一〇三
帝都に本格的な春が訪れ始めた三月の末、レオポルドに対し、ムールド伯に任ずるという勅許が下された。同時にシュバルト・ウェンシュタイン男爵の隠居願いが許され、甥の子に当たるレオポルドがこれを相続することも認められた。これによって、ウェンシュタイン男爵家に仕える数人の騎士と数十人の使用人や兵士やその家族は正式にレオポルドの配下に編入されることとなった。
レオポルドは謹んでこれを受け、彼はムールド伯兼帝国男爵レオポルド・ウェンシュタイン・フェルゲンハイム・クロスとなった。
体調を崩して寝込んでいたレオポルドの大叔父シュバルト・ウェンシュタイン男爵は親類であるベルゲン伯の助言を受け、隠居して修道院に戻ることに同意していた。元々彼は聖職者であり、兄の死去によって空位となった男爵位に臨時的に座っていたに過ぎずない。神の家に戻ることは本人にとっても本意であるはずだ。
見送りに出たレオポルドに、痩せ衰えて今にも卒倒しそうな顔色のシュバルト・ウェンシュタインは苦々しげな顔で言い放った。
「君のような異教徒の同輩である背教者に我が家を乗っ取られるとは極めて忌々しきことだ」
恨み節のような言葉に、レオポルドが黙っていると、前男爵は居並ぶ男爵家の家来衆を睨みつけて言い捨てた。
「諸君らに等しく神の慈悲が与えられんことを。罪深き者も許しを乞えば神は許さん。ただし、それは自ら罪を告解した者のみに与えられる慈悲である。深くその胸に刻んでおくがよい」
そうして、馬車に乗り込み、ウェンシュタイン男爵邸を後にした。
レオポルドと家来衆は気まずげに顔を見合わせ、しかし、何も言わずに屋敷へと戻った。
罪悪感と居た堪れなさと自らの信仰心に対する不安はさて置き、彼らにはやることがあるのだ。神に祈り、罪を告解することは死の間際でもできるが、俗世の事柄は時間に追われるものだ。
「キルヴィー卿。準備は滞りなく進んでいるだろうな。食糧庫と酒蔵の備蓄は増やしたのか。以前見たときは教会の施しみたいな食事しか出せないような備蓄だったと思うが」
「仰せの通り準備を進めております。今週中にオリビア産の葡萄酒の樽が届きます。食材に関しましても、アンクロック地方産の鴨、去勢鶏、小鳥、仔羊、北海産の塩漬け魚、内海から生簀で取り寄せた鮮魚、野菜や果実も手を尽くして取り寄せております」
ウェンシュタイン男爵家の家宰であるキルヴィー卿は淀みなく準備の進捗状況を説明した。
以前、アルヴィナから帝都まで魚介を生簀で生きたまま運んだことがあったが、それはこういう事態を見越した試験的な輸送であった。どのようにすれば帝都まで安全に生きたまま運ぶことができ、何日程度までならば鮮度を維持できるかということをレオポルドは知っておきたかったのだ。
「招待客の選定と招待状の発送はレンターケットに頼んである。後で調整してくれ」
「承知致しました」
レオポルドの指示にキルヴィー卿は恭しく頭を下げた。
卿はウェンシュタイン男爵邸にてレオポルド主催により催される宴の準備の責任者を務めているのだ。招待客の選定や招待状の発送はレオポルド直属であるレンターケットに任されていたが、それ以外の部分、大量に消費される料理や酒の準備、会場であるウェンシュタイン男爵邸の改修や飾り付け、招待客が乗ってきた馬車や護衛の兵の待機場所などにも気を使わなければならない。
勿論、レオポルドが進めている作業はこれだけではない。
クロス家の屋敷の改築工事は佳境に差し掛かっており、小さくても洗練された住み心地の良い家へと生まれ変わろうとしていた。
引き続き、有為な人材の発掘と勧誘にも力を注いでおり、既に十数人もの学者や技術者、役人がムールド行きを了解しており、彼らはそれぞれに旅支度を進めているところだろう。その為の支度金も配っていた。
また、ムールド統治に向けた準備も進めていた。
「マルトリッツ卿。サーザンエンド銀行の設立準備は滞りないか」
レオポルドは丸々とした体格の老人に視線を向けた。
「今のところ問題ございません。近々、勅許も得られる見込みです」
マルトリッツ卿は血色の良い赤ら顔に笑みを浮かべて胸を張った。
