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 母は馬に乗るのが好きだった。といっても、王宮のまわりには乗馬を楽しめる森も公園もなかったので、母は真夜中のビクセンシティーを散歩するようになった。

 だけど、まず母が乗る馬を決めるときに少し問題がおきた。僕は母を馬屋へ連れていったのだけど(馬屋は王宮の敷地の西のすみにあった。ビクセンシティーでは、風は東から吹くことが多いから)、そこにいるような馬たちでは、母は気に入らない様子だったんだ。

 馬屋は、平屋だが背の高い建物で、見かけは車庫に似ていなくもない。幅の広い扉が正面にあって、入るとすぐに廊下のような細長いスペースがあり、その左右に馬たちの個室のようなものがずらりと並んでいて、廊下とは横木で仕切られている。横木を取りはずすと、馬を引き出すことができる。

 馬の世話係たちは、女王がやってくるときかされて、朝から張り切っていたに違いない。馬屋の中は、普段よりもきれいに掃除されていた。母がいざやってくると、世話係たちは馬屋の入口に列を作って並び、背筋を伸ばして迎えた。その前を母は、僕を連れてすたすた歩いていった。

 馬屋の責任者が前に出て、一頭の馬の前へ、母をうやうやしく案内した。その馬は馬屋の一番奥にいたので、母と僕は馬たちを眺めながらついていった。馬屋の床は土間になっているのだけど、今日は本当にきれいに掃除されていた。小石もまぐさの切れはしも一つもなかった。

 母と僕は、その馬の前についた。ここのご自慢の一頭に違いない。すらりとした背の高い馬だった。白い色をして、いかにおとぎ話の本の挿絵に出てくるようなやつで、僕や母を見て、機嫌よさそうにしっぽを左右に揺らしている。たてがみが首の後ろに長く垂れ下がっているところは、女の長い髪のようだ。

 僕はひとめ見ただけで感心してしまったのだが、母は気に入らない様子だった。僕にだけ聞こえる小さな声で、「こんなに足の細いきゃしゃな馬では、どうしようもない」とつぶやいた。

 母はくるりと身体の向きを変え、何も言わずにそのまま馬屋を出ていってしまった。馬屋の連中は、ぽかんとした顔で見送っていた。僕も、あわてて駆け出してついていった。

 広間へ行き、母はすぐにハニフを呼びつけた。ハニフはすぐにやってきた。馬について何か指示を与えるつもりなんだろうとは僕も思ったのだけど、もうすぐ家庭教師がやってくる時間だったから、これ以上ここにいるわけにはいかなかった。僕はいやいや広間を出て、階段を上がっていった。

 母が乗る馬が王宮に届いたのは、翌日の午後のことだった。僕は母に連れられて、馬屋へ見にいった。小さなものだが、馬屋の前には馬場があって、母の馬はそこにいた。王立農場から届けられたばかりで、馬屋の連中が呆然と見上げているところだった。

 この馬を見て、母は笑ったようだった。馬屋の責任者を振り返って、口を開いた。

「この馬に合うクラはあるか?」

 責任者は、もうしわけなさそうな顔をした。「この大きさの馬に合うものは、特注しなければなりません」

「では手配しておいてくれ」

 母はそれだけ言って、手綱をつかみ、馬の首に片手をかけて、クラのついていない背中にひょいと飛び乗ってしまった。その様子を、馬屋の連中だけじゃなくて、僕も口を開けて見上げていたと思う。ただでさえ高い馬の背に乗った母は、本当に大きく見えた。

 これは、普通に使われる乗馬用の馬ではなかった。畑ですきを引くのに使われている農耕馬だった。肩と頭が大きくて、もしヨロイのように分厚い皮膚をしていたら、サイの親戚のように見えただろう。脚はもちろんサイよりも長いが、馬とは思えないぐらい太く、特にひざと足首はタマネギのように丸くぷくっとしている。かかとには、長い毛が飾りのようにふさふさしている。首の後ろでブラシのように直立した長いたてがみが、絵本で見たトロイの木馬の挿絵をなんとなく思い出させた。

