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 僕は、ある国の王宮で生まれて育った。ビクセン王国といって、荒地と岩山しかない国だった。面積は大きかったけれど、まわりをいろいろややこしい国々に囲まれていて、戦争とか領土紛争とか、面倒くさいことも多かった。そしてこの国は、フィーンディアという若い女王が治めていた。

 でもフィーンディアって、変な名前だよね。フィーンドというのは悪魔という意味だから、フィーンディアだと文字通り『悪魔のような女』ということだもんね。僕だけは省略してフィンと呼んでいたけれど、他の人がそう呼ぶところはみたことがなかった。

 実はこの国では、この名で呼ばれる女王は、彼女が初めてじゃなかった。ものすごく古い話だけど、二千年前にも一人いたんだ。

 そんな大昔のことだから、本当にいたのかどうなのか、確かめようもなかったのだけどね。とにかくその時代には、この国はとても栄えていたらしい。面積も今の二倍以上あったらしいしね。

 でも、女王が国民から愛されていたわけではなかった。戦争をさせれば右に出るものはおらず、思慮深く計算高く、だけど冷酷で、国民たちからはひどく恐れられて、黒王妃とあだ名されていた。そういう女王だったのだけど、あるとき幼い息子をなくした悲しみで精神の平衡を失い、そのまま歴史の舞台から姿を消したということぐらいは、歴史に興味のない僕でも知っていた。

 僕のフィーンディアはそんな女王にちなんで名づけられていたわけだけど、黒王妃にはぜんぜん似ていなかった。もちろん僕は、二人の顔が似ていないといっているのじゃなくて、フィーンディアには黒王妃みたいな邪悪なムードは全然なかったという意味だよ。フィーンディアは陽気で穏やかで、国民の間でも人気があった。国をかじとりするにはまだ少し若かったかもしれないけれど、この時代のビクセンもそれなりに繁栄していたからね。

 本当の話、フィーンディアが女王に即位したのは十三歳のときだった。母親のゾディアが突然病死したからね。僕も、戴冠式のときのフィーンディアの美しいドレス姿はとてもよく覚えている。

 僕は、フィーンディアの同い年の従兄弟だった。フィーンディアのことを姉妹のように感じていたと思う。フィーンディアも同じようで、とても親切にしてくれた。どちらも両親はもう死んでいて、それどころか、僕とフィーンディアがこの国の王族の最後の二人だったんだ。ビクセン王室では一時期、なぜか死産や早死にがあいついだことがあったからね。

 王宮は首都を見下ろす丘の上にあって、七階が王族の住まいになっていて、東半分を僕が、西半分をフィーンディアが使っていた。王宮にはそのほか、女官や侍女、官吏や警備兵などが、住み込むか交代で泊り込むかしていたから、つねに四十人ぐらいは人がいたと思う。王宮の六階から下は王国政府や軍のオフィスになっていたから、昼間の人口はその何倍にもなった。

 それで、僕が今から話そうとしているこの物語なのだけど、僕は本当に若くてというか、ほんの子供で、まだ学校だって卒業してはいなかった。フィーンディアには専属の家庭教師が数人いたけど、僕は普通の子供と同じように学校に通っていた。

 ビクセンは赤道に近い国ではなかったけれど、それでもあの日はとても暑かった。僕が通っていたビーカー学園は首都の中心部にあって、校舎の窓はすべて開け放してあったけれど、生徒たちはみんな暑さでうんざりしていたと思う。

 大きな教室で、生徒は六十人以上入っていた。みんなイスに座っているが、床は階段状になっていて、後ろへ行くにしたがって高くなる。前には黒板があり、教師が立っている。ビクセンの伝統にのっとって、この校舎も石灰岩で作られていたけれど、分厚い石の壁でも、この日の暑さを防ぐことはもちろんできなかった。窓から夏の午後の太陽が差し込んで、教室の床にくっきりした影を落としていた。

 もちろん僕も、暑さでうんざりしていた。数学の授業中だったけど、教科書もノートも微分も積分も何もかも放り出して、どこでもいいから水の中に飛び込んでしまいたくなった。僕はノートにいたずら書きをしながら、水の匂いをなつかしく思い出していた。そんなの、最後にかいだのはいつだったろうという気がした。

 僕は窓の外を眺めた。王宮の中庭にある池のことを思い出した。中に飛び込まないまでも、そのへりに立てばとても気分がいいに違いない。太陽の光が水面にきらきら反射して、その下を銀色の背びれをした魚たちが泳いでいて、水の中に指先を突っ込むと、エサをくれるのだと勘違いして、やわらかい口を押しつけてくる。くすぐったくてたまらない。そうだ。王宮へ帰ったら、すぐにあの魚たちを見にいこう。

