第八話 西の果てから(3/5)
出発から六日が経ち、目的地の漁村が管理していると思われる畑を見つけた。
幸いにも道中一度しか雨が降らなかったため、何度か道を逸れたにもかかわらず予定より一日早い到着だった。
まだ太陽が沈むまで時間がある。
村へと案内する立て札を見てココロが「早く、早く」と駆け出した。
馬車の車輪跡が残る道を進んでいくと嗅いだことのない生臭さが鼻を突いた。
近くで魚の干物でも作っているのかもしれない。
吹きつける風は重く、雨上がりのような湿気に満ちていて手足が錆びてしまいそうだ。
モモモ森林の清々しさが懐かしい。
「うへぇー、べとべとだぁ」
ポークは袖で顔を拭った。
何かに触れたわけでもないのに露出した肌がべたついている。
やはりこの地域は空気がおかしい。
ふと足元を見ると、歩いている地面の土がほとんど砂に変わっていた。
進むにつれて深くブーツが埋まっていく。
あまりに埋まるので地面に吸い込まれているのではないかと不安になった。
どこからか砂が侵入したようで、足の指の股がじゃりじゃりする。
不快だがどうしようもない。
いくつかの小屋を通り過ぎ、砂の丘まで来た。
すると先頭を歩くライガードが振り返った。
「ここがアトラ大陸西の果て、アボカトロ村だ。漁業が盛んで人口が多い。ライチェ村の塩はここで買いつけているんだ。新鮮な海の魚はここでしか食べられない。川の魚とは全然違うぞ。身が濃厚で腰を抜かすほどうまい。それに遊ぶ場所もいっぱいある。明日は丸一日、泳げるぞ」
「泳ぐ?」
「ああ。ほら二人とも上がっておいで。これが海だ」
ポークはココロの手を引いて崩れやすい砂の丘をのぼった。
空を見上げると翼を広げた白い鳥が気持ち良さそうに飛んでいる。
砂の丘をのぼりきると、目の前にターコイズブルーがゆらめいていた。
「なんだこれ……すげぇ」
「宝石だ!」
どう表現して良いかわからなかった感動を、ココロが言葉にしてくれた。
空と同じくらい広大な水たまりは波が立つたび太陽の光を散らす。
遠くに浮かんだ木造船は魅惑的な内包物だ。
もしこの景色を石に閉じ込めたなら虹のかけらと同等の価値があるに違いない。
「どうだ、綺麗だろう。この辺の砂浜は浅いから、夏場は泳げるんだ。向こうの岩場では釣りもできる。楽しいぞ。明日はここで泳ぎの練習といこう。冒険者たるもの、いざというときに泳げないでは話にならんからな」
「うおー、楽しみだなぁ」
「今日はとりあえず休むぞ。知り合いが宿を用意してくれている」
「待ってくれよ。せっかくこんなに水があるんだ。飲んでいこうぜ。それと洗濯だ。姉ちゃんもそう思うだろ」
旅の間ポークたちは川や湖に寄らなかったため長く洗濯をしていない。
襟や袖口は黒く汚れ、ココロの足からは異臭がする。
長い付き合いで慣れているポークですら距離をとりたくなるのだ。
道中、魔物が襲ってこなかったのもココロの足のせいかもしれない。
逆にライガードはほとんどにおいがしない。
土や草など自然の香りに塗り潰されているのかもしれない。
「ポーク、あんた馬鹿ね。海の水は飲めないんだから。それに洗濯には向かないって本で読んだ」
「マジかよ」
「マジだし。たしかにあんた服が汚れてるから洗ったほうがいいと思うけどね。あー、不潔」
「不潔って、姉ちゃん……」
ココロのブーツに目を向けると、言いたいことが伝わったようで腰の辺りを蹴られた。
巻き起こる風がもう臭かった。
水虫が再発しているとしか考えられない。
ポークは波打ち際まで走っていった。
海の水を舐めて味を確かめたり、ライガードにかけて遊んだりした。
夏を満喫しているのだ。
ベタつく潮風にも慣れた。
それどころか潮でひりひりする感覚が新鮮で気持ちよかった。
新しい発見は旅の醍醐味だ。
まだ到着したばかりなのに、ここへ来て良かったと思えた。
ひとしきり遊ぶとライガードが時間を気にしだしたので、村の居住区に移動した。
仕事の打ち合わせである。
ライガードは木造りの事業所に入ると商人の男と握手を交わし、親しげに談笑していた。
アルノマが身内にいることは前々から話していたらしく、豚そっくりのポークを見ても特に驚く様子はなかった。
ポークとココロが今日初めて海を見たのだと知ると、男は思い出にどうだと小魚の踊り食いを勧めてきた。
喉越しの感触が良いらしい。
魚を生で食べてはいけないと以前ココロに教わったのでポークはやんわり断った。
ココロは自分の発言を忘れているのかなんの躊躇もなく小魚の泳ぐ皿を飲み干した。
味がしない、気持ち悪いと後悔していた。
客の泊まる家は浜から離れたところにあった。
二泊世話になる家だ。
ライチェ村と同じ木造建築だが作りが雑で錆びた釘がところどころ飛び出ている。
