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その記事を見つけて、一番びっくりしたのは僕だったと思うよ。ある日、新聞に大きな記事が出たんだ。僕に結婚の話が持ち上がったという記事だった。
本当に僕は何も知らされてはいなかったんだ。何回も読み返したけれど、間違いなく僕のことが書かれていた。クスクス殿下に縁談が持ち上がっている。少し早い目ではあるが、結婚にまったく不向きな年齢というわけではあるまいとかなんとか。
もちろん王宮から正式に発表されたことではなかったけれど、なぜか新聞社は自信を持って書いているようだった。だから翌日には、それは事実であると王宮も認めざるを得なくなった。
自分のことなのに、僕もハニフやマーガたちから聞かされただけなのだけど、花嫁候補はイプキンの娘だということだった。だけどみんなが不思議がったのは、イプキンに娘がいるなど誰も聞いたことがないことだった。でも、イプキンがどこかの娘を養女に迎えたらしいという噂もすぐに流れてきて、それで一応けりがついた。あとは、僕がその結婚を受け入れるかどうかというだけの話になった。
「どうしよう?」簡単に想像がつくだろうけど、僕はフィーンディアに相談した。
僕は、またフィーンディアの執務室にやってきていた。フィーンディアの机の上には、新しい戦闘機の設計図が置かれている。試作された機関銃のサンプルも転がっている。そういった火薬くさいものの向こうにフィーンディアは座っていて、今はちょっと横を向いて、窓の外の風景を眺めていた。窓の外には、スモッグのかかったビクセンシティーの空が見えている。
フィーンディアの口が動いた。「イプキンには義理があるから、このお話を断ることはできそうもありませんよ」
「そのために戦車を貸してくれたのかな?」
そう僕は言ったのだけど、自分がうんざりした声を出しているのか、がっかりした声を出しているのか、期待に満ちた声なのかどんな声なのか、自分でもさっぱりわからなかった。結婚なんて僕には、他の惑星と同じぐらい遠い世界の出来事としか思えなかったから。
だけどきっと、僕はひどく不安になって、頭が混乱していたのだと思う。だって、いつもの自分だったら真っ先に気にするであろうことにだって、ぜんぜん気が回らなかったのだから。いつもの僕だったら、花嫁が美人かどうかを真っ先に気にしただろうけど。
フィーンディアは振り返って、ちらりと僕を見た。でもまた、すぐに窓の外を眺めはじめた。「そうかもしれません。見返りなしに援助をしてくれるような人ではありませんから」
僕は口を開き、何かを言いかけた。でも、その前にまたフィーンディアが言った。
「あなたにはガボウニイの離宮をあげましょう。そこで花嫁とお暮らしなさい。落ち着いたら、花嫁を連れて遊びにきてください」
なんだかフィーンディアは、意外なくらいあっさりしていた。こっそりとだったけれど、僕はため息をついた。まったく、これこそ政略結婚というやつだろうね。王族として生まれた以上、会ったこともない相手といつかは結婚させられるに違いないということは、小さいころから僕も覚悟していた。それがとうとう現実になったわけだった。それでも王族をうらやましく思うかい?