「クスクス殿下、きいていらっしゃるのですか?」教室の中に、突然大きな声がした。

 僕は、びくっとして前を向いた。教師とどんぴしゃりで目が合った。

 やせた中年の教師で、僕はぜんぜん好きじゃなかった。いつもえこひいきしてもらっている数人を除いては、生徒の全員が嫌っていたと思う。いつも安っぽい香水の匂いをさせていて、混雑した廊下ですれ違ってもすぐにわかった。授業中に生徒に質問をして、その生徒が答えられないとわかる瞬間に意地悪そうに笑う以外は、まったく表情のない男だったから、「あいつの正体はきっと吸血鬼で、実は何百年も前に死んでいて、それでも生にしがみついてこの世をさまよっているのだけど、身体から発する死の匂いを隠すためにいつも香水を使っているんだ」と生徒たちは噂していた。あだ名はもちろん『犬歯伯爵』

「窓の外に何か見えますか?」

 黒板の前で、犬歯伯爵が僕を見て、にやりと笑っていた。

 あの顔でにやりと笑われて、背筋がぞっとしないやつなんかいないと思うよ。納骨堂にたまった数百年分のホコリとカビと、乾ききった皮膚と骨の匂いを連想させる笑いなんだから。

「いえ、別に」僕は首をすくめたに違いない。ほかの生徒たちがけらけら笑った。いたずら書きを隠すために、僕はノートのページをそっとめくった。

「ではここへきて、この計算問題を解いていただけますか?」

 そういわれると、僕は立ち上がるしかなかった。机と机の間を抜けて、教室の前へ出ていった。黒板には、長ったらしい微積分の練習問題が書き出されている。

 それで、結果はどうだったのかって? 僕はちゃんと問題を解くことができたのかって?

 そんな失礼なこと、あからさまに質問するもんじゃないよ。



 数日後、王宮の七階でのこと。朝早くだったけれど、フィーンディアが僕の部屋へやってきていた。

 フィーンディアは、いつものように真っ黒な軍服を着ていた。なんたってビクセンは軍事国家だったからね、女王は軍の総司令官もかねていた。フィーンディアはすらりと背筋が伸びていて、とても姿勢がいい。短いつばのある帽子がよく似合っている。ビクセン軍の階級に詳しい人が見れば、フィーンディアが大将よりも上の位であるとすぐにわかるだろうね。フィーンディアは、ドレスのような女らしい姿よりは、こういう服装のほうが普通だった。制帽の正面にそっと添えられている水色の短い線が、この人が王族であることを示していた。

「クスクス、新聞にこんな記事が出ていますよ」とフィーンディアは言った。

 僕はまだベッドの中にいた。目を覚ましたばかりだった。フィーンディアは軽くノックをして入ってきて、ベッドのそばに立ったんだ。手に新聞を持っている。

 僕は起き上がって、新聞を受け取って眺めた。見出しが目についた。どうでもいいけど、見たこともないぐらい大きな活字を使っていた。他に載せる記事のない日照りのような日だったのかもしれないね。だから、最高にくだらない記事に大きな活字を使って、少しでもスペースをかせぐ。



 卒業試験合格は疑問。クスクス殿下は落第か?


 情報筋によると、ビーカー学園で本日行われる卒業試験において、クスクス殿下が合格点を取るのは非常に難しいとのこと。特に数学がおできにならないので、それが原因で落第することになるのではないかとの観測が流れている。そうなれば、女王陛下がお悲しみになるのはもちろんのこと、わが国の教育制度や教育水準が諸外国から疑問の目を持って眺められるにいたるのは避けがたく…



 僕はフィーンディアを見上げた。僕は、相当不満そうな顔をしていただろうと思う。

「あなたが落第しそうだから、みんな心配しているのですよ」とフィーンディアは言ったけれど、かすかに微笑んでもいた。

「おもしろがっているようにしか見えないけど」僕は新聞をフィーンディアに返した。フィーンディアは受け取って、かさかさと音を立てながらたたんだ。

「朝食にしましょう」フィーンディアが言った。

「うん」僕はベッドからはいだした。

 実をいうと僕も、自分は落第するかもしれないとは思っていた。でも、あまり気にはしていなかったんだ。学校を落第するなんて珍しいことじゃないし、両親ももう死んでいたから、ガミガミ言われる心配もなかった。フィーンディアだってそんなこと、気にしないに違いないし。それに白状すると、女王の従兄弟を落第させるなんてかなり勇気のいることだろうから、あそこの教師たちにそれだけの気概があるか、お手並み拝見という気分でもいたんだ。

 でもそれを、この記事がいっぺんにぶち壊してしまった。僕は突然、落第することがものすごく恥ずかしく思えてきた。数日後、予想通り僕が落第したという記事が、またまた新聞に大きく掲載されてしまうんじゃないかという気がした。

 だから僕は、フィーンディアの手前少し恥ずかしかったのだけど、朝食の席に数学の教科書を持ち込んだ。もちろんフィーンディアはすぐに気がついたけれど、何も言わなかった。

