぎないのだから当然である。二階建てで、一階にはそれほど広くない広間と食堂、倉庫の他に二つ部屋があり、台所は離れにある。二階には四つ部屋があり、屋根裏にも使用人用の部屋がある。

 応接間は一階の二部屋のうちの一つだった。広間を横切って行って応接間の扉を開き、中にいる客人を目にした途端、レオポルドは眩暈を覚えた。

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