一章(5)
イアン視点
シェーラが最近変わった。そう、イアンは思う。あまり目を合わせてくれなくなった。心の底から笑うことがなくなった。どこか危うい雰囲気を醸し出すようになった。そして何より――。
イアンは懐に入れていた封筒を取り出した。シェーラから王太子へ向けての手紙。愛する人から自らの主への恋文。顔が歪むのが嫌でも分かった。
ふぅ、と息をつき、背もたれに体を預け、腕で目元を隠した。ぐるぐるといろんな感情が渦巻く。嫉妬、後悔、悲しみ……。それ以外にも、言葉で定義できない感情がたくさん。
(本当、何やってるんだろ……)
――何もやっていない。だからこうなっている。……情けなくてしょうがなかった。
シェーラは、特に王太子本人に興味があるようには思えなかった。ただ王太子妃になって、家に貢献したかっただけ。だから王太子との婚約が決まって喜んでいるんだと、そう思っていた。
なのに――。イアンは腕を離し、封筒を眺める。シェーラは王太子に近づこうとしている。この封筒が何よりの証拠だった。
はぁ、とため息をつくと、封筒をテーブルの上に置いた。何もかもを投げ出してしまいたいけれど、そんなことは許されなかった。自分のためにも、主のためにも、――愛する人のためにも。
王太子はシェーラを利用するつもりだ。具体的なことは分からないけれど、それは確実。もし、殿下がシェーラを切り捨てろと言ったとき、私は殿下に従うのだろうか。それとも――。
イアンは椅子から立ち上がると、少しだけ移動して、窓に体を預ける。コツ、と音が鳴った。月に照らされた庭では、美しい花々が揺れていた。
△▼△
「殿下、こちらを。返事はいらないとのことです」
翌朝、イアンは王太子の執務室に赴くと、主に封筒を渡した。王太子は受け取ったあと、差出人の名前を見て興味を失ったようにそこらに置く。彼にとって、シェーラはその程度の存在なのだろう。多くの執務よりも優先度が低く、利用するだけの存在。そのことに、少しだけ苛立ちが湧き上がる。自分から愛する人を奪っておきながら、そんな扱いをするのが許せなかった。
だけどその感情を抑え、「失礼します」と言って部屋を出ようとしたときだった。
「待て」
王太子に止められ、イアンは部屋の扉から手を離す。主の前まで行くと「何でしょう?」と尋ねた。だけど、王太子は険しい面持ちで何やら考えこんでおり、話し出す様子はない。……あまり時間はないのだが。
イアンは正式には王太子の部下ではない。他の部署に所属していて、個人的に王太子と交友関係を築いているだけだから、別の場所で仕事が待っているし、来るのが遅くなれば上司に怒られる。彼は王太子と敵対している宰相の派閥に属するため、王太子のせいなど言えばこれみよがしに嫌味を言われるのは明らかだった。
……時間が経つ。王太子はずっと考えこんでいて、時折口を開くも、何も言わずに閉じる。それを何度か繰り返して、イアンはたまらず告げた。
「――殿下、そろそろ」
「……ああ、そうだな」
王太子はそう答えると、はぁ、と諦めたように息をついた。そして鋭い瞳でイアンを射抜く。何か、覚悟を決めたようだった。
ゴクリ、と無意識のうちに唾を飲みこむ。鼓動が僅かに早まった。
「――おまえの妹、近頃親しくしている令嬢がいるそうだな」
「そのようです」
イアンは頷く。一度会ったあと、翌日すぐに家に招いたのだと侍女から報告を受けた。しかも、すぐに二人きりで部屋にこもったらしいとも。
そのことを聞いた時、珍しいな、とイアンは思った。シェーラは貴族としてちゃんとした教育を受けているため、初対面の人をすぐに信用する性格ではない。そんな彼女が一度会っただけで侍女を追い出し、二人きりになるのは、かなり珍しかった。
イアンの言葉に、王太子はふっ、と吐息をつく。感情の見えない表情で告げた。
「名前は、ユリアナ・イシュタール子爵令嬢。イシュタール子爵は、こちら側の人間だ。なのに、俺の許可なく勝手に宰相派のアルハイム伯爵令嬢に近づいた」
王太子は机に肘をつき、手で口元を覆った。鋭く、冷たい瞳に、イアンの心臓が不気味に跳ねる。……嫌な予感がした。
「――イシュタール子爵令嬢と婚約を結び、目的を調べろ」
「待ってください!」
たまらずイアンは声をあげた。
「何も、婚約を結ばなくとも……」
「命令だ」
冷淡に王太子は言い放ち、ペンを手に取った。これ以上は相手にしないという合図だ。分かっている。だけど、こらえきれない。
「殿下! 私は……!」
