忘れる
凍りついた時間は再び動き出す。
「え……ま、まってください! クビってどういうことですかナターシャさん?」
リーチェは隠れることも忘れて慌てふためく。
「そのまんまの意味よ。理解出来ない?」
完全に下の存在を見る目でナターシャは首をあざとく傾げた。そんな彼女を目の前にしてリーチェは更に絶望する。
「じゃ、じゃあ私も?」
ブランドルも不安そうに自分を指差す。しかしナターシャは首を横に振った。
「あんたもよくリーチェと一緒に居たり、怒られてたら庇ったりしてるけど大丈夫よ。これから仕事も入ってるし」
「どうしてリーチェだけなんですか?」
「また庇うの? どうせそんな雑魚と居たって時間の無駄よ、無駄。それにクビになってむしろ良かったんじゃない? だって陰口聴かなくて済むもの」
「っっ!!」「お嬢様!」
ナターシャは手をシッシと仕草をするとリーチェは家に閉じ籠ってしまった。その後をメイヴィスがすぐに追いかけて行き、婬魔が二人残った。
「な……何てこと言うのよ! リーチェはあの子なりに頑張っているのよ! 私はそれを無駄だなんて一切思ったこと無―――」
「あーーはいはいそーゆーのはいいから。事実なものは事実だしぃ。それにちゃんと伝言は伝えたから。じゃ、仕事遅れるんじゃないわよ」
「ま、待ちなさい!」
怒りを現すブランドルを軽く貶したナターシャは暗闇に姿を消していった。
◆◆◆
「お嬢様! お止めください!」
「やだ離して! もう死ぬ! 死んでやる!!」
「………っ」
ブランドルが家中に戻ると、手に包丁を持ったリーチェとそれを抑えるメイヴィスの光景を見た。
リーチェはここ最近で絶望を味わい過ぎた。その重圧に耐えられなくなり自害しようとしている。
「くっ………お許しください」
「もうやだあぁっっ………?!」
ドッ!
止まらないリーチェをメイヴィスは手刀でうなじを叩き力ずく気を失わさせた。カランと包丁が手から落ちる。
彼はそのままリーチェをソファーまで運び ひと息ついた。横になる彼女の隣へブランドルが駆け寄った。
「ごめんなさい、ナターシャを呼び止められなかった……」
「いいのです。どちらにせよ今はクビという事実は変えられませんので」
ブランドルは目に涙を浮かべてリーチェを撫でる。
「ちょっと今から酷いこと言うけど怒らないでね。私がリーチェと一緒に居るのは、本当は私をのし上げるためだったの」
彼女の語りだすことにメイヴィスは静かに「はい」と答えて続きを聞く。
「こんな世界で生き残るにはどんな手を使ってでもしないと無理だから。……私は………リーチェを…踏み台にしようと………」
溜まった涙が頬にこぼれる。話すたびに彼女は自分の胸を苦しめていく。
「私は最低な奴よ………」
「でも今は違うのですね」
「…………ええ」
「そうでなかったらあんな風に怒れませんし、今も泣いてないはずです」
「…そう……ね……」
言いたいことを言うメイヴィスの言葉に彼女は涙を拭いた。本当は自分が言いたい言葉だったが、彼の口から聞いたことによって、ブランドル自身が勇気を貰えた。
「さて、自分はすこし留守にしようと思うのですがブランドルはどうしますか?」
メイヴィスは重い腰を簡単に上げて立ち上がる。ついでにリーチェが暴れた時に乱れた服を正した。
「……! ちょうど私もこれから仕事があるのよ」
ブランドルは行動しようとする彼を見て元気に立ち上がった。
「理由は大体想像できますが一応ジュリアンヌさんに聞いてみましょう」
「ええ! あ、ちょっと待って、着替えて来るから」
ブランドルは未だタオル一枚巻いていただけだった。
着替えを待つ間メイヴィスは目を開けないリーチェにボソッと言った。
「お嬢様、少しの間お留守番お願いします」
◇◇◇
「伝言、言ってきたわよ」
婬魔の店の暗い部屋でナターシャはジュリアンヌに報告していた。彼女は先ほどメイヴィスと一緒の時の顔ではなく、ツンとした表情だった。
ジュリアンヌは椅子ではなくベッドから声をだす。
「そうかい、リーチェは?」
「閉じ籠っちゃった」
「やはりそうなったか。だから軟弱者なんだよリーチェは」