この後は、もう何もかもが本当にめまぐるしく動いた。僕には何が何やらわからなくて、気がついたときには、僕がこの結婚を受諾したという記事が新聞に出ていた。花嫁は、野山へ出るのが好きで、ダンスもじょうずな活発な人物だということだったが、新聞記者たちだけじゃなくて、僕にも不思議だったのは、花嫁については、イプキンがそれ以上は何も知らせてこないことだった。写真一枚送ってこなかった。
だから僕は、またまた不安にならなくてはならなかった。花嫁ってどんな人なんだろう。写真も送ってこないのはなぜなんだろう? まさか、額にツノなんか生やしちゃいないよね。でももう僕は王宮を出て、離宮で暮らしはじめていたから、誰にも相談することができなかった。離宮では、花嫁を迎える準備が始まっていた。ただ、花嫁は家財道具つきで嫁にくるということだったから、特に大きなしたくは必要なかった。
数週間して、花嫁がビクセンシティーに到着したという知らせが入った。結婚式の朝が来た。僕はまだ顔も知らなかったのだけど。
女官たちが寄ってたかって、少しは見栄えがよくなるようにしたあとで、僕は自動車に乗せられて、離宮を出発した。前後を装甲車が守っていた。
この離宮はガボウニイという村にあって、首都からは少し離れたところで、まわりは平らな畑が広がっていて、ずっと遠くに山脈が見えているほかは、視界をさえぎるのは農家だけだった。かやぶき屋根の大きな農家や小さな農家がポツンポツンと並んでいた。以前からフィーンディアが所有していて、宮殿というよりは、田舎の普通の屋敷と呼ぶほうが似つかわしかった。でも静かな場所だから、僕はとても好きだった。
僕を乗せた車列が村を出ると、さらに何台かの護衛がそこに加わった。街道に出て、速度を上げて走りはじめた。行き先は、首都の中心部にあるストカスの神殿だった。
ストカスというのは、運と確率をつかさどる女神で、どういうわけでか知らないけれど、王族の結婚式はここで行われるのが習慣になっていた。大きな広い神殿だし、結婚とは運試しのようなものであるという意味も込められていたのかもしれないけど。ストカスはうら若い乙女の姿をした女神なのだけど、酒が大好きで、吐く息はいつもアルコールくさいというこまったお人だった。酒のつまみには、新鮮なぶどうがお好みだそうだ。酒が好きなのは、「運命の管理者なんてつまらん役をしらふでやってられるか」という意味なのかなあと、僕はかねてから思っていたのだけど。
後部座席にひとりで座って、窓の外をぼんやり眺めたまま、僕は思い出そうとしていた。ストカスの神殿って、どんな場所だったっけ? 小学校のときに遠足で一度行ったきりだな。
車列はビクセンシティーに入った。町の通りは見物人でいっぱいだった。ストカスの神殿の前は、もっと人が多かった。警察官が列を作って、見物人たちが道路にあふれ出さないように押さえていた。
車列が神殿の前で止まった。神殿は、ああいう建物お決まりの魔法使いの帽子みたいにとんがった屋根をしていて、それよりは少し背の低い鐘楼が二つ付属している。右側の鐘楼が朝の鐘を、左側のが夕刻を告げる鐘を鳴らす。王族の結婚式のときにだけ、二つの鐘が同時に鳴らされるのだと僕は聞かされていた。
神殿の前には、一個中隊の近衛兵が整列していた。金色のボタンがきらきらした儀典用の制服を着ている。数年に一度しか着る機会のない服だから、みんな張り切っているのかもしれない。列の一番手前にいる近衛兵が、僕のために自動車のドアを開けてくれた。
僕は自動車の外に出た。僕は、昨日仕立てあがったばかりの軍服を着ていた。ビクセンではいつも軍用車が公用車だったし、軍服を着ることが正装だったから。
僕は少しキョロキョロした。その様子を、派手にマグネシウムを燃やしながらカメラマンたちが写真に撮ったけれど、気にならなかった。フィーンディアはこの式には出席しないんだということを、不意に思い出した。フィーンディアは理由を告げなかったけれど、僕もなんとなく納得していて、それ以上たずねる気にはならなかった。
見物人たちがざわざわ言っていた。近衛兵たちは神殿の正面に二本の列を作って並び、僕がその間を歩いていく気になるのをじっと待っていた。
白状するけど、「今この瞬間に逃げ出して、フィーンディアのところへ飛んでかえることはできないかな」と僕は思った。フィーンディアはどんな顔をするだろう。怒られるかもしれないけど、かまうもんか。でもすぐに、「そうもいかないか」と思い直した。僕だけならともかく、もう花嫁がそこで待っているのだから。
僕は歩きはじめて、神殿の入口に通じる階段を上っていった。腰につってある短剣とピストルが邪魔だった。