サーザンエンド銀行の設立はムールドの開発と発展に欠かせないとレオポルドは考えていた。
ムールド開発に当たって、まず、最初に必要となるものは多額の資金である。都市の再開発、道路建設と貿易路の整備、鉱山開発、灌漑と農地整備、治安維持、いずれも金のかかる事業ばかりである。この全てをレイクフューラー辺境伯や近在の商人からの借金だけで賄うのは無理がある。
十分な資金が調達できたとしても短期的にはそれでよくても、中長期的に問題が生じてくる可能性は否定できない。
そこでサーザンエンド銀行の出番である。
資金調達の為には窓口が必要である。帝国本土の豊富な資金を有する貴族や商人に、南部という有望な地への投資を呼びかけ、それを仲介する機関が必要なのだ。
サーザンエンド銀行の目的の一つがこれである。帝都に銀行の支店を置き、南部への投資を呼び込む窓口にしようというのだ。
遠からず南部の物産を帝国本土へと売り込む商社を設立して、これの取引にも活用しようとも考えていた。
なお、名称をムールド銀行ではなく、サーザンエンド銀行としたのは、そちらの方が帝都での知名度が高いからだ。将来、サーザンエンド全土を領したときに商号を変更するのが面倒だからでもある。
マルトリッツ卿の応えに満足したレオポルドは別の騎士に仕事を新たな与えた。
「ディーテル卿は船を調達して頂きたい」
ウェンシュタイン家の財務官を務めるディーテル卿は三十代後半の細い体つきの男だった。細長い馬面で、か細い髭を生やしている。
「我々が南部に戻るとき、船が三隻程度ではとても足りないだろう。新たに雇い入れたドレイク連隊に武器や糧秣を積み込んでいかねばならない。適当な船をあと三隻は購入してくれ」
「閣下。失礼ながら、今一度お聞きします。購入ですか」
ディーテル卿が神経質そうに尋ねると、レオポルドははっきりと言い返す。
「購入だ。借りるのではなく、買うのだ」
彼の強気な発言に家来衆は顔を見合わせる。
「輸送船よりは軍艦の方がよい。フリゲートでは少し足りないかもしれない。贅沢を言えば七〇門艦が欲しいが六〇門艦でもよい」
七〇門艦、六〇門艦とは大砲の搭載数を意味する。この頃、軍艦は大砲の搭載数でその等級が定められていた。概ね五〇門以上の砲を搭載する軍艦は戦列艦を呼称され、単縦陣(戦列)を形成して海戦に臨んだ。それよりも少ない数の砲を搭載する軍艦は砲の数や大きさに応じてフリゲート、スループ、コルベットと呼ばれる。
つまり、レオポルドはただ単にレオポルドとその随行者、兵員、荷物を運ぶ為の輸送船団を組織するのではなく、海軍を組織せよと言っているのだ。
「今から造船するのではとても間に合わないからな。どうにか帝国海軍の古い軍艦を払い下げてもらえないか交渉してくれ。レイクフューラー辺境伯からも口添えしてもらうよう頼んでおく」
「閣下。失礼ながら申し上げます」
家来衆の中では最年長であるマルトリッツ卿が声を上げた。
「我々が聞くところによりますとサーザンエンドは海に面していない内陸の地方とのこと。海軍を持つ必要があるのでしょうか」
卿の疑問は勿論というものだろう。サーザンエンドは北はアーウェン地方、西はイスカンリア地方、東は東岸地方、南は半島南端地方に囲まれた内陸であり、海に面していない。大型船が遡ることが可能な大きな河川や運河があるわけでもない。
内陸国に海軍は必要ない。とは誰もが思うことだろう。
しかも、海軍を保有するには非常に金がかかる。軍艦は定期的に補修されなければならないし、専門の士官や水兵をある程度の人数雇用し続けなければならない。そうしなければ、いざというとき、軍艦は稼働できないからだ。
「諸君の懸念は尤も。しかし、いずれ海軍は必ず必要となる」
そう言ってレオポルドは自室へと戻ろうとした。
その行く手をキスカが遮った。
「結論だけを述べて、その理由を説明なさらないのはレオポルド様の悪癖です」
彼女の不敬とも言える言動に人々は息を呑んだ。
キスカは、レオポルドに対しては無礼であれ何であれ、言いたいことは言わねばならない。と考えていた。
というのも、数日前に二人で出かけたときの経験から、レオポルドは聞かれなければ必要なこと以外何も言わない人物だということを痛切に感じていたのだ。
