一〇
大蛇の峠に到着した日の夜、レオポルドはこれまで疑問に思っていたキスカの属するムールドの部族のことや彼女自身のことを質問してみることにした。
フィオリアが宿の厨房を借りて作った夕食を食べながらレオポルドはキスカに尋ねた。
「そういえば、君の部族っていうのは、なんて名前の部族なんだ。というか、名前とかあるのか」
ムールド人の社会については以前に概略を教えられただけで、具体的なことは何も分からないのだ。それこそ、個々の部族の名前すら知らない。
「あります」
キスカは短く答え、食べかけのパンを置く。
「私の部族の名前はネルサイといいます」
「そのネルサイ族ってのはどの辺りに住んでいるんだ」
聞いたところによれば、ムールド人は基本的に遊牧民なのだが、その中で帝国寄りのいくつかの部族だけは定住生活を送っているという話だった。
「ネルサイ族に定まった住居というものはありませんが、ムールドの北部を生活圏としています」
「ということは遊牧民なのか」
彼女は黙って頷く。
どうやらキスカの出身部族であるネルサイ族は帝国寄りのムールド人にしては珍しく遊牧を続けている部族であるらしい。
「夏は馬や羊、山羊、駱駝などの家畜を連れて平原を移動し、冬になると冬営地に定住しています」
「部族全員で移動しているのか」
「いいえ。基本的には家族単位です。ただ、冬営する際には部族のほとんどが集まっています。また、何か有事がある時にも集合することがあります」
「なるほど」
レオポルドはキスカの部族の話を興味深そうに聞いていた。彼は元々勉強家であり、自身が知らない様々な事柄を学ぶことが好きなのだ。特に興味のある分野は歴史や経済についてであり、自分が行ったことのない辺境や異国、他の大陸の事象についても強い好奇心を持っていた。かつて彼の居室には歴史や哲学、科学に関する多くの書物があった。勿論、全て借金返済の為に売却したのだが。
「ところで、冬営するのは何故だ。冬の間の家畜の餌はどうしている」
レオポルドは疑問に思うことを次々と質問し、キスカは無表情に淡々と応えていく。
いつまで経っても遊牧民であるネルサイ族の生活様式や社会の仕組み、文化スタイルといった質問ばかり続けるレオポルドだったが、隣でフィオリアが意味ありげに咳払いをすると、ようやく当初の目的を思い出す。
「それじゃあ、サーザンエンドについて教えてくれないか」
そろそろ、サーザンエンドも近くなってきたので、その地の情勢について詳しい情報が欲しいと思っていたところだった。レイクフューラー辺境伯邸で知った情報も有益ではあったが少し大雑把であり、もう少し具体的で詳細な情報を欲していた。
レオポルドの質問に対して、キスカは視線を揺らしてから、先程と同じように短く簡潔ながらも淡々と答えていく。
まず、人口についてたが、サーザンエンドにはおおよそ一〇〇万近くの人々が住んでおり、最大の都市は首都ハヴィナでその人口は五万人を超えるという。それに次ぐ北部のコレステルケは約三万人。南部のナジカは二万ほどの人口だという。この他に人口一万以下の町が五〇ほどあって、更に小さな村落が数百ある。
この一〇〇万人の内訳はというと、帝国の多数派である帝国人はここでは圧倒的な少数派で人口の一割にも満たない。サーザンエンド北部に住んでいるのはアーウェン人で人口の二割程度を占める。南部はムールドと呼ばれており、主に遊牧民であるムールド人が居住している。ムールド人には三〇近くの部族があるが、これを合計すると一〇万人程となる。残りの多くはテイバリ人で、彼らがサーザンエンドの多数派民族である。
なお、宗教としては帝国の国教である西方教会の正教徒が帝国人とアーウェン人、残りの多くは土着の伝統的な宗教を信仰している。
次にサーザンエンドの産業についてだが、北部は比較的農耕が可能な土地であり、小麦やイモ、野菜、果実が生産されているものの、それほど肥沃というわけではないらしい。
中部では牧畜が盛んで、牛や羊、山羊などの家畜を飼いながら農業をする半酪半農が営まれているが、これまた、それほど豊かではないらしい。
そして、南部ムールドは農業に不向きな乾燥した痩せた土地であり、専ら遊牧が行われている。
この他、中部と南部の各地に鉄や銀、銅、更には宝石類などの鉱物資源があることが知られているが鉱山施設や道路の整備がされていないので、今のところ、ほとんど利益を生み出していない。
