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サーザンエンド辺境伯戦記  作者: 雑草生産者
第六章 ムールド伯
109/249

一〇四

 その日の夜、ウェンシュタイン男爵邸に集まった人々は、いずれも帝国の上流階級、それもかなりの高位高官揃いであった。帝国の天頂に連なる首魁連とまではいかないが、その肩くらいの高さには位置する人々である。

 その中でも一番の大物と云われるのは紋章院総裁マドラス公ヨハン・カール・レオナルド・アロイス・ハルシェットだった。

 紋章院とは文字通り紋章を管理する役所であり、これを統括する三人の紋章官のうちの最先任の者が総裁と呼び称される。さほど重要な役職ではないものの、マドラス公を世襲するハルシェット家は帝国でも有数の古い家柄であり、出席者の中では頭一つ抜けているといっていい。

 また、帝国でも教会に近いとされる貴族の中では最大の大物であり、当代のマドラス公ヨハン・カールは西方教会のトップである総司教ローベルト五世とも非常に近しい関係だという。

 そんな重要な立場にある人物に、人脈の重要性を理解するレオポルドが挨拶に行かないわけがない。

「おぉ、これはこれは、今宵はお招き頂き感謝する。ムールド伯叙任おめでとう」

 サーザンエンド辺境伯軍近衛連隊の真紅の軍服に身を包んだレオポルドを、マドラス公は目敏く見つけて握手を求めてきた。

 公はふくよかな体型で長く白い髭を垂らした老人で、人の良さそうな笑みを浮かべている。

「わざわざご足労頂き痛み入ります。閣下」

「いやいや、紋章院総裁なんぞという立派な名は付いているが暇な仕事でな。なぁ」

 マドラス公はそう言って、先程まで話していた相手に同意を求める。

「何故、私に同意を求められるのか」

 外国からの国賓や大使を迎えるにあたっての儀礼関係を取り仕切る儀典長を務めるベゼー男爵がむっとした顔で応じた。

「言っておきますが、私はそれほど暇ではありませんぞ」

 灰色の立派な口髭を撫でつけながら男爵は気難しそうにぶつくさと言った。

「そうは言っても大概の仕事は外務卿と式部長官がやってしまうではないか」

 マドラス公は遠慮なく言い、男爵は口をへの字にして黙り込んだ。

 儀典長の職務はレオポルドの伯父であるベルゲン伯が務める式部長官と重複するところが多くあり、どちらがより強い権限を得るかは両者の力関係によるところが大きい。昨今は式部長官側に軍配が上がることが多いようである。

「ところで、ムールドの民は一体どのような教えを信仰しておるのかな」

 教会と繋がりの深い貴族らしいマドラス公の問いに、レオポルドはムールド滞在中に暇を見て調べた個人的見解を述べた。

「私も詳しいことはよく分からないのですが土着の古い教えを信仰しているようです。先祖の言い伝えや伝承などを受け継いでいるようで、祖先崇拝に近いような気がします。神や精霊といった存在も認識はしているようですが、曖昧でおぼろげなもののようです」

 ムールドの宗教はあまり体系化されたものではなく、昔からの伝承を積み上げてきたもののようであった。というのも、聖職者といった専門職がなく、祭祀は族長や部族の長老といった者たちが口承などで言い伝えているだけであり、ムールド人全体が統一されたこともないので、部族や一族によって全く違うことを言い伝えていたりもしていた。