階段を登りきると、大きなドアが開いていた。怪獣だって背筋を伸ばしたままで出入りできそうな背の高いドアで、左右に開くようになっているのだけど、間口だって、運河のハシケが軽く通ることができそうなぐらいの幅がある。これを支えている蝶番は、人の腕ぐらいの直径がある。これが神殿の正面入口で、日曜の朝には礼拝に来た人々が何百人も通っていくドアなのだけど、この日も神殿の中は人でいっぱいだった。ただ普段の日曜と違うのは、みんな王宮の関係者や外国からの客たちだから、いかにも金持ちそうに見える連中が多かったことかな。着飾って、みんな振り返ってこっちを見ている。
僕は少しあきれてしまった。もちろん表情には出さなかったけれど、こいつらみんなひまだな、と思った。王族の結婚式といったって、あんたたちと何の関係があるのさ。
神殿の中はとても広く、奥行きもあった。線路を敷いたらプラットホームがいくつできるかな、と思った。客たちは左右に分かれていて、真ん中を一番奥の祭壇に向かって、幅の広い通路がまっすぐに走っていた。その先に花嫁の姿が小さく見えていた。距離はあるし、こちらに背中を向けていたし、真っ黒な長いドレスを着て真っ黒なベールをかぶっているから、すらりとしてはいるけれど、顔立ちはわからなかった。
僕は神殿の中へ入っていった。他に何ができるっていうのさ。
僕が通路を歩きはじめると、背後でドアが閉められた。とたんに外の光が差し込まなくなったけれど、神殿の中は何千本ものロウソクで照明されていた。僕が歩いていくのを、何百人もが見つめていた。みんな黙りこくっているが、ときどきどこかで咳払いが聞こえ、左右の足を踏みかえるごくかすかな音もときどき響く。いま何百個の目玉が僕を見てるんだろう。僕は少し恐くなってきた。でも同時にちらりと頭をかすめたのだけど、ここで何かバカなことをわざとやらかして、雰囲気をぶち壊してやるのもおもしろいかもしれない。だけど何をやっていいのか思いつく前に、僕は花嫁のところまで達してしまった。僕は花嫁と並んで立った。結婚式が始まった。
まず神官が、僕と花嫁の前にしずしずと進み出た。ごわごわした緑色の生地でできたおかしな制服を着ているのだけど、身体の前に長い四角い白い布をたらしているところは、赤ん坊のよだれかけみたいだった。頭の上には、高さ一メートルぐらいはありそうな筒状の帽子をかぶっている。先端が鋭くとがっているから、まるで避雷針のようだ。神官の背後には、酒好きな女神の像がある。こちらの高さは十メートルぐらい。この像の足元で式が行われるわけだった。
神官の祝福の言葉なんか、僕は聞いてもいなかった。ときどき花嫁のほうをちらちら見たけれど、花嫁はまっすぐに立ったまま、ほとんど動かなかった。僕は急に気になってきた。この人、僕を好きになってくれるのかな? 僕には自信がなかった。
ベールの下に隠れているから、やっぱり顔つきはわからなかった。「ストカスさま、お願いします」と僕は思った。あのベールの下にツノなんか生えていませんように。
死ぬほど退屈な時間がすぎて、やっとこさ式が終わりに近づいた。あとは、僕と花嫁が指輪をはめておしまいだった。さあさ、早く片づけて離宮へ帰ろうよ。僕はもううんざりして、何がどうなってもいい気がしていた。花嫁にツノが生えていようが翼があろうがしっぽがあろうが、知ったことじゃない。足が疲れた。おなかすいた。
神官が合図をしたので、僕はいそいそと花嫁に近づいて、向かいあって立った。まわりの連中には、僕が喜びに包まれているように見えたかもしれないけど、そんなんじゃなかった。早く終わらせたかっただけ。
ベールのせいで、このときになっても花嫁の顔は見えなかった。そのベールを見ていて、自分でも理由がわからなかったのだけど、僕は急にふてくされた気分になってきた。花嫁は、ベールのむこうから僕を見つめているようだった。不意に、卒業式の夜のダンスのことを思い出した。
このとき、神殿の中も近衛兵たちが守っていた。それはいつものことだったのだけど。
もちろん僕は、自分がたいした人間じゃないということはよく知っていた。僕がこうして守ってもらえるのは、立派な人間だからじゃなくて、たまたま王族に生まれついたからなんだ。大事なのは王族という看板であって、それを背負う背中じゃない。その家系に生まれさえすれば、誰だって王族になれるんだよ。ただ、その看板をかつぐ背中がナイフで刺されたり、ピストルで蜂の巣にされたり、腐った卵を投げつけられたりしたら外聞が悪いから、だから大事にしているんだ。王族なんて、それだけのものだよ。生まれてからずっとこの地位にいて、僕はそう思うようになっていた。僕は皮肉屋だと思う?
