第十八話 濡れぬ先の傘
七月も終わりに近づき、真夏がすぐそこまできている。
夕方になっても元気な太陽を睨みながら、汗でべたべたになった甚平に風を送り込むようにパタパタと仰いでいたとき。
プツンッ
「あっ」
巡回の任務の帰り、隼とともに名古屋城に向かっているとき、首元に違和感を覚えた。
「早いな」
隼が落ちそうだった御守りをつかんだ。
まだ、この御守りはつけてから一か月も経っていない。
赤い渦を巻く黒い御守りをじっと見つめる隼に、日向はお礼を言いながら手を伸ばす。
しかし、隼は御守りを離さない。
「なあ、残り、いくつだ?」
日向は苦笑いを浮かべる。
「もうないんだ」
隼は御守りに視線を落として、何かを考えるように黙りこくった。
「……隼?」
御守りをぐっと握って、日向を見る眼は、いつもと違った。
何かを決意したような、そんな眼だった。
「どうしたの?」
「今夜、時間あるか?」
「え? あるよ?」
このあとは、夕食をとって風呂に入って寝るだけだ。
今日の午前に、戦学の夏季の終業式があったばかりだ。
明日の予定も午後からの任務だけ。
「風呂終わったら部屋に来てくれ」
「分かったよ、今日は何する? 囲碁? 花札?」
かなり頻繫に隼の部屋に遊びに行って、寝落ちを繰り返している日向は目を輝かせた。
隼は同居人と違って、いつも構ってくれるのだ。
「とりあえず来てくれ」
「了解! じゃあ、あとで」
寮で別れ、部屋に戻る。
御守りは、返してくれなかった。
「たーだいま!」
珍しく、楓が部屋にいた。
「うわ! 久しぶり!」
最近、楓は忙しいようで任務の巡回も一緒に回れていない。
部屋ですら会えてなかった。
「楓に会うの何日ぶりだろ、同じ部屋に住んでるのに」
楓の横にちょこんと座って机の資料を覗き込む。
重要な書類は、盗聴防止部屋で扱うから、覗いても怒られない資料なのだろう。
「ん? これ履歴書?」
五番隊は、いま五分の三の三〇人態勢で動いている。
一か月前の国境付近で起きた戦いの重傷者がまだ戻って来れていないのだ。
「新しく入ってくる人?」
二〇人分の履歴書が重なっている。
楓はそれぞれの隊員のための様々な申請書を作成しているようだ。
「ぼくに後輩ができるんだ」
わくわくしてくる。
名隊はいま、隊員の再強化を図るために色々な訓練が行われている。
五番隊も同じで、個人の戦闘力を伸ばしたり、全体訓練を行ったり、日に日に進化している。
楓は黙々と手を動かしている。
部屋にいても汗をかくくらいには、暑い。
それなのに楓は汗一つかいていない。
「楓、ちゃんと寝てる?」
楓の顔を覗き込む。眼の下のくまが、数日前に沖奈の研究室で会ったときよりひどくなっている。
「うるさい、暑いわ、離れ――」
やっとこっちを見た楓が目を見開いた。
「あんさん……ほんまにいまは軽率な行動はやめろ」
楓の眼が厳しくなる。
「ん?」
何を言っているのか分からず、小首をかしげる。
そのしぐさに苛立ったのか、楓が上体の向きを少しだけ変えて、日向に向き合った。
これは、少しだけ話すときの体勢だ。
「その首……柴波さんやろ」
「首? ああ、そうだよ?」
御守りの外れた首は、心なしか涼しく感じる。
首元に手を当てると、歯形の痕がすぐにわかる。
傷の治りが遅くなってるいま、数日経っても首元の痕も全く消えてくれない。
鏡を見るたびにいたたまれなくなる。
「以前、泊まったと沖奈から聞いた。なんでわたしに言わなかった?」
日向は目をそらす。
完全に忘れていたんだ。
だって、楓とは最近全然会えてなかったし。
「日向」
視線を戻すと、楓の桜銀色の眼がまっすぐ自分を見つめていた。
「あんさんは、何を考えてんのや」
