一〇〇
キスカが選んだのは広々とした荒野を駆ける馬の絵だった。
地平線まで広がる荒涼とした大地を、一頭の見事な馬が駆け抜けて行く姿が描かれている。その馬の見ている間に動き出しそうな躍動感、力強い筋肉の描かれ方は、素人から見ても見事と言わざるを得なかった。絵師は余程馬を観察して描いたことが分かる。
ただ、その馬の毛並みは艶やかな黒であった。その毛色のせいか、ぎょろりとした目玉と歯の白さ、突き出された赤い舌が妙に目立ち、不気味で禍々しく感じる。おそらく、わざとこのように描いたのだろう。絵師が何を考えて、このような絵を描いたのかはわからないが、芸術家とは素人には理解できない行動をするものだ。
西方教会では悪魔の色と云われる黒を使って描いている上に、これほど気味の悪い絵では買い手が見つからないようで、店の片隅に隠されるようにひっそりと置かれていたものを買いたいと申し出ると画商は殊の外喜び、ほとんどタダ同然で譲ってくれることになった。
この絵が飾られる書斎の主であるレオポルドとしては、こんな「これは悪魔の化身です」と言われても納得してしまうような馬の描かれた額絵を飾るのは、正直勘弁してほしかったが、誰でもないキスカが選んだ絵にケチを付けるわけにもいかない。
「何故、あの絵を選んだんだ」
時間も時間ということで、二人は外で食事を摂ることにして、昨今流行というレストランに足を向けた。
そもそも、旅人相手に食事を提供する宿やちょっとした軽食を売っている店は古来からあれど、店の中で客に食事を摂らせるだけの店というものができたのは最近の話である。
今から数年前にリトラント王国の首都ルトで発祥したレストランは、当初、健康増進に効くというスープを食べさせる店であったらしい。
その後、西方各国に伝播していくにつれ、スープだけでなく食事を提供する店となり、各国の首都や大きな都市に根付きつつあった。
帝都にも三軒のレストランがあり、レオポルドはその中の一軒「黄金の魚亭」に入った。金メッキされた魚の看板を見たキスカは少し眉間に皺を寄せたが、黙ってレオポルドの向かいの席に座った。
そこで注文を終えた後、レオポルドは渋い顔で彼女に尋ねた。
キスカは黙ってテーブルの木目を見つめていたが、根気強く待っていると、ぼそぼそと呟くように言った。
「私に似ている気がしたので」
「似ているって、あの馬にか」
そう問いかけると、彼女は黙って頷いた。
レオポルドから見て、あの不気味な黒馬とキスカは似ても似つかないような気がした。
彼女はお世辞にも愛想が良いとは言えないほど、目つきが悪く、三白眼気味で、瞳は悪魔の色とされる黒。その上、西方人では滅多にお目にかからない褐色の肌をしている。その辺りが信心深い正教徒から見ると、不気味と思われるかもしれない。やや筋肉質な体つきも絵の馬に似ているといえば、そうかもしれない。
とはいえ、その容貌は大変整っていて、美人と言っていいだろう。あの絵の馬ほど不気味で恐ろしいものと似ているとは言えない気がした。
「君が何故、そう思うのかは全くわからんが、まぁ、些か縁起は悪いが、絵自体は悪いものではないし、何より、君が選んでくれたものだからな。大切に飾らせてもらおう」
レオポルドがそう言うとキスカは微かに頬を赤く染めて俯いた。
「お待たせ致しました」
ちょうどその時、給仕が食事を持ってきた。
まず、食前酒の白葡萄酒とカナッペ、次に店の名物だという北部風のスープ、白身魚の香草蒸し、口直しの氷菓子が出てから、赤葡萄酒と鶉のロースト。最後は数種のチーズの盛り合わせ。このように食事が順々に出されるのはリトラントの高級な料理で行われるサービスであり、元々は北方の国々で食事が冷めないようにという工夫から始まったサービスだという。
全てを順序よく食べてから、キスカはレオポルドを見つめた。
「レオポルド様、宜しいのですか」
彼女は囁くような声で遠慮がちに言った。
「何がだ」
「このような食事をして」
「気に入らない料理があったか」
「いえ、そういうわけではなくて……」
キスカはきまり悪そうな顔をした。
二人だけで外食を、それだけでも大変な贅沢だというのに、その料理が庶民には手が届かないクラスのもので、気が咎めているらしい。
「そのようなことを気にする必要はない」
レオポルドは平然とそう言いながら、葡萄酒のグラスを傾ける。
「しかし、レオポルド様にとって今は非常に大事なとき。このような贅沢をしている余裕は……」
「金ならある」
「それは借金ではありませんか。お手許にあるその金はレオポルド様のものであって、レオポルド様のものではないのです」
