二章(1)
「おめでとう」
伯爵邸の庭に置かれたパラソルの下。その言葉はシェーラの口から零れ落ちると、空虚な響きを残し、消える。声が震えてしまわないか、少しだけ心配だった。
だけどユリアナは気づくことなく――もしかしたら気づいていないフリなのかもしれないけど――、にっこりと嬉しそうに笑った。
「ありがとう。シェーラのおかげよ」
そう。シェーラが協力したから、ユリアナは望み通りイアンと婚約することができた。その事実に胸が苦しくなる。……どうしてだかは、分からない。分かりたくない。だって、ちゃんと決めたんだもの。
シェーラは小さく頭を振った。それはユリアナの言葉に対する返事のつもりだったけれど、ただ単にこの思いを振り払いたいだけだったのかもしれない。そんなことも判断がつかないほど、シェーラの心はぐらついていた。
そんなシェーラに、「だけどね……」とユリアナは言う。
「この展開は正直予想してなかったわ。この『乙女ゲーム』の『エンディング』――つまり最後は、王太子殿下かイアン様と婚約するところで終わるのよ。こんなに早く婚約するなんて、『ゲーム』にはなかった展開だわ」
その言葉に、シェーラは目を見開く。
「そうだったの?」
「そうなのよ。願ってもいないことだから婚約したけど……正直、ちょっと不安だわ」
ユリアナはドレスの上から二の腕をさする。きゅ、と眉根が寄せられ、顔は僅かに青白かった。不安なのだろう。今まで明確に見えていた未来が、突如揺らぎ始めたのだから。
シェーラは何か声をかけようとして、……やめた。結局、シェーラとユリアナは違う。シェーラに見えないものを、ユリアナは見ている。だからユリアナの抱える不安なんてよく分からなくて、……なんと声をかければいいのかも、分からなかった。
……沈黙が庭に降りる。木の葉や草の擦れる音が響く中、どこからか、コロコロと鳥の鳴き声が聞こえた。それに背中を押されるように、「シェーラ」とユリアナは笑顔を浮かべ、呼びかける。
「たとえちょっと『乙女ゲーム』の内容と変わったとしても、それほど大きく変わることはないはずだもの。きっと大丈夫よ。……それより、イアン様は私にそれほど興味がないようなの。あちらから婚約を申し出されたんだけどね。だからお互い、相手に好意を持ってもらうために頑張りましょう」
「――うん、そうだね」
努めて明るい声で返事をすると、シェーラは机に置かれたティーカップを手に取った。ゆっくりと口に含み、嚥下し、喉を潤す。波立つ心を鎮めて、シェーラはユリアナを見た。……もう、大丈夫。
そのとき、ユリアナが「あ、」と声を出した。
「そうよ、シェーラ、あのね……」
ユリアナはポケットを探り、出してきたのは以前、ユリアナとイアンの婚約が決まる前のお茶会で、彼女が見せてきた香水瓶だった。鳥と、鳥かごと、蔦の。それをシェーラの方に差し出し、ユリアナは笑う。
「はい、あげる」
突然のことに、シェーラは僅かに呆然とし、目をぱちくりさせた。だけどそれも少しの間だけで、すぐに我を取り戻すと、「え、あ、いや……」と小さな、困惑した声を漏らす。
「えっと……貰うなんて話したっけ?」
「してないけど……ほら貰って。――ああ、私は大丈夫よ。ちゃんと家に予備があるから。ね?」
ユリアナはぐいぐい、と香水瓶をシェーラに近づける。シェーラは自分が話をしたことを忘れていなかったことに安堵しながらも、それならば何故ユリアナが香水瓶を渡そうとしてくるのか分からなくて、混乱していた。あたふたとしている間にもユリアナは更に香水瓶を押しやる。
「ああ、もう!」とシェーラはたまらずに叫んだ。
「ユリアナ、あなた一体どうしたの? 急に渡してくるなんて。理由を言って」
すると、ユリアナはあからさまに視線を泳がせた。何か言いづらい理由があるよう。それでも、理由を知らないまま香水瓶を押しつけられる理由にはならない。
……シェーラがじっと見つめていると、観念したのか、ユリアナがはぁ、とため息をついて、手を引っ込める。「笑わないでよ?」と言われたので頷くと、ゆっくりと口を開いた。
「あのね……もうすぐ、社交界デビューじゃない?」
「――うん、そうね」
少しだけ手に力がこもる。爪が僅かに皮膚にくい込んだ。……本当に痛いのは、手か、胸か、どっちだろう?
ユリアナは続ける。
「だからね、その……ちょっと不安だったのよ。シェーラは王太子殿下の婚約者になるから、……他の、もっと高位の令嬢方とばっかり関わって、もう、私と会ってくれなくなるんじゃって……」
話しながら、ユリアナの視線が少しずつ下がっていく。眉の端も下げ、不安そうにシェーラを上目遣いで見た。
そんなユリアナの様子に、シェーラはくすりと笑う。するりと言葉が零れ落ちた。
「大丈夫よ。私にとって、あなたは特別だもの。どうしてだかは分からないけれど――初めて会ったときから、私はユリアナに惹かれていた。むしろ捨てられるのは私の方じゃない?」
「そんなことないわよ!」
ダンッと音を立ててユリアナはテーブルに手をつき、その場で立ち上がった。椅子がガタ、と下がる。彼女の瞳には苛烈な色が輝いており、眉を若干つり上がっていた。
だけどしばらくすると表情を歪め、切なく、悲しげな瞳をシェーラに向けた。
「そんなこと、ない。だって、シェーラは私の初めての友達よ? そんなことするわけ、ないじゃない……」
「――そうね。冗談よ」
「もう」
ユリアナは笑う。だけど、その笑みはどこかぎこちなかった。それはきっと、シェーラも同じ。
……気まずい空気が流れる。居心地が悪くて、少し体を揺らした。
そのとき、またコロコロと鳥の鳴き声が降ってきた。
「――シェーラ、受け取って」
再び香水瓶を差し出され、シェーラは躊躇った。
「でも……」
「私が受け取って欲しいのよ。私にとっても、あなたは特別なんだもの」
そう言って、ユリアナは満面の笑みを浮かべる。彼女につられて、シェーラも口元を綻ばせた。「ありがとう」と言って、香水瓶を受け取る。すると、ユリアナからふわりと甘い香りが漂ってきた。今手に持っている香水瓶の中身と同じ香りだと思うと、自然と笑みが深まる。
「ありがとう。普段使いさせてもらうわ。……お揃いだね」
「そうね。こちらこそありがとう」
「なんでユリアナがお礼を言うのよ」
くすくすとシェーラは笑った。するとユリアナもにっこりと笑顔を浮かべる。
「秘密」