拠り所の在処
どこからか女性の声が聴こえる。
「……○○…○○○○○………私の○○○○○。こちらへいらっしゃい」
これは……誰かを呼んでいる?
おそらく名前だろうが、そこだけはっきりと聞こえない。
「○○○○○……大丈夫、怖くないわ」
ぼんやりと聴こえてくる声の者の姿が目に映る。長いウェーブ状の赤黒い髪。人間とあまり変わらない体格。背中にあるのは翼。
本当にぼんやりとしていてその顔が分からない。
その時、何かが横を通りすぎた。後ろ姿を確認しようにもこれまたはっきりとしていない。女性の声の主よりも小さいソレは女性に歩み寄っていく。
(あれは………自分……?)
カッ!!
確認する間もなく目の前が真っ赤になりその光景が遮断された。
◆◆◆◆◆
「なんて事してくれてんのよこのバカァ!」
「痛っ……!」
リーチェは頭を掴まれ地面に叩きつけられた。かなりの衝撃に視界がグラグラする。
なおも強く頭を押し付けるナターシャは本気で激怒している。
「これじゃあメイヴィスが起きちゃうじゃない!」
「ッ……フフッ………これが世界の理…なんでしょ……」
挑発という名の事実でリーチェは強がる。ナターシャの怒りは頂点に達した。
「もう本当に許さない! だったらメイヴィスが起きる前にあんたを殺してやる!」
「…ッ………ぁ…ぁああ!」
メイヴィスを押さえつける程の力がある婬魔がリーチェを襲う。その痛みに彼女は声をあげる。
彼女はナターシャの気持ちをだいたい予想はできた。怒りに任せてリーチェを殺すことは世界の理、その後メイヴィスが目を覚ましリーチェを見ることで怒るのか悲しむのか。たとえ怒ってナターシャを殺してしまっても、絶望して無気力になってもナターシャはどちらも本望なのだろう。
だからナターシャにとってリーチェという存在は自分をのしあげるための道具にしか思っていないということだ。
(…ッ………メイヴィス……どうかメイヴィス……生きて。それから絶望だけはしないで……)
ギラッ!
ナターシャの鋭い爪がリーチェの腹を狙う。
「さよならリーチェ、死になさい!」
腹を貫く勢いの腕が直前で止まっていた。ナターシャの腕をリーチェではない者が掴んでいるから。
「っ! メイヴィス様っ………うっ!」
異変に気づいたナターシャは腹を押され壁まで吹き飛ばされた。地面に尻もち顔を上げる。
「申し訳ございませんお嬢様。またしても自分は…」
「ううん、良いの。メイヴィスが無事だっただけで」
リーチェを強く抱き締めるメイヴィスに彼女も抱き締めた。そんなリーチェの目には涙がたまっていた。
「………」
二人の姿を目の当たりにしナターシャは頭を下げた。
「大丈夫なのメイヴィス?」
「何が……でしょう?」
「体の具合とか……」
(っ! 確かに……この感覚は…)
「はい……問題ない……ようです」
メイヴィス自身 身体の異変に言われて気がついた。吸血鬼としての本能、それが体中を巡っている。あの時の冷酷なメイヴィスではない。いや、暴走というべきだろうか。
だか今は感覚が研ぎ澄まされているし、冷静にもなれている。
「さて、どうしますかナターシャ。今ので腰にあるその珠のようなものを破壊させてもらいました」
顔を上げないナターシャの前に服を着直したメイヴィスは立つ。彼の後ろに隠れてリーチェが様子を伺う。
「……負けよ……あたしの負けよ………もう…どうでもいいわ」
腰につける『霊呪の珠』が破壊されたのをチラリと確認し、力失く降伏を選んだ。
「さっきので思い知らされたわ……あたしじゃリーチェの代わりには成れないって……」
「代わり?」
「拠り所よ。あたしは今まで良い思いをしてきたことは一度も無かった。産まれながらにして孤児、いじめ、差別……力の無いあたしは努力した。見返すために」
白状するのは同情されてもいいから。ナターシャは今までの全てを投げ出し擁護を求めている。
「婬魔だったのが唯一の幸運かこの町でこの仕事を見つけた。そこではあたしがジュリアンヌをはぶくと実力が一番だった。努力が報われた気がした。だけどそれは一時的な自己満足。結局はジュリアンヌに使わされるだけの道具だった。それは他の奴もそうだろうけどあたしは道具として使うだけジュリアンヌが嫌い」
