レナルド(3)
ぱちり、とレナルドは目を覚ました。目の前には見慣れたベッドの天蓋。ゆっくりと体を起こして窓の外を見れば、どうやらいつもと同じ時間のよう。慣れとはすごいな、といつものように感心しながら、くすりと笑い、のそのそとベッドから降りて着替えを始めた。
本来ならば使用人に手伝わせるのだが、数年前から早めに起きて王宮の蔵書室で書物を読むようになったため、朝だけはそれをしないようにしていた。一人でできるにも関わらず、わざわざ手伝わせて、彼ら彼女らも早起きしなければならなくなるのが申し訳なかったのだ。「それでは仕事がなくなってしまいます!」と侍女長に言われたので、これ以外のことは任せているが。
そんなことを思いながら寝間着を脱ぎ、夜の間に用意されていた白いシャツを羽織る。ボタンを上から順に留めていき、下までやると今度は袖のボタンだ。まずは利き手の右で左手首のボタンを、そして次に反対側のボタンを留める。前世ではこういうものを着たことがなかったため、最初のころは右のボタンを留めるのに苦労したものだが、今では慣れたものだった。
シャツを着終わると、ズボンを履いていく。その最中に靴下を履き、スリッパから靴に履き替えた。そうして外に出てもおかしくない格好になると、洗面所へ行き、歯を磨いて顔を洗い、短い髪を整える。乙女ゲームでは、『王太子レナルド』は髪を伸ばし、ひとつに括っていたが、今の彼には長い髪はただ煩わしくて、伸ばす気などなかった。
最後に鏡を見て身だしなみを確認し、大丈夫だと判断して頷くと、レナルドは部屋を出た。
人通りの少ない朝の王宮を進む。使用人すらまだ起きていない人もいる、早い時間帯だ。静かで、ひっそりとした雰囲気が漂っていて、それが落ち着く。王太子であるがゆえ、彼の周りはいつもなにかと騒がしい。それはそれでいいのだが……このように静かな時間も欲しかった。
取り留めのないことを考えながらしばらく歩くと、蔵書室が見えてきた。警備の衛兵に軽く挨拶をして、中に入る。
蔵書室は意外とこじんまりとしていた。だいたい十畳ほどの部屋で、手前は閲覧スペース、奥は背丈を超えるほどの本棚がいくつも並んでいる。最初に入ったときには前世の県立図書館をイメージしていたため、予想よりも狭いことに驚いたものだ。後から教師に尋ねたところ、どうやらこのような部屋が王宮――特に政治の部署などがある地区には多くあるらしい。それぞれに近くの部署でよく必要になる本を入れているから、一つの部屋に入る書物の量は少なく、部屋も小さくて済むのだとか。
ちなみに、レナルドがいつも訪れるのは王族のプライベートスペースにある部屋の一つで、国王になるために必要なことに関する書物が収められている。つまりは様々な分野の本が広く浅く、という感じだ。例外は帝王学や歴史などの書物で、それらは本棚まるまる一つ使うほどの量だった。
――レナルドは部屋の奥へと進み、その歴史書の棚から一冊の本を抜き取る。ここ最近読んでいる、この国の歴史が書かれたものだ。どこの誰が事件を起こしたのだとか、かつて起こった災害への対策だとか、様々なことが書かれている。膨大な量で、上・中・下と分かれていた。レナルドが今読んでいるのは下巻で、ここ百年二百年ほどの内容がこと細かく記されている。
昨日の続きから読み始める。ちょうど三十五年前、隣国に第二王女ドロシアが嫁いだとの記述。そういえば、何年も前、彼女に関することを授業で習ったな……と思い、ページを順にめくり始めた。そして少し経ったところで、見つける。
――ドロシア元王女、病により死亡。
それは嫁いだ一年後のことだった。たった一年、王妃を務めただけで、ドロシア元王女はあっけなく息絶えている。
そのことにどことなく違和感を覚えた。だけどその正体が分からず、ううん、と唸り、考える。しばらく考えて、気づいた。
そんなにも病弱な王女を、果たして当時の王は、隣国との友好を深めるために嫁がせるだろうか? たった一年で亡くなったのなら、それほど意味はなかった気がする。事実、授業ではその後、隣国の王は自国内から新たな王妃を選び、かの国との仲は進展どころかわずかに後退したという。
「なにか、別の理由が……?」
ぽつりと呟く。そうとしか考えられなかった。
そのとき。
「ん? ……ああ、なるほど、それですか」
すぐ耳元で声がして、レナルドは慌てて立ち上がり、そちらを見た。
そこには短く切りそろえられた黒髪に栗色の瞳を持つ、美しい少年がいた。まだ幼く、年の頃は十二くらいだろうか? 背の高さはレナルドの胸ほどで、まだ声変わり前なのか、声は高かった。見覚えは一切なく、「誰だ」と、平静を装って尋ねる。
すると、少年がつい、と視線を逸らした。彼の様子を視界に収めながら、その先を追うと、先ほどまで読んでいたものの、驚きのあまりページを開いたまま机に置いてしまった、あの歴史書があった。
彼が口を開く。
「そんな本読んでも何にもなりませんよ。書かれているのは〝表に出せる歴史〟ばかりで、〝真実〟が歪められていることも多いですから」
なるほど、と思わず納得する。確かに、歴史の〝真実〟の中には、あまり大きな声で言えないことも多いだろう。そういうものは大抵国の都合のいいように歪められて公表され、こんな警備も〝それほど〟な蔵書室にはないかもしれない。もしくは、どこにも記されていないか。
だけど。
「――それでも、知る必要はある。〝表に出せる歴史〟は、公にされた時点でもう〝真実〟となるのだからな」
逆に言えば、〝表に出せない歴史〟は、そうなってしまった時点で〝真実〟ではなくなる。国王が白と言えば、たとえそれが黒でも白になる、といった感じだ。間違いであろうとも、〝表に出された歴史〟が〝真実〟。
そう言うと、少年は「そういう考えですか」と頷き、視線をこちらに向けた。その口元は弧を描いているが、目元は笑っていない。冷静にレナルドを観察している。
ふと、恐ろしい感覚に襲われた。ゾッと背筋が戦慄く。目の前にいるのは確かにレナルドよりも年下の、幼い少年のはずなのに、教師よりもずっと年上の人物を相手にしているかのような、そんな感覚だった。知らず知らずのうちに手汗が滲んできて、気持ち悪い。
こっそりズボンで軽く手を拭く。そのとき、少年が動いた。くるりと体の向きを変え、入り口へと向かっていく。蔵書室を出る直前、こちらを振り返ることなくはらりと手を振ってきた。
「それではまた会いましょう、王太子殿下」
扉が開かれた。数秒見えた扉の向こう側には、オロオロとした衛兵と、屈強な男。男は泰然と構えていて、少年を見ると顔を下げる。そしてそのままどこかへ向かって歩いていく少年の後を追って、視界から消えた。扉が閉じられる。沈黙が部屋に満ちた。
……たっぷりと経って、レナルドは呟いた。
「なんだったんだ、いったい……」
――未だに心臓がドクドクと、嫌な音を立てていた。