 ちょんと腹をけって、母は馬を歩かせはじめた。馬はおとなしくいうことをきいた。母は馬を二、三周くるくると歩かせ、軽くかけさせた。一、二回全力疾走もさせた。どすんどすんと、聞いたこともないような太いひづめの音が響いた。馬は、なんでも母のいうことをきいた。馬の背中の上にいる母は、まるでこの世のものではないふうだった(本当にこの世の人ではないのだけど)。

 僕は、オマクという怪物の話を聞いたことがある。辺境の牧畜民たちの伝説なのだけど、羊飼いや牛飼いが動物たちを連れて、何もない荒地や草原を歩いていると、そいつがどこからともなくやってくるのだそうだ。まるでロケット花火のように、はるかかなたから一直線にこちらをめがけて、地面すれすれの高さをやってくる。そして、目撃者から何メートルも離れていないところを無言で通り過ぎていく。足音も聞こえない。そのまま、またまっすぐ地平線へと消えていく。それを見たからといって、病気になるとか、悪運が降りかかるというような害は受けないそうだが。

 目撃者によると、オマクは黒い煙の塊のようなはっきりしない姿だが、その中に目鼻がわずかに見えることもあるそうだ。女の顔をしているらしい。

 馬上の母を見ながら、僕はそんなことを思い出していた。星のない夜に、ああやって馬を走らせている母と荒地の真ん中ですれ違ったら、誰だってオマクと間違えると思う。

 馬の背から降りてきたとき、母はご機嫌だった。「素直でいい馬だ」と言いながら、手綱を世話係に預けた。世話係たちはおっかなびっくり、馬屋へ引いていきはじめた。僕はその後ろ姿を見送ったのだけど、馬も機嫌よさそうに、長いしっぽを左右に振っていた。

 母があの馬に乗って王宮の外に出たのは、一週間ぐらいして、馬具がそろってからだった。

「今夜遅くに出かけるから、今のうちに寝ておおき」と言われて、僕は夕食後すぐにベッドに入った。真夜中少し前、母が起こしにやってきた。

 ベッドを出て着替え終わっても、僕はまだ半分眠っていたけれど、手を引かれて中庭に出るころには、目が覚めてきた。中庭には、五頭の馬がいた。その中の一頭は、もちろんあの馬だった。母はすでに『ニンジン』と名をつけていた。ニンジンが大好物だと、母はもう発見していたから。

『ニンジン』以外は、もちろん普通の乗馬だった。自分たちよりも一まわり大きなニンジンと並んで、居心地悪そうにしている。そのそばには、四人の男たちがいる。みんな乗馬用の服装をしている。その中の一人はスタウだった。

 母がニンジンにひょいとまたがった。僕が乗る馬はどこだろうと思っていたら、母が手招きをしているのが目に入った。母に手を引かれて、僕もニンジンにまたがった。母が前で、僕が後ろ。ニンジンは普通の馬よりもおしりが大きいから、とても安定した感じがする。

 二人の人間が乗ってもニンジンはなんともない様子で、軽くぶひひんと鳴いて、首をパタパタと左右に振った。真夜中の遠乗りが始まった。中庭を出て、内宮から堀を渡って外宮に抜け、正門を通ってビクセンシティーの町に出た。

 王宮を少し離れると、ところどころ街灯がついているほかは、通りは真っ暗になった。暖かい夜だった。星は多かったが、スモッグのせいで、夜空全体が、まるで天の川のようにぼうっと光っている。馬たちの首のわきには小さなカンテラが一つずつぶら下げてあって、街灯のない場所では、その光をたよりに進んだ。

 母は、ニンジンをゆっくりとかけさせた。振り返ると、四頭の馬と男たちが、一列になってついてくる。舗装の上にひづめが打ち付けられる音が響いて、まわりの建物に反射して、一拍遅れて戻ってくる。僕は耳をすませ、しばらくのあいだそれを聞いていた。

 馬たちは、ゆっくり駆けつづけた。僕は母の背中に身体をくっつけ、もたれかかっていた。十分間ぐらいは何も起きなかった。

 突然、ひづめの音が乱れたことに気がついた。顔を上げると、スタウの馬が駆け出して、前へやってくるところだった。スタウは自分の馬を、ニンジンの隣に並ばせた。スタウが言った。「今のをご覧になりましたか?」