「失礼しまーす。お手伝いにやってきましたー……ってイアン様? どうかなさったのですか? もう仕事始まりますけど……」
そう、純粋無垢な瞳で尋ねるルイスに、いっそう苛立ちが積もる。仕事なんてどうでもいい。それよりもこっちの方が重大だ。
イアンはギリ、と唇を噛み締め、王太子を見る。王太子はイアンの視線などものともせず、ルイスに言った。
「ルイス、少し頼みたいことがあるんだが――」
「殿下!」
イアンの大声が部屋に響く。痛みを孕んだ怒声だった。
だけどイアンの感情を気にすることなく、王太子は言い放つ。
「命令だと言っただろう? それとも、おまえは俺と敵対したいのか?」
ゾッとするほど低く、冷たい声だった。イアンは小さく頭を振る。――そんなことあるわけない。だって、イアンは自ら父の所属する宰相陣営を裏切り、王太子の元についたのだ。王太子を裏切るなど、したくない。
その感情を正確に読み取ってか、王太子が告げる。
「だったら、去れ」
小さく頷くと、イアンはよろよろと、頼りなさげに歩き始めた。失礼しました」と掠れた声で言うと、部屋を出る。……しばらく歩いて、力尽きたように壁にもたれかかった。
ぐっと奥歯を噛み締める。シェーラ以外と婚約することが嫌で、王太子にも何かしらの考えがあるはずなのに、その意味を考えることなく、感情的に反抗した。まるで駄々をこねる子供だ。情けない。
だけど――。
(それだけは……嫌だ)
イアンはずっと、心のどこかで夢を描いていた。まだ嫌われていないから、義兄として慕われているから。それらを言い訳にして、シェーラと結ばれるという夢を捨てることができていなかった。
今回言われたユリアナとの婚約は、それを諦めろということだ。夢を捨て、現実を見ろという命令。……なかなか踏ん切りがつかなかった。
ふぅ、と息をついて、くしゃりと前髪を握る。すると、後ろから微かな足音が聞こえてきた。
「イアン様」
振り返ると、そこには気まずそうなルイスがいて。イアンはゆっくりと姿勢を直し、「なに?」と訊いた。
「婚約は、今度その令嬢と出会ったあと、反応を見てから決めてよい、とのことです」
「……分かった」
喉の奥から返事を絞り出すと、ルイスはぺこりとお辞儀をして戻っていった。王太子の執務を手伝うのだろう。しばらくその背を見送り、見えなくなるとイアンは再度、ずるずると座りこんだ。
気を遣われて、猶予も与えられた。だったら、道は一つしかない。宰相派である父を裏切り、王太子に従うと決めたのは、自分なのだから。
イアンはゆっくりと立ち上がると、再度歩き出す。主が動き出した。ならば、従うしかなかった。
△▼△
いつもより仕事が早く終わったので散歩がてら徒歩で帰宅すると、シェーラがユリアナとお茶会をしているという。イアンはとうとうこの時がきた、と思いながら、お茶会の会場である庭へ向かった。
庭では侍女たちに遠くから見守られながら、シェーラとピンクゴールドの髪の少女が会話をしていた。件のイシュタール子爵令嬢だろう。緊張しながら、とりあえずはシェーラに、ごくごく自然な態度を装って話しかけた。
「あれ? シェーラ?」
すると、シェーラが振り返る。緑の瞳が大きく開かれ、「お義兄様……」とどこか切なげな声が美しい唇から落ちた。高鳴る鼓動を抑え、シェーラに話しかけようとした、そのとき。
「シェーラ、そろそろお開きの時間じゃなかったかしら?」
その言葉に、イアンは小さく目を見張る。招待者側からお茶会の終了を提案することはマナー違反だった気がする。お茶会など、男性であるイアンには縁遠いことだから、正しいかはよく分からないが、確かそう。
思わず顔が歪む。彼女はルールも守れないのか。
すると、シェーラが頷いた。
「ええ、そうね。――少し、用事があるのを忘れていたの。門まで送れないから……お義兄様にでもエスコートしてもらって」
「え?」
思わず声が漏れた。お茶会の最後は主催者が門まで見送るのがルールだったはずだ。そのルールをシェーラが破るなんて。
驚くイアンをよそに、二人は別れの挨拶を交わし、シェーラは一人で屋敷の方へ戻っていった。その背中があまりにも寂しげで、イアンは思わず手を伸ばしそうになる。
だけど、今はそんなことをしている場合ではない。ぎゅ、と左手を握りしめると、イアンは作り笑いを浮かべ、ユリアナに向かって右手を差し出した。
「では、門まで送ります」
「はい、ありがとうございます、イアン様」
そうして乗せられた手は、やはりシェーラのものとは違って、泣きたくなった。