一〇一
朝靄が立ち込める帝都の石畳を馬蹄が踏みしめる気持ちの良い音が響く。
灰色毛の丈夫そうな馬に跨ったレオポルドは濃灰色のマントを着込み、紺色のズボン、茶色い革の乗馬ブーツを履いている。
彼の後ろには同じく乗馬姿のレンターケット、ジルドレッド家の若い二人の士官、カール・ルドルフとフェルディナント・パウロスが続いている。
四頭の馬は白い息を吐きながら、石畳の坂道を下り、聖マーレイ教会の角を曲がった。そこから二軒先にファンブロント伯の屋敷がある。レウォント方伯一行はその屋敷に滞在しているのだ。
というのも、帝都から極めて遠隔の地にあるレウォント方伯が帝都に行くことは滅多にない為、方伯は帝都に屋敷を持っていないのだ。必要があって、帝都に来たときは親類筋なり知り合いなりの屋敷を間借りするのが常であった。
ファンブロント伯は帝国中東部に広大な領地を持つ諸侯であり、当代の伯の母親はフライベル家の出自である。つまり、遠い親戚に当たるのだ。
また、この時期、ファンブロント伯は帝都に滞在していなかった為、レウォント方伯は主のいない屋敷を借りることにしたのだ。
ファンブロント伯の、レイクフューラー辺境伯邸よりは小さく、ウェンシュタイン男爵邸よりは大きな屋敷の敷地に入ると、厩の辺りに人だかりを見つけた。
「あ、あの、おはようございますっ」
レオポルドの姿を目にしたニーナ・アレクシア・フライベルは丁寧にお辞儀をして見せた。ゆったりとカールした細い銀髪が日の光に煌めく。
今日は以前目にしたようなドレス姿ではなく、長袖の白いシャツに細微な刺繍の施された紅の上着を羽織り、動き易そうな綿の長ズボンを履いている。西方諸国では女性の乗馬は好ましくないという風潮が強いようだが、帝国では女性の乗馬はそれほど珍しいことではない。その理由は国土の広さが関係していると云われることが多い。或いは大陸東部の騎馬民族の文化を吸収しているせいかもしれない。
とはいえ、大人しく活動的には見えないニーナも乗馬ができるというのは意外だった。
レンターケットを通じてレウォント方伯フライベル家に姉妹をピクニックに誘い、乗馬が可能か問い合わせたところ、答えは是であった。ピクニックも、乗馬もである。しかも、二人ともだ。
ニーナの隣に立つリーゼロッテ・アントーニア・フライベルは、妹と揃いの服装で、これまた妹と瓜二つの長い銀髪を一つに纏めて後ろに垂らしていた。
リーゼロッテの方は妹ほど愛想よくも礼儀正しくもなく、レオポルドと視線を合わせることなく、そっぽを向いていた。
二人の傍には既に二頭の馬が用意されていて、年老いた馬丁が手綱を握っていた。一頭は輝くような白馬で、もう一頭も上等な毛並みの栗毛である。
周囲には御付の使用人や警護役らしき数人の騎兵の姿がある。
「おはようございます。お二人とも。良い天気で何よりですね」
敷地の中ほどで下馬したレオポルドは二人に向かって丁寧に挨拶した。
空に上がったばかりの太陽は燦々と輝き、地上をしっかりと照らしていた。怪しげな雲の姿は少なく、白くて薄ぼんやりとした雲がいくらか浮いているばかり。
「えぇ、でも、少し寒いですわ」
ニーナは赤くなった頬を手袋をはめた手で抑えながら笑って言った。
三月も半ばを過ぎようという時期だが、帝都は未だ寒い。積もった雪を見ることは稀で、日の当たる所では春の芽吹きを見ることもできるが、夜や早朝はまだ気温が低かった。水たまりには氷が張り、吐息は白く染まる。
「馬を駆けさせれば体も温かくなるでしょう」
レオポルドは穏やかに微笑みながら、リーゼロッテの顔色を窺った。
高い鼻を赤くしたリーゼロッテは見るからに不機嫌そうで、どう見ても妹と同じようにピクニックというよりは野駆けを楽しみにしている様子ではない。
それならば、何故、参加したというのか。確かにこちらから誘いはしたが、強制はしていないし、強制するようなものでもない。レイクフューラー辺境伯がこのような、親交を深める為のちょっとした小細工の為に圧力をかけるはずもない。