「見た」母は答えた。「動物のようだったが」

「人間かもしれません。狭い路地をはさんで、屋根から屋根へ飛び移りました」

「白い色をしていたな」

「そうですか? 私には色まではわかりませんでした」

「どちらにしても、我々はつけられているようだ」

「なんのためです?」スタウは眉をひそめた。

「腹でもすかせているのではないかな」

 スタウの表情が変わった。「応援を呼びましょう」

「そのひまはなさそうだ」母は声の調子も変えなかった。「取り逃がしたくない」

「しかし、フィーンディアさまやクスクスさまの身にもしものことがあれば…」

「いま捕まえそこねて、市民に害がおよんだらどうする?」

「そんなに危険なものだとお思いですか?」

 それには答えなくて、母はまっすぐに前を見つめていた。でも目のすみで、左の方向を見ているのに違いなかった。

「また見えたぞ」母のささやき声が聞こえた。母はスタウをちらりと見た。「おまえは他の三人に事情を話してやれ。おもしろい夜になりそうだ」

 小さな声だったが、スタウは強い調子で答えた。「せめてクスクスさまだけでも送り返しましょう」

「その時間もなさそうだ。やつは距離をつめてきたぞ」

 バネにはじかれたように、スタウは馬の向きを変え、後ろにいる三人のところへ戻っていった。馬に乗ったまま、男たちをできるだけそばへ寄せ、小声で何かを説明しはじめるのが見えた。でもこのときになっても、僕の目には敵の姿なんかまったく見えなかった。

 僕たちは王宮を出て西へ進み、旧市街にさしかかっていた。街灯はほとんどなくなり、山の中と同じように真っ暗だ。えらく四角い形をしていることをのぞけば、家々だって、ごろごろしている岩の塊に見えなくもない。ここは路地が迷路のように入り組んでいて、昼間でも道に迷うようなところだ。

 そいつは突然やってきた。少し前に母が腰の短剣を確かめたことには、僕はもちろん気がついていた。道が細いので、馬たちは縦一列になって進むしかなかった。ニンジンは、その一番前にいた。一分か二分たって、偶然僕が後ろを振り返ったとき、長さが二メートル以上ある大きくて白いやわらかいものが、空から降ってくるのが見えた。

 そいつは、馬たちの列の一番後ろに降ってきたんだ。一番後ろにいた男は少し小柄だったから、それで狙われたのかもしれない。僕からは遠いから、姿ははっきりとは見えなかった。たよりないカンテラの光しかないんだから。

 まず馬が悲鳴を上げた。もちろん、一番後ろにいる馬だ。鋭いツメで後ろ足を切り裂かれたらしい。どすんと大きな音を立てて、馬は地面に倒れこんだ。乗っていた男も、石畳の上にほうり出された。

 銃声が聞こえた。誰かが発砲したらしい。発砲の瞬間、閃光であたりが、マグネシウムを燃やしたときのように明るく照らされ、僕は今度こそはっきり見ることができた。

 路地は幅がせますぎるので、馬たちの方向を変えるのに手間取ってしまった。特にニンジンはそうだった。

「撃つな」スタウが怒鳴るのが聞こえた。「石に跳ね返って、誰に当たるかわからんぞ」

 やっと母は、ニンジンの向きを変えることができた。ムチをくれて、駆け出させはじめた。

「どけ!」母はわめいて、他の馬たちの横を通り抜けていった。あわててすみに身を寄せていなかったら、馬から落ちたあの男は、ニンジンに踏み殺されていたに違いない。

 ニンジンはさらにスピードを増した。大きな背中がうねりながら、嵐の日のボートみたいに前後に揺れている。がつんがつんとひづめの音が、左右の石の壁の間に響く。ものすごい音だ。カンテラの明かりしかないから、母の身体のわきから見ても、前方はほとんど真っ暗だ。黒いだけで何も見えない。でも母はまっすぐ何かを見つめているから、母の目にはちゃんと見えているのかもしれない。腕をまわして母の腰につかまったまま、僕はじっとしていた。母を信頼しているのか、ニンジンには不安そうな様子はなかった。それは僕も同じだったと思う。

