九六
「こういう場は不慣れですか」
掛けられた声にニーナ・アレクシア・フライベルは顔を上げた。
その顔はまだあどけないものであった。ふっくらとした頬は林檎のように赤く、ミルク色の肌に金色の瞳、ゆったりとカールした銀色の細い髪には真珠の髪飾りと赤いリボンを飾っていた。
フリルとレースをたっぷりとあしらったリトラント風の薄桃色のドレスを着たその姿は淑女というよりも着せ替え人形のようだ。
「ぁ………」
ニーナは話しかけてきた長身の若い紳士を見上げた。鮮やかな青い上着を身に纏い、濃灰色の髪を綺麗に纏め上げて後ろで結んでいる。目は切れ長で瞳は真紅。すっと通った鼻筋に細い顎。背の高さと目つきの悪さから威圧されるような印象を受けるが、穏やかな笑みを浮かべていた。
「あ、えっと、あの……」
彼女は怯えたようにぷるぷると震えながら、辺りに視線を走らせ、スカートをぎゅっと握りしめながら、おずおずと、なんとかどうにかコクリと頷いた。
明らかに人見知りで臆病な様子を気にした風もなく、紳士はさりげなく、彼女の隣に立つ。
「実は、私もこういう場にはあまり出席したことがないんです」
彼はそう言って困ったような笑みを浮かべた。
「だから、貴女が落ち着かない気持ちもよくわかりますよ」
そう言いながら空になったグラスを軽く振った。遠くにいる給仕が目敏く、それを見て、葡萄酒のグラスと新鮮な果汁のグラスを盆に載せてやって来た。
「これは、オレンジか。帝都でオレンジの果汁が出るなんて、贅沢な」
彼は眉根を寄せて呟きながら、ニーナにオレンジ色の果汁の入ったグラスを手渡して、彼女の手にあったもうだいぶ前に空になったままのグラスを取り上げた。
空のグラスを盆に載せて去って行く給仕を見送りながら、ニーナに話しかけた。
「オレンジは食べたことがありますか。南国にある鮮やかな橙色の果実です」
帝都ではオレンジは滅多に手に入らない代物である。オレンジが育つのはもっと温暖な南の地域で、帝都周辺で育つものではない。庶民などはオレンジを見る機会など一生ないだろう。
「はい、あの、私はレウォントの生まれなので……」
オレンジ果汁のグラスを両手で持ちながら、ニーナはぼそぼそとか細い声で答えた。
レウォントは帝国では南部と呼ばれる、西方大陸の南東に突き出た巨大な半島の北東部一帯の地域である。雨が少なく、温暖だが、大陸本土と南部を隔てるグレハンダム山脈から流れた雪解け水のおかげで水はある程度容易に確保できる。その為、農耕があまり盛んではない南部の中では珍しく農業が盛んである。主な農産物はオリーブやコルク、そして、オレンジなどの果実だ。
「もしや、貴女はレウォント方伯の妹君ですか」
「あ、はい、あの、ええっと……」
ニーナはまごまごと、グラスを手近なテーブルに置いてから、スカートの端を摘まんで頭を下げる。
「ニーナ・アレクシア・フライベルと申します」
挨拶の仕方は家庭教師に躾けられたのだろう。幼く、場に不慣れにしては、形になっている。
帝国貴族風の立派な挨拶を受けて、若き紳士もグラスをテーブルに置く。
片膝を突き、胸に手を当てて、もう一方の手で少女の手を取る。
「お初にお目にかかります。レオポルド・フェルゲンハイム・クロスと申します。以降、お見知りおき頂ければ、この上ない幸福であります」
帝国貴族風の挨拶をして、少女の手の甲に軽く口付けする。この様をムールド人の妻たちが見たらどう思うことか。と、少し考えたが、そんなことは億尾にも出さず、頬を赤らめる少女を見つめる。
「少し、中庭の方に行きましょうか」
少女の手を取ったまま、強引に引いて行くのではなく、導くように二、三歩行くと、彼女はコクリと頷いて、手を引かれるままに付いて来た。
レイクフューラー辺境伯の屋敷の大広間には中央に硝子の壁で四方を囲まれた中庭があり、自由に出入りすることができた。まだ春も来ていないという時季にも関わらず中庭には緑が生い茂り、何種もの花が咲いていた。
