第四話 アルノマと手を繋ごう(5/5)
カムデーの頭部は原型を留めないほどぐちゃぐちゃに破壊され、胴体は足がなく巨大なミミズのようになっていた。
少し前まで魔物だったそれはわずかに痙攣する肉になり、肩で息をする少年は着ている服をめくって粘液だらけの顔を拭いた。
「あの、音がして、来たら魔物がいたから、オレ……」
少年が一歩、こちらに踏み出した。
「こ、来ないで」
無意識だった。
言葉を選んでいられるほど気持ちに余裕がなくて、つい口にしてしまった。
たった一言。
その一言が目の前の少年にどれだけの傷を与えたかは変化した表情を見ればわかる。
優しい母が陰で自分をいらない子だと話しているのを聞いてしまったときのような、絶望。
少年は魔物と対峙しているときよりも苦しそうに、胸を押さえた。
「オレ、アルノマだから生まれつき力が強くて。人をぶっちゃいけないってライガードに言われてたのに、我慢できなくて。アルノマは頭がおかしいから人を襲うってナマハムに言われてて、そんなはずないって思ってたのに殴っちゃって。オレ、きっと魔物なんだ。だから我慢できないんだ。魔物は村にいちゃいけないんだ」
少年は嗚咽を漏らした。
ココロは何か言わなきゃいけないとわかっていたが言葉が出なかった。
もし返答に正解があるとしたら、あたしはあんたよりも人を殴ってるけど魔物じゃないよとか、力が強いくらいで魔物ならライガードさんは討伐されているはずだとか、そういうふうに言い聞かせば良いのかもしれない。
だがココロには目の前の少年がいつも隣で勉強していたポークだとは思えなかった。
魔物の肉を引きちぎり、皮を剥ぎ、頭を潰す。
その姿はありふれた物語の中で魔物を退治する勇ましい主人公などではなく、むしろ抑圧していた鬱憤を晴らすために村人を殺しまわる怪人に見えた。
魔物に襲われ死を意識したココロにとって、魔物を殺した少年もまた同じような死の権化だったのだ。
「もう行くよ。でも、その前にお願いがある。母ちゃんとライガードにごめんって伝えておいて。それと、二人ともお前のこと好きだから……悔しいけど大好きだから、オレのかわりに家族になってやってくれ。オレはライガードの言いつけを破った。もう村で暮らせない」
少年は腕を勢いよく振って付着した体液を散らした。
それからカムデーの死骸を見て、どこか憐れむような表情を浮かべた。
自分と重ねているのかもしれない。
「じゃあ」
少年はココロに背を向けた。
「待っ……」ココロは言いかけて手を伸ばした。
何を話せば良いのだろう。
ライガードさんが心配しているから村に戻れとでも言おうか。
けれどそれではアルノマというコンプレックスに押しつぶされてすぐにまた家出するだろう。
自分は殴られたことを気にしていないとでも言おうか。
今こうして同じ場所に立っているだけでも怖くて震えそうなのだ、そんな嘘すぐにばれてしまう。
説得の文句が浮かんでは消え、消えては浮かんで、考えているうちに伸ばした手の先にいる少年がみるみる小さくなっていく。
彼がそのまま消えてしまいそうで、引き戻したくても手が届かなくて。
ココロは伸ばした手を下ろした。すると。
ぷぅー、と空気の漏れる音が鳴った。
去ろうとするポークの動きがぴたりと止まった。
気まずそうにこちらを振り返る。
目がちらちらと泳いでいる。
木と木の間を縫うように通る風がココロの鼻へ腕力よりも恐ろしいものを運んできた。
「……臭っ。くっさー。あんた、ふざけんな、おえー!」
「ご、ごめん。腹が減って今日は空気ばっかり食ってたから」
「空気! それならこんな臭いはずないじゃない」
「昨日の夜、魚食べたからかも」
「魚って、持ってきてたの?」
「川で獲った」
「野生すぎる!」
ココロはポークに駆け寄った。
目の前の間抜け面した鼻たれは、間違いなくポークだった。
「お前はどうしてここに来たんだ?」
「あんたがいなくなったから、みんな心配して探してんのよ。あたしも探しに来たんだから」
「心配って、誰が?」
「村のみんな。ライガードさんや、ポニーさん。今も森で探してるはずよ」
「二人とも……」
ポークがぐっと拳に力を込めたのがわかった。
ポークは家族を大切にしている。
ココロに悪態をついていたのも、家族を奪われると思ったからだ。
アルノマであろうと豚であろうと関係なく愛してくれる家族との絆がポークの心の根幹を支えているのだろう。
「あのさ、ポーク」
ココロは落ち着いて話し始めた。
「あたし、あんたに殴られてすっごい痛かった。ほんとに死ぬかと思った。当然だよね、あんな魔物倒しちゃうくらいの力持ちだもん。でも、あんたを怒らせたのはあたし。あたしが、その、嘘……ついたから。ほんとはあたしナマハムたちに、あんたに殴られたって言っちゃったの。だからあんた必要以上にいじめられたんだと思う。それで、その……ごめんね、あたしが悪かった」
ココロは七年生きてきて初めて人に謝った。
謝罪なんて損しか生まないと思っていたが、謝ることで正直でいられる。
嘘で飾らない自分はとても身軽で気持ち良かった。
「あんたがどうしても村にいたくないっていうならあたしにそれを止める権利はない。村にいても辛いことたくさんあると思うもん。でも、覚えておいて。ライガードさんもポニーさんも、寝ないであんたを探してたの。あんたは家族に愛されてる。二人があんたを守ってくれる。もし、それでも不安なら。二人ぶんの愛情じゃ足りないなら」
ココロは大きく息を吸った。
勇気を出して気持ちを言葉にする。
「あたしがあんたのお姉ちゃんになってあげるわ!」
ポークの目から大粒の涙が溢れた。
六歳の少年が年相応に大口を開けて泣いていた。
ココロはそんなポークを見てもらい泣きしそうになった。
けれども胸を張り少し上を見て堪える。
お姉ちゃんは弟の前で簡単には泣かないのだ。
しばらくポークが泣き止むのを待った。
鼻をすするくらいにまで落ち着くと、ココロは火傷した右手を差し出した。
「ん」
「えっ」
「握手。仲直りの握手しましょ」
「でも、その、お前の手」
「お前って言わないで」
「その、姉ちゃんの手、痛そうだ」
「平気。おばあちゃんの治癒魔術が効いてるから」
ポークが恐る恐るといった感じで手を差し出してきたので、ココロは「ほら」と手を近づけた。
ココロと大して変わらない小さな手が、ほとんど感覚のなかった右手に温もりを与えた。
大喧嘩を経て、ココロたちは初めてお互いを大切に思える関係になったのだ。




