第四話 メモリーズオブポニータ・その四(5/6)
「その調子だ!」
フォクスは両手の二本を炎熱剣に切り替えると、マードックと同じようにクラーゲン・ファントムに飛び乗った。
敵の本体は船の甲板よりも広く、走り回るスペースが充分にある。
蒸気を発生させながらフォクスは緑色の皮膚に剣を突き刺しまくった。
向かってきた触手を斬り落とし、タイミングを見て足下を焼く。
ポニータやラマを狙う触手は少なくなった。
数十本の触手が自分の上に乗る異物を排除しようと動いている。
隙を見てラマが閃光魔術を発動し、触手を数本まとめて焼こうと試みた。
しかし緑色の表皮は光の熱を通さない。
雨が気体に変わっただけだ。
「ぜってー、生きて戻んぞ!」
フォクスが叫び、戦う仲間たちを鼓舞する。
彼は自他ともに認める最強の冒険者だ。
ファントムが相手であっても簡単に遅れをとったりはしないはずなのだ。
だがファントムはその素体によって強さが大きく変動する。
ここにいるファントムは海上では絶対に討伐できないといわれているクラーゲンが素体となっている。
なぜ人はクラーゲンに勝てないのか。
理由をすぐに思い出す。
「きゃあ!」
跳ねるような揺れが起き、浮遊感を受けると同時に船首の方向に水の壁が出現した。
いいや、あれは海面だ。
船の後部が触手で跳ね上げられたのだ。
船を転覆させる気だ。
船上の死体が海に落ちていく。
跳ね上げられて踏ん張りの効かないポニータは短剣を捨て、帆を動かすための縄を掴んだ。
反対の手で近くにいたラマを引き寄せる。
「この野郎!」
マードックが船に伸びている触手を切断した。
追撃を免れた船はぎりぎりのところで揺れ戻し、転覆を免れた。
人魚もなんとか無事なようだが、一方が甲板の手すりに頭をぶつけて痛めている。
彼らを気遣う余裕はない。
新たな触手が二本伸びてきたのだ。
船の前部と後部、同時だ。
「マードック、後ろは頼んだわ!」
「ぶち斬ってやらぁ!」
マードックの剣で船底に回っていた後部の触手は根本から切断された。
次々に伸びる触手をマードックは斬り落としていく。
ポニータは走り、船の右舷側から飛び降りた。
今まさに船をひっくり返そうとしている触手に乗ると、特注冒険服から短剣を抜く。
足元の触手の下に刃を通し、力いっぱい引いて切断した。
持ち上がろうとしていた船は海面に落ち、波に揺られる。
暴れる触手の上ではバランスを保てず、ポニータは海に落ちた。
湖で泳いだ経験はある。
急いで船に接近すると、短剣を突き立てた。
思った以上に船体が反り立っており、船に戻れそうにない。
もがいているうちに新たな触手が伸びてくる。
まずい、海では回避できない。
「お姉ちゃん」
「死んじゃ駄目だ!」
人魚たちがポニータのすぐ近くに飛び込んできた。
二人に両脇を支えられ、ポニータは海中に潜り込む。
人魚にとっては日常的な深度だろうが、ポニータは水中に慣れていない。
耳の奥のさらに奥、こめかみの内側に氷を詰めたような冷たさを感じて、同時に目の前が暗くなった。
平衡感覚を失い、自分が今深海に潜っているのか海面に向かっているのかもわからなくなってしまった。
肩を掴む人魚の力がぐっと強まったかと思うと、ポニータは宙へ投げ出された。
船の帆より高い位置にいる。
朦朧とする意識の中、強化魔術を使い、受け身をとって甲板に着地した。
耳鳴りがひどい。
フォクスが何か叫んでいるがよくわからない。
直後、船の帆を支える柱が折られた。
ポニータが海にいる間に触手に掴まれていたのだ。
折れた柱がポニータと人魚たちの頭上に振ってくる。
残った魔素を脚力に注ぎ込み、ポニータは柱を蹴り返した。
浮いた柱は左舷側に落下していく。
魔素が尽きた。
もうポニータの能力は一般人と変わらない。
次に触手に襲われたとき、ポニータの命は終わるだろう。
クラーゲン・ファントムは強すぎた。
永久的な再生能力を持ち、弱点である首と心臓の位置がわからない。
遭遇した時点で死の運命は確定していたのかもしれない。
周りの景色がゆっくりと流れていく。