その上、彼は部下の直言に対し、無礼だとか不敬だとかいう概念を抱くことのない男であった。
「まぁ、そうだな」
キスカの指摘にレオポルドは苦い顔をして頷き、家来衆に向き直る。
「ムールド諸部族の多くは私に恭順の意を示しているが、ただ一人、ムールドの王を僭称するレイナルなる男だけは未だに私に対して反抗し続けている。奴は広大なムールドの荒野を縦横無尽に逃げ回るものだから、我が軍も奴の足取りを掴み、捕えることは非常に難しい」
荒野を行くのは砂漠の遊牧民たるムールド人の十八番である。本気で逃げようとするムールド人を捕えるのは容易なことではない。
「しかも、このレイナルを支援している輩がいる」
そのことが尚更レイナル捕縛を困難にし、彼の勢力復活という危険な芽を育む要素となっていた。
「閣下のサーザンエンド辺境伯就任に反対する男爵のうちの誰かですかな」
マルトリッツ卿の問いにレオポルドは首を横に振った。
「いや、レイナルはムールドの反帝国派の旗印だ。帝国の支配階級にある男爵たちと結びつくことはない。しかも、それまで何の交流もなかった相手と都合よく連携できるわけがない」
目的が一致していても、今まで一度たりとも接触したことがない者同士が結びつくことは容易いことではない。
もし、その障害を乗り越えてでも、連携を為さんとなれば頻繁に使者を往復させる必要がある。だが、その両者の間にはレオポルドの勢力圏が横たわっており、頻繁な使者の往来があれば直ちにレオポルドの知るところとなるだろう。今のところ、その手の情報は入っていない為、この連携はない。と考えて間違いはないとレオポルドは考えていた。
「では、一体誰がそのレイナルという男を支援しているのですか」
当然の疑問を口にしたのはディーテル卿の弟だった。彼も同じく男爵家に仕えており、今までは荘園代官の補佐を務めていた。
「ムールドから寄せられた情報によると」
レオポルドはムールド諸部族からの情報を得る立場にあり、帝都にいる間も絶えることなく、ムールド情勢に関する情報は彼の耳に入っていた。これによって、彼はレイナルの背後にいる存在を認識していた。
「ムールドよりも更に南、半島南端部に住むハルガニ人だ」
ムールドの伝承によれば神から「肉と魚、どちらを選ぶか」と問われたとき、彼らの始祖ムールドは肉を選んだが、弟ハルガニは魚を選んだ。その時からムールドは内陸部に、ハルガニは海岸部に住むようになったという。
そのハルガニの子孫と云われているのが半島南端部の海岸沿いに住む人々であり、この伝承からムールド人とは遠い親戚関係にあると信じられてきた。
伝承が事実かどうかはさておき、長年ムールド人とハルガニ人の間には交流があり、物品や人の往来が少なくなかった。
彼らは帝国に従うことを潔しとしておらず、実際、帝国の支配は全く及んでいなかった。一応、帝国の法ではサーザンエンド辺境伯の支配領域になっているらしいが、辺境伯自身は勿論、代官すら足を踏み入れたことがないというのが半島南端部の現状であった。
反帝国を隠そうともしないハルガニ人がレイナルを背後から支援しているというのが、レオポルドの見解であった。
「レイナルの息の根を止める為には、その背後にいるハルガニ人どもを叩かねばなるまい」
逆に言えば、ハルガニ人たちを打ち破れば、レイナルは逃げ場と補給路を失い、餓えと疲労の果てに滅びることは確実である。
また、今後、サーザンエンド中部や北部へと北上するにあたって、ムールドの南に反抗的な部族が控えているのは好ましいことではない。後顧の憂いを絶つ為にも半島南端部攻略は不可欠だとレオポルドは考えていた。
「南端部にはいくつかの港町があり、これを攻略する為には海軍が必要だ。内陸側を包囲しても、海からいくらでも補給できるのでは攻略は容易ではなかろう」
今から海軍を整備することは将来の南端部攻略に向けた前準備なのである。
また、半島南端部を攻略した際には、当然、その地はレオポルドの勢力圏に組み入れられることとなる。これを防衛する為にも海軍は必要である。
「海軍が必要な理由は御理解頂けたかな」