キスカは眦を上げて、咎めるような口調で言い募る。
「そもそも、前々から申し上げておりますが、レオポルド様は借金を重ねすぎています。確かに今は多くの資金が必要な時機ですから、一時的に借金をするのは致し方ありません。なれど、最近のレオポルド様の出費は目に余ります。まるで、わざと借金を増やそうとしているように思えます」
「あぁ、その通りだからな」
「なっ」
あまりにも、あっさりと頷いたレオポルドを見つめたままキスカは絶句する。
数秒の沈黙の後、彼女は拳をテーブルに叩きつけた。
「な、何故、そのようなことをっ」
「ふむ」
レオポルドはゆっくりと葡萄酒を飲み干し、グラスを空にしてから席を立った。
「行こう。歩きながら話す」
既に日はだいぶ暮れ、石畳の道路を歩く人の姿はもうだいぶ少なかった。
夜道を歩くのは大抵ろくでもない輩である。ふらつく足取りの酔っ払い、脇道に佇んで思わせぶりな視線を向ける娼婦、路上に座り込む乞食、路肩には生きているのか死んでいるのかすら分からない人間が転がっている。
「だいぶ遅くなってしまったな」
そう独り言のように呟いてから、レオポルドは振り返る。
「そんな後ろを歩いていないで、横に並んで歩け。話し難い」
数歩後ろを歩くキスカに言うと、彼女は不承不承ながら横に並んだ。
「従者は主君の横に並ぶものではありません」
「伴侶は共に歩むものだろう」
その言葉に、キスカは微かに頬を朱に染めた。
「あの、それで、借金のお話ですが」
「ん。あぁ、そうだったな」
レオポルドは顎を擦りながら少し考えながら話し始めた。
「そもそも、世の多くの人は一概に借金を悪いものだと決め付け過ぎている。金というものは世の中を循環するものであり、借金というものはその循環の一形態にして、最も循環しやすい形だ。余裕のある者が必要としている者に貸し、借りた者はそれを元手に商売や事業を起こして金を増やす。こうして社会全体の富が増えていく」
「しかし、借金は返済できる当てがなければ自らの首を絞めかねません。恐れながら、レオポルド様の現在の状況は十分な返済の当てがあるとは思えません。ムールドの経済振興は途上であり、将来どれほどの税収が見込めるか未だ定かではないのですから。勿論、いくらかの税収はあるでしょう。しかし、レイクフューラー辺境伯からの多額の借金を返済できるほどの税収が手に入るでしょうか」
キスカの言う通り、レオポルドによるムールドの経済振興は殆ど手つかずの状態であり、現時点でおよそ一一五万セリン以上にも上る借金返済の担保になるとは思えない。
レオポルドはさりげなく後ろの様子を窺いながら言葉を続ける。
「確かにその通りだ。本来ならば借りられる金額は今の一〇分の一かそこらだろう。それでも、レイクフューラー辺境伯が金を貸してくれるのは商売ではなく、政治的な思惑があるからだ。まぁ、それにしたって大した金額にはなっているが」
「その通りですっ。レイクフューラー辺境伯がレオポルド様に金を貸すのは、借金によってレオポルド様を縛り、自らの意向に沿った行動をさせんが為に他なりませんっ。ですから、借金に頼り過ぎるのは危険だと前々からっ」
「声を控えろ。……近所迷惑になるだろ」
レオポルドに窘められ、キスカは気まずそうな顔で口を閉じる。
「君の言う通り辺境伯にはそういった意図があるだろう」
「ではっ」
言い募ろうするキスカの声を無視して彼は言葉を続ける。
「しかし、私はそうはならない」
断定的な力強い否定に、キスカは唖然とした。
「はっ、えっと、それはどういうわけで……」
「借金なんぞ気にしなければいいんだ。返せと言われても、返せる金が手許にないのだから、どうしようもあるまい。まぁ、強引にやろうと思えば、屋敷を接収するなり裁判に訴えるなり、いくらか手はあるだろうが、彼女はそんなことをしないだろう」
「何故そう言い切れるのですか」
「そんなことをして金を回収しても彼女には何の得にもならんからだ」
強引にレオポルドから金を回収できたとしても、既に物品の購入などで少なくない額を出費しているのだから、全額を回収できるわけではない。金を貸して、それよりも少ない額を強引に回収して何の意味があるというのか。
そもそも、彼女は金貸しではなく、貴族なのだ。金を貸すことは目的ではなく、手段のでしかない。
「レイクフューラー辺境伯の目的は、俺をサーザンエンド辺境伯に押し上げることだ。いや、それは別に私でなくてもいい。ただ、南部に強力な味方を作ることができればいいのだろう。その相手として最も適していたのが私というだけの話だ」
