第一話 お猿さま(1/6)
アトラ大陸に栄えている三大国の中で、マダガスト教皇国は最も歴史の浅い国だといえる。
なぜならばつい百年ほど前まで王政国家、つまりは別の国だったからだ。
王国だった頃のマダガストは非常に好戦的だった。
東方のフォーズ共和国とは領海を争い、西方のドリアン王国とは山地で睨み合い、南方に位置するタルタン紛争地域には領土拡大のためたびたび進軍していた。
しかしタルタンに続く道は険しく、強力な魔物が出没するためなかなか侵略が進まない。
そのうちドリアン王国とフォーズ共和国が力をつけてきたため、地政学的なリスクから侵略を中止、全軍を東西国境の防衛につかせた。
ドリアン王国、フォーズ共和国は年々軍拡を続けたため、各地の小競り合いがいつ戦争に発展してもおかしくない状況となった。
このままでは国が滅ぶ。
そう認識した当時の国王は大胆な戦略に出る。
なんと彼は国を統べる権利すべてをアトラ神話教の教皇、聖アイアイ十七世に譲渡したのだ。
マダガスト教皇国の誕生である。
長いアトラ大陸の歴史においてもこれほどの奇策に出た国は他にない。
政権交代が公示された直後、ドリアンやフォーズの軍部はただ頭をすげ替えただけの同じ国だと認識していた。
しかし国境沿いでは異変が起こる。
兵士の命令無視や謀反が頻発したのだ。
アトラ神話教は大陸で最も多くの信者を抱える宗教である。
サムソンが女神リリアに会ったという話は冒険者協会の拡大とともに各地に伝播され、信者は増加し続けた。
その教えは極めて平和的であり、各国の指導者もまったく危険視していなかった。
マダガスト王国は宗教を利用した文化的侵略に成功していたのだ。
政権を譲渡された聖アイアイ十七世はアトラ神話教発祥の地であるオヤマタイショウを首都と定め、東西の大国に友好を迫った。
うちと仲良くしないと信者が暴れますよ、という笑顔の脅迫である。
軍隊を解体したのも良かった。
そうすることにより東西の国はマダガストの侵略に対抗するという大義名分をなくしたのだ。
聖アイアイ十七世は絶妙なバランス感覚で二大国と相互不可侵条約を結んだ。
条約を結ばなかった場合、もう一方の国に全面的な軍事協力をする可能性をちらつかせたのだ。
このとき結んだ条約は現在も残っており、条約を破った際にはもう片方の国と軍事同盟を結ぶ旨が明記されている。
つまりマダガストに攻め入ろうとすると二カ国を相手どることになるのだ。
それでもなお勝てるほどの戦力差がなければ戦争には発展し得ない。
ドリアン王国とフォーズ共和国、大陸の覇権を争っている二つの国が冷戦状態を保っているのは両国の間にあるマダガスト教皇国のおかげなのだ。
  
「……でも、軍事同盟っていってもマダガストには軍隊がないんだろ。それじゃ戦争を抑止する効果なんてなさそうだけどな」
ポークは聞いた。
四人は今、山間のぬかるんだ道をぐっちょりとした足跡をつけて歩いている。
身体の軽いロビンとココロが先行し、靴が沈まない土壌を探してくれているため、遅れて歩くトリネラとポークは雑談に興じていた。
「たしかにマダガストには軍隊がない。だが治安維持隊という警察機関があるし、オヤマタイショウには教皇親衛隊がいる。親衛隊は少数だが精鋭中の精鋭だ。ドリアン魔術兵団やフォーズ代表騎士団でも簡単には撃破できないだろうな」
「あー、クラックジョーみたいな強いのがいるのか。そうだよな、軍隊がないからって人がいないわけじゃないし」
「幸いなことにドリアンとフォーズは戦力が拮抗している。冒険者協会を介して経済的に結びついているし、大きな変化でもない限り平和は続くさ」
「冷戦って平和なのか」
「殺し合っていなければ、平和だ」
トリネラは断言する。
今もタルタンで殺し合いを続けているザンギャク団のことを考えればたしかに平和なのかもしれないとポークは納得した。
「でも、なんでそんな話を聞かせるんだ」
ポークは聞いた。
トリネラが冒険やドラゴン以外の話題を振ってくるのは珍しい。
「この国の根幹には宗教があるのだと知っておいてほしかった。次の街、イワザールはミザールと違って敬虔な信者が多い。アトラ神話教は他者への愛を説いているだけあって他宗派や無神論者にも寛容だ。だがそれはこちらが最低限の礼儀をわきまえていた場合の話。信者の前で絶対にやってはいけないことがある。わかるか」
「アトラ神話教はミザールの支部長が信仰してたからなんとなくわかる。彼らにとっての神さま……リリアを侮辱することだよな」
「ふむ。少し理解が足りんな」
違うのかよ、と顔を上げ、ポークは足元から意識を逸してしまった。
次の瞬間、泥沼に足を突っ込んでしまい膝まで埋まる。
重量のある絶縁の槌を担いでいるせいか地中から足首を引っ張られているかのように勢いよく沈んでいく。
なんとかトリネラに引き上げてもらったポークはへばりついた泥を散らすように大げさに足を振って歩いた。
「いいか、よく覚えておくんだ。彼らの信仰対象はリリアだけではない。アトラ神話教における唯一神はリリアだが、信者は『お猿さま』のことも崇拝している。アトラ神話教の中でリリアは母、お猿さまは父のような存在だ」
