勇者もインフレには勝てない
俺が振り回したこん棒が、雑魚モンスターであるスライムに命中する。
小気味のよい手ごたえを感じる俺の前で、たちまちスライムは消滅した。二枚の硬貨を大地に残して。
俺は腰をかがめてその硬貨を拾い上げる。この硬貨は1枚1ゴールド。つまりスライムを一匹倒して2ゴールドの稼ぎになる。
「これでようやく120ゴールド貯まったな」
120ゴールドが俺の中のひとつの区切りだった。なにしろ、それだけあれば武器屋で銅の剣が買えるのである。さすがに勇者ともあろう者が、いつまでもこん棒を使うわけにもいかない。
今となっては懐かしくもある故郷の村に思いを馳せる。
旅立つ俺に与えられたお金は100ゴールドだった。……本音を言うと、世界を救おうっていう勇者に対してちょっと少ないなと思った。
といっても俺が生まれ育った村の皆がカンパしてくれたお金なのだ。さすがにそんな不満を口にするわけにもいかない。
俺は村のみんなに別れを告げると今拠点にしている街を訪れ、こん棒と布の服を買った。
こん棒は50ゴールド。布の服は20ゴールド。余ったお金は薬草代やら宿代やらであっさり飛んで行った。
旅立った頃はこれでやっていけるのかと不安だったが、意外となんとかなるもんだ。
俺は銅の剣を買うべく、いそいそと拠点の街へと引き上げた。
……が、しかし。
武器屋で改めて価格表を見た俺は驚きのあまり、店主のおやじさんに食ってかかった。
なんと、120ゴールドだったはずの銅の剣が、150ゴールドと表記されていたのだ!
「この前までは120ゴールドだったろう? なんで150ゴールドもするんだ? おかしいじゃないか!」
「……すまんな。インフレってやつのせいなんだ」
おやじさんは頭をかきかき、目を泳がせながらそう弁明した。
「インフレ? インフレって何だ?」
「わしもよく分からんが、それが起こると物の値段が上がるんだ。どこもかしこもこうなっちまってる」
耳になじみのない言葉を聞いた俺の疑問に、おやじさんもどことなく自信なさげに答えた。
「だからわしのせいじゃない。インフレが悪いんだよ」
まだ納得してない俺に対して、おやじさんがそう言い切った。その声はあまりに切実で、ごまかそうとしている様子は一切ない。
ここで駄々をこねてもどうしようもないのは、さすがに俺にも分かった。
俺は気落ちしながらも、なんとか言葉を絞り出す。
「……分かったよ。でも、今の所持金じゃ買えないんだ……また来るよ」
「そうか。すまないな」
後髪を引かれながらも武器屋を後にした俺は、その足を道具屋に向ける。回復アイテムである薬草を補充しようと思ったのだ。
しかし、道具屋に行ってみると、ここでも物の値段が上がっていた。武器屋のおやじさんが言ったインフレのせいなのだろう。
はじめて薬草を買った時、ひとつ8ゴールドで買えたのだ。しかし今では10ゴールドになってしまっている。もちろん薬草以外のアイテムも以前の価格を上回る数値が書かれている。
くそっ……薬草ひとつ買うためにスライムを一匹余分に倒さないといけないのか……。
そんな細かい計算に頭を悩ませながら、俺は追加の薬草をいくつか買った。
予想通りと言うべきか、続いて訪れた宿屋の宿泊料も上がっていたが、さすがに休息しないわけにもいかない。
割高の代金を払い、以前までと同じサービスを受け、以前までと同じ感触のベッドで眠りについた。
翌日。
予定では銅の剣を手にしていたはずなのに、俺の右手には相も変わらずこん棒が握られている。
俺は目の前に現れたスライムへと、怒りを込めてこん棒を叩きつけた。
スライムはいつものようにひしゃげ、消滅して硬貨を落とす。俺はわずかな期待を込めてそれを見つめたのだが……。
スライムを倒して出てきたお金はやはり2ゴールド。どうやら、インフレってやつはモンスターが落とすお金を増やしてはくれないらしい。
ため息をひとつ吐き、俺はスライムが残した遺産を拾い上げた。
悩みは尽きないが、今日まで戦闘を繰り返した俺は旅立ちの頃に比べるとかなり強くなっていた。
初めて出会った頃は苦戦していた、スライムよりも上位のモンスターである巨大蟻をあっさりと倒せるようになったほどに。
銅の剣だったら、もっと楽に、格好よく戦えるんだろうな……という考えが俺の胸をちくりと刺す。
しかし、頭を振ってそんな考えをすぐに追い出し、目の前の戦いに集中するよう努めた。薬草代も高くなってるんだ。戦闘ではなるべく怪我をしないよう慎重に立ち回らなくては。
巨大蟻を倒した時に得られるお金は4ゴールド。
巨大蟻はもちろん、スライムの群れも余裕で蹴散らせるようになった俺は、意外と早く値上がりしたぶんの費用を稼ぐことが出来た。
まだ街に帰るほど疲れてないし、もう少しモンスターを狩っていくか。剣だけじゃなくて新しい鎧も欲しいしな。
そんな欲が出た俺は銅の剣だけでなく、今着ているものよりワンランク上の鎧である革の鎧のぶんのゴールドも貯めることにした。今日は街の外で夜を過ごすことになりそうだ。
「200ゴールド!? ちょっと待ってくれ、200ゴールドってどういうことだ!?」