中庭なので、当然屋根はないが、雨や雪が降る日や夜間は布を屋根のように被せている。レオポルドはこれがあまり好きではなかった。布の屋根は無粋だし、多少寒さや振る雪から身を守れるとはいえ、夜空を見られないのは頂けない。
噴水も冬季は休止中らしく、噴き出す水はない。それでも、落ち葉や汚れが見られないほど清められているのは、さすが金持ちの屋敷だけある。
「こんな時期なのに、花が咲いてる……」
ニーナは感心した様子で中庭に咲く花を見つめる。
レオポルドは彼女の傍らに佇んで黙って花を愛でる少女を見守る。
「どういう原理で冬にも花を咲かせているのかわかりませんが、大した技術というものです」
「そうですね。でも、少し、かわいそうです」
その答えに視線を向けると、ニーナは頬を赤く染め、視線を花にやっている。
「かわいそうですか」
「ええ、なんだか、私たちの都合で、無理矢理咲かせているようで」
確かに、この時期に花を咲かせることに、花にはなんのメリットもない。咲いたら、萎れて枯れる前に引っこ抜かれて焼かれるのだ。人間の都合で弄ばれているという彼女の指摘は御尤もといったところだろう。
しかも、レイクフューラー辺境伯は花に興味がある御仁でもなく、ただ単純に見栄えがよいから、咲かせているだけなのだ。
本当に花の美しさを知る者、種から育て花を咲かせるまでを楽しみ、実った種をまた次の年に植えるような趣味の人からは邪道も邪道。悪魔の如き所業に見えるのかもしれない。
ニーナは微かに悲しみを含んだ目で花々を眺めながら、中庭をゆっくりと巡る。レオポルドはその後に続きながら、声を掛ける。
「帝都に来たのは初めてですか」
「ぁ、あの……、はい……。閣下は」
「私は生まれも育ちも帝都です」
レオポルドは都市貴族の一員ともいうべき境遇に生まれ育ったのである。帝都から出たことの方が稀なのだ。年に一度くらいクロス家の荘園か或いは知人の別荘に避暑に出かけたくらいのもので、南部まで下ったのは、生まれて初めての大旅行というやつであった。
「ところで、閣下は勘弁して下さい」
「あ、すいません……」
ニーナはまるでこの世の最期とでもいうような暗い表情でしょんぼりと俯く。
「閣下と呼ばれるほど、私は立派な人間ではありませんよ。一介の帝国騎士に過ぎません」
レオポルドは少し慌てつつ早口で言い訳めいたことを言った。
帝国での彼の立ち位置は、未だ一介の帝国騎士に過ぎないのだ。騎士といえば、貴族の中では最も下位であり、その地位にいる人間は帝国全土で数千人ともいわれる。皇帝直臣であるから、並の騎士よりは少しは格が上ではあるが、それでも、千数百人はいるうちの一人なのである。
それに比べ、レウォント方伯は南部ではサーザンエンド辺境伯に次ぐ諸侯といえるだろう。帝国全体で見ても有力な大貴族の一員であることは間違いない。その当主でなくとも、その一族ならば同等程度の格として扱われる。
故に、立場としてはニーナの方がレオポルドよりも格上の存在なのである。
「ですが、この度、ムールド伯に叙されるとのこと。おめでとうございます」
「それは気が早いですよ。しかし、一番早いお祝いの言葉、ありがとうございます」
レオポルドが苦笑いを浮かべると、ニーナも釣られたように微笑んだ。
「やはり、中庭は少し冷えますね。戻りましょうか」
若き紳士に手を差し伸べられて、ニーナは躊躇いがちにその手を取った。
と、その時であった。
「ちょぉっとぉっ」
突如として響き渡る大音声に、中庭を囲む硝子の壁も震えた。
二人は驚いて、声のした方向を見る。
時は少し遡る。
白亜城長官の子息だか何だかという若い紳士にダンスに誘われたリーゼロッテ・アントーニア・フライベルは、渋々とその誘いに応じ、わざと彼の足を踏んでは、
「申し訳ありません。何分、田舎育ちなもので……」
などと殊勝なことを言って、見えないように舌を出したりしていた。