それはそうと、花嫁のまわりにも護衛の兵たちがいた。それは不思議じゃなかった。でも、その兵たちの制服が変だったんだ。サウカノへ行ったときに見た近衛兵の制服とは違っていたんだ。
ビクセン王宮の近衛隊には第九分隊というのがあって、女の兵士だけで編成されていた。フィーンディアの警護をするにはそのほうが都合がよいからだったけれど、このとき花嫁のまわりにいた女兵士たちは、この第九分隊の制服を着ていたんだ。
なぜもっと早く気づかなかったんだろう、と僕は思った。イプキンの娘なんだから、結婚式がすむまでは、花嫁の警護はサウカノ近衛兵の仕事のはずじゃないか。
思わず僕の身体がびくんと動いて、ばねのように大きく一歩下がった。背後にあったロウソク立てに背中が触れて、ロウソク立ては倒れて、大きな音を立てながら床にぶつかった。ロウソクの火は一瞬で消えた。ベールを乗せた頭が揺れて、花嫁が笑ったようだった。
僕と花嫁がはめるはずの指輪は、神官の手にあった。小さなクッションのようなものの上に置かれて、神官が大切そうにささげ持っている。とても古いもので、僕の両親が結婚したときにも、その両親が結婚したときにも、そのまた両親が結婚したときにもこうやって使われたものだった。あまり気味のよいものではなくて、蛇がかま首を持ち上げて、いかにも機嫌悪そうに相手をにらみつけている形に彫られている。目の部分には、大きな青い石がはめ込んである。花嫁と花婿用に同じ形のものが二つあって、その二つを組み合わせると、まるで判じ絵かパズルみたいにぴったり合って、より大きな一匹の蛇の姿になる。
花嫁がさっと身体の向きを変えて、神官のほうを向くのが見えた。とても花嫁とは思えない動作で、神官に向けて大きく足を踏み出した。神官は驚いて、一歩下がった。二つの指輪を、胸に抱きしめるようにして守ろうとした。花嫁が、神官に向けて大きく手を伸ばした。
「それをおかしなさい」花嫁の大きな声が、神殿の中に響いた。
「はい?」神官が目を大きく見開く。花嫁は手を伸ばして、神官の手から指輪をひったくろうとした。神官は抵抗しかけたが、指輪はすぐに奪われてしまった。指輪を乗せていたクッションが床に落ち、指輪は今は二つとも花嫁の手の中にあった。
「いささか気のきかぬ人ですね」
僕のほうを向いて、大きな声で花嫁はそういい、指輪の一つを自分の指にはめた。ひじまである長い絹の手袋の上からだったけれど、左手の薬指だ。もう一つの指輪を持ったまま、僕に近寄ろうとした。
僕は、逃げ出そうとして背中を向けかけた。でも、すぐに捕まってしまった。花嫁はネコのようにすばやく、僕の腕をつかんで引き寄せた。
僕は暴れた。恐くなって、花嫁の腕にかみつこうとした。
「手を押さえていなさい」
花嫁に命令されて、第九分隊の兵たちが動いた。若い女の兵が二人、僕に飛びついた。一人が僕を背後から捕まえ、もう一人が右腕を押さえた。花嫁は僕の左手をつかんだ。僕は左手の指を閉じて、こぶしにした。でも花嫁はその指をこじ開け、僕の薬指にむりやり指輪をはめてしまった。
全部が一瞬の出来事だった。花嫁が合図をしたので、女兵士たちは僕を放した。僕は肩で息をしていた。花嫁をにらみつけて、指輪を指から引き抜こうとした。
でもその前に、花嫁の声がまた大きく響いた。それを聞いたとたん、僕の身体からは力が抜けてしまった。指輪はまだ僕の薬指にあった。
神官のほうを向いて、花嫁はこう話しかけたんだ。「この結婚は、すでに成立しているのでしょう?」
「えっ?」神官は、口をぽかんと開けて花嫁を見つめ返した。
「この結婚は有効でしょうと私は言っているのです」花嫁が繰り返した。「いま花婿が指輪をはずしてしまったとしても」
「さあ、それは…」神官は困った顔をした。何が起こっているのかもよくわかっていない様子だ。
「有効です」花嫁は満足そうに言った。「そしてこの国では、王族の離婚には女王の同意が必要です。そうではありませんか?」
花嫁は楽しそうにくすくす笑った。しばらくのあいだ一人で笑っていた。その声が神殿の中に響いた。花嫁はベールを脱いで、顔を見せた。神官と僕を見つめかえして、熟したイチゴのように真っ赤な口紅を引いたフィーンディアがにっこりしていた。