野宿して帰ってきた俺を待っていたのは、新たな値札がつけられた武器と防具だった。
先日来た時には150ゴールドだったはずの銅の剣は200ゴールドになり、ついでで買う予定だった革の鎧も以前より値段が上がっていた。
店のおやじさんが気まずそうに俺を見つめている。
「仕方ないだろう……インフレのせいで材料費やらなんやらまでどんどん上がってる。こうでもしないと赤字になってしまうんだよ。うちもギリギリなんだ。文句があるなら余所に行ってくれ」
俺はぐっと言葉に詰まった。余所へ行けと言われても、この街にある武器屋はここだけなのだから。
「分かった……大声をあげて悪かったよ。銅の剣を買わせてくれ」
「ありがとう。良かったらそのこん棒はうちで引き取ろう」
「ああ、頼むよ」
取引を終えてようやく俺の物になった銅の剣。少し前までは120ゴールドで買えたはずの武器。
そう考えると、喜びも半分くらいになってしまう。なにしろ性能は120ゴールドだったころと変わってないはずだからだ。
買う予定だった革の鎧を未練がましく見つめるが、無い袖は振れない。200ゴールドの出費はあまりに大きかった。
インフレの影響か、こん棒は思っていたよりは高い値段で買い取ってもらえたものの、焼石に水というやつだ。
俺は薬草の補充のために道具屋に向かうことにした。
予想通り、薬草の価格も上がっていた。ひとつ12ゴールド。初めて買った時の1.5倍だ。
今の俺にはなかなか厳しい金額だ……しかし、もう手持ちの薬草は残り少ない。無理してでも買っておくべきだろう。
そういえば、他の街はどうなってるんだ? ひょっとするとインフレってやつはこの街だけなんじゃないのか?
革の鎧を買いたい気持ちはあったが、そのことを確かめたいという気持ちのほうが強くなってきた。
残りのお金すべてで買えるだけの薬草を買い、俺は次の街へと急ぎ旅立った。
◇◆◇◆◇
「銅の剣が400ゴールド!? 鉄の槍は……2000ゴールド!?」
驚く俺を前にして、武器屋のお姉さんが口を開く。
「ごめんなさいね。インフレって知ってるかしら? 最近になって、何もかもが高くなっちゃってね……」
「ああ……痛いほどに知ってるよ」
インフレの波は、残念ながらこの街にも押し寄せていた。おそらくどこに行っても同じなのだろう。あの時に銅の剣を200ゴールドで買ったのは英断だったのかもしれない。
「……これを試着してもいいかな?」
俺は小声でそう言いながら、この店で一番安い防具である革の鎧を指さした。前の街にあったものと同じものにしか見えないが、あの時見た値段よりはるかに高い数値が記されている……!
しかし、新しい鎧を買わないという選択肢はない。さすがにもう布の服では心細い。
試着した革の鎧は俺の体にぴったりだった。
この街にたどり着くまでに稼いだお金の大半を使って、なんとか代金の支払いを済ませる。
不要になった布の服を買い取ってもらって、ほんの少しのお金を受け取ると、自分のものとなった革の鎧を見下ろした。
武器や鎧を新調するというのは、本来なら心が晴れるような出来事だというのに、なぜこんなつらい気持ちにならないといけないのだろう?
俺は武器屋のお姉さんにあいさつを済ますと、重い足取りで歩きだす。次は道具屋だ。
ここの薬草もきっと高いんだろうな……と考えていた俺。
そんな俺をあざ笑うように迎えたのは、売り切れの張り紙だった。
立ち尽くす俺の前に、道具屋のおじさんが歩み寄ってきて一部始終を教えてくれた。
なんでも、戦士や旅商人が買い占めていったらしい。値上がりに不安になり、安いうちに買っておこうという心理になったのではないか……というのがおじさんの推測だった。
「あとね……これは噂で聞いたんだけどさ……買い占めた薬草を、さらに高い値で売りつけてる連中がいるらしいよ」
おじさんが付け加えた言葉を聞いて、俺はさすがに怒りで腸が煮えくり返った。
ありえないだろ! なんだよそりゃあ! 自分で使うならともかく、儲けのために買い占めたってのかよ!?
「今思えば、買い占めに来た客の中にはうさんくさい奴らも混じってたね……あいつらには売らなきゃよかったね……ごめんね」
さすがに道具屋のおじさんを責めるわけにもいかない。まだ手持ちの薬草が残っていることが救いだ。
俺はあいさつもそこそこに、道具屋とおじさんに背を向けて歩き出した。
今まで俺は自分のことで頭がいっぱいだったが、街の中を歩いてみると住人も皆疲れた顔をしていた。
なにしろ、食料品をはじめとした日用品も値段が上がっているのだ。インフレの影響はみんなが受けている。
俺は自分が身に着けている銅の剣と革の鎧とを見下ろした。
この街にたどり着くまでに、スライムや巨大蟻なんか目じゃないくらいに強いモンスターに襲われた。きっと、これから先もさらに手強いモンスターが待ち受けているのだろう。
こんな装備でやっていけるのか? 生命線となる薬草だって、今となっては新たに手に入るかどうか分からない……。
なんなんだ……なんなんだよ! インフレって!!