ということは、自ら参加することを希望したはずだ。にも関わらず、なんだこの態度は。気が乗らないならば来なければいい。と思いつつ、レオポルドはそんな内心を表には出さず、呑気な顔で微笑んでいる。
「本日はお誘い頂きましてありがとうございます」
無愛想で無礼な姉とは打って変わってニーナは相変わらず照れ臭そうにはしているが、丁重に礼を述べた。
思惑はさておき、表向きの形としては、帝都で生まれ育ったレオポルドが帝都に初めて来た姉妹を案内してさしあげましょうか。城壁の中にずっといるのも退屈でしょうし、健康にも宜しくないでしょうから、帝都の外を少し馬で駆けませんか。と、お誘いしたことになっているのだ。
「いえ、大した案内はできませんが、城壁の中ばかりいては体によくありませんからね。城壁の中は空気が淀み、人体の健康に悪い影響を及ぼすそうですし」
レオポルドの言葉にニーナは「そうなんですか」と素直に驚きを口にして、
「では、尚のこと、外に出ないといけませんね。ね。お姉ちゃん」
先程からむっつりと黙っている姉に水を向けた。
「そうね。城内の淀んだ空気は心身に良いとは思えないわね。どうやら、帝都にはきな臭い輩が多くいるようだから」
リーゼロッテは手袋をはめながら素っ気なく言った。
「でもね。ニーナ。外に出たからといって油断しては駄目よ。城壁の外には狼がいて、襲われてしまうかもしれないわ」
「そんな恐いことを言わないでよ。それに、大丈夫よ。私たちには心強い騎士様が付いて下さっているから」
ニーナの視線を受けたレオポルドは請け負った。
「勿論です。狼の牙など、お嬢さん方に届く前に圧し折って御覧に入れましょう」
「あら、そう。でも、最近の狼は人に化けるそうだから油断はできないわ。町の中では紳士でも、外に出れば化けの皮を脱ぐなんてこともあり得るもの」
リーゼロッテは冷ややかな視線を浴びせながらそう言うと、栗毛の馬に軽やかに飛び乗った。嘶きを抑え、慣らすように屋敷の前庭を歩ませる。
「もうっ。お姉ちゃん、何言ってるのっ」
頬を赤く染めて叫ぶニーナの横で、あながち否定し難い。とレオポルドは思わず苦笑を浮かべていた。
レオポルドとフライベル姉妹、レンターケットとジルドレッド家の二人の士官、レウォント方伯家の三人の騎兵と一人の女使用人は隊伍を組んで、帝都の大通りを進み、城門の一つから帝都の外に出た。
石畳で舗装された古代から続く街道を南へと下って行く。
この南北街道は遡ること一五〇〇年以上前の大ミロデニア帝国の時代に建設され、以来、ミロデニアの後継たる歴代の帝国によって維持・整備・補修されてきた。この街道によって多くの人や物が行き来し、帝都に莫大な富を齎し、南部から多くの食糧が輸送されてきて、帝都に住まう一〇〇万とも号される人口を養っている。その為、この街道は帝国の四つの胃袋の一つと云われている。
街道に沿って流れている大河はベクトラ川であり、帝都と周辺の畑の水源となっている。非常に幅の広いゆったりとした流れの川であるが、かつては度々洪水を起こしていたようである。それを古代から幾度もの治水工事を経て、堤防を築き、流れを緩やかにして、貯水池を造り、灌漑整備を行って、今日では帝国にとってなくてはならないものとなっている。帝都の生命線と呼んでもいいだろう。
振り返ると帝都の誇る白亜の城壁が聳え、その威容は帝国の強大さ威信を見る者にまざまざと見せつける。最早、旧時代からの城壁は町の防御に向いていないことは幾多の戦いの結果が物語ってはいるものの、垂直に聳える城壁の迫力は実用性以上に意味があると帝国政府は考えているらしく、毎年多額の費用でもって城壁の修復に努め、白さを保つ努力を欠かさない。
帝都の周辺には麦畑が広がっており、帝都とその周辺の諸都市に住まう何百万もの人々の胃袋を満たしている。帝都を中心とした帝国中西部一帯は適度に温暖で、乾燥した平原地帯であり、麦の大生産地である。帝国の四つの胃袋のもう一つだ。
ちなみに、他の二つは帝国東内陸部の穀倉地帯と内海に浮かぶマレイア島である。