「ほう。その神や精霊というものは異教の神や悪魔の類とは違うのかね」

「そういった邪悪な存在というよりは、自然現象や人智の及ばぬ事柄をひっくるめて大地の神だとか天の神だとか言っているようです」

 月に一度は神に捧げる生贄として羊を捌いていたり、一昔前は捕虜を生贄に捧げていた。という、悪魔崇拝に結び付けられそうな事柄は話さないでおく。

「なるほど。だいぶ素朴な教えを伝えているのだな」

 マドラス公はムールド人に対し、異教徒にしてはそれほど悪くない印象を抱いたようであった。

「とはいえ、正統なる神の教えを信仰しないことは自ら救いの道を閉ざし、暗黒へと身を落とすことである」

「しかしながら、ムールドにはこれまで宣教師が訪れたことがなく、彼らは神の教えに触れる機会を得られなかったのです」

 かつて、サーザンエンド大司教の部下である宣教師が幾度かムールドを訪れては行方不明になったことは、これまた言わずともよいことである。

「神の恩寵に触れられぬことは大いなる不幸であろう」

「仰る通りです。閣下」

 レオポルドがお追従を述べると、マドラス公は満足げに頷く。

「総司教猊下も同じお考えのようだ。そこでだ。私はムールドに司教座を置くことを提案したいと思う」

 マドラス公としては、いや、教会としてはムールドに司教座、司教とそのお付の聖職者たちを配置して、異教の地であるムールドを教化したいのだろう。名ばかりとはいえ、教会の守護者を冠する神聖帝国領内において異教徒の跋扈を許すことは教会にとって耐え難いことなのだ。

「それは喜ばしいことです。ムールドの民にとっても僥倖でありましょう」

 レオポルドは公の提案に同意し、言葉を続ける。

「つきましては、ムールドに赴任される司教にはフランツ殿を迎えられればと思うのですが」

 その言葉にマドラス公とベゼー男爵は揃って目を丸くした。

 マドラス公とベゼー男爵の妹は、正式な結婚はしていないが公然の仲であり、数人の子を儲けていた。庶子は正式な子ではない為、正当な継承権を持たない。よって、多くの庶子は軍人或いは聖職者へと進むのが一般的である。二人の子であるフランツは後者の道を選んだ。

 レオポルドはフランツの存在を知っていた。フランツもレイクフューラー辺境伯邸へと頻繁に足を運ぶ一人であり、幾度か顔を合わせ会話したこともあった。彼をムールドの司教に迎えようというのがレオポルドの目論見であった。

 これにより、教会とマドラス公に恩を売ることができ、同時に強力な繋がりを得ることにもなる。また、現地の聖職者たちを抑える重石にもなるだろう。

 マドラス公としても、息子を辺境とはいえ司教の椅子に座らせることができるし、ムールドの教化に成功すれば、その後の教会内での出世にも弾みが付くというものだ。

 実現すれば両者にとって得るものは非常に大きい。

「ふむ。異教徒の跋扈する辺境の厳しい地で学ぶことも多かろう。それによって神の一助ともなれば、私としても倅としても本望である」

「では、そのように話を進めていきたいと思います。御手数ですが、猊下には閣下の方から」

「うむ。勿論だとも」

 めでたく両者の思惑は一致し、二人はしっかりと握手を交わした。


「中々話の分かる若造でしたな」

 他の招待客に呼ばれたレオポルドが丁重に失礼を詫びて、その場を去った後、ベゼー男爵が呟いた。

「我々の望みを事前に下調べしていたのでしょう。要領がよく、無駄がない。秘書か執事に欲しいような人間ですな」

 男爵の言葉にマドラス公は笑みを浮かべながら頷いた。

「確かに察しがよい賢明な男だ」

 マドラス公は葡萄酒の杯を飲み干しながら応える。

「愚鈍であるよりは賢明である方がよい。味方であれ、敵であれな」

 リトラントの古い教訓話にあるのだ。愚鈍な味方より賢明な敵の方が遥かにマシである。


 レオポルドを呼んだのはレイクフューラー辺境伯だった。彼女の傍らには海軍の青い軍服を着た老軍人が立っていた。碧い目が印象的な穏やかそうな顔立ちの、左腕のない老人である。