この頃急に流行り始めたムールド風とかいう体の線を目立たせるような細身の黄色いドレスを身に纏ったリーゼロッテは、女性にしては高い背と細いウェスト、女性的な体のラインが見事に惹き立てられ、非常に魅力的であった。きりりと吊り上った目尻はやや威圧的だが、すっと通った鼻筋に高い鼻、細い顎、桃色の唇、それに長い銀髪に金色の瞳といった美貌も合わされば、ダンスに誘われない方がおかしいというものである。
今宵、ダンスの申し込みを受けるのは彼が三人目であり、いい加減うんざりしているのだ。とはいえ、無為に断るわけにもいかない。踊りの申し込みを何の理由もなしに断るのは貴族の矜持に泥を塗るが如き所業なのだ。
それが自分と相手だけの話で収まればいいが、自分の言動は兄の評判にも関わってくるとなると、おいそれと勝手な振る舞いはできない。
白亜城長官の子息のヨハネスだかヨハンだかハンスだかいう青瓢箪みたいな男の足を三度踏み、締めに一度膝を蹴っ飛ばしたところで曲が終わった。
会場が拍手で包まれ、指揮者と楽団が頭を下げる。次の曲の為に、楽器や準備を整える間に、リーゼロッテは青瓢箪に会釈をしてから、大広間の端に寄り、給仕の運んでいた盆から葡萄酒のグラスをひったくって、一気に呷った。
そもそも、彼女はこのような貴族的な社交の場が嫌いなのだ。誰も彼もが建前や着飾った言葉ばかり吐き、本音や欲望を仮面の下に隠し、お上品に振る舞う場が、その声音や雰囲気に接しているだけで怖気が走る。
とはいえ、嫌だ嫌だと思っていても、そうはいかないのがこの社会というもので、貴族の家に生まれてしまった身の運命というものだ。どうにかこうにか我慢して諦めて周りに合わせて生きるしかない。
そして、いつかどこかの御曹司と政略結婚するのだろう。
兄の為、家の為、一族や領民の為、自らの想いや望みは捨てて、貴族の生き方をするしかないのだ。
リーゼロッテは自分の宿命を受け入れる覚悟を決めていた。
ただ、妹だけは。愛すべき、自分とは全く性格の違う妹だけは、貴族の宿命から離れた自由で幸福な生き方をして欲しいと願っていた。
そこで、ふと気付く。妹の姿がない。
本来ならば、自分がずっと彼女に付いていてあげるべきだったのだ。いや、当初はそのつもりだった。妹はまだ一五歳になったばかりなのだ。紳士の仮面をかぶった邪な大人の毒牙にかからないように、ずっと傍にいて守るつもりだった。
しかし、宴が始まるや否や、リーゼロッテは若き紳士たちに囲まれ、益体もない話に付き合わされ、裏に欲望を隠していることが丸分かりの親切や優しさを受け、ダンスに誘われ、兄の面子や何やを考えて、渋々とそれを受けたところ、一曲目が終わるや否や、次の男が誘いに来て、それを受けて踊り終わったら、また次と、三曲続けてダンスに付き合わされた。
その間、妹には心細い思いをさせているとは感じていたが、勝手にどこかに行くとは思っていなかった。妹は人見知りで内気で自分から動いたりする娘ではないのだ。
となれば、誰かに連れられて行ったとしか思えない。
リーゼロッテは瞬時に憤怒し、平素から吊り上っている目尻を更にキリキリと切り上げ、素早く周囲に視線を走らせる。
「お嬢様、次のダンス、私と御一緒…」
「うるさいっ。今、それどころじゃないっ」
空気を読まず話しかけてきた若造を一喝して、彼女は走り出す。床に届きそうなスカートも何のその、ぐいっとまくり上げて掴み、殺気立った視線を周囲に飛ばしながら、巨大な大広間を駆け巡る。
何事かという視線が飛んでくるが、そんなことを気に留める彼女ではない。
と、彼女の視線は硝子の壁に囲まれた中庭に向かう。春もまだ来ていないというのに、緑が茂り、色とりどりの花が咲いている。
妹は花が好きだ。レウォントでは城の中庭に自分の花畑をつくっているくらいだ。
リーゼロッテは中庭に突き進み、いくらかもしないうちに妹の姿を認めた。
案の定、妹の傍には怪しげな野郎が立っている。背の高い目つきの悪い男だ。
一刻も早く、いや、一秒でも早く妹を悪い男の傍から救い出すべくリーゼロッテは走り出しながら怒鳴る。
「ちょぉっとぉっ」