ぶよぶよの緑の表皮を斬って刺して刻みまくっていたフォクスとマードックが、十を超える数の触手に同時に襲われた。
背中合わせになって迎撃する二人だが、強敵との戦いに耐えられなかったのか、マードックの剣が折れた。
足首を掴まれ、持ち上げられるマードック。
船体に叩きつけようとするクラーゲン・ファントムだったが、フォクスの放った氷結剣が触手を切断する。
マードックは甲板にぶつかり床板を破壊する形となったが、生きている。
しかし腕の骨が折れ右の肘関節が逆方向に曲がっている。
フォクスは孤軍奮闘していた。
雨の中二本の炎熱剣を振るい続け、何本もの触手を斬り落とした。
無敵の英雄。
アトラ最強の冒険者。
どんな称号を冠しても決して見劣りしない戦いぶりだった。
だがきっと人間という種の限界なのだろう。
終わりはやってきたのだ。
フォクスの強化魔術をもってしても、剣にかかる負荷は軽減しきれなかった。
右の剣の刃が欠け、左の剣にひびが入る。
右の剣の先が割れ、左の剣が半分に折れた。
もう剣術は使えない。
それでもフォクスは破損した剣を鉈として使い近づく触手を叩きまくる。
両の剣が刃をなくすと柄を投げ捨て、クラーゲン・ファントム本体の剣傷を抉るように手刀を突き立てた。
敵の体内で全魔素を費やしたであろう炎熱魔術を発動させる。
爆炎が上がり、海上に浮いた緑の丘は火山の噴火口のように燃えたぎった。
正真正銘、最後の一撃だった。
「……すまない、みんな」
クラーゲン・ファントムは生きていた。
痛みに狼狽える様子もなく、ただ切断された触手が再生されるのを待っていた。
満身創痍のフォクスは再生を終えた触手に足首を掴まれ、先ほどのマードックと同じように甲板に叩きつけられる。
全身を強打し、血を吐くフォクス。
残された唯一の希望は潰えた。
フォクスは魔素を使い切り、英雄から人に堕した。
これからの戦いで変えられるのは、誰から死んでいくかという結果くらいだ。
ポニータは短剣を右手に構え、ふらふらと歩き出す。
フォクスの足首を掴んでいる触手を斬り落とそうとしたのだ。
助ける。
助ける。
フォクスを助ける。
一念がポニータを動かした。
「……助ける」
その言葉、ポニータは自分の口から漏れたのかと思った。
心の声が外に出たのかと思った。
しかし次の声ははっきりと背後から聞こえてきた。
「わたしが、みんなを助けます」
触手がフォクスの足から離れていく。
クラーゲン・ファントムは今まで見たことのない反応を見せた。
船との間に触手を集め、盾のように立てたのである。
ポニータは後ろを振り返り、声の主であるラマを見た。
降りしきる雨の中でラマは血の涙を流していた。
右手を自分の胸に当て、苦手なはずの強化魔術をかけ続けている。
「まさか……ラマ、駄目よ」
ポニータは知っている。
その魔術にどのような効果があって、どのような副作用があるかを。
貴族には必要ないといわれ、第一魔学舎では教えて貰えなかった、対ファントム戦術。
ラマの愛らしかった顔が崩れていく。
ぼこり、と目玉が飛び出して、額に太い血管が走る。
耳からの出血が雨に薄まり肩を広く染めていく。
右手がぎゅっと収縮し、胸の辺りの服を掴んだ。
「……絶命魔術」
ラマの上半身がびくんと大きく跳ね上がり、鼻から勢いよく血が噴き出した。
自らの命と引き換えに一生ぶんの魔素を得る禁断の秘技、絶命魔術だ。
ラマはクラーゲン・ファントムを倒すために自分の未来を捨てたのだ。
「やめろやめろやめろやめろー!」
マードックが叫び、左手でラマの服の袖を掴んだ。
関節が壊れてぶらぶらと揺れる右腕以上に彼の表情が痛々しい。
親に捨てられた少年のような哀しさに息が詰まる。
「どうすりゃ止まるんだ。なぁ、どうやったらお前を助けられるんだ。ラマ、ラマ、ラマ。お前がいなくなったら俺は生きていけない。嫌だ、嫌だ、ラマ、死んじゃ嫌だ」
ラマに縋るマードック。
人生の大半を一緒に過ごしてきたラマはマードックにとって誰よりも大切な存在なのだ。
聞いているポニータの胸も苦しくなってしまう。