「クロス卿。いや、違いましたね。ムールド伯。紹介しましょう。こちら、海軍主計長官ロッセルメーデ提督です」

「初めてお目にかかります。御高名はかねがね承っております」

 レオポルドは恭しく頭を下げた。面会するのは初めてだが提督の名は聞いたことがあった。

「いやいや、こちらこそ、今帝都で最も有名な若者にお会い出来て光栄というもの」

 老提督はレオポルドの手をしっかりと握って微笑んだ。

 ルドルフ・ハイドリヒ・ロッセルメーデは一二歳で海軍に入って以来、五〇年以上もの間、船上に身を置いてきた古参の提督である。数度の世界周航を成し遂げ、幾多も海戦に加わり、多くの敵船を拿捕し、大砲に左腕を吹き飛ばされても艦尾楼に立って指揮を執り続けたという。老齢となった今は内勤である海軍主計長官を務めている。

 東部艦隊に勤務していた経験が長いことから、東部有数の大諸侯であるレイクフューラー辺境伯とは顔馴染である上、辺境伯は前任の海軍主計長官である。つまり、辺境伯と提督は前任者、後任者の間柄なのだ。

「ところで、ムールド伯は最近、軍艦を集めているそうですね」

 挨拶が一段落したところで、二人を引き合わせたレイクフューラー辺境伯が言った。

 レオポルドがディーテル卿を港町アルヴィナに派遣したのは数日前のことで、その件を辺境伯に話したことはなかった。さすが、帝国一の情報通とも噂される辺境伯は耳聡い。

「しかも、戦列艦を買おうとしているとか。そのお金はどこから出るんですかねぇ」

 彼女の言葉には棘を感じるが、当然というものだろう。財布の持ち主に勝手に高額の買い物をしようとしているのだから、金を出す方としては一言くらい言いたくもなるだろう。

「いやぁ、ははは……」

 レオポルドは乾いた笑い声を響かせる。ここは笑うしかない。

「ほう。軍艦をですか」

 自分が長年関わってきた分野ということもあり、ロッセルメーデ提督は興味を示す。

「えぇ、今後、帝国本土と南部間の海上交易は益々輸送量が増加することが予想されます。しかしながら、内海や南洋の海上の安全は保障されているとは言い難いのが現状です」

 事実、レオポルドが南部から帝都に向かう途上にも海賊に襲撃されているのだ。あれはわざと襲わせたのだが、それでも海賊が跋扈していることに違いはない。ちょっと隙を見せれば海賊が群がってくるということである。

「帝国本土と南部との貿易はムールドの経済振興の生命線です。私には、その安全を保障する必要が責務があります」

 レオポルドは尤もらしい理由を並べて胸を張った。実際は半島南端部の攻略が目的なのであるが、自己の領域拡大を理由にすると、いらぬ警戒を招く可能性があると考え、伏せることにした。勿論、海上交易路の安全保障も重要な課題であることに変わりないので、全く嘘を吐いているというわけでもない。

「帝国海軍としても内海の海賊には頭を悩ませております。由々しき問題だと思っております」

 提督は渋い顔で言った。

 海軍主計長官として、彼は海軍の整備と拡充に当てる予算を獲得する立場であるが、思うように得られていないのだろう。

 というのも、今現在帝国は外国諸国とは戦争状態になく、軍事予算は削減される一方なのだ。戦争や差し迫った国防上の問題がなければ軍隊の予算が削減されるのは必然である。

 しかも、国内には反抗的な異民族が跋扈しており、これの討伐の為、陸軍の縮小は難しい。となれば、真っ先に削減されるのは海軍予算なのだ。軍艦を引き上げ、余分な船は払い下げ、水兵を解雇し、士官には上陸休暇を与えて半分の給与のみを支給する。

「思うように動けない帝国海軍に代わって閣下の海軍が海賊を討伐してくれるとなると、ありがたい話です」

「当然の務めを果たしているだけです」

 レオポルドはそう言ってから困ったように眉根を寄せる。

「しかしながら、軍艦ともなりますと数が限られていますから、思うように買い集めることができなく困っています。それに水兵も不足していますし」

「提督。ここで知り合ったのも何かの縁です。海軍の古い船を何隻か払い下げてやってもらえませんか」

 レオポルドの言葉を受けて、レイクフューラー辺境伯が提案する。

「ふむ。宜しいでしょう。内海艦隊の旧式艦を何隻か払い下げられるよう取り計らいましょう」

 海軍主計長官としては元より海軍予算の縮小を迫られており、何隻かの軍艦を払い下げなければならないことは既定事項であったから、レオポルドという払い下げ先が決まって渡りに船というものだろう。