 あの朝なにを食べたかなんて、僕はぜんぜん思い出せない。僕はフィーンディアの顔を見もせずに、微分方程式のとき方を暗記しようとしていた。

 朝食をすませると、フィーンディアはすぐに、オフィスへ仕事をしに行ってしまった。僕は自動車に乗せられて、学校へ連れていかれた。

 あとから聞いた話だけど、あの後しばらくの間、僕は近衛兵たちの笑いものになっていたらしい。なぜって、自動車が走っている間も僕は一度も顔を上げずに、眉にしわを寄せてページをにらんでいたらしいから。学校について自動車から降りて、近衛兵たちに囲まれながら教室へ歩いていく間だって、ずっと教科書に顔をうずめていたらしいから。でも僕は、何も覚えてない。

 その後のことで僕が覚えているのは、試験がすんで王宮へ帰ってきたときのことだ。中庭で自動車を降りて、建物の入口を入ってすぐのところで、僕はスタウに出会った。スタウがあとで言っていたことだけど、あのときの僕の足取りはとても重くとぼとぼとしていて、カバンだって手からすべり落ちてしまいそうだったので、ほっておけなくて話しかけたのだそうだ。

 スタウは、がっしりした身体つきの軍人だ。フィーンディアの直属の部下で、階級は大佐だった。年齢や経歴から言って、とっくに少将になっていていいはずだったけど、本人が辞退し続けていたので、のびのびになっていた。少将は師団を指揮するという不文律がビクセン国軍にはあって、そうなるとスタウも王宮を離れて、どこかの師団の長におさまることになる。でも、「私はフィーンディアさまのおそばを離れたくない」とスタウは言い張っていて、それでもう何年も大佐のままだったが、本人は気にしていないようだった。スタウもフィーンディアと同じデザインの軍服を着ていたけれど、胸の厚さも肩幅もぜんぜん違う。腰につっている銃だって、フィーンディアのようなスマートなリボルバーではなくて、あんまり銃身が太くて長いから、僕の目には機関銃の親戚のように見えた。

「試験はいかがでした?」そのスタウが、王宮の建物を入ってすぐのところで僕に話しかけてきたんだ。

 僕は立ち止まって、振り返ってため息をついた。どんな言葉も出てこなかった。

「おできにならなかったのですか?」スタウは目を丸くしているようだったけど、そんなに驚いているようでもないのが、ちょっとしゃくに触った。

 だから僕は腹が立って、そのまま無視して歩いていってやろうかと思ったのだけど、スタウがこういったので、また振り返った。

「フィーンディアさまは、さきほどビーカー学園へお出かけになりました」

 僕には意味がわからなかった。「何をしに?」

 スタウは、ゆっくりと首を横に振った。「さあ、私にもわかりません」

 スタウと別れて、僕は七階の自分の部屋へ行った。カバンは机の上に放り出してしまって、もう手を触れる気もしなかった。そのまま机の前に座ってぐずぐず考えごとをしていたのだけど、一時間ぐらいして、とうとうフィーンディアが帰ってきた。すぐに僕の部屋へやってきた。

 フィーンディアの表情からは、何も読み取ることができなかった。いつものように落ち着いたフィーンディアだ。どこか茶目っ気があるが、でもフィーンディアが何を考えているのか、僕には見当もつかなかった。

「何をしに学校へ行ったの?」立ち上がって、僕は話しかけた。

「校長と少し話をしてきました」フィーンディアは答えた。いつもと同じように穏やかでやさしい表情だ。

「話?」僕は、ちょっと不安になってきた。きっと校長とフィーンディアは、僕のみじめな成績のこと話し合ったのだろうから。僕の答案用紙を眺めて、大きな声でさんざん笑ったのかもしれない。

 フィーンディアは僕の手を引いてそばの長イスに座らせ、自分も同じように腰かけた。フィーンディアは僕のひざに、軽く手を置いた。「校長は、あなたが卒業してくれることをあなた以上に望んでいましたよ」

 それは、僕にはとても意外に聞こえた。教師たちって、子供を学問や試験問題にしばりつけて、締め上げたりいじめたりするのが好きなんだと僕は思っていたから。だから教師たちは、生徒が悪い成績を取ると、とてもうれしそうに舌なめずりをするじゃないか。

「どうして?」

 僕にはフィーンディアが言っている意味がわからなかったから、こんなセリフしか出てこなかった。フィーンディアがにっこりした。

「点数は少し足りませんが、校長は目をつぶってくれるそうです」

「えっ?」僕は、よけいに意味がわからなくなった。どうひいき目に見たって、僕の答案は点数が取れるようなものじゃない。白紙とは言わないけど。

 フィーンディアはもう一度微笑んだ。「あなたは合格したのですよ。おめでとう。今夜はお祝いをしましょう」

 僕にはやっぱり理解できなかった。僕の成績が悪いのを見逃してくれるって? あの怒ったアナグマみたいな顔をした女校長がよく承知してくれたもんだと思ったけれど、本当の意味には気がつかなかった。それを知ったのは、もっと後のことだった。


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