「わたしの全存在を懸けて、ファントムを倒してみせます。ポニー、兄さんを頼みました」
ラマは両手で杖を握り魔術を練った。
杖が白く発光する。
遠景に光る稲妻よりも眩くなり、ファントムは光を遮るように触手を集めて壁にする。
「照り焼き!」
ラマの放った閃光魔術は触手の壁にぽっかりと人間大の穴を空けた。
焼けたというよりも消滅したという表現のほうが近い。
火も上げず、煙も上げず、光の当たった箇所のみが消えたのだ。
間が焼き切れて本体と分離した触手がばらばらと海に落下する。
ラマはマードックの手を振りほどき、クラーゲン・ファントムの本体に飛び乗った。
追い縋ろうとするマードックの服をポニータは引っ張る。
「放せ! 絶命魔術をやめさせるんだ」
「どうやって!」
「知らねえよ。でもなんとかしなきゃ、ラマが死んじまう」
「手遅れなの。絶命魔術は発動した。心臓が暴走してる。ラマの邪魔をしちゃ駄目。あの子の命を無駄にしないで!」
人生が百回あったとしても、今よりひどい悪役になる瞬間があるとは思えない。
愛する妹を助けようともがく男を力づくで引き止めているのだ。
マードックも魔素は残っておらず服を掴んだポニータの手から逃れられない。
倒れ込み、折れた腕を胸で潰してしまった。
「ラマ……ああ、嫌だ、ラマ……」
呻くマードック。
伸ばした左腕は彼女の後ろ姿を掴み、しかし空を切る。
「ごめんね、兄さん」
クラーゲン・ファントムの上でラマはこちらを振り返った。
一見してわかるほど急激に痩せている。
目から鼻からどばどば溢れる血液が雨で量を増し足元のファントムを塗っていく。
手に持った杖が白く発光した。
最後の魔術を練っているのだ。
「ねぇ、ポニー」
「うん」
「あなたは私の親友でした。長い間一緒に旅して、悩みも趣味も共有して。あなたはわたしに恋をするようにいいましたが、そんなの必要ないくらい、わたしの青春は充実していました」
「私も、ラマと過ごせて楽しかった……楽しかった」
握りしめた拳の中で爪が突き刺さる。
もっとマシな言葉が吐けないものかと自責する。
それでもやっぱり、楽しかったのだ。
「ラマ……俺たち……もっと……」
全身を強く打ち、仰向けに倒れているフォクスは目が虚ろだ。
意識があるのか夢を見ているのかもわからない。
ラマはフォクスに語りかける。
「フォクス。あなたは誰よりも冒険者らしい冒険者です。お願い、前を向き続けて。わたしがいなくなっても、進んで。あなたと一緒に冒険できたことはわたしの誇りです」
クラーゲン・ファントムの触手がラマを襲うが、触れた先から焼けて消滅していく。
杖の発光は腕へと移り、次いで全身が光り出した。
網膜が焼けるような明るさだ。
内包する魔術の威力に耐えきれず、ラマの肉が焼けていく。
「泣かないで、兄さん」
「すまねぇ、ラマ、すまねぇ。俺が船なんか買ったからだ。お前が止めてくれたのに、無理矢理……」
「謝らないで。兄さんは精一杯戦ってくれた。だからわたしも精一杯戦うの」
「だけど、俺が、俺のせいで!」
「ねぇ、兄さん。兄さんはきっとわたしが死んだ後、すごく落ち込むでしょう。お酒に溺れるかもしれない。でも、でもね」
ラマの姿が光に消える。
杖も身体もクラーゲン・ファントムも強烈な光に呑み込まれる。
「覚えておいて。兄さんは強い。わたしがいなくても歩けるの。歩けないと思ってるだけ。必要なのは立ち上がる勇気」
「勇気……?」
「仮染めの勇気でいいの。孤児院の運営を助けるとか、ファントムへの復讐とか、きっかけはなんでもいいわ。一歩踏み出すことができれば、兄さんは進んでいける。わたしは……兄さんの幸せを……」
ラマの声が聞こえなくなっていく。
水平線に沈む太陽のような発光体がクラーゲン・ファントムを丸々包みこんでおり、もはや眩しくて視認できない。
「……究極閃光魔術、華月照光」
星が命を終えるようにラマは光に変わっていった。
船上のポニータのところまで魔術の効力は届かない。
ただほんのりと温かかった。
ラマが隣にいるような、そんな温かさだった。




