一〇二
一行はそれから更に暫く馬を進めて、太陽が天頂に差し掛かった頃、帝都の城壁を遥か彼方に望んだ小高い丘の上で馬を止めた。後世にその丘は「レオポルドの丘」と呼ばれることになる。
昼食はフライベル家の方が用意する手はずとなっていた。女使用人がバスケットから食べ易い軽食を取り出し、お茶の用意に取り掛かった。フライベル家の騎兵は馬の背に乗せてきた組み立て式の椅子や台を用意し、そのうちの一人は近くの小川へと水を汲みに下りて行く。
レオポルドたちは準備が整うまでの間、丘の周辺を歩いて散策することにした。
まだ春のだいぶ早い時期だが、力強い草は既に生い茂り、殊更寒さに強いいくつかは蕾を付けていた。
ニーナは蕾を見つけるとその場にしゃがんで熱心に観察し始めた。
「これは何という植物でしょうか。レウォントでは見たことがありません」
「あー、さて、何でしょうか」
彼女の問いにレオポルドは返答に窮した。彼は勉強家とはいえ、それほど植物学に造詣が深いわけではない。蕾を見たくらいでは何という花か答えることはできなかった。
「ナデシコの仲間でしょうか。葉の形状を見ると、それに近い気がしますね」
回答がなくても、彼女はそれほど気にした様子もなく、そこらに点々と芽吹いている草を眺め、蕾を見つめていた。植物にさしたる興味を抱いていないレオポルドとリーゼロッテは手持無沙汰にニーナの後姿を見守っていた。
「ニーナが花や草木を好きなのは母の影響なの」
不意に、囁くような声が聞こえ、振り向く。そこに突っ立ったリーゼロッテはニーナの後姿を見つめながら、レオポルドとは目を合わせることなく、彼にだけ聞こえるような声で続ける。
「母は家庭菜園の趣味が高じて植物学を勉強、研究することが人生の目標みたいな人だった。母の部屋には植物学の分厚い本や研究結果をまとめたノートが山のように積まれていて、兄や私は変な母親だと思っていたわ」
しかし、ニーナは違ったらしい。彼女は母親の趣味と研究に理解を示し、幼いながらも母親の趣味に付き合うようになった。
「母は五年前に亡くなったわ。弟を産んだ後、体調を崩してね。以来、母の菜園と研究室、書物の類は全てニーナが管理しているの。彼女は母の研究を引き継ぎたいと思っているのよ」
勿論、十代半ばくらいの年齢では菜園を維持し、学術書の内容を理解するのがやっとといったレベルだろう。それでも、ニーナは母の遺産を維持し、理解しようと努め、母の遺志を継ぐことを望んでいるらしい。
「ニーナが植物学を学ぶのは、母との想い出に浸るようなものなの。だから、私は……」
リーゼロッテはそう言って苦々しげにレオポルドを睨みつけた。
射るような視線を受けて、レオポルドが口を開く前に、彼らを呼ぶ声がした。
「お嬢様方、若旦那様、昼食の用意ができました」
フライベル家の女使用人のその言葉にリーゼロッテは途端に気色ばんだ。
「テレザっ。だれがっ、若旦那だってぇっ」
白い肌を瞬時に朱色に染め上げたリーゼロッテはそこらの雑草を蹴散らしながら斜面を駆け上がり、テレザという名の女使用人に詰め寄る。リーゼロッテも背が高いがテレザはそれ以上に長身で、レオポルドと同じくらいの身長だった。茶色い髪を短く切り揃え、糸のように細い目をしている。
「レオポルド様のことに決まっているじゃありませんか」
主に詰め寄られても、彼女は平然とした顔で答えた。
「遠からずどちらかのお嬢様とご婚姻なされるのですから、若旦那様とお呼びしてもおかしくありませんでしょう。それに輿入れの際には、私も御同行することになるでしょうから、今のうちに呼び慣れておきませんと」
「そんなことまだ決まってないんだから、気の早いことしなくてもいいのっ」
「またまたー」
そう言ってテレザはニヤニヤとイラつく笑みを浮かべる。
「いいから、さっさと食事の用意をしなさいよっ」