レオポルドの説明にウェンシュタイン男爵家の家来衆は納得したようであった。
「それでは、諸君は引き続き作業を進めてくれ」
彼がそう言ったとき、ウェンシュタイン男爵邸の扉が開かれ、汗まみれの伝令が駆け込んできた。
「き、緊急の知らせ、です」
男爵家の家来たちが不快そうな顔をする中、レオポルドは素早く伝令から手紙を受け取った。
情報の迅速性を重視する彼はアルヴィナに常時数騎を待機させており、船便で届いた手紙を直ちに受け取ることができる体勢を構築しており、その知らせは、夜中であろうともレオポルドかその副官であるキスカ、或いは事務長のレンターケットの手に渡るように指示されていた。
たった今、届いた手紙の送り主は、サーザンエンド辺境伯の宮廷では長老格であるシュレーダー卿の子息からで、その文面を見たレオポルドは途端に眉根を跳ね上げた。
「何だとっ。クソッタレめっ」
基本的に普段から温厚であり、あまり激しい感情を露わにしないレオポルドの罵声に、ウェンシュタイン男爵家の家来衆は目を丸くした。
罵声だけでは我慢ならないようで、彼は手紙をくしゃくしゃに丸めると床に叩きつけ、舌打ちをしながら足音も荒々しく自室へと去って行った。
唖然とする一同の中で、逸早く意識を取り戻したキスカは丸められ広間の床に転がった紙を拾い、広げて中身を見た。
そして、彼女も同じように怒りを露わにした。
「一体、何と書いてあるのか」
キルヴィー卿の問いに、キスカは忌々しげに吐き捨てるように言った。
「アルトゥールとエリーザベトが婚約するとの知らせです」
アルトゥールはフェルゲンハイム家の庶子の系統にある一族であり、エリーザベトはサーザンエンド辺境伯の傘下にある有力な領主ウォーゼンフィールド家の娘である。二人とも現在はレオポルドの保護下にあるが、いずれもフェルゲンハイム家の血統を引いており、レオポルドのライバルになり得る立場にある。
この二人の婚約は、より一層フェルゲンハイム家との繋がりを増すことを意味する。
つまり、フェルゲンハイム家の後継として、レオポルドに劣らぬ正当性を持つ存在が生まれるのだ。
手紙の中にはレッケンバルム卿が斡旋した可能性が書かれていた。
今までのサーザンエンドは指導力の弱い辺境伯、独立心の強い男爵たち、反抗的なムールド諸部族という構図であり、その中でレッケンバルム卿は意志薄弱な辺境伯の宮廷を牛耳っていた。
しかしながら、軍事指揮権を握り、ムールド伯という法的な立場を手に入れたレオポルドの存在感と発言力は増す一方である。このまま他の男爵たちが倒されていくと、サーザンエンドはレオポルドという絶対的な主君が君臨し、他の貴族や諸部族を統率する構図へと生まれ変わる。
卿としてはこれは避けたい。自らが以前と同じようにサーザンエンドの主導権を握る為にはレオポルドに対抗できる勢力をつくる必要があった。
アルトゥールという軍事的な才能に恵まれ、法的には継承権がないもののフェルゲンハイム家の血を引く男とサーザンエンドでは有力な名門であるウォーゼンフィールド男爵家の継承権を持つエリーザベトを結び付ければ、レオポルドに取って代わることも出来得る強力な勢力が出来上がる。
そうなると、レオポルドとしては家来たちがそちらに付いてしまわないよう、彼らに対してより一層配慮し、妥協しなければならなくなる。彼らが一斉にアルトゥールを推戴して反乱を起こせば、レオポルドも苦境に追い込まれるだろう。
つまり、アルトゥールとエリーザベトの婚約によって、強力な対抗軸をつくり、これによってサーザンエンドの中小貴族に大きな影響力を持つレッケンバルム卿はレオポルドを脅すことができるのだ。
これにレオポルドは激怒した。
レオポルドは書斎に戻ると不運にもそこで事務処理をしていたコンラートに怒鳴りつけるような調子で手紙を書かせ、至急ムールドへ送るよう指示した。
文書は一文のみだった。
「レオポルドに無断の婚約は絶対に禁止である」
そして、彼は早急にムールドへ帰還する必要を感じていた。
老練なるレッケンバルム卿の策略はレオポルドを激怒させ、彼に大きな危機感を抱かせるに十分なものであった。