僕に与えられた次の試練は、どうやって騒ぎを大きくせずに離宮まで帰りつくかということだった。僕は、ふたたびベールをかぶったフィーンディアを連れて神殿を出た。式は終わりだったから、これ以上ここですることは何もなかったからね。意外な成り行きに、参列者たちは、喜んでいいのか、詐欺だとわめきたてるべきなのか決めかねているように見えた。でも、いちばん当惑していたのは僕だと思うよ。
とにかく僕は、花嫁の手を引いて神殿の外に出た。花嫁の正体はまだ神殿の外には知られていなかったから、見物人たちは大きな歓声を上げて迎えてくれた。近衛兵たちが、空に向けて空砲を何発も撃った。花嫁は、いかにも優雅にゆっくり歩いていたけれど、僕はその手を引いて、急いでせかせか前を行った。僕は、歩道に横付けしてドアを開けて待っていた自動車の中に飛び込み、花嫁の手を引いて引っ張りこんだ。なんだか知らないけど、自分がピエロになったようで、ものすごく恥ずかしい気がした。
近衛兵がドアを閉めると、外ではもう一度大きな歓声が上がったようだった。車列が動きはじめて、神殿の前を離れるまで、僕は生きているような気持ちがしなかった。
自動車が離宮に着いたのは、一時間ぐらいあとのことだった。護衛の自動車たちは、ガボウニイ村の入口で大部分が停車し、数台だけが離宮の前までついてきた。でもその数台も、中庭までは入ってこなかった。離宮の玄関の前に止まったのは、僕と花嫁が乗っている一台だけだった。
玄関の前では、女官や侍女たちが列を作って、僕と花嫁を迎えようとしていた。みんな制服姿で、ぱりっとした真新しいものを身につけて、靴も完璧に磨いて、髪も整えてあった。エリなんか雪のように真っ白で、カミソリみたいにピンととがっていた。その中にはマーガもいて、自動車が完全に止まると、ドアを開けるために手を伸ばしてきた。僕は深呼吸をした。でもそれは、半分以上ため息だったかもしれない。花嫁がくすっと笑った。
僕は突然、自分と花嫁が間違った順序で自動車に乗り込んでしまっていることに気がついた。本当なら花嫁が奥に乗らなくてはならないのに、逆になっていたんだ。一秒でも早く神殿の前から逃げ出したくて、気がつかなかったらしい。だから花嫁が先に自動車から降りることになって、僕は余計にきまりが悪かった。花嫁のあとに続いて僕も降りると、女官と侍女たちがいっせいにお辞儀をした。マーガが口を開いた。
「クスクスさま、お帰りなさいませ。花嫁さま、離宮の一同を代表いたしまして、歓迎の言葉を述べさせていただきます」
僕は、自分が気を失ってしまうんじゃないかという気がした。運転席から運転手を引きずり出して、自動車を乗っ取ってどこかへ逃げてしまうか、離宮の屋根裏部屋へ逃げ込んで、長持ちの中に隠れて鍵をかけて、ほとぼりが冷めるまで三十年ぐらい姿を隠していたいような気もした。でも実際には何もできずに、そのままそこに立っているしかなかったのだけど。
だけど、マーガの声がもう一度聞こえてきたとき、僕は気を失ってしまうどころじゃなくて、心臓が止まってしまうんじゃないかという気がした。マーガはこういった。ベールで隠したまま、まだ顔も見せていない花嫁に向かって話しかけた。落ち着いたなんでもない声で言ったんだ。
「お疲れでしょう。お食事の用意ができております、フィーンディアさま」
『真相』が公表されたのは、この日の夕方のことだった。イプキンはフィーンディアを養女に迎え、自分の娘ということにして嫁入りさせたのだった。だから気がついたら、フィーンディアは僕の妻になっていた。
もちろん僕は、フィーンディアに文句を言った。その日も翌日も一日中言い続けてやった。フィーンディアはうれしそうに、にっこり微笑みながら聞いていた。でもフィーンディアが同意してくれない以上、離婚はできないから、僕はそのままフィーンディアの夫でいるしかなかった。フィーンディアは以前と同じように穏やかでやさしかったけれど、「離婚には絶対に同意しません」と言うときには岩のような決意がこめられていたから、数日たつうちには僕も、「これはあきらめるしかないか」と思うようになっていた。もちろん、それも全部フィーンディアの計画のうちだったのだろうけど。今から思えば、僕を政略結婚から救い出すには、自分自身が妻になるしか方法がなかったのだろうしね。