冷たい眼だった。なにかを警戒するような、非難するような眼だった。
「え、何を考えてるって、とくに、なにも?」
ただちょっと、楓に隠し事をしてるだけ。
「日向」
咎めるような鋭い声に、日向は口をとがらせた。
「だって、楓とは全然会えないし、この前なんか、三日間、通信もできなかったじゃん」
楓は、保護者として日向の体調を知っていたいと言ってくれた。気にかけてくれていた。
忙しいのだって、わかる。
でも、楓はあくまで厚い壁の先にいて、たまに窓を覗いてこちらを見ているだけなんだ。
「別に、毎日一緒にご飯食べたい、とかそこまでは言わないよ、したいけど。でも、盗聴部屋にずっといて、通信機すら繋がらない楓に、毎回報告なんかしても意味ないと思っちゃうんだ」
わがままなのは知ってる。
楓は保護者だ、報告される義務も、それを聞く義務もある。
日向は下唇を噛んだ。
楓は無表情のままだ。こんなに暑い日照りが続くのに、会った時と同じ白い肌をしている。
「それに……ぼくは、楓から大事なこと聞いてないよ」
日向は楓を睨む。
「ねえ、いまのぼくの命は、だれが握ってるの?」
楓の眼が少しだけ広がって、すぐに細められた。
「……柴波さんですか」
ため息まじりに、持っていたペンを机の上に置くと、楓は足を動かして日向に正対した。
これはしっかりと話すときの体勢。
「楓は、もうぼくの保護者じゃないの?」
静かな目で見つめられる。
数日前に、柴波に歯形をつけられる前、柴波は「桜屋敷から聞いてないのか」と言った。
柴波の所存では殺せないと言った。
時間は進む。人の心も身体も変わる。
状況も変わらないわけがない。
「詳しい説明はなかったが、あんさんの処罰の最終決定権が、わたしから首相の織田に変わった」
「え?」
首相? 織田さん? あの?
「そして、あんさんへの警戒態勢が最大の“最上”になった。来月から、訓練と任務、研究時は必ずわたしが付き添うになった。あんさんのほぼ全てを監視して報告する義務が生まれたんや」
突然の言葉に、頭が追いつかない。
「なんで?」
「上がそう判断したから、そうなった。わたしは気分であんさんを処することができひんくなった、それだけや」
楓の無表情に、どこか影がさす。
なんで? 突然、首相がわたしの処罰の最終決定者になったの?
一か月前の国境戦で暴走したから?
ぽかんと、口を開けた日向は、容量のあまりない頭で考える。
「えっと、それで、これから何が変わるかっていうと……一個は、ぼくは首相の気分が変わるまで誰かに殺されることはないことと、もう一個は、楓がもっとぼくに構ってくれるってことかな」
指を折りながら確認すると、楓は半目になって机に片頬杖をついた。
「もう、それでええわ」
「なんだ、良いことじゃん」
楓の無表情に呆れが追加される。
「ぼく、何かすることある?」
「とにかく些細なことでも報告して、あとは大人しくしとけ」
そう言って、チラッと首元を見て眉を寄せた。
「それから、回復薬を飲んどけ、それは気分悪い」
机に向き直りながら、横目で日向を見る。
「柴波さんに言っとけ、もう充分牽制できとるから、悪趣味な戯れはやめとけって」
「牽制?」
「もうええわ、話しは終わりや、さっさと風呂入ってきぃ」
しっしっと手を振られ、日向は立ち上がった。
「楓、教えてくれてありがとね、来月から楽しみにしてる! お仕事頑張って!」
元気よく部屋から出ていく日向に、楓は大きくため息をこぼした。
「何がええんや、あんさん、何に利用されるんか分かんのやぞ」
来月から日向に付きっきりにならなくてはならない楓は、今月中に片づけなくてはならない仕事の量を思い出し、もう一度大きくため息をついた。
「ほんま、面倒くさいわ」




