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ユリアナ(5)

 ――どうして、こうなってしまったのだろう。

 ぼんやりと窓の外を眺めながら、ユリアナはそう思った。目に映る中庭の景色は、見慣れたそれとは違ってどこか煩雑な印象を与えてくる。何でもないように装って、侯爵家がどれほど庭園の整備にお金をかけていたのかが今更ながらに分かった。


お嬢様(・・・)


 呼ばれて、ユリアナはそちらを向いた。見慣れない侍女。だけどこれから彼女がずっと仕えてくれる。ヘレナたちの代わりに。

「なに?」と尋ねた。彼女は鉄仮面のまま、告げる。


「リウカマー侯爵がお越しです」


 つ、と、目を伏せた。彼に捨てられたにも関わらず、この心臓は今でも彼の名を聞くだけで大きく跳ねる。正直、忌々しかった。こんなふうに、今でもまた彼に好いてもらえるのかも、と期待してしまう自分が。

「分かりました」と侍女に返事をして、ユリアナは窓辺から離れた。

 窓の外では、ひらりと花びらが舞っていた。




 リナに、王太子と結ばれてくれ、と言われ、それにユリアナが頷くと、その日のうちにリウカマー侯爵邸を離れることとなった。ユリアナも、使用人らもよく分からない状況に混乱している間に連れ出され、連れてこられたのはイシュタール子爵邸。そこでリナはなんと、ユリアナはイシュタール子爵の隠し子だから引き取ってくれ、と言ったのだ。ユリアナは呆気に取られ、ぽかん、と彼を見つめた。そんな素振(そぶ)りなんて一度もなかったのに……。だけどそれは真実らしく、イシュタール子爵は素直にユリアナを引き取った。


 そしてそれ以来、彼とは一度も会っていなかった。ユリアナがイシュタール子爵の養女になったのだから、それも当然。子爵令嬢――しかも養女――と侯爵だ。身分が離れすぎている。

 だけど、今日、彼は会いに来てくれて……。


(ああ、もう、ダメよ、そんなこと考えては……)


 リナの待つという応接室へ向かいながら、ユリアナは首を小さく横に振った。どうしても、期待してしまう。あんな話なんて嘘で、彼は私を迎えに来てくれて、それで結婚するんだって、願ってしまう。愛しているから。

 だけど……。ユリアナは足を止めて、前を見る。侍女が振り返って訝しげに見てきたが、気にしない。どうでもよかった。足元の絨毯を見つめて、考える。


 ――もし……、いやきっと、おそらく、リナの望みとは私と王太子との結婚だろう。ずっと見てきたから、彼が私に向ける視線の中に恋とか愛とか、身を焦がすような感情がないことには薄々気づいていたし、あんな痛切な声なんて、今まで聞いたことがなかったから。きっと、そう。

 だったら、私は素直に彼の言うことを聞いて、王太子の元に嫁ぐべきだ。それが彼の願いなのだから。


 けれど、何となく気に食わない。どうしてだかは分からないが、彼の願いを叶えたくなかった。愛しているから? 彼以外と結ばれたくないから? ……たぶん、違う。そうじゃない。王太子と結ばれることには、辛いけれど、一応納得しているのだ。だったら、この気持ちの正体は、なに?


「お嬢様!」


 ハッ、と、意識が戻った。視線を上げれば、侍女が苛立ったようにこちらを見ていた。彼女は、ユリアナがこちらを見たことを確認すると、待つことなくさっさと歩き始める。慌てて彼女について行った。

 静かに歩みを進め、とうとう応接室の前についた。久しぶりに彼に会うから、と、深呼吸をして気持ちを落ち着けようとしたが、侍女はユリアナのことなど気にせず、すぐに扉を叩き、中へと入った。心の中で愚痴を零しながら、彼女に続いて部屋に足を踏み入れた。


 応接室の中にはイシュタール子爵とリナがいた。リナは相変わらずのドレス姿で、足を組み、堂々とした態度で子爵と向き合っていた。子爵は格上の侯爵相手だからかあたふたとした様子で、ユリアナを見た途端、ぱぁ、と顔を輝かせ、「で、では私はこれで」と言って、先ほど閉まったばかりの扉を開けてそそくさと出ていった。侍女もすす、と下がり、部屋を出る。


 二人きりになった。心臓が早鐘のように脈打っていて、ひどくうるさい。落ち着けようとしたけれど無理で、諦めて彼の対面、イシュタール子爵が座っていたソファーにまで行き、腰掛けた。勇気を振り絞り、「それで、」と口を開く。