 ずかんずかん。ひづめの音にリズムを合わせて、ニンジンの背中は踊りつづけた。

 碁盤の目のようだった路地が、いつの間にか右や左にカーブしはじめていることに僕は気がついた。旧市街の中でも特に古い区画、青煉瓦街に入ったようだった。まるで身体の中の血管のように、このあたりの路地は無秩序に枝分かれし、急カーブで方向を変えている。区画整理とか再開発なんて単語は存在したこともない場所だ。ここの道の走り方は、もしかしたら母が生きていた時代と大きく変わってはいないのかもしれないという気がした。

 風が耳元を、びゅうびゅういいながら通り過ぎていく。王宮からだけじゃなくて、自分が住んでいる時代からも切り離されて、二千年前の世界に引きずり込まれてしまうような気がして、不安になって僕は後ろを振り返った。

 僕は、自分の目が見ているものが信じられなかった。背後は真っ暗だったんだ。明かりなんか一つも見えない。カンテラの光もなかった。スタウたちはどこへ行ってしまったんだろう。

 スタウたちは迷路の中ではぐれてしまったんだ、と僕は思った。

 青煉瓦街にだって、もちろん人は住んでいた。ただ、外部の人間はあまり歓迎されない場所なので、王国政府も実態はつかんでいなかった。人口はどのくらいいるのか、どんな商売や活動が行われているのか。僕と母はニンジンの背に乗って、その青煉瓦街をかけていた。

「ここは青煉瓦街だよ」僕は我慢できなくなって、母にささやいた。

 母はちらりと僕を振り返りかけたが、すぐにまた前を向いた。「わかっている。なつかしい雰囲気だ」

「住民たちに気づかれたらどうするの? ここは警察だって手出しできない場所だよ」

「ふん」母は鼻を鳴らした。「ここの住民たちが、二千年前の女王の帰還を歓迎せぬと思うか?」

 それ以上は何も言わずに、僕と母はかけつづけた。ニンジンは力に満ちていて、スピードをゆるめもしなかった。

「しめた。この路地は行き止まりのはずだぞ」母がつぶやくのが聞こえた。いくら青煉瓦街だって、二千年の間には道路工事が三十回や四十回は行われていても不思議はないのにと僕は思ったが、口は閉じておくことにした。

 でも、母の言ったことは正しかった。母が指示したわけでもないのに、ニンジンはひとりでにスピードをゆるめはじめ、そのまま立ち止まってしまった。僕は、そっとまわりを眺めた。

 幅が三メートルもない路地で、両側は石を積み上げた高い壁になっている。突き当りには木の扉があるが、路地の幅いっぱいある大きなもので、倉庫か何かの入口らしくて、高さは五メートルを超えている。もちろん今は閉じられている。両側の壁も、同じぐらいの高さがある。しなやかで力のある動物なら、うまくやれば飛び越えることができるかもしれない。でも路地の中では、助走する距離がとれない。奥の扉は、その上に屋根がねずみ返しのようにかぶさっていて、駆け上がったり飛び越えたりすることなんか問題外だ。

 あいつも同じ結論に達していたのだろうけど、扉の前に身をかがめて、僕と母をものすごく機嫌悪く迎えてくれた。うなり声は出していないが、キバを思いっきりむき出して、鼻にしわを寄せて威嚇している。

「これはどういう猫だ?」母が言った。しっぽの先まで入れれば、長さは三メートル近いだろう。足の先だけはわずかに黒っぽいが、毛皮は雪のように真っ白だ。歯はヤニのついたような黄色。目は青い。本で読んだことはあったが、僕も実物を見るのは初めてだった。

「北極オオヤマネコだと思う。ものすごく珍しい動物だよ。あんまり強暴だから、たいがいの国が輸入を禁止してる。どこかの物好きがこっそり飼っていたのが逃げ出したんじゃないかな」

 僕があんまり強くしがみついてくるからだろうけど、母はかすかに笑ったようだった。

「ニンジンは平気なようだな」母の声が聞こえた。

 おそるおそる顔を上げてみると、母の言うとおりだった。ニンジンは、落ち着かないふうでもなく、体を低くしているわけでも、耳を後ろに倒しているのでもなくて、まっすぐに立っていた。その数メートル前にはあの山猫がいる。目が合うと、青い瞳でにらみ返してきた。