リーチェに心底呆れるジュリアンヌ。ナターシャは疑問をぶつけた。
「聞いてもいいジュリアンヌさん?」
「わざわざの伝言の意味かい? この後の展開を考えてみ。お前なら分かるだろう」
意味を理解しツンとした表情から一変、ナターシャはメイヴィスに見せたあの顔になる。
「あぁ~なるほど~。二人の距離を離すんだねぇ。でも勝算なんてあんの?」
「それを今から伝える。他の者も呼びな」
「は~い♪」
普段は嫌いなはずの上司の命令を今だけは楽しく聞けたナターシャだった。部屋を出ていく後ろ姿を見届けた後、その上司はベッドの中でも分かるくらいに嗤った。
◆◆◆
「二日続けて来るのはすごく久しぶりなんですよね」
「そうなの? 買い物とかで来たりしてないの?」
「婬魔の店にですよ」
「あぁそっちか」
メイヴィスとブランドルはそんな会話をしつつ夜の町へと足を運んでいた。ブランドルはいつもの婬魔の姿に着替えている。
「ねえ、私ナターシャさんの言い分も分かる気がするの、陰口を聴かなくて済むならリーチェはそっちの方が良いんじゃないかって……」
町の道中でブランドルはふと足を止める。メイヴィスも止まって振り返える。
「確かに……そう考えればお嬢様は少しは楽になれるでしょう。しかし、逃げてばかりでいてほしくないのです。つらいでしょうが向き合った方が強くなれるのと思うのです」
彼の言葉にブランドルは気づかされる。ただただリーチェのお世話をしているのだけではない。リーチェの将来のことも考えてのことなのだと。
「仕事が失くなれば楽にはなれます。ですが時間が経てばポッカリと穴が空いたような空虚感になるだけです。忘れる辛さはよく分かります。ですから――」
自分の経験談をリーチェに重ねる。
「お嬢様には『忘れる』を覚えてほしくないんです」
忘れることは苦しみから遠ざかっているようで本当は逃げられていない。必ず何処かに見えない鎖として体に縛り付いている。
今まさにメイヴィスは苦しんでいる。正体を知っているはずなのに忘れているから。
これは記憶の無い彼だからこそ言える『忘れる』は彼自身を動かす原動力に十分になり得ていた。
「ごめんなさい、野暮だったわね」
「いえ」
ブランドルは余計な事を言ってしまったと詫びて再び足を進めた。
二人は店の前に着いた。相変わらず明かりでチカチカしている。
「メイヴィスは先に行ってて」
「わかりました」
仕事に取りかかる準備のため、ブランドルはメイヴィスと別れた。
一人になり彼女は早歩きで準備室へと向かった。
一階の左右にある準備室に入る。ブランドルは用意をしていると部屋の明かりが突然消え真っ暗になった。
「え? ……何? ………むぐっ…………!」
突然の消灯に目が慣れず彼女は壁に手をあてると、背後から何者かに襲われた。口を布で抑えられ息が苦しくなる。さらに布から甘い香りがして意識が遠退いていく。
(メ、メイヴィス!…………リー…チェ……)
意識が朦朧とする中、ブランドルは意識を失った。
◇◇◇
昨日と同じように扉を近くの婬魔が開け中へと入る。ここもまた煙で充満しているのは変わらない。ただ前回と違うのは明かり一つも無いということだ。
メイヴィスは周りを軽く見渡す。背後の扉を閉められ、暗闇で目が慣れないところへ部屋の奥から声だけが聞こえる。
「やっぱり来たねメイヴィス。理由はリーチェのクビの取り消しだろう?」
ジュリアンヌの声が響く。煙の影響か耳元で言われている気がしてならないが、彼は答える。
「でしたら話しが早いですね。自分はそのお願いに来たのです」
「なら態度で示してもらおうか。相手はこの店のオーナーだよ」
(態度……)
彼はそう聞いて素直に従う。右膝、次に左膝の順で地面につける。両手を続けて地面に着け、その瞬間……
「今だ!」
ドシイイイン!!
突如としてメイヴィスの背中が重くなり、耐えられず崩れた。
「ぐ………」
ボッとランプに火がつけられ周りの状況を確認出来るようになる。
メイヴィスの上には数名の婬魔達が乗って彼を拘束しており、目の前ではジュリアンヌが口が裂けそうなくらい口角を上げていた。