サーザンエンドの不安定な情勢を嫌ってか、商人はサーザンエンドに寄りつかず、これを迂回していくルートが主となっていて、商業も発達しているとは言えない。ただ、ムールドだけは隊商の交易ルートになってるようだが、支配が及んでいない為、その経済的な恩恵はサーザンエンド辺境伯に齎されていない。
聞けば聞くほど、魅力を感じさせない地勢だ。
その上、雨が少なく乾燥していて暑く、砂埃が酷いともなれば、どうして、そんなところにわざわざ住んでいるのかと問いたくなるくらいだ。
おまけに住民は反抗的で年貢もろくに収めないどころか、武器を手にして襲い掛かって来るともなれば、統治者にとってはろくでもない土地と言えるだろう。
「話には聞いていたが厄介極まりない土地だな」
レオポルドが渋い顔でぼやくと隣に座っていたフィオリアが素っ気なく言い放つ。
「土地買う前に荷車買うなってね」
これは聖典の中にある故事である。ある農民が新しく買う予定の土地の収穫物に過剰な期待を寄せ、その収穫物を運ぶ荷車が必要だと考えた。そこで彼は荷車を先に買ったのだが、結局、土地自体は高くて買えなかったという話である。要するに手に入る保証がある前から過剰な期待をしたり、無用な心配をするなということである。
レオポルドは苦々しい顔で黙り込む。
キスカは少し困惑した顔で両者の顔を交互に見つめた。
レオポルドはわざとらしく咳払いをしてから質問を続けることにした。
「あとはサーザンエンドの有力者について知りたいのだが」
この時代はまだ封建社会と呼ばれる時代であり、社会はピラミッド状の階層構造をしている。帝国でいえばその頂きには皇帝が君臨しており、下層には何千万人もの農民や労働者、浮浪者、徒弟、行商人や露天商、兵卒などの庶民の階層がある。その間には公伯などの諸侯や、男爵、騎士といった中間支配階層、大商人や店を持つ商人、親方株を持つ職人、聖職者などといった社会階層が何層にも連なっている。
これは各々の諸侯が統治する領邦の社会構造においても同じであり、帝国の封建性ピラミッドの小型版が諸侯それぞれの領邦社会にあるわけだ。
当然、サーザンエンドにおいてもそれは同じである。頂点に鎮座する辺境伯と最下層の庶民の間にはいくつもの中間支配層がある。中小貴族や豪族というような連中だ。サーザンエンドを支配する為にはこの中間支配層をしっかりと掌握する必要があるのは言うまでもない。
キスカ曰くにはサーザンエンドにおいてはいくつかの有力な勢力が存在するらしい。
北部にはサーザンエンドの北隣のアーウェン地方の諸侯から支援されたアーウェン系のガナトス男爵が他の勢力を圧迫しつつあり、その勢いに押された北部の小領主たちは帝国系のドルベルン男爵の下に集まって同盟を結び、両者の勢力は拮抗しているという。
中部においては首都ハヴィナはフェルゲンハイム家の生き残りであるロバート老や辺境伯の側近である帝国系貴族が辛うじて維持しているものの、テイバリ人系のブレド男爵は辺境伯位を狙っているという噂が絶えない。帝国系領主にしてサーザンエンドでは筆頭格の領主であるウォーゼンフィールド男爵は事態を静観しているのか目立った動きがない。
南部ムールドは主にムールド人の地盤であるが、帝国寄りのムールド人部族の集まりである七長老会議は辺境伯への協力を申し出ていた。このうちの一部族がキスカの出身ネルサイ族である。他のムールド人部族は帝国に対して反抗的だが部族間の争いが絶えず、統一された勢力とはなっていなかった。ただ、その中でクラトゥン族の勢いは盛んで、クラトゥン族とそれに近い部族、従属する部族を合わせるとムールドの半分近くを支配しているという話だった。
「成る程。よく分かった」
キスカの短いが簡潔にして的確な説明にレオポルドは満足した。
「あなた、随分と詳しいのね」
フィオリアがキスカを見つめながら言った。どこか棘があるような言い方だ。
とはいえ、彼女の疑問も頷けるというものだろう。
庶民に対してほとんど教育といったものが為されていない帝国では識字率すら非常に低い。生まれた村の教会の尖塔が見えなくなる所まで離れたこともなく、一生を終える者も少なくない世界であるから、己が住んでいる地域に関する知識もなければ自分たちを支配する領主層のことも何も知らないというのが一般的な庶民であろう。
特にそれは辺境の異民族に対して顕著である。
というのも、庶民に対する教育は学校がない代わりに教会がそれを担うことが多く、それによって庶民のいくらかは最低限の知識を得ていた。故に正教徒ではない異教徒に対する教育は全く為されていないと言っても過言ではない。一般的な異民族の庶民においては文字も読めないくらいに教養というものが欠けていることが多いのが現実であった。