「ご用とはなんでしょう?」

「まぁ、まぁ、そう焦らないの。……あの香水は、つけてないのね」


 一瞬、何を言われたのか分からなかった。だけどすぐに、ここに来る直前、リナがプレゼントしてくれたものだと気づき、「はい」と頷く。彼からの最初で――おそらく最後のプレゼントだ。大切にしたかったし、何より、あれを嗅いでいると頭がくらくらとして、何も考えられなくなりそうで、恐ろしかった。


「ふぅん」と、リナが表情を消し、冷たい声を発した。つ、と冷や汗が背筋を伝う。どうやら不機嫌になってしまうようなことをしてしまったようで、嫌われてしまうのでは、と、恐ろしくてたまらなかった。

 リナが、その唇を開いた。


「つけなさい。毎日、たっぷりと。分かった?」


 それは命令だった。嫌われたくない一心で、ユリアナは頷く。

 するとリナは微笑んだ。美しい笑顔に、いつもとは違って、何故だか胸にもやが広がる。普段ならここでどきりとするはずなのに、不思議とそれがなかった。首を傾げる。どうしてかしら? うーんと悩むが、まったく理由に検討がつかない。分からない。

 そのとき、リナが言った。


「ほら、今ここでつけて」


 顔を上げた。彼はニコニコと笑顔を浮かべているが、どこか不安げに見える。事実、白い手袋に包まれた彼の手はぎゅっと、力強く握りしめられていた。

 その様子に疑問を持ちながらも、ユリアナは素直に頷き、ポケットに入れていた香水瓶を手に取った。瓶を傾け、蓋を濡らす。そして縦に戻すと栓を取り、それを耳の後ろにつけた。


 正直、彼に――好きな人にこんな支度をしているところを見せるなんて恥ずかしいし、今すぐやめてしまいたい。だけど嫌われたくなくて、羞恥心を押し殺しながら香水をつけた。ふんわりと甘ったるい香りが鼻腔をくすぐる。

 ……なんで、彼はこんなことをさせるのかしら? 香水瓶に栓をしながら、ふとそう思った。彼のことだから、おそらくなにか理由があるのだろう。だけどユリアナには全く想像がつかなかった。


 深く考えようとすると、頭がくらりとして思考がまとまらない。少し眉を(ひそ)めるが、その変な感覚は消えなかった。

 ここに来る前、屋敷でこの匂いをかがされたときもこんなふうになったから、おそらく原因は香水だろう。だけど確証はないし、何よりリナの目的が分からなくて――。


 ユリアナは頭を押さえた。頭がぼんやりとする。自分が何を考えていたのかもすぐに忘れてしまって、思考が堂々巡りをしている気がした。……本当にそうなのかも、分からないのだけれど。

 そんなことを思っていると、「ユリアナ」と呼ばれた。リナだ。そちらを向く。

 彼はにっこりと微笑んで、口を開いた。


「それで、これからの話だけれど――」


 リナはこれからユリアナがすべきことを話していく。まずは毎日公園へ行き、そこでシェーラ・アルハイム伯爵令嬢と仲良くなること。そして彼女に話しかけるときのセリフも、一字一句違わないよう、と厳命されて伝えられた。彼女が『転生者』という存在だったときはこう言って、そうでないときはこんなふうに話して――と、細かく伝えられる。よほどの記憶力がなければできないことだが、ユリアナは時折混乱しながらも、とりあえずそれらを頭の中に叩き込んだ。

 そして出会った日にすることを、話すことを全て伝えられると、「――こんな感じね」とリナが言った。


「彼女と接触したら、教えて。その次のことも伝えるから」

「はい」


 ユリアナが頷くと、彼は満足げに笑った。その笑顔に、どうやら嫌われてはいないらしい、と安心する。彼に嫌われるくらいなら、死んだ方がマシ。

 すると、リナが立ち上がった。どうやら帰るらしい。扉へ向かうその背中へ、「あの、」と、ためらいがちに声をかけた。彼が振り返る。


「リナ様のお望みは、なんでしょう?」


 ――ああ、これが聞きたかったのだ、と思った。つい先日のように、この香水で何かされているときじゃなくて、今のようにきちんと意識がはっきりしているときに、言ってほしくて。それならば、あなた様の願いを叶えるために、いくらでも頑張れるから。だから、聞きたい。あなた様の願いを。望みを。

 リナはじっと、ユリアナの瞳を見つめていた。そこに何があるのか、確認するかのように、じっくりと。

 そしてつい、と目を逸らすと、言った。


今の(・・)あなたに言うつもりはないわ。ただ言うことを聞けばいいの。いいわね?」


 そっと目を伏せた。おそらく、彼に信用されていないのだろう。五年間、ひたすら彼を想い続けていたのに。


「……はい」


 返事は弱々しいものだった。だけどそれにリナは満足した様子で、部屋を出ていった。

 扉が閉められる。信頼されていないのが、辛くて、悲しかった。

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