「ただ、旧式で使い勝手の悪いものを優先的に退役させることになりますから、船の性能に関してはあまり期待しないで頂きたい」

「それで結構です。ありがとうございます。そうして頂けますと大変幸いです。アルヴィナにディーテル卿という者がおりますので、その者に連絡して頂ければと思います」

 レオポルドは素直に感謝の意を示した。


「閣下。御配慮ありがとうございます」

 老提督が海軍仲間に呼ばれてその場を去った後、レオポルドはレイクフューラー辺境伯に礼を述べた。

 辺境伯はいつもの愛想良い笑みをやや陰らせ、葡萄酒を呷ってからレオポルドを睨みつけた。

「あまり馬鹿高い買い物をされては困りますからね。手持ちの金がない貴方が、どこの誰の金を当てにしているのかよく考えて頂きたい。贅沢は神が戒める大罪の一つですよ」

「閣下の口から大罪という言葉が出るとは驚きです」

 レオポルドが皮肉を言うと彼女は一瞬眉根を吊り上げた。

「とにかく、私の財布も無限ではありません。限度というものを考えて頂きたい」

 辺境伯は不機嫌そうに鼻を鳴らしてから、足音高く歩み去っていく途中で立ち止まる。

「そうだ。サーザンエンド銀行が設立されたら、投資話は真っ先にこちらに持ってきて下さいよ」

「勿論です。閣下」

 レオポルドが請け負うと、彼女は少し機嫌を直していつもの愛想笑いを浮かべて去って行った。


 次にレオポルドを呼び出したのは伯父であるベルゲン伯だった。傍らには夫人の他、もう一人ひょろ長い男の姿があった。年の頃は三十代後半か四十代に見える。細面の顔立ちで青白い不健康そうな顔色。赤茶色の髪をしっかりと整え、口髭と顎鬚の先をピンと尖らせている。暗い色のローブを着込み、神経質そうに眉毛を撫でていた。

「おぉ、レオポルド。お前に紹介したい男がいるんだ」

 ベルゲン伯はいつもように愛想よくレオポルドの肩を抱きながら言った。既にだいぶ酒を飲んでいるの顔はすっかり赤らんでおり、声がでかい。

「紹介しよう。テオドール・ヴァンリッヒ男爵だ。私の末の妹の婿でな。初対面だったと思うが」

「ええ、初めてお目にかかります」

「お目にかかれて光栄です。ムールド伯閣下。テオドール・ゲオルグ・ヴァンリッヒです」

 レオポルドの手を握ったヴァンリッヒ男爵はニコリともせずに自己紹介した。

「テオドールはエスター伯老ヴァンリッヒ大将の御子息でな。つい先頃までカロン島の銀猫王国で働いていてな。その前はグリフィニア王国だったかな」

「北方貿易会社の会計責任者を務めておりました。その後、銀猫王国で国王陛下の顧問官に任じられ、先月までは帝国大蔵省で顧問官として働いておりました」

 男爵は几帳面に自らの経歴を述べた。

 レオポルドは大体の事情を把握した。ベルゲン伯は、何も親戚だからという理由だけでヴァンリッヒ男爵をレオポルドに紹介したわけではない。先の経歴が全て過去形ということは、今は特に何の仕事にも就いていないことだろう。

 貴族とはいえ、広大な領地を持つ諸侯でもなければ、中小貴族が何の仕事もせずに生きていくのは難しい。大抵は皇帝陛下や力のある諸侯の宮廷や軍隊に仕えて、給金を貰うことが多い。