しかし、キスカは異民族の娘にしては知識が豊富過ぎるどころか、サーザンエンドの情勢を熟知しているといっても過言ではない。
フィオリアはその点に違和感を感じたようだった。レオポルドもその言葉を聞いて、確かにそうだなと疑念を抱く。
「族長だった父に聞きました」
その答えでクロス家の二人はなるほどと納得する。族長の娘であれば地域の実情に詳しいのも頷けるという話だ。
よくよく考えてみれば、辺境伯に据える候補を出迎えに行く使者がそこらの庶民であるはずがない。それなりの地位と立場がある者を派遣して当然であろう。それがフェルゲンハイム家のきちんとした使者でないのは情勢が不安定すぎて、帝都に人を派遣している余裕もないからなのかもしれない。
「しかし、族長の娘ということは、言うなれば部族の姫なんだろう。そんな君がわざわざこんな遠方まで私を迎えに来たのは何故だ。君の父上はどういうつもりで君を行かせたのだ」
確かに高い地位にある人物ではあるが姫様を供も付けずに一人で使者代わりに使うのは不可思議な話である。
「私が志願したので。それに、父はもう亡くなりました」
キスカが無表情で言い、レオポルドは悪いことを言ったような気がした。どういうわけだかフィオリアにも睨まれ、気まずい思いをする。
「私には兄弟がいませんので……。今は父の兄、私の伯父が族長代理を務めて部族をまとめています」
「じゃあ、あなたはお母さんと二人きりなの」
「母は私が幼い頃に亡くなっています」
フィオリアの問いにキスカは相変わらずの無表情で答える。
ということは、彼女は家族のいない天涯孤独の身ということらしい。同じように家族のいないフィオリアは彼女の身の上に共感したようで、うるんだ瞳でキスカを見つめた。
「じゃあ、あなたも一人きりなのね」
フィオリアは感極まったようにキスカの手をぎゅっと握って彼女を見つめる。キスカはちょっと困ったように俯く。
「しかし、あの、伯父や伯母、従兄弟もいますから」
「そう。伯父さんたちは優しくしてくれているのかしら。寂しい思いをしているなんてことはないのかしら」
フィオリアはお節介ともいえるような気遣いを見せる。家族を失うことに恐怖とも言える感情を覚える彼女にとっては家族がいないということは放っておけないことなのだろう。
「ええ、まぁ」
キスカは曖昧に答えてから淡々とした口調で続ける。
「婚約者ですから、大事にされています」
「婚約者っ。あなた、婚約者がいるのっ」
フィオリアが驚いて声を上げた。
「ええ、私の部族では従兄弟同士が結婚するのが古くからの慣わしで、私にも従兄の一人が婚約者として決められています」
「そうか。婚約者がいるのか」
キスカの答えにフィオリアは渋い顔で一人呟いていた。
翌日以降、キスカに対するフィオリアの態度は以前とかなり違っていた。
「今日はかなりいい天気ね。絶好の旅日和といえるわ」
「大蛇の峠は霧が多いのですが」
「そう。じゃあ、この景色が見えるのは運が良いってことね」
二人の関係は目に見えて改善されており、会話量は非常に増えていた。特にフィオリアからキスカに話しかけることが多くなっているようだった。
レオポルドはどういうわけで二人が急に仲良くなっているのか分からず、首を傾げるばかりであった。
「ほら、レオ。さっさと行くわよ。ぼんやり突っ立ってないで、早く来なさい」
フィオリアに呼びかけられ、レオポルドは先を行く二人を追いかけた。
『サーザンエンド』
帝国南部の中部内陸部一帯。グレハンダム山脈の南アーウェン地方の更に南隣。南部西岸部イスカンリア地方と東岸部エサシア地方に挟まれた地域。広義にはムールド地方と更にその南の南岸部ハルガニ地方を含むこともあるが、狭義にはムールド以南を除いた地域を指す。
サーザンエンド辺境伯が支配する領域だが、実質的に支配が及ぶのは狭義のサーザンエンドのみであり、ムールド以南には支配権が及んでいない。また、サーザンエンド内にも数多くの中小領主が割拠しており、彼らは辺境伯と主従関係を結んでいるものの、基本的に自治を行っている。
南部でも特に乾燥した地域で農耕に不適な地域が多く、商工業も未発達で経済的には非常に厳しい環境にある為、非常に広大な面積の割に人口が非常に希薄である。
ただし、鉱物資源には恵まれていることが古くから知られており、興味を示す者もいなくはない。