「どうするの?」僕は母にささやいた。大きな声を出すと、それに刺激されて山猫が飛びかかってきそうな気がした。

「手をお放し」母は振り返って、僕の腕をほどこうとした。でも僕があんまり強くしがみついているものだから、にっこりして、僕の腕をちょんちょんと軽く二回たたいた。僕は、やっと腕の力をゆるめることができた。

 自由になって、母はひょいとニンジンから飛び降りてしまった。母のブーツが石畳に着地する音が響いた。腰からナイフを抜くのが見えた。

「どうするの?」

「おまえはスタウたちのところへお戻り」母はニンジンの首を軽く押して、後ろを向かせようとした。驚いたことに、ニンジンはそのまま従った。あの山猫に無防備なおしりを向けることになるのに。

「さあ行け」母が、ニンジンのおしりを軽くたたいた。ニンジンは一度軽くいなないて、駆け出した。僕一人を乗せたまま。

 すぐに母は、暗闇の中に山猫と二人きりで取り残されてしまったに違いない。でも僕にはどうしようもなかった。僕が座っていた場所からは、手綱に手が届かなかったんだ。手を伸ばそうとはしたのだけど、ニンジンがスピードを上げたものだから、すぐにそれどころではなくなってしまった。振り落とされないように、両手でクラにしがみつかなくてはならなかったんだ。

 そうやって、僕は数分間走りつづけた。手綱に手も届かない。ニンジンを立ち止まらせる方法もない。まわりはほとんど真っ暗で、見えているのは、カンテラでぼんやりと照らされている数メートルの範囲だけだ。

 ニンジンが止まったのは、かなり走って、偶然スタウたちに出会ったときだった。スタウは自分の馬をニンジンと平行に走らせ、手綱を取ってくれた。やっとニンジンが立ち止まった。

「フィーンディアさまはどこです?」スタウはすぐに言った。

「あっち!」僕は自分の背後を指さした。もちろんその方向は、何も書いていない黒板のように真っ黒だ。

 スタウはいまいましそうに舌打ちをし、ニンジンの手綱を僕の手に押しつけた。「おまえはクスクスさまをお守りしろ」と部下の一人に言って、ムチをくれて、僕が指さした方向へ全力で駆け出した。残りの一人も、すぐにスタウについて駆け出した。だけど、僕もこんなところでぼけっとしている気はなかった。すぐにニンジンの向きを変え、スタウたちのあとをついて走りはじめた。僕についているように言われた部下が、その後ろをついてくる。

 青煉瓦街には曲がり角や交差点が無数にあるのだが、ありがたいことにこのあたりでは、それほど道は複雑ではなかった。だから道なりに進んで、僕はすぐにさっきの場所へ行きつくことができた。スタウたちは、一足先についていた。真っ暗な中に、カンテラの光が二つ浮かび上がっている。

「フィーンディアさま」スタウが叫ぶ声が聞こえた。スタウたちは馬の頭をあちこちに向けて、カンテラの光で母の姿を探していた。もちろん僕もすぐにそこに加わって、声を出した。

「フィン」

 ニンジンも不安になっているのか、首をさかんにあちこちに向けて、闇の中を見透かそうとしているようだった。急に気温が下がってきたのか、じっとりと汗をかいているニンジンの背中から、湯気が立ち上るのが見えたような気がした。

 ニンジンだけじゃなくて、僕も不安だった。母が死んだらどうしようと思った。ナイフ一本で山猫に立ち向かうなんて、なんてバカだろうと思った。あのとき、ニンジンの背中から飛び降りてでもここに一緒に残るんだった。

「フィン、フィン」僕は叫びつづけた。

「フィーンディアさま」スタウたちも呼びつづけた。

 母も山猫も、ここにはいないようだった。行き止まりの狭い路地など、調べるのに何秒もかからない。

 でも、カンテラの光が届く範囲など知れている。路地を少し戻れば、道の枝分かれは無数にある。青煉瓦街は狭い町だが、道に迷うのは簡単だ。

「王宮に戻って、応援を呼びましょう」スタウの部下の一人が言った。

「そうしろ」スタウが命令した。命令を受けた兵は、馬にムチをくれて駆け出した。石の壁の間にひづめの音が響き、その兵と馬はすぐに見えなくなった。

「クスクスさまはここを動かないでください」と言って、スタウは部下を連れて、馬にムチをくれた。手近な分かれ道を片っ端から調べるつもりのようだった。すぐに二つのカンテラの光は、曲がり角の向こうに隠れてしまった。最初のうちは、石の壁に反射してわずかな光が見えていたが、すぐにそれも消えてしまった。僕は、真っ暗な中にニンジンと二人きりで取り残されてしまった。光といえそうなのは、ぼんやりしたスモッグごしの星明りと、頼りないカンテラ一個だけだ。