顔を上げてリーチェを羨ましそうに見つめる。
「そこに現れたのがリーチェ、あんたよ。何をしてもダメ、怒られるだけの役立たず。そんなあんたにあたしは日頃の不満をぶつけるイイ相手だった」
「っ………」
リーチェは下唇を噛み眉をひそめ体を縮こませる。だが、ナターシャは本音で話しているのだからきつくても我慢して聞いている。
「それなのにあんたはここに居続けた。あたしならすぐに逃げ出す。それはなんでって思い始めた時に……メイヴィス様が居たことを知った。きっとそれが拠り所だったのね。あたしは羨ましいと思った、嫉妬した、欲しくなった。メイヴィス様が居ればあたしは安心出来る……そう思った」
「だからこんなことを……」
「でもメイヴィス様も少しは悪いのよ」
「はい?」
ナターシャは顔を火照らせ指を唇に持っていく。
「あんなに強く押し付けられたら濡れちゃうじゃない///」
「………?」
(意味が分からない……)
「り、理解しようとしなくていいからねメイヴィス///」
鈍感なメイヴィスをナターシャの言っている意味を理解できない。リーチェも頬を赤くしてメイヴィスを止める。
「でもまあ、あたしがリーチェと代わってもメイヴィス様はああいう顔はしないって、さっきので分かったから……」
「ナターシャさん……」
「あ、でも代わっても良いならすぐにでも代わるわよ♪」
「もう!!」
ナターシャを憐れむ心や想いはリーチェに届き、心配をかけるが一瞬で貶された。
間を開け、リーチェはメイヴィスに提案した。
「ねえメイヴィス」
「はいなんでしょう」
「ナターシャさんを許してあげれないかな? だってナターシャさんは私と似てる。でもナターシャさんの方が私よりすごいから」
「別にすごくなんてないわ」
「いやすごいです。努力して今では店一番の実力なんだから私なんかよりすごい」
「リーチェ……」
リーチェはひどい事をされながらも、もうナターシャを許し、さらには尊敬までしている。こんな魔族の方がよっぽど珍しいだろう。
「お嬢様……努力は誰でも出来るものですよ」
「うん」
「これでお嬢様も婬魔として強くなれることが証明されましたね」
「うぐ! そ、そうだねー」
現実を突きつけられリーチェは泣きじゃくっていたのを思い出した。
「分かりました。お嬢様がおっしゃるのであれば、ナターシャを許しましょう。元より自分はナターシャに怒る理由は無いんですがね」
「メイヴィス……」
「メイヴィス様ああぁぁぁあ!」
メイヴィスは語るやいなやナターシャに抱きつかれた。
「ちょ! ナターシャさん!」
「やっぱりあたしにはメイヴィス様しか必要ないのかも♪」
「そういうのを許した訳じゃ無いからねナターシャさん!」
メイヴィスにしがみつくナターシャをリーチェは剥がそうとする。
そんな様子からメイヴィスは一件落着したとため息をついた。
◆◆◆
ナターシャの部屋から出るとメイヴィスの鼻は異様な匂いを捉え立ち止まった。リーチェは彼の顔を伺う。
「メイヴィス?」
「血の匂いがします」
「そう? あたしは婬魔のくっさい煙の匂いしか分かんないけど」
メイヴィスは駆け出し、二人も後を追いかけると衝撃の光景を目の当たりにするかとになった。
「ジュリアンヌ様! うっ!」
「なによこれ…」
そこには鋭い何かで引き裂かれ、辺りが血の海になっているジュリアンヌの姿があった。ひどい有り様の彼女をメイヴィスが脈を取る。
「大丈夫です。まだ息はあります」
「だったら一体誰が?」
ナターシャは周りを見渡すと入口付近にある受付用の机から飛び出してくる何かを目で捉えた。
「リーチェ!」
「きゃ! ……ぇ…」
「ウソでしょ……なんであんたが……」
その者からリーチェを守り、ジュリアンヌを襲った者の姿がはっきりする。その正体は三人ともよく知る人物だった。
「なん…で………ブランドル……」
返り血を浴び、目に輝きの無いブランドルがそこには居た。