「もうできたからお呼びしたんです。相変わらず、リーゼロッテお嬢様は人の話をお聞きにならない」
リーゼロッテはキリキリと歯軋りしながら拳を握りしめたが、
「お、お姉ちゃんっ」
傍らに駆け寄ったニーナに心配そうな声をかけられて、リーゼロッテはどうにか拳を解いて、自分を落ち着けるように深呼吸した。
「もういいわ。毎度、あんたに付き合ってると頭の血管がぶち切れそうになるわ」
「あら、リーゼロッテお嬢様。そのような悪い言葉遣いをなさってはいけません」
「うっさいっ。いいから、ご飯っ」
リーゼロッテはテレザを一喝すると、丘の上に設けられた簡易な椅子に座った。
「さぁ、若旦那様もどうぞ」
平然とした様子で声を掛けてきた彼女の図太さに、レオポルドは舌を巻く気分だった。
昼食は小麦の白いパンにグリルした去勢鶏の切り身、数種のチーズと干し果実かいくつか。貴族の食事としては非常に簡素なものといえる。勿論、庶民にとっては御馳走いっていいレベルの食事であるが。
それらを手早く食べた後、カップに注がれた熱いお茶が出された。野外ではあるが、火を熾してお茶に適した温度の湯が出せるようにしていた。
お茶を用意するテレザの所作は手慣れたもので、態度からは想像できないが使用人らしいこの手の能力は備えているらしい。
「あ、あの、お聞きしても宜しいでしょうか」
「えぇ、どうぞ。何なりと」
ニーナの言葉に、レオポルドは努めて穏和な笑みを浮かべて応えた。
「ムールドはどのような地ですか。風聞によれば砂と石ばかりの灼熱のような地だとか」
同じ南部といってもレウォントとムールドでは非常に遠く、当然地勢も大きく違う。サーザンエンドやムールドの事情に通じていなくても無理はない。
「確かに経験したことのない暑さでしたが生きていけないという程ではありません。砂や石が多いのは仰る通りですが、オアシスもあり、水や土が全くないというわけではなく、木々が生えている箇所もあり、乾燥に強い植物も見られます。非常に限られた地ではありますが、農耕できる地もありますね」
レオポルドはできるだけ事実に即して、しかし、努めて不安を与えないように述べた。婚約が成ればムールドに赴かなければならないのだ。その地に対する恐怖心や不安を煽るような真似は避けたかった。
「彼の地に住むというムールド人は、やはり、異教徒は野蛮なのかしら」
彼が答えた直後、リーゼロッテが質問した。
「確かに彼らは異教を信仰していますが、根本的には我々と何も変わりません。多くの民は平和を望んでおり、戦を好む者は少数です。欲求もありますが自制心や節制もあります。彼らは誇り高く、名誉を重んじる民であり、裏切りや嘘を吐くこと、誓約を破ることは邪悪な行いだと信じています」
これもなるべく事実を述べつつも、ムールド人について好意的に説明した。その理由は先に述べたとおりである。
「では、同じ正教徒の間でさえ争いが絶えないのだから、異教徒との間でも多くの戦があるのでしょうね」
リーゼロッテは重ねて問いかける。
「仰る通りではあります。しかし、戦いは既に終わり、彼らは帝国と皇帝陛下に従うことを誓っています。先程言った通り、彼らは裏切りや嘘、誓いを破ることを憎悪しています。再び刃向うことはないでしょう」
概ねその言葉は事実なのだが、いくつか例外もある。キスカの一族のように、ムールドの伝統に背いて裏切りを行う者もいるし、エジシュナ族のように利益の為に嘘を吐く者もいる。ただし、多くの者はレオポルドが述べたとおりである。
「どのようにして、貴方が誇り高き砂漠の民を従わせたのか気になるものね」
その言葉にレオポルドは答えに窮した。
彼のムールド人の掌握の方法は、まず、キスカとアイラを娶ることにより、部族の一員となり、その立場から親帝国派のムールド諸部族をまとめる。その後、ムールド人同士の対立を利用して、軍事支援と引き換えに軍事指揮権を握り、彼らの軍事力を自らの統率下に置いたものである。