その為に惜しみなく数々の援助を施してやっているのだ。道楽でやっているわけでも、商売目的でやっているわけでもない。彼女には確固とした戦略的目的がある。
「私の背後にレイクフューラー辺境伯がいることは最早帝都でも周知の事実だ。陛下への謁見に付き添ったくらいだからな。今更、私を切り捨てて別の駒を一から育てるのは楽ではないだろうし、世間の評判も芳しくないだろうな」
レオポルドはまるで他人事のように言った。周囲からそのように見られることを狙って行動したのは他ならぬ彼である。レイクフューラー辺境伯に指示されるがままに動くことは彼とレイクフューラー辺境伯との繋がりをより強く、より深くするものであった。
「ここまで入れ込んでしまっては、レイクフューラー辺境伯は最早私を切り捨てることは損にはなっても何の得にもならん。注ぎ込んだ金も、大貴族様にとってもさすがに捨ててしまっても痛くない金額というわけではないだろう」
レオポルドがこれまで最も重要視してきたことはレイクフューラー辺境伯との繋がりを絶やさないことであった。帝国でも屈指の有力な大諸侯である彼女の積極的な支援があれば、大抵のことはどうにかなると彼は確信していた。
ムールド諸部族を支配下に置き、ムールドを実効支配したのも、レイクフューラー辺境伯からの支援を確実にする為、より大きな支援を与える価値があると思わせる為であったと言っても過言ではない。
ムールドの実効支配という十分な実績を築いた彼が、せっかく支配した地域の支配を確実にすることも捨て置いて、逸早く帝都に戻ったのはムールド伯という肩書き、支配の法的な裏付けが欲しいだけでなく、レイクフューラー辺境伯からの更なる支援を求め、繋がりを確固としたものにする為でもあった。
そして、今、レイクフューラー辺境伯はレオポルドの後ろ盾という地位を明らかにしており、多額の資金援助を行っている。いくら彼女が大富豪とはいっても、一一五万セリンという金額は易々と出せる金額ではない。
今更、レオポルドを切り捨てては、これまでの多大な労力、時間、資金を全て無駄にするに等しい。計算高い彼女にそのようなことができるわけがない。と、レオポルドは踏んでいた。
「レイクフューラー辺境伯は俺たちを切り捨てるわけにはいかない状態になっている。彼女としてはどうにかして俺をサーザンエンド辺境伯の地位に押し上げなければならない。俺が金が足りんと言えば出さざるを得んだろう。そうしなければ俺は破滅し、彼女はこれまでせっかく育ててきた駒を失い、多額の債権が紙屑になり、今までの労力の全てが無駄になるだろうからな」
口端を吊り上げてそう言ったレオポルドとは対照的に、キスカは眉間に深い皺を刻み、苦虫を噛み潰したような顔で呟いた。
「それは、まるで寄生虫のようですね」
レオポルドのやっていることは、キスカが言うとおりレイクフューラー辺境伯に寄生するようなことである。栄養分を吸い続けるかのようだ。しかも、意地の悪いことにこの寄生虫は、宿主が虫下しが苦過ぎて飲めないのを知っているのだ。
「ほう。寄生虫を知っているのか」
「昔読んだ帝国の医学書に載っていました」
「そうか」
レオポルドは機嫌良さそうに頷き、いくらか歩いてから尋ねた。
「幻滅したか」
「いえっ、そんなことは……」
キスカは思わず立ち止まり、すぐに否定したが、開いた唇は塞がらず、言うべきか言わざるべきか悩んでいるようだった。
レオポルドは数歩先を行ってから振り返って彼女の言葉を待った。
彼女はいくらか迷ってから呻くような声を漏らした。
「ただ……、あまり、好ましいとは思えません」
「そうか」
レオポルドは困ったような笑みを浮かべて頷き、彼女の声を聞いている。
「支援してくれる方を利用して、相手の弱みに付け込んで、更なる支援を引き出すなど、正道とは言えないでしょう。仁義に反すると言ってもいい。欺罔であると糾弾されても致し方ありません」
「そうだろうな」
「でも……」
キスカは顔を上げてレオポルドを見つめた。
「嬉しいのです」
そう言って、彼女は儚く微笑んだ。
「レオポルド様が正道から外れ、罪を重ねることが嬉しいのです。そうすれば、レオポルド様がより近くに感じられるから。大罪を犯した私に近付いてくれる気がするから、嬉しいと思ってしまうのです」
レオポルドは彼女をそっと抱き寄せて耳元に囁く。
「前にも言っただろう。君の罪は私の罪だ。君の手が血濡れているのならば、私の手も血塗れだ。君が地獄に行くときは、私も共に行こう。伴侶は全てを分かち合うものだ。幸せも悲しみも、罪も」