九五
「ちょっとっ。レオっ。もっとシャンとしてよっ」
フィオリアにどやされたレオポルドは渋い顔で背筋を伸ばした。
フィオリアは、レオポルドに着せた白い絹のレース、フリルで飾られた鮮やかな青色の上着をピンと伸ばす。帝都に来て早々に仕立屋に発注し、つい先日、届いたばかりのものだ。レオポルドはあまり華美ではない装いが好みであったが、最近の帝都では華麗な色合い、豪華な刺繍や装飾を施したものが流行なのだ。
流行を追うことは宮廷では極めて重要である。流行遅れの衣装でも着ていこうものならば、嘲笑と侮蔑の的になり、大変な恥をかく羽目になるだろう。貴族社会は名誉と矜持を非常に重んじる。嘲笑や侮蔑、屈辱といったものは命をかけてでも雪がなければならないものである。恥を背負ってはそれだけで軽んじられる世界なのである。
フィオリアはレオポルドに着せた上着をきちんとした後、黄色い帯と銀の鎖を飾り、儀礼用サーベルを腰に提げさせた。
レオポルドは渋い顔のまま、されるがままにされていた。衣服のことでは彼女に分があり、機嫌を損ねないよう大人しくしているに限るのだ。
「よしっ」
フィオリアは満足げに呟いてから、少し離れて、レオポルドの装いを頭の天辺から爪先までじろじろと眺める。
「よしっ」
もう一度満足そうに言ってから、何故か不服そうな顔をした。レオポルドを睨みながら白い羽飾りを付けた帽子を手渡す。
「ありがとう」
ころころと表情が変わるフィオリアに手短に礼を言いながら、レオポルドは受け取った帽子をかぶった。
姿見の前に立って、派手な恰好だ。と、溜息を吐く。
「何溜息吐いてるのさ。私が選んだ服が不服っていうわけ」
「いやいや、そんなことはない。最近の流行のやつだよな。うん。いいと思う」
フィオリアの剣呑な声に、彼は慌てて取り繕うように否定した。
「若い娘を釣る為の衣装なんだから、格好つけないとね」
彼女は刺々しい調子でそう言うと、早足で部屋を出て行った。
レオポルドは明らかに不機嫌そうな背中を黙って見送り、もう一度溜息を吐いた。
「おや、もう準備万端ですな」
フィオリアと入れ替わりに部屋にやって来たレンターケットが言った。彼は普段簡素な服を着ていることが多いが、今日は礼服に身を包んでいた。レオポルドの従者として同道する為、下手な装いでは困るのだ。
「既に馬車の準備が整っております」
「あぁ、わかった」
レオポルドは頷き、部屋を出た。
レオポルドを歓迎する宴はレイクフューラー辺境伯の屋敷の大広間で行われる。彼女の屋敷は帝都でも有数の大邸宅であり、数百人も収容できる大広間を備えていた。真っ赤な煉瓦の壁に囲まれた煉瓦造りの屋敷の為、赤い館などと呼ばれることもあった。
帝都滞在中の拠点であるウェンシュタイン男爵邸を出たレオポルドは、レイクフューラー辺境伯の屋敷へと馬車を走らせた。随行するのはレンターケットの他、キルヴィー卿、ジルドレッド家の若き二人の士官。それに警護の帝国人兵数名である。キスカ含めムールド人は一人もいなかった。
帝国人貴族に歓迎されない。というのが理由ではない。むしろ、大歓迎を受けるだろう。
皇帝への謁見の際に現れたキスカとアイラの、帝都では中々お目にかかることのできない異国風の美しさは帝都では大変な評判となっており、一種の流行ともいう状況になっていた。既に、体の線を目立たせ、スカートを大きく張らせないスタイルのドレスがムールド風として売り出されている始末である。
というのは、レイクフューラー辺境伯とレオポルドが結託して、服屋にそういうスタイルの服を作らせ、今流行りだと吹聴させてまわっている一種の宣伝工作であった。いわば、人為的な流行を作り出したのだ。
ムールド風を流行らせることにより、ムールドへの好感度を上げ、注目を集めるのが目的である。ムールドへの好感度はムールドを領するレオポルドの好感度にも関係してくるからだ。
そういうわけで、一種のムールドブームが起こり始めている帝都の宴にムールド女性を連れて行けば恰好の注目の的となるだろう。それこそ、主役の座をレオポルドから奪い去りかねない。目立ちたがりではないレオポルドにとってはそれは大変結構なことで、歓迎こそすれ避けるべきことではないのだが、問題は他にある。
貴族の社交界では西方風の音楽、踊りが付き物である。男女がペアになって踊るものがかなり多く、紳士は独身の淑女を踊りに誘うことができる。誘われた女性は余程のことがなければ断ることはない。というのも、踊りに誘って断られることは貴族にとって大変な不名誉であり、たかが踊りで済む問題ではないのだ。どうしても、断るのならば、相手の不名誉にならないよう余程の機転を働かせた物言いで丁重に断るべきだが、貴族的な物言いに不慣れなキスカたちには難しい芸当だろう。