つまり、レオポルドによるムールド征服の過程を説明する為には、如何にムールド人社会へと入り込んだかという説明が不可避となる。それは、キスカ、アイラとの婚姻を説明することと同義である。如何に、帝国法上は正式な夫婦ではないとはいえ、男女の仲にあることは否定し難く、そのことをこれから婚約しようという相手に話すことはできない。
「……ムールド人といっても、それは様々で、中には我々に助力してくれる部族もいるのです。彼らと協力して帝国に従わぬ部族と戦い、それに勝利した結果です」
結局、レオポルドは概略のみを簡単に説明することにした。神の加護により、戦いによって彼らを打ち負かした。などと嘘を言っても、リーゼロッテに鼻で笑われるだけだろう。
「ふーん」
聞いておきながらリーゼロッテはさしたる興味もない様子でカップを傾けた。
昼食と休憩の後、一行は再び馬上に戻った。
丘を下り、再び南北街道に戻って南下し、古代の神殿の跡を見学する為、一行は馬を下りた。
白い石で築かれた神殿は半ば朽ちて崩れかけていたが、古代から続く威容を留めていた。
巨大なドーム状の円形屋根の建物の周囲を回廊が取り囲んでおり、回廊には太く高い円柱が並んでいる。かつては円柱の間に古代の神々の彫像が立っていたそうだが、幾百年か前に教会の指示によって邪教の神であるとして打ち壊されてしまった。
円形の屋根の建物に入ると、天井にはぽっかりと大きな穴が開いていて、そこから中央部に日が差し込んでいた。これは屋根が崩落してしまったわけではなく、最初から屋根の中央には穴が開いているらしい。
中央には大理石の大きな台が置かれ、祭儀においてはその台の上で生贄を捌き、神に捧げたという。
帝都では、古代の祭儀を真似た悪魔信仰の輩が満月の夜にこの神殿跡に集まり、月明かりの下、生贄を捌き、悪魔に捧げているという噂が流れることもある。
教会とはまた違った荘厳さを備え、神秘的だがどこか言い知れぬ恐怖を感じさせる、今はもう祭られる神もいない神殿跡は帝都ではよく知れた名所であった。
リーゼロッテは興味深そうに、ニーナは恐々といった様子で姉の袖を掴みながら、神殿跡を見学した。
神殿跡を十分に堪能した後、一行は近くの泉に寄って小休止した。
ニーナはテレザ、フライベル家の騎兵たちを連れて泉の傍に生える草を観察に行き、ジルドレッド家の二人の士官は主君から少し離れた所に立哨していた。
思わずリーゼロッテと二人きりになってしまったレオポルドは気まずい空気を味わう羽目になった。
「先の話だけれど。ムールドの地勢とそこに住む民の話」
馬に泉の水を飲ませていたリーゼロッテが不意に話しかけてきた。
「陛下に仰った言葉とは随分と違うのね」
言われて、レオポルドは苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。これは痛恨とも言えるミスだった。
帝都に凱旋したレオポルドは西方教会の守護者にして、全ての正教徒の保護者であるところの皇帝に代わって、異教徒の蛮族を服属させたと喧伝してきた。その中では、異教徒どもは野蛮で危険な存在と説明した方がレオポルドの功績がより輝くというものだ。
しかし、フライベル姉妹にそんなことを言って聞かせてはムールドに対する恐怖心や不安を喚起してしまう。二人に対しては、ムールドへの警戒感を払拭するような説明が必要となる。
要するに、彼は状況と相手に応じて、言い方や説明を変えたのだ。嘘も方便と云うようにどちらの場合も必要なことではあった。
レオポルドは後者の考えから先の発言に至ったのだが、リーゼロッテはそれ以前のレオポルドの言動を知っていた。
皇帝に語った「地の果て、灼熱の地ムールド」「野蛮で恐ろしい異教徒の蛮族」と、先程、二人に話した「暑いが地獄というほどではないムールド」「異教徒だが根本は自分たちと何も変わらない異民族」は矛盾するものである。