 ニンジンだけじゃなくて、僕も汗をかきはじめていた。手が滑って、手綱を持っているのも難しくなってきた。それに、スタウたちには気づかれなかったと思うけど、さっきからひざがひどく震えていて、ニンジンの背中をきちんとはさんでいることもできなくなっていた。ニンジンの背中から降りたら、歩くどころか、立っていることだってできなかったかもしれない。

 不意に誰かの足音が聞こえたような気がして、僕は耳をすませた。離れたところからかすかに聞こえてくるスタウたちの声にかき消されそうだが、たしかに足音だ。背後から聞こえてくるようだったので、僕は振り返った。ニンジンも同時に感じとったのか、大きな体の向きを変えて、そちらに頭を向けた。でもそっちは完全な暗闇で、何も見えやしない。僕はかがんで、カンテラを金具からはずそうとした。手が震えるのでひどく手間取ったが、何とかはずすことができた。僕はカンテラを高くかかげて、その方向を照らした。

「だれ?」

 返事はなかったが、足音は聞こえつづけた。靴をはいた人間の足音だ。山猫ではない。足音の感じから、ブーツのように思える。

 カンテラの光は石畳をぼんやり照らし、わきの壁に反射して、その少し向こうまで届いていた。その光の中に、母が姿を現した。

「フィン、大丈夫?」

 ちょうどそのとき、応援がくるまで捜索をいったん打ち切ることにしたのか、僕のことが急に気になってきたのか、スタウたちが僕のところへ戻ってこようとするのが見えた。カンテラの光が二つ、ゆっくりと近づいてくる。でも僕の声が聞こえたらしくて、途中から駆け出して近寄ってきた。馬具や武具が音を立てて、石畳をたたくひづめがかんかんいった。スタウたちも、すぐに母の姿を目にした。

「フィーンディアさま、おケガは?」スタウの声が聞こえた。

 三つのカンテラの光の真ん中に立ち止まって、母は答えた。でも声が聞こえる前から、僕には答えはわかっていた。母は手ぶらで、ナイフは持っていなかったが、どこにもケガをした様子はなかった。

「ふかでを負わせておいたから、明日まで生きてはいまい」

 母はまるで、明日の天気のことでも話しているみたいに、なんでもない様子で言った。

 僕は腹が立ってきた。あんなに心配してやったのに、という気がした。汗をかいていたことやひざが震えていたことが、ものすごくバカみたいな気がした。でも僕は、口をぎゅっと閉じて黙っていた。口を開いたら、母に対してとんでもないことを言ってしまいそうな気がした。

 それには母も気づいているようで、ニンジンの背に乗って王宮に向かって帰りはじめてからも何度か振り返って、おもしろそうな顔で僕を見ていた。そして、とうとう母は言った。

「どうした? 私のことを心配してくれていたのか?」

 僕の内部で、怒りが爆発しそうになった。巨大な火山みたいだと自分でも感じた。でもおかしなことに、なぜかその火山は、次の瞬間にはさっと冷えて、固まってしまっていた。高くそびえ立っていた燃える山が、瞬く間に真っ白な雪原に変わってしまったような気がした。理由は自分でもわからなかったけれど、母の顔を見ていたからかもしれない。僕の口からは、こんな言葉が出てきた。

「あんたみたいな野蛮人、見たことがないよ」

 こんなことを言ったら母は怒るに違いないと思ったのだけど、そんなことはなかった。ニンジンの手綱を持ったまま上を向いて、母はからからと笑いはじめたんだ。本当に楽しそうな声だ。母の笑い声が、青煉瓦街の路地に響いた。おそるおそる振り返ったら、何が起こっているのだろうという顔で、スタウたちがこっちを見ていた。


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