 要するに、伯は自らの義弟の就職斡旋をしに来たらしい。

「大蔵総監と喧嘩をして大蔵省を追い出されたそうでな。レオポルドのところで面倒を見てやってはくれんかね」

 とはいえ、そこまではっきりと言ってしまうのは親戚故の気安さからか、酒が入っているせいか、伯自身の性格のせいか。

「ちょっとっ。あなたっ」

 夫人が伯を窘め、ヴァンリッヒ男爵は気難しげに顔を顰めて黙り込む。

「ムールドは土地が広いし、人手も多くいるだろう。テオドールは経済や財政に精通しておるからな。金勘定に詳しい者も必要だろう」

「確かに人手には事欠いていますね」

 レオポルドはベルゲン伯の言葉に頷いてから、テオドールに視線を向ける。

「南部は人も産業もない地なのですが、如何に経済を振興させるべきでしょうか。お考えをお伺いしたいのですが」

「私は南部の情勢に詳しくはありませんが、経済を活性化させる基本は需要を喚起させることです。都市の再開発や道路整備などの公共事業を興して仕事を増やして、人を集めていくべきです。人が集まれば新たな需要が喚起され、産業や仕事が増え、それに応じて税収も増えていくでしょう。勿論、これは簡潔に述べただけであり、より詳細に説明しますと、もう少々お時間を頂くことになるのですが」

「いや、十分です」

 そう言ってからレオポルドは給仕を呼んだ。給仕の持つ盆から葡萄酒のグラスを二つ取り、一つを男爵に渡す。

「より詳細な部分については後々ゆっくりとお聞きしたい」

 男爵は、レオポルドの掲げたグラスに遠慮がちにグラスを当て、その中身を一気に飲み干した。

「しかし、男爵。南部はとても暑いですよ。都市の開発や整備も十分ではなく……」

 そこまで言ったところで、レオポルドは男爵の様子がおかしいことに気付く。青白かった顔が真っ赤に染まり、ふらふらと身体が揺れ、今にも倒れそうだ。

「おぉ、そうだ。テオドールは酒が駄目でな。はっはっは。一滴でも飲むとこの調子でなぁ」

 ベルゲン伯はご機嫌に言って笑う。釣られてレオポルドが愛想笑いを浮かべたところで、ヴァンリッヒ男爵はふらふらと仰向けに卒倒してしまった。

「まぁっ。テオドールっ。大丈夫なのっ」

 ベルゲン伯夫人が慌てて男爵の様子を見る。周囲の人々も何事かと寄ってきて、事の原因であるところのレオポルドは弱り切った顔で、キルヴィー卿を呼び寄せ、低い声で言った。

「なんとかしてくれっ」


 倒れてしまったテオドール・ゲオルグ・ヴァンリッヒ男爵を広間から運び出し、レオポルドはお客人への挨拶回り再開した。

 帝室大臣サンシュレティア伯は皇帝の側近グループ、所謂皇帝党という派閥の領袖的存在であり、皇帝への謁見をレイクフューラー辺境伯を通じて調整してもらった相手である。レオポルドが少なくない額の贈り物を贈った相手でもある。

 高等法院筆頭評定官ローグヘンリ伯と帝都総督ジルゲン子爵は共に白亜公の側近であり、帝国で最も大きな貴族の派閥である法服派の中枢にある人々でもある。

 鉱山長官クローステイン卿は、海洋派と呼び称される新興貴族勢力の領袖であり、帝国政界の首脳である大蔵総監コーターベルク辺境伯の嫡男で、近々辺境伯位を継承するのではないかと云われている。

 レオポルドはいずれの相手にも慇懃に挨拶をして、ムールド伯叙任に際しての助力に対する感謝を述べ、今後も宜しくとお願いして回った。

 政治だ何だとはいえ、結局は人と人との付き合いであり、勿論、そこには利害関係だけでなく、感情や義理、人情の入る隙も十分にある。見ず知らずの他人よりは顔見知りを贔屓するのが人間というものだ。一度も会ったことがない相手よりは一度は顔を合わせて言葉を交わした相手の方が信用できると思うのが人間というものだ。