「あ、そういえば支部長から聞いたことがあるな。この国には教皇よりも高い地位の猿がいるって。どうせ会わないから聞き流してたけど」
「それがお猿さまだ。アトラ神話の中で猿は我々人間の始祖であるとされている。リリアのように何万年も生きる存在ではないため神とはまた違った崇められ方をしているが、信仰の対象であることに変わりはない。簡単にいうと、お猿さまとは我々の始祖であるという猿を偶像化した役職だ」
「でも……ただの猿なんだよな」
「猿だ。教皇のペットだ。不潔な獣だ。だがそんなこと絶対に言ってはいけない。もし聞かれたら最悪の場合、死罪だ」
「マジかよ」
「大マジだ」
道の先でココロとロビンがこちらを向いて待っていた。
泥の多い場所を抜けたため先行する必要がなくなったのだ。
ココロは手で水を飲むジェスチャーをしている。
喉が渇いたから水をよこせ、と言いたいのだろう。
重いからとポークに持たせているくせに偉そうである。
ポークはココロの近くまで行くと、くるりと半回転して担いでいるリュックを向けた。
後ろに引っ張られる感触があり、水袋が取り出される。
「トリネラ、今の話、姉ちゃんにもしてやれよ。何かやらかすとしたら絶対姉ちゃんだぞ」
「何の話?」
ココロは蒸れた髪の毛をわしゃわしゃと掻きながら、面倒くさそうに聞き返す。
トリネラは斧を地面に置いて一息つくと、ポークとした話をそのままココロとロビンにする。
「……というわけで、お猿さまはアトラ神話教において神に近しい存在だ。失礼のないように気をつけるんだぞ」
「なによトリネラ、びびっちゃって。別に会うわけじゃないんでしょ」
「それが、会うかもしれんのだ。お猿さまはアトラ神話教の布教のために街を転々としていてな。ちょうど今、イワザールにいるらしい。一つの街に百日ほど滞在するから、私たちの滞在中はお猿さまがいる計算だ。もし街中で会ったら、すぐに座り込むんだぞ」
「座り込む?」
「こうだ」
トリネラは斧を地面に置き、片膝を地面について背中を丸めた。
顔を伏せて地面を見ている。
「お猿さまよりも高い位置に頭があってはいけない。言葉が通じないぶん、態度で敬意を示すんだ」
「ふーん、たかが猿にそこまでしなきゃいけないんだ」
「たかが猿じゃない。お猿さまだ」
「ま、どうせ会わないでしょ。滞在予定はどれくらい?」
「テントの補修にどれくらいかかるかによるな。数日で終わるとは思うが……まだわからない」
「りょーかい。あーあ、早くポセイラ海に行きたいのに、なんでこんな足止めくらわなきゃいけないのかなー」
「お前がテントを破ったせいだぞ」
トリネラは立ち上がった。
その目つきには少々の怒りが混じっている。
ポークのリュックに括り付けてあるテントは旅の間、雨風を避けるのに重宝している。
ぴったり隙間なく詰めればなんとか四人寝られるくらいの大きさだが、夏はパーツの一部をタープとして使い、一時的に雨宿りするために使っている。
タープは密閉していないため虫が自由に侵入してくる。
それがまずかった。
真夜中、胸を掻きむしりうなされていたココロは顔に昆虫が止まった途端、奇声をあげて蔓の鞭を振り回した。
水虫が顔に感染った夢を見てパニックになったらしい。
鞭は雨避けに張っていたタープをびりびりに破いてしまい、以降の旅路は空模様が悪くなる度に雨の当たらない地形を探して奔走していた。
大迷惑である。
「あ、あたしだけのせいじゃないでしょ。ロビンだってイワザールに寄りたいって言ってたじゃん」
「ぼくの用事はすぐに済むけどね」
「うるさい! うるさい! うるさーい!」
「ココロの声がうるさいよ……」
ロビンはやれやれといったふうに肩を落とした。
ロビンの用事は用事というほどのものでもない。
昔、シャバゾーとシャバクネーゼの結婚を言い当てたという占い師がイワザールにいるらしいのだ。
ロビンはその占い師に会ってみたいらしい。
ロビンが将来行くつもりのタルタン紛争地域には占いの文化が根付いているため、今のうちに慣れ親しもうとしているのだ。
「ま、ちょうどいい機会だ。ゆっくり休もうじゃないか。そろそろ本格的に寒くなってきそうだし、冬着もイワザールで揃えていこう」
ロビンがうまくフォローしてまた道を進みだす。
ココロは飲み干してぺしゃんこになった水袋をポークのリュックに戻し、ぐげげげげとげっぷをしてロビンを追った。
「姉ちゃん、めちゃくちゃ元気だな」
ポークは二人を追って歩く。
「荷物が少ないし、魔物はロビンが倒すからな」
トリネラも斧を担ぎ、全員の動きが見える位置をとって歩く。
「それでいてあの態度のでかさ、すげぇよなぁ」
「一人くらい常に元気な奴がいてもいい。いざというとき役に立ってくれるはずだ」
「そのいざというときを引き寄せそうなんだよな。お猿さまに無礼なことしたりとかさ。姉ちゃん、昔からトラブルメーカーだから」
「あそこまで言っておけば、まさかトラブルは起こさないだろう」
「甘いんだよなぁ……」
ポークは嫌な予感がしたが、イワザールの他にテントを修復できる業者がいそうな大きな街はない。
運良く何も起こらないことを願って、予定通りイワザールへ行くのだった。