でも僕はそんなことは知りもしなかったから、マーガや女官や侍女たちにもぶうぶう文句を言った。すぐに彼女たちも認めたのだけど、みんな花嫁の正体が実はフィーンディアだということを事前に知っていたらしい。知っていて黙っていたんだ。
離宮には、女官や侍女以外にも使用人がいた。下男や運転手、庭師たちだけれど、でもこの男たちには、花嫁の秘密は知らされていなかったようだった。真実を知らされて、僕と同じぐらい驚いている様子だった。フィーンディアは、身の回りの数えるほどの人数の女たちにだけ計画を打ち明け、協力させていたらしい。
ところで、この出来事に対する国民たちの評価は、僕にはかなり意外なものだった。それが新聞の見出しによく現れていたと思うけど、フィーンディアは僕だけじゃなくて、国民たちもあざむいていたわけだけど、『くそ、だまされた!』というようなのじゃなくて、みんながみんな『フィーンディア陛下の大てがら』みたいな書き方をしていて、僕にはわけがわからなかった。何がどうなってるんだか。
こうやって、僕の結婚生活がはじまった。数日後、僕はフィーンディアと一緒に王宮へ戻ってきた。ここの七階でまた暮らすようになったんだ。実を言うと、これだと以前とほとんど何も変わらなかったのだけどね。僕とフィーンディアの指にそれぞれ指輪が光っているということ意外は。
フィーンディアは、以前と同じようにやさしかった。女官や侍女たちの態度も変わらなかった。でも王宮の男たちが僕を見る目は、ほんの少し以前とは変わったような気がした。
ただ、何がどう変わったのかは、僕にもよくわからずにいた。きっと彼らも、僕に何か言いたいことがあったのだと思う。でもそれを告げたものかやめておいたものか、なかなか決心がつかなかったのだろうね。なんせ、相手は何もわかっていない子供なんだから。だけどとうとう、彼らも決心したようだった。ハニフが僕の部屋へやってきた。
昼間、僕が仕事に使っていたのは、王宮の六階のすみ、ほかのオフィスからは少し離れた邪魔にならないところにある小さな部屋で、机と長イスがあるだけで、ほかには何もなかった。ひとつしかない窓の外には、ビクセンシティーの北側を押さえる山脈が見えている。この部屋のドアには、僕の手書きのへたくそな字で『蜂追い係控室』と書いた紙きれが張りつけてあった。
僕はこの部屋に一人でいて、書類を読んでいた。僕は、試験的に鉄道大臣に任命されていた。もちろんフィーンディアに頼んでそうしてもらったのだけど、就任二日目にして、僕はもう後悔していた。この書類は王立鉄道作業局が作成した正式のもので、タイプで打ってとじた分厚いものだった。年々混雑が激しくなっている王立鉄道の線路をどう作り変えて、混雑を少しは減らすかという計画書だった。役人たちが書いたもので、こんなに退屈なものを書くにはかなりの努力と才能が必要なんじゃないかと思えるぐらいすばらしいものだった。
だから、不意にドアをノックする音が聞こえてきたときには、僕はいそいそと返事をした。これを読む邪魔をしてくれるのなら、死神の訪問だって歓迎したい気分だったから。僕は計画書の表紙を乱暴に閉じて、机の上にほうり出した。ドアが開いて、ハニフが入ってきた。
「クスクスさま」ハニフが言った。
僕は何か言おうとした。でも言葉は出てこなかった。ハニフの様子は、僕の舌を乾かしてしまうほどのものだったんだ。
ハニフはまるで、心が破れてしまったかのような表情をしていた。もちろん、心の全部が破れてしまったというわけではないけれど。それでも、一部分ではあるがとても重要な部分が。僕は一瞬、革が破れて使い物にならなくなった太鼓を連想した。
「クスクスさま」ハニフがまた言った。「とても重要なことをお話ししなくてはなりません」