今の時期は何もない土ばかりの殺風景な光景が広がっているが、夏になると青々とした麦が見渡す限りに広がり、眺めているだけで堪らなく心地よい気持ちになれる。収穫の時期ともなると黄金色の麦穂が無数に揺れる、金色の海の如き光景となる。特に夕日に照らされた平原一面に広がる麦畑の美しさたるや筆舌に尽くし難い。
レオポルドはそういったことを馬首を並べたニーナに語って聞かせた。ニーナはあまり自ら話そうとはしなかったが、非常に良い聞き役だった。レオポルドの話に相槌を打ち、驚いたり、感心したり、彼の語る光景に想いを馳せてみたり、ころころと表情を変えた。これだけ素直に反応されるとレオポルドとしても話していて気分がよいものだ。
「帝都には他に魅力的な点がいくつもあります。壮麗な宮殿や歴史ある教会、古代の遺跡も近隣に数多くあります。また、帝国各地どころか大陸中、世界中の物産が集まり、希少な宝物や珍品を目にする機会も少なくありません。そうだ。今度、一緒に動物園へ行きましょうか。珍しい動物が数多く飼育されているのです」
レオポルドの言葉にニーナは目を輝かせる。帝国でも辺境である南部レウォントに住む娘にはとてつもなく魅力的に聞こえたのだ。
「一つお聞きしてもいいかしら」
そこに冷ややかな声が飛び込んできた。
ニーナを挟んで馬首を並べているリーゼロッテが素っ気なく前を向いたまま尋ねた。
「それほど帝都を好いていらっしゃるのに、何故、貴方は南部に、それもムールドなんていう極めつけの辺境へ赴こうというのかしら」
彼女の指摘に、レオポルドは思わず言葉を失う。
実際、レオポルドは自ら望んでサーザンエンド、ムールドへと赴いたわけではない。二十年近く住み続けた帝都の方が馴染み深く、愛着もあるのは否定し難い事実である。それにも関わらず、南部へと下ったのは、それ以外に取り得る選択肢が極めて少なく、生きる為にはそうするしかなかったと言っても過言ではない。
レオポルドは暫しの沈黙の後、口を開いた。
「帝都には帝都の、ムールドにはムールドの魅力があります。とはいえ、個人的には帝都の方に愛着があるのは否定できません」
「では、何故」
リーゼロッテに促されて、レオポルドは悩んだ末にその答えを口にした。
「それまで、私は実に堅実かつ実直に生きてきました。教会にはそれほど熱心には通いませんでしたが、正教徒として恥ずかしくない人生を歩んできたと自負しています。犯罪に手を染めることなど勿論ありませんでしたし、賭け事や酒食は控え、贅沢は慎み、華美を避け、施しや援助を惜しみませんでした」
レオポルドは帝都貴族とは思えない程に、慎み深く実直で清貧な生き方をしてきた。贅沢や華美を嫌い、自らを着飾り、己の豊さをひけらかすことを嫌悪してきた。貴族というよりは役人のように現実的であり、修道士のように控え目であった。
それにも関わらず破算という憂き目に遭い、常より贅沢や華美を好み、自らの豊かさを誇る輩から嘲笑されたことはレオポルドにとって大変な恥辱であり、苦痛であった。その時期の彼はほとんど自暴自棄に陥っていたと言っても過言ではなく、屋敷にあった酒ばかり飲んでは寝て起きて酒を飲む生活を何日か続けたほどだった。とはいえ、幸か不幸か酒蔵の酒が溺れるほどの量も残っていなかった。満足に酒に逃げることもできず、当時の彼は余計に惨めな気分に陥ったものだ。
「ある大きな挫折に遭い、帝都に居場所がなくなったとき、私はどこか遠くへ行きたかったのです。逃避だったと言ってもいい。唐突に目の前に現れた非現実に飛びついたと言っても間違いではない」
レオポルドは過去を振り返り、自己分析するように言うと、姉妹の視線に気付いて、気まずそうに咳払いした。
「失礼。とにかく、私は一度帝都から離れ、やり直そうと思ったのです。それまでの堅実な、実直な人生から、いくらか離れて冒険的なことをしてみたわけです。思った通り、それは結構な冒険で、私は見事に堅実、実直な人生から零れ落ちてしまったわけです」
レオポルドが自嘲するように苦笑いを浮かべながら言うと、リーゼロッテは初めて自分が彼のことをじっと見つめていたことに気付いたようで、慌てて視線を外した。