モンスターなら倒すことも出来るかもしれない。しかし、インフレってやつは目に見えないんだ。そんなもの相手に一体どう立ち向かえばいいのだろう?
俺の悩みに答えが返ってくることは、もちろんなかった。
◇◆◇◆◇
鋼の剣 30000ゴールド
鋼の鎧 40000ゴールド
鋼の盾 35000ゴールド
鋼の兜 32000ゴールド
あれからしばらく経って、遠く離れた新しい街に辿り着いた俺は、武器屋の前で力なく笑うしかなかった。
とんでもない数字がそこに書かれていたからだ。
俺が現在装備している武器は、この前の街で売られていた鉄の槍。なんとか頑張って手に入れたのだ。あの時の2000ゴールドよりも遥かに高値で!
その代わり、鎧は未だに革の鎧である。鎖帷子を買うかどうか迷い、結局買わずに新たな街にやってきたのだが、失敗だったかもしれない……。
そんな後悔も加わってか、力が抜けて膝から崩れ落ちそうになる。このあたりのモンスターを倒して得られるのは、せいぜい一体あたり30ゴールドくらいだ。
ここの新しい装備を手に入れるために、一体どれだけ戦いを繰り返せっていうんだ?
それに、俺自身もう限界を感じていた。鉄の槍と革の鎧とでは、これ以上は進めそうにないと。となるとここで装備を整えないといけない。しかし、その為にはモンスターを倒さないといけない。しかも出来るだけ速やかにだ。さらなる値上げが行われないという保証はないのだから。
どうしようもないジレンマだ。まさか、こんなことで苦しむなんて旅立つ時は思ってもみなかった。
俺は法外と言っていいほどの値がつけられた、鋼で出来た武器と防具とをじっと見つめる。
この鋼の剣と、あとせめて鎧さえあれば、ここいらのモンスターにもそこまで苦戦せずに済むかもしれないが……。
自分の財布と相談する俺だったが、中に入っているのは7000ゴールドとちょっと。これでも死に物狂いで貯めたのだ。しかし、新しい武器ひとつ買えやしない……。
「なあ……その……剣や鎧なんだが……もう少しどうにかならないか?」
気が付いた時には、俺の口からそんな情けない声が漏れ出ていた。口元にも追従の笑みが浮かんでいたかもしれない。
武器屋のおばさんは、警戒するような目を俺に向けてくる。
「まさか、ただで使わせろとか言うんじゃないだろうね?」
「そ、そんなことは言ってないだろ!? でもさすがに高すぎるよ。少しくらいは……」
さっきまでも別に愛想が良かったわけじゃないが、もはや敵意といっていいほどの表情がおばさんの顔に浮かんでいた。
「いくらあんたが勇者だからって、1ゴールドたりともまけられないよ! こっちだって生活がかかってるんだ!」
「……わかったよ」
おばさんの剣幕にもはや何かを言う気力もなくし、俺はその場を後にした。
インフレというやつが広まってからというもの、街の人たちはずいぶんと余裕をなくしてしまった。もちろん変わったのは俺も同じだ。旅に出た頃の俺なら、あんな浅ましいことは言わなかったはずだ。
俺は打ちひしがれながらも、これまでの習慣に従って道具屋へと向かう。
ここでは幸い、薬草は買い占められていなかった。その代わり、おひとり様みっつまでという張り紙がされている。この街にも買い占めをたくらむ連中が押し寄せたのだろう。
薬草が買えるとはいえ、その値段はひとつ100ゴールド。かつて8ゴールドで売られていたことを知っている俺からすると、財布の口を開ける気にもなれない値段だ。
俺は大きくため息をつき、空を見上げた。空の色だけは、以前と変わらず青いままだ。
「なんだかな……一体どうなっちまったんだろうな……俺たちは……」
俺は何も買わずに踵を返すと、街の外に向かって歩き出した。
◇◆◇◆◇
ある時、この世界の住人たちは気づきました。いつの間にか、勇者の姿を見かけなくなっていたことに……。
◇◆◇◆◇
「魔王様! 人間の拠点として最後まで抵抗していた城が落ちたと、たった今知らせが入りました!」
「……そう」
玉座に腰かける魔王は、つまらなさそうに一言答えるだけでした。
気を利かせた側近が伝令に退出するよう命じます。
一礼して立ち去る魔物を見ることもなく、魔王は「くああ……」と退屈そうにあくびをひとつ。
退屈なのも仕方のないことです。結局、魔王は勇者の姿を一度も見ることなく戦いが終わってしまったのですから。
魔王は頬杖をついたまま、自分のそばに立つ部下のほうへわずかに顔を向けました。
「……で、インフレってなんだったの?」
「さあ……人間が勝手にやったことですね」
――おしまい――