リーゼロッテはその矛盾を指摘した。嘘を使い分け損ねたレオポルドのミスである。
「クロス卿。私、嘘を吐かれるのは好きじゃないの。都合の良い嘘を聞くくらいなら、都合の悪い真実を聞かされた方がずっとマシというものよ」
彼女はレオポルドをじっと見つめた。
「貴方の仮面のようなわざとらしい愛想笑いも嫌いだし、衣を被せたような物言いも気に入らない」
リーゼロッテは彼をまっすぐに睨みつけ、はっきりと言い切った。
「貴方の目的もよく知っているつもり。結局のところ、貴方は私たちが好きで婚約したいわけではなくて、兄と、レウォント方伯家との同盟が必要なのでしょう。私たちはその為の道具、兄が貴方を見捨てないようにする為の人質でしかない」
リーゼロッテはそう言ってから視線を外した。
「でも、貴方が仮面を被らなければ、そう言わなければならない理由も理解できる。貴族に生まれたからには、そういう愛のない結婚をしなければならないことも理解できる」
水面へと物憂げな視線を向け、憂鬱そうに語る彼女の姿は、持ち前の美貌も相俟って非常に美しく、昔話や古代の神話に出る女神か妖精のようにも見えた。
「それならば、貴方と結婚するのは私でも、妹でも、どちらでもいいはずよね」
泉の畔に立つ彼女の姿に目を奪われていたレオポルドは、そう問いかけられて、初めて自分が彼女に視線を奪われていたことを意識して顔を顰めた。
「どちらでもいいのなら、私にして」
レオポルドの応えを待たず、リーゼロッテは彼を見つめて言った。
「植物学の研究はニーナと母を繋ぐ絆なの。彼女にとって草花を愛でること、その生態を観察すること、学ぶことは、早くに失った母を感じることなの」
ニーナにとって植物学の研究は趣味の範疇を超え、母の遺志を継ぐことであり、母との想い出を思い返すことであり、亡き母を感じることなのである。
「ムールドでは今のように植物学を学ぶことは難しくなるでしょう。好きな草花を見ること、観察すること、育てることは適わないでしょうね。いくつかの種は育てることができても、その数はとても限られる」
彼女の指摘通り、ムールドで育てられる植物は非常に限られている。暑さと乾燥に強い僅かな数の植物しかない。南部でも豊かな地勢のレウォント地方とは、育てられる草花の数は比べ物にならないほど少ないだろう。
ニーナがムールドに嫁ぐことは植物学の研究を放棄することを意味する。続けられたとしても非常に限られたものとなるだろう。それは母との絆を失うこと、母との想い出を忘れること、母を感じられなくなることに近しい。
リーゼロッテはそれを避けたいと考えていた。その為の方策の一つは婚約の計画を捨て去ることだ。
彼女は当初、そちらを目指していた。
「今日一日貴方と行動して、話してなんとなく分かったのだけれど、貴方は真面目で穏和ぶっているけど、それは表の姿。本質は全く違う」
一日の間にリーゼロッテはレオポルドをよく観察して、彼の本質を理解しようとした。
実際、彼女は人の本質を見抜く術に優れていた。
それ故、今まで他人の本質がよく見えたことだろう。愛想笑いをされても、社交辞令を言われても、建前めいた言葉を聞いても、その相手の本音と本心に勘付いてしまうから、相手に対する嫌悪と苛立ちに直結してしまう。それが彼女の横暴とも言える振る舞いへと繋がってきた。
「目的の為なら手段を選ばないような冷徹な人間。自らの目的を達する為ならば多少の不利益や犠牲は厭わないのでしょうね」
レオポルドの性質を理解した彼女は考えを改めた。レオポルドは婚約破棄という目的の不達成を許さない。どのような手段を講じようとも彼は目的を諦めない。と、理解し、それを阻むことも難しいことを彼女は知っていた。
ならば、残る方策は一つしかない。
「だから、私をあげるわ」