九七
「貴方っ。何をしているのっ」
ニーナを庇うような恰好で、レオポルドとニーナの間に立ったリーゼロッテが叫ぶ。眉間には深い皺が刻まれ、目尻は吊り上り、明らかに怒っている。
「私の妹に何をしたのっ」
何もしていない。少なくも今は。いや、今すぐどうこうするつもりはないが。
レオポルドは何を言うでもなく、黙って葡萄酒のグラスに口を付ける。こちらから余計なことを言うべきではない。それよりも、
「お姉ちゃんっ。何で、そんな怒ってるの」
ニーナの口から事情を話させた方が都合が良い。
「ニーナっ。勝手に知らない人間に付いて行っちゃ駄目だって言ったじゃないっ。特に、男なんて奴らはどいつもこいつも……」
リーゼロッテはぎりぎりと歯軋りをしながらレオポルドを睨みつける。相当、男に対して嫌悪感を抱いているらしい。
「だからって、何も悪いことをしていない人を怒らなくてもいいじゃない。ただ、一緒にお庭を歩いてただけだよ」
「どうだか。これから、しようとしていたに違いないわ」
「お姉ちゃんっ」
レオポルドを親の仇か、或いは妹を連れ去ろうという人買いかのように睨みつけるリーゼロッテの袖をニーナが困ったような顔で引っ張る。
「大体、何者。この青い人」
青い人と呼ばれて、レオポルドは一瞬顔を顰めた。やはり、この鮮やか過ぎる青い上着は派手で好みじゃない。
しかし、すぐに柔和な表情を取り繕って、帝国式の挨拶をする。
「レオポルド・フェルゲンハイム・クロスと申します」
淑女の手の甲への口付けを省いたのは、とてもそんなことができる相手とは思えなかったからだ。
「あぁ、南部で異民族相手に上手いことやった若造ね」
どう見ても同年代に見えるリーゼロッテが見下したように言った。
「それにしても、上手いことレイクフューラー辺境伯に取り入ったものね。皇帝陛下や高官たちにも相当な贈り物をばら撒いたって話じゃない」
リーゼロッテは歯に衣着せぬ物言いを続ける。
彼女の言葉は帝都にいる多くの貴族たちの本音だろう。誰もが心の底では思っていながらも、決して口には出さず、仮面のような表情の裏に隠している思いだ。
勿論、それくらい、レオポルドはよく理解している。周囲にどう思われているかも十分承知しているから、柔和な表情を変えることなく、応えることができた。
「全能なる神の定めた運命によって南部に行くこととなりましたが、皇帝陛下やレイクフューラー辺境伯閣下らの御援助を賜り、幸運にも得ることができた勝利です」
レオポルドの形式ばった建前めいた言葉に、リーゼロッテは蔑んだ視線を向けた。
「偉そうなこと言ってるけど、あんたがやったことって、ただの人殺しでしょ。異民族の土地に乗り込んで、そこに住んでる人たちを殺して、領地や財産を奪って、たくさんの人の生活をぶち壊しただけじゃない。やっていることは強盗や野盗の類と同じよ。あんたは人を殺しておいて、それを誇り、ひけらかしているのよ」
「自らの行為の罪深さは自覚しているつもりです。褒められ、賞される行為ではないことも知っています。それでも、私はその罪を悔い、贖うわけにはいかないのです。私はその罪科を、功績と言い張って、その対価を得なければならない。そうしなければ、彼女の行為は……」
そこまで言って、レオポルドは口を噤んだ。気まずそうな顔をして、咳払いする。
「とかく、世は平穏ではございません。争いの絶えぬ辺境ともなれば、自らの手を血で濡らさなければならないこともある」
「ちょっと待って。その建前論はいらないわ。さっきみたいに本心を話しなさいよ」
リーゼロッテは挑発するように、笑いながら言った。
「それで、彼女の行為って、何かしら」
彼女は彼が漏らした言葉を聞き逃しはしなかった。
レオポルドは不機嫌そうに彼女を睨む。
「クロス卿。こちらにいましたか」
レオポルドが口を開く前に、背後で声がして、彼は口を閉じた。
振り返ると、レイクフューラー辺境伯が、背の高い若い男を伴って来るところだった。