では、踊ればいいのか。といえば、そこにも問題がある。ムールドの風習では独身の女性は家族や医者以外の男に触れられてはいけない慣わしなのだ。それこそ、刀傷沙汰になりかねないほどの重大事である。指一本触れ合わずに踊りなどできるわけがない。
となると、踊りの誘いが来ないようにしなければならないが、帝都で大きな注目を集めている女性である彼女たちに誘いが来ないわけがないのだ。唯一の方法としてはレオポルドがずっと傍にいるしかないだろう。さすがに、社交界の貴公子たちも男連れの女性を誘うようなことはしない。
しかし、レオポルドにはやらねばならない目的がある。宴に集まった帝都の有力な貴族たちに挨拶して回るのは勿論であり、その他にやらねばならないことがある。
今回の宴は名目上はレオポルドの帝都への帰還を祝うものであるが、実質的にはムールド伯叙任の前祝といえるだろう。
しかし、その更に裏には真の目的があるのだ。
それはレウォント方伯の妹との接触である。
ムールドの安定及び、今後の南部での政略に関して、レウォント方伯との同盟は欠かすことのできないものであり、レオポルドとレウォント方伯家との縁組はその同盟の担保である。
今回の宴ではレオポルドはレウォント方伯及びその妹と接触し、縁組に向けた方向性をつくらなければならない。キスカやアイラの面倒を見ている暇などないのだ。
それに、ムールドの法では妻となっているキスカやアイラの前で、結婚しようとする相手の女性と接触するのは非常に居心地が悪いことになりそうだ。
これらの理由から、レオポルドはキスカやアイラを随行させなかった。フィオリアやソフィーネは貴族でも何でもないただの庶民でしかない為、社交界に出るなど論外というものだ。
レオポルドの乗った四頭立て馬車は辺境伯邸の門扉を潜り、正面玄関前に横付けした。
レイクフューラー辺境伯の使用人が素早く馬車の戸を開き、歓迎の言葉を口にする。レオポルドは鷹揚に頷きながら、馬車を降りた。
「ようこそお出で下さいました。我が主は奥の広間にてお待ちしております」
「お招き頂きありがとうございます」
出迎えに現れた辺境伯の家来の言葉に、レオポルドは丁寧に礼を述べ、彼の後ろに付いて、屋敷の中に入った。
輝く大理石の床の上に敷かれたふかふかとした赤絨毯を踏みしめて行った先の正面には大人二人分はあろうかという高さの観音開き大扉がある。客人の姿を確認した辺境伯の使用人が数人がかりで扉を開く。
大扉の向こうはレイクフューラー辺境伯御自慢の大広間である。大理石の床は広く、天井は非常に高い。両側の壁際には大理石の柱が幾本も並び、著名な芸術家による絵画や彫刻が飾られていた。
大広間は中央の中庭を囲む回廊のような造りになっており、中庭には自由に出入りすることができる。中庭には真ん中に噴水が設けられ、ベンチや彫刻が置かれている。季節を問わず一年を通じて青々とした葉が茂り、色とりどりの花々が咲いている。平時や雨天時には中庭の頭上に布製の屋根を張ることをレオポルドは知っていた。
広間の奥の壁は一面がガラス張りになっており、月と星を眺めることができた。
時刻はすっかり夜だというのに、大広間は昼かと思うほどに明るい。巨大な釣燭台が合わせて四つもぶら下がり、全てのテーブルに燭台が数個ずつ置かれ、壁際にも無数のランプが設けられていた。
数十にも上るテーブルには数えきれないほどの種類の料理が並んでいる。小鳥、去勢鳥、仔羊の肉料理、海魚や淡水魚、貝などの魚介料理、十数種のスープ、十数種のハムやチーズ、新鮮な生の野菜や果実、果実の蜂蜜漬けや砂糖漬け、砂糖菓子、焼き菓子。それに混ぜ物のない葡萄酒や蜂蜜酒、果実酒が並ぶ。
大広間には既に多くの出席者がおり、華やかな衣服に身を包み、各々、談笑を楽しんでいる様子だった。
レオポルドはきょろきょろしているように見られないように注意しながら、周囲に視線を走らせる。
「レオポルド様。あちらです」
レンターケットが示した先に目当ての人物はいた。
レイクフューラー辺境伯は金縁の赤い上着に白いキュロット姿で、葡萄酒の杯を片手に長い髭の老人と談笑していた。
レオポルドが声を掛けると、辺境伯は振り向いて、彼を笑顔で迎えた。
「おや、お待ちしていましたよ」
そう言うと、小柄な体に見合わない大声で大広間の人々に呼びかけた。
「お集まりの紳士淑女の皆様っ。ただ今、主役が参りましたっ。彼こそ、帝国南部、蛮族と異教徒が蔓延るムールドの地で孤軍奮闘し、皇帝と神の下にムールドの地を捧げた栄えある騎士の鑑、レオポルド・フェルゲンハイム・クロス卿ですっ」
キレニアの呼びかけに、大広間中の人々がレオポルドを見つめ、口々にその功績を称えながら、手を叩いた。
拍手に包まれる中、レオポルドはできる限り優雅に見えるように帽子を取って、慇懃に頭を下げた。