聞けば潮風のせいで住宅の劣化が早く定期的に建て直すため、どの家もあえて簡単に組み立てているらしい。
ライチェ村では風を通さないように壁に藁と泥を塗り込んでいるが、この家の壁は木を重ねてあるだけだ。
隙間風がぴゅうぴゅう抜けていくが暑いのでちょうど良かった。
暗くなるとライガードの知り合いが何人も来て、エビや焼き魚、魚の刺身、干しイカなど、海の幸が満載の皿を置いていった。
家の中はあっという間に宴のような様相を呈する。
海の魚はいつも食べている川魚と違い、調味料なしでも満足できるくらい身の香りが強かった。
エビはそのグロテスクな見た目からフナムシの魔物かと思ったが、どうやら海中にいる普通の生き物らしい。
内臓がうまいという話を聞き、ココロが頭の殻を剥いてじゅるじゅると吸っていた。
トラウマになりそうな光景だった。
初めてみる景色。
ライチェ村では味わえない料理。
ポークは初めての旅を心から楽しんでいた。
翌朝。
目が覚めるとライガードがいびきをかいて爆睡していた。
旅の間は横になれなかったのだ。
久しぶりの家屋と温かい食事、そして大人にしか飲めないという美味しい水のおかげで、ようやく芯から疲れを癒やせているのだろう。
ポークは音を立てないように注意して外に出た。
昨晩、エビの頭を吸っていた女が寝起きの体操をしていた。
「おはよう」
「あら起きたの」
「あんな気持ち悪いもん食ってよく腹壊さなかったな」
「食わず嫌いは良くないし。なんか手が痒いけどすっごい美味しかったんだから」
さすがココロだ。
この調子なら芋虫を掘り起こして食べる日も近い。
昨晩、ポークはエビに触っただけで手が痒くなった。
毒を持っているとしか思えない。
食べても平気だとライガードは話していたが、すでにエビの毒に頭をやられていたのだろう。
何せ赤いのだ。
しかも触覚が生えているのだ。
熊を殺すキノコだってあんなに毒毒しくはない。
「よし、オレ、走ってくる」
「あたしも行く」
ポークは大きく伸びをして、それから膝を屈伸した。
朝の運動だ。
冒険者を目指してから欠かさずに行っている。
「じゃあ、競争しようぜ。ここをスタートして、あのでかい木にタッチして戻ってくる」
「わかった。負けたら罰ゲームね。ポーク、あんたエビを食べなさい」
「なんでだよ。やだよ」
「あたしが負けたらエビを食べるから」
「賞品じゃねぇか」
ポークは抗議したが、「もう決まったもん」の一言で却下された。
言い争うだけ精神力の無駄である。
諦めて身を屈め、スタートに備えた。
「よーい、どん」
ココロのかけ声で同時に走り出した。
先行はポーク。
ココロは強化魔術の使い方がまだ甘く、調子を上げるのに時間がかかる。
序盤はいつでもフルパワーで走れるポークのほうが早い。
しかしココロの強みは卑怯なところにある。
ポークは全力疾走しながら後ろを見た。
ほら、やっぱりだ。
ココロは自分の腰に手を伸ばした。
そこには緑色の植物の蔓がロープのようにまとめてある。
ライチェ村から持ってきたそれは野菜の魔術で作り出したココロの専用武器だ。
「足を引っ張れ。蔓の鞭!」
持ちやすいように布で加工された部分を握ると、巻いてあった蔓は意思を持っているかのようにほどけていった。
ココロは蔓の鞭を振り、ポークの足を狙ってきた。
ポークは大きくジャンプしてかわす。
当たると皮膚が破けるくらいの威力が込められている。
治癒術師がいないこんな場所で使うなんて正気とは思えない。
ポークは魔術が使えない。
いつかいつかと思いながら今に至るまで魔素を練る感覚すら理解できなかった未熟者だ。
だが、だからこそ多くの時間を肉体改造に費やしてきた。
柔軟性、スタミナ、格闘技術、握力、投擲力。
運動能力ばかりを伸ばしてきたのだ、競走で負けるわけにはいかない。
ココロの走る速度が上がってきた。
まだポークのほうが速いはずだが、荒れ狂う鞭の連打を躱し続けなければならない。
その度に距離を詰められ、折り返しの木にタッチしたのはほとんど同時だった。
「武器は卑怯だぞ」
「そんなルールないもん」
容赦なく鞭を振るココロ。
ポークは鞭が伸びきった瞬間を狙い、先を掴んでひったくった。
奪いとった鞭は即座に放り捨てる。
これでようやく走りに集中できそうだ。
しかしココロは加速を済ませている。
このままいけば引き分けかと思ったとき、ココロが急接近して強烈な平手打ちを浴びせてきた。
強化魔術を纏った一撃である。
ポークは衝撃で宙へ浮くと、砂煙を上げて地面を転がった。
「あたしの勝ちー!」
ゴールの位置から声がした。
殴られた頬がじんじんして、なぜかいつもより痒かった。
昨晩エビを食べてから手を洗っていないのではなかろうか。
もう勝手にしてくれと思った。