金色の瞳に銀髪。しっかりとした高い鼻に、丈夫そうな顎。体格の良さもあって、随分と男らしい容貌をしている。
「方伯。こちらが、今夜の主賓クロス卿です」
紹介されたレオポルドが挨拶すると、相手も自己紹介した。この男前がレウォント方伯ハインツ・アルフォンス・フライベルであり、リーゼロッテとニーナの兄であった。
「閣下。お初にお目にかかります」
「こちらこそ。貴君の活躍は噂に聞いている」
レウォント方伯は低く落ち着いた声音で言った。
「昨今のサーザンエンド辺境伯領における混乱には、私も憂慮しているところだ。貴君の働きによって彼の地が安定に向かえば、我々にとっても望ましいことだと思う」
「閣下の御期待に沿えますよう、微力ではございますが、最善を尽くします」
慇懃に頭を下げたレオポルドの後ろで、リーゼロッテが呆れたような口調で言い放つ。
「調子のいいこと言って、兄さんの力を利用したいだけでしょ」
「帝国南部の安定に向けて、方伯閣下に協力致したいというのが私の考えです」
レオポルドは努めて冷静な口調で答える。
「帝国南部の安定は、南部の更なる開発、経済発展を推進するのみならず、南部に住む帝国人や正教徒の安全の維持や帝国全体に益を齎すでしょう。南部第一の諸侯であらせられる方伯閣下は、南部の安全と発展の為、率先垂範為さるお立場。私はその一助となれれば幸いであると考えております。南部に縁のある人間としては、南部の安全と平和の構築の為に、身を捧げるのは当然の義務というものでしょう」
レオポルドは偽りを口にしているわけではない。その言葉は真実である。建前めいて、いくらか修飾した感じではあるが、彼は本心から南部の安定を望んでいる。勿論、そうすることによって、彼に利益があるのだ。ブレド男爵やムールド人の反抗する部族との戦いはサーザンエンドの安定化に向けた障害の除去に過ぎない。戦争は目的ではなく手段である。
「君の意見に同意だ。同じ神を信ずる帝国人として我々は協調して事に当たらなければならない」
レウォント方伯の答えに、レオポルドとレイクフューラー辺境伯は、ひっそりと笑みを深める。
リーゼロッテは不機嫌そうに鼻を鳴らして、ニーナの手を取って中庭を出て行く。純真な妹は去り際にレオポルドに会釈していった。
「お美しい御令妹ですね。さぞ、求婚や交際の求めは多いでしょう」
会釈を返してから、彼はレウォント方伯に彼女たちの美しさを誉めた。
「見た目はともかく、我儘で困った妹たちです。リーゼロッテは、あぁ、上の妹です。今年で二十歳になるのですが、妹を置いて結婚できないと言いまして、中々嫁ぎ先が決まらず難儀しております」
帝国貴族の娘は家同士の都合によって政略結婚することが多く、酷いときには一〇歳くらいで結婚させられてしまうこともある。ただ、家の都合で二十歳を過ぎても結婚しない者も少なくない。二十歳で未婚というのは、行き遅れと言うほどではないが、平均に比べればやや遅い。
「リーゼロッテ嬢は二十歳ですか。クロス卿。貴殿は何歳だったかな」
レイクフューラー辺境伯の言葉に、レオポルドは一瞬言葉を詰まらせる。眉間に皺を作らないように気を付けながら答える。
「今年二十歳になります」
「おや、同じ歳でしたか。これは奇遇」
キレニアは機嫌良さそうに言い、レウォント方伯も機嫌を損ねることもなく、葡萄酒のグラスを傾けている。
「二人の気が合うようであれば、おっと、これはこれは」
レイクフューラー辺境伯は話の途中で、姿勢を正した。
レオポルドが彼女の視線の先、自分の後ろを振り返ると、ちょうど真っ白な装束を身に纏った老人が中庭に足を踏み入れたところだった。その後ろには数多くの高位高官が付き従っている。
老人は背が高く、ほっそりと痩せた体つきで、杖を突いていた。髪も長い髭も白く、瞳は碧く、鼻は高く、顎は細い。
レオポルドのような帝国騎士の子倅でも、その老人の素性はよく知っていた。帝都、帝国の貴族や上流社会に身を置く人間で、彼を知らない者などいまい。