僕の心は、きゅっと緊張したと思う。僕は黙って、イスに座るように身振りをした。ハニフはその通りにした。ハニフが僕の前でイスに座るなんて、これまで一度も見たことのないことだとすぐに気がついたけれど、表情には出さずに黙っていた。
ハニフはもともと年寄りなのだけど、この日はそれがもっともっと年寄りになったように見えた。全体に身体が小さくなり、肩も枯れ枝のように細くとがっている。首も、小鳥のように細く弱々しい。
僕は黙って待っていた。ハニフは話しはじめた。
「クスクスさま、フィーンディアさまをフィーンディアと名づけたのはゾディアさまだということはご存知でしょう?」
「うん」僕はうなずいた。ゾディアというのは、フィーンディアの母親のことだよ。もう何年も前に死んでいたけれど、ビクセンの先代の女王だった。
「それには、こんな裏話があるのです」
ハニフは一瞬黙った。僕はやっぱり待っていた。ハニフが続けた。
「娘時代から、ゾディアさまは黒王妃に夢中だったのです。興味を持っているというのを通り越し、好きというのも通り越し、もう熱狂といってよいほどでした。女同士ですが、黒王妃に恋をしておられたのかもしれません」
「それって、二千年前の黒王妃のこと?」
数学だけじゃなくて、僕は歴史も苦手だったけれど、黒王妃のことは聞いたことがあった。古代史の登場人物で、この王国の基礎をきずいた名君ではあったらしい。
ハニフはうなずいた。「ゾディアさまは、ビクセンの歴史に関する本が出版されるたびに、必ず購入して目を通されました。黒王妃についての記述が一行でも見つかると、満足そうに微笑まれました。歴史学の教授を王宮に招き、個人的に講義を受けられたこともございます」
「でも黒王妃の治世って、あんまりうるわしい時代じゃなかったよね? 戦争ばっかりしてたんじゃなかった? 死んだ幼い息子をかかえて、三日三晩町の中をさまよい歩いたんじゃなかった? それが突然、死体をほっぽりだして、いくら時間がかかっても、いつの世にか必ず息子を生まれ変わらせてみせるとわめいて、そのまま行方不明になったんじゃなかった?」
「その通りです。死と残酷さと狂気でいろどられた時代です。でもそれが、なぜかゾディアさまの心を奪ってしまったのです。ただ私には、それもなんとなく理解できるような気がするのですが」
「なぜ?」
「ゾディアさまは完全主義者で、いかなる不正も怠惰もお許しになりませんでした。完璧でないことは認めませんでした。浪費だとおっしゃって、火災で失われた玉座の再建もお認めにならなかったぐらいです。黒王妃の物語がゾディアさまの魂に響いたのは、そういうご自身の性格への反動だったのかもしれません。
そういうゾディアさまがまだお若かったころのことですが、ある日、黒王妃の時代から伝わる遺物がサウカノ王宮の宝物庫にひそかに収められているらしいという噂を耳にされたのです。ですがサウカノ王宮の宝物庫といえば、おいそれとは立ち入ることが許されない場所です」
そのことは、僕も聞いたことがあった。あれは、なんていうか伝説的な場所だったんだ。サウカノ王朝が何世紀も昔から受け継いできた宝物や、経済力に物を言わせて買い集めた美術品が大量に収められているとされていて、王族以外は足を踏み入れることが許されていないということだった。
ハニフが続けた。
「ゾディアさまが、そんな話を聞いてじっとしていられるわけがありません。その日のうちにイプキンに手紙を書いて、宝物庫の中を見せてほしいと頼みました。すぐにていねいな返事が返ってきましたが、イプキンは依頼を断ってきました。でもゾディアさまはあきらめませんでした。口実を作って、みずからサウカノを訪問することにしたのです。これにはイプキンも困ったようでしたが、隣国の女王の訪問をむげに断ることはできません。ゾディアさまを王宮に迎えました。すぐにゾディアさまは、イプキンを説得にかかりました」
「それで、どうだったの?」
ハニフは首を横に振った。
「イプキンは承知しませんでした。遺物の存在だけは認めましたが、どうしてもゾディアさまを宝物庫に立ち入らせようとはしませんでした。