 政治の世界を生きるには、このような地道な挨拶回りが欠かせない。

 挨拶回りが一段落したところで、レオポルドは広間を出た。控えの部屋の戸をノックした。

 中から返事が聞こえ、戸が開いた。

「随分と待たされたわ」

 最近帝都で流行っているムールド風のぴっちりとした体の線が目立つ黄金色に輝くドレスを身に纏い、銀の首輪と腕輪、真珠の髪飾りを付けたリーゼロッテはあからさまに不機嫌な様子で言った。

「仕方ないだろう。招待客に挨拶して回ったらこれくらいの時間にはなる」

 レオポルドが抗弁すると、リーゼロッテは今宵の装束によく似た金色の瞳で彼を睨みつける。

「この間みたいに、お偉いさん方相手にへいこら頭を下げて回ったんでしょうね」

「頭を下げるくらいでよい印象を相手に与えられるならば安いものだ」

「貴方には矜持とか名誉ってものはないのかしら」

「ないことはないが、目的の為ならば売っても捨てても構わないと私は思っている」

 リーゼロッテは呆れたような顔でレオポルドを見つめる。

「貴方っていい性格してるわ」

「私は貴女もいい性格していると思うが」

 二人は微かに口端を歪めてから広間に向かって歩き出す。

 広間の扉の前で、レオポルドが手を差し出した。リーゼロッテはその手を見て、苦い顔をする。

「お手をお取り下さい。お嬢様」

「えぇー」

「頼むから」

「はいはい」

 リーゼロッテは渋々といった様子でレオポルドの掌に手を乗せる。

「あと、その口の中に虫が入ったみたいな顔は勘弁してくれ」

「違うわ。これは好きでもない相手の手を取ってお淑やかにしなきゃいけないのが嫌っていうときの顔よ」

「頼むから」

「はいはい」

 彼女の表情は、まだ、まぁ、なんとかなる感じに取り繕われた。

 二人は門衛が開いた戸を通って広間に入る。

「途中で笑ったら勘弁してね」

「絶対にやめてくれ」

 今度はレオポルドが口の中に虫が入ったみたいな顔をしたところで、広間の出入り口辺りに控えていたキルヴィー卿が声を張り上げた。

「お集まりの皆様っ。御歓談中に失礼いたしますっ。今宵はご足労頂き誠にありがとうございます。改めて御礼申し上げます」

 キルヴィー卿の言葉に招待客たちは一時歓談を中止して、彼に目を向け、そして、すぐにレオポルドとその手を取るリーゼロッテに視線を向ける。

「我が主ムールド伯レオポルド・ウェンシュタイン・フェルゲンハイム・クロスよりご報告がありますので、ご清聴頂けますようお願い申し上げます」

 キルヴィー卿の言葉を受けて、レオポルドは改めて招待客に長々と修飾された謝辞を述べた後、本題に入った。

「私事ではございますが、この度、私はこちらのリーゼロッテ・アントーニア・フライベルと婚約する運びとなりましたことを、この場を借りて皆様方にご報告申し上げます」

 レオポルドが本題をさっさと言い切ると、リーゼロッテは一瞬顔をぴくりと動かした。本当に笑いそうになったのかもしれない。

「これはこれは、ムールド伯叙任と重ねてめでたいことです。似合いの両人の新たな門出を祝しましょう」

 計らったようにレイクフューラー辺境伯が呼びかけ、賛同する声が上がった。

 出席者にグラスが行き渡ると、出席者の中では最高位であるマドラス公の発声でグラスが掲げられた。

「まったく、厄介な男に捕まってしまったわ」

 葡萄酒を飲み干したリーゼロッテが小声で囁き、レオポルドは渋い顔で言い返す。

「こっちこそ」

 二人は顔を見合わせ、揃って唇を歪ませた。

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