「これはこれは、白亜公閣下。ようこそお出で下さいました」
レイクフューラー辺境伯は低く頭を下げ、白亜公を出迎える。
白亜公は皇帝ウルスラの伯母の夫に当たり、その血筋は初代皇帝に連なり、幾度も皇帝家と婚姻を繰り返す名家中の名家である。
その上、彼は大法官という皇帝の家臣の中でも筆頭格とされる職務を務めると共に帝国の最高司法機関である帝国高等法院の院長を兼ねており、その影響力は非常に大きなものがある。帝国にいくつかある貴族の派閥のうち最大規模と見做される法服派の代表格でもあり、帝国最大の実力者はまだ年若い少女のような皇帝よりも白亜公と見られることも少なくない。
「この中庭の趣向は中々面白い」
白亜公は庭先に咲く花々を眺めながら言った。
レイクフューラー辺境伯はすかさず公の傍に寄って、如何に冬でも中庭の緑を維持しているかの解説を始める。
一方、白亜公を目にしたレオポルドは顔を青くしていた。彼と公の間にはある因縁があるのだ。いや、直接的なものではなく、具体的にはレオポルドと白亜公の嫡子ウィッカードルク伯との間の因縁だ。
かつて、レオポルドが南部にある剣の修道院に滞在していたときのことだ。騎士道精神に憧れ、各地を旅しながら名だたる剣豪に剣術勝負を挑み、負けたり怪我をしたりすると、不正があったとか何とか騒ぎ立て、父親の威を借りて訴訟を起こすというとんでもなく迷惑な人物であるウィッカードルク伯は、剣の修道院でも一、二を争う剣術の腕を誇るソフィーネに勝負を挑み、瞬時に倒された。
この時、このままではソフィーネの身も剣の修道院の立場も危うい事態となった為、レオポルドがソフィーネの身柄を預かり、気絶していたウィッカードルク伯が起きる前に遠くへ逃げたことがあったのだ。
ウィッカードルク伯が目覚めた後、どうなったのかは不明だが、その後、サーザンエンドは戦乱に包まれ、南部の情勢は大変危険な状況になった為、帝都に戻っているのではないかとレオポルドは考えていた。
一方、それ以来、ソフィーネはレオポルドの身近にあって、護衛役を務めたり、フィオリアやアイラの身辺警護を担ったりしている。
この一件が白亜公の耳に入っているかどうかは不明だし、ウィッカードルク伯本人が今何処にいるかも分からないが、万が一、白亜公がこの事態を知っていたら、不味いことになりやしないか。とレオポルドは危惧した。
白亜公はレイクフューラー辺境伯のお喋りを聞いているのかいないのか、黙って視線をレオポルドに向けた。
レオポルドは姿勢を正して頭を下げる。背中を冷や汗が流れていく。皇帝の前よりも緊張しているだろう。
白亜公はゆっくりとした足取りでレオポルドに近付いた。
「君がクロス卿か」
「っ、はっ。お初にお目にかかります。閣下」
「うむ。南部では大層な働きであったとのこと。陛下もお喜びであろう」
「勿体なきお言葉です」
「君の働きは帝国南部を安定化させると共に、帝国全体に利益を齎すものとなろう」
白亜公は碧い瞳でレオポルドを観察するようにじっと見つめながら続けた。
「君をムールド伯に叙すことに異論はない」
それは殆ど、レオポルドがムールド伯に任ぜられることがほぼ決定していると言っても過言ではない一言だった。白亜公ほどの人物が言った言葉の重みは非常に大きい。周囲の貴族たちがざわつく。
「ムールド伯として、異民族を統治し、南部の安定化、帝国の繁栄の為に、君が働くことを期待する」
「はっ。御期待に沿えますよう全力を尽くします」
レオポルドは恐縮して、頭を下げる。
「ところで」
白亜公は顔を寄せ、声を潜めた。
「剣の修道院では、愚息が迷惑をかけたな」
「ぃっ、ぃえ……」
「アレには私もほとほと困っているのだ。黒髪の修道女にも迷惑を詫びておいてくれ」
「ぁっ、いえ、はい……」
それだけ言うと、白亜公は杖をコツコツと鳴らしながら中庭を出て行った。高位高官たちがぞろぞろとそれに付いて行く。
レオポルドはバクバクと鳴り響く自分の胸を抑えながら、深い溜息を吐いた。