それでもゾディアさまはあきらめませんでした。イプキンに対して、とんでもない政治的譲歩を示したそうです。でもイプキンは首を縦には振りません。そして、ゾディアさまをひどくうるさく感じたのでしょう。追い払うために、イプキンはこう言い放ったそうです。
『そんなに宝物庫の中が見たいのであれば、娘を生み、黒王妃と同じ名をおつけ。そうすれば考えてやろう』
このとき、ゾディアさまは妊娠していたのです。まだ月満ちてはいませんでしたが、そろそろおなかが大きくなりはじめていました」
「そうやって生まれたのがフィーンディアだったの?」僕は目を丸くしていたに違いない。なぜあんな名前がつけられたんだろうと、以前から不思議に思っていたから。
ハニフはうなずいた。「もちろんイプキンは冗談で言ったに違いありません。そんなまがまがしい名を娘につける愚か者はおりませんから。でもゾディアさまは、それが冗談であることにも気がつけないほど血迷っておいででした」
「ビクセンには、それを止める人はいなかったの?」
ハニフは少し横を向き、しばらくのあいだ考えていた。それから言った。
「表立ってはいなかったように思います。ゾディアさまは人望がありました。ゾディアさまが黒王妃に夢中であることは、玉にキズといいますか、国民たちも多めに見ていたようなところがありました。もちろん、王女がフィーンディアと命名されたことを伝える新聞記事には、『やれやれ、困ったことだ』とニュアンスはありました。でも、それがすべてでした」
「王宮内ではどうだったの? みんな笑った?」
「はい。みんな影でこそこそ言っておりました」
「ハニフはどうだったの?」
ハニフはため息をついた。「私には何もできませんでした。王女をそう名づければ宝物庫に入れるとゾディアさまは思い込んでいたのです。何を言ってもきかなかったでしょう」
「もちろんイプキンは、宝物庫の中を見せてはくれなかったんだよね」
「もちろんです。ゾディアさまが王女を本当にそう名づけたというニュースを聞いて、イプキンはあきれて、鼻を鳴らして笑ったそうです」
僕はハニフを見つめ返した。「それで、なぜ僕にこんな話をしたの?」
「わかりません」ハニフは首を横に振った。「私たちは漠然とした不安を感じているのです」
「私たちって?」
「この王宮にいる者たちです。私やスタウや、そのほかの者たちです」
「どんな不安?」
「はい」ハニフはつばを飲み込んだようだった。「フィーンディアさまは何かをたくらんでおられるのかもしれません」
「どんなこと? 悪いこと?」
「そうかもしれません。ですが、それが何なのか見当もつかないのです」
「どこかの国と戦争を始めるとか? でも、もしそうだとしても、絶対にどこかから情報が漏れて、ハニフや僕たちの耳に聞こえてくるよ。計画が大きくなって、人をたくさん巻き込めば巻き込むほど、漏れやすくなるもん」
ハニフの言うことは、僕にはまるで信じられなかった。家来たちはともかく、フィーンディアが僕に対して隠しごとをしたり陰謀をたくらんだりするとは、とても思えなかったんだ。それが僕の表情に出ていたのだと思う。ハニフは僕を見つめ返した。きっとハニフの目には、僕は世間知らずでお気楽な子供に見えたことだろうね。口を開いて、ゆっくりした口調で言った。
「クスクスさまのご結婚のときはどうでした? 花嫁の正体を、クスクスさまは事前にご存知でしたか?」
この日の話はこれだけで、ハニフはすぐに僕の部屋を出ていってしまったのだけど、それでも僕を不安にするには十分だった。「僕って、とんでもない魔女と結婚してしまったのかもしれないぞ」という気がしてくるぐらい。
だから僕は、この日からフィーンディアのことを少し観察するようになった。フィーンディアが口にする言葉の一つ一つを覚えておいて、一人になったときに思い出して、どういう意味が隠されているんだろうと考えてみるようになったんだ。でも何もわからなかった。フィーンディアはいつものように穏やかで、何か隠しごとをしているようには、やっぱり見えなかった。