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ユリアナ(4)

本日2度目の更新です。

 そっと窓に触れると、ひんやりとした冷たさが手のひらに伝わってきた。氷みたいな、だけどそこまで暴力的ではなく、どこか柔らかい冷気。

 ユリアナは窓の外の光景に目を細めた。至って普通の、どこの屋敷にでもあるらしい――ここに来て以来一度も屋敷の外に出たことないから、ヘレナの受け売りだった――中庭だ。昇り始めたばかりの陽光を受け、キラキラと朝露が輝いている。ふと、ここに来たばかりのころを思い出し、笑みをこぼした。


 ブライアンに貶されて以来、ユリアナはよりいっそう勉強に励むようになった。真面目にヘレナの話を聞き、余計な無駄話は極力せず、常に教わったことを意識する。そうして、努力してきた。

 すると数ヶ月したころ、部屋にリナがやって訪れた。この数ヶ月ずっと訪れていなかったから、もう会えないと思っていて、そのときは驚き、思わずぽかん、と間抜けに口を開けてしまった。

 そして、そんな顔をしたユリアナを見て、彼は笑いながら言ってくれた。


 ――いいわね。ヒロインらしくなってきたじゃない。


 ドキリと胸が跳ね、ユリアナは思わずうつむいた。ヒロインという言葉の意味は、前にヘレナに教えてもらって、知っていた。どうやら恋愛小説などの女主人公、男主人公の小説だった場合はその男性と恋をする相手のことを言うらしい。そのとき、同時に「奥様のことを私に預けるときも、『この子をヒロインらしくしてね』と仰ったのです。きっと旦那様は奥様をヒロイン――恋する相手だと遠回しに言っていたのですわ」と言っていたことを思い出し、ユリアナの心臓がどきりと跳ねた。熱っぽくなって、思わずうつむく。ひどく落ち着かなかった。


 ――それから、リナは定期的にユリアナの元を訪れるようになった。するとどうしてだかブライアンも訪れるようになって、ユリアナを見て「まぁまぁだな」と言う。どうやら少しは認めてくれたようで、とても嬉しくなり、思わず泣いてしまったのは今でもからかいのネタになっていた。悔しいけれど、泣いたのは事実なので反論できない。


 そしていつの頃からか部屋を出してもらえるようになって、もうこの屋敷に来て五年目となった。屋敷の者たちは最初のころこそはブライアンのように厳しかったけれど、次第に認めてくれたのか、優しく、〝奥様〟として扱ってくれるようになり、幸せな日々を過ごしていた。


「奥様」


 後ろから声をかけられ、振り返る。ヘレナの教育の賜物で、そんな些細な動作ですら、淑女らしい、洗練されたものになっていた。

 いたのは侍女。ヘレナではなかった。彼女はつい、と顔を伏せ、礼をとると、告げる。


「旦那様がお呼びです」

「分かったわ」


 そう返事をしながら、ユリアナは近くにあったベルを取り、カランカラン、と鳴らした。サッと他の侍女らが数人現れる。彼女らへ向けて「旦那様がお呼びなの。用意をしてくれる? なるべく早くね」と言うと、すぐさま支度が始まった。

 薄いネグリジェを脱がされ、ドレスに着替えさせられていく。今日のドレスは赤色で、ユリアナのピンクゴールドの髪によく似合っていた。


 それが終われば、メイクを施され、ふんわりとした髪はハーフアップに結わえられる。それで完成。ユリアナは鏡に映った自らを見て、ひとつ頷くと、すぐさまリナの元へ向かった。

 豪奢な廊下を進み、使用人の使うような通路に入る。リナはいつも執務室などにはおらず、何故か屋敷の奥にある薄暗い部屋にいた。そこを好んでいるようで、滅多に執務室に入ることはないらしい。


(どうしてなのかしら……?)


 ひどく不思議で、同時に知りたい、とも思った。どうして彼はあそこを好んでいるのか。知りたい。彼のすべてを知って、優しく受け止めてあげたい。そして――。

 顔を真っ赤にしながら、ユリアナは首を振って(よこしま)な考えを払った。心臓が早鐘のように暴れ回っている。ひどく熱くて、たまらなかった。

 うう、と心の中で呻いていると、ちょうどリナのいる部屋の前に着いた。すぅ、はぁ、と深呼吸をして、心臓を落ち着かせる。同時にパチッと頬を叩いて気持ちを切り替え、扉を叩いた。


「ユリアナです、リナ様」

「入って」


 声がしたので、ノブを回して部屋に入る。ふんわりと甘やかな香りが漂ってきた。

 必要最低限の質素な――それでもやはり、侯爵家のものだからかなりの高級品だ――家具が置かれていて、窓はひとつだけのこじんまりとした部屋。そこに、窓を背景にするようにしてリナがソファーに座っていた。彼はにっこりと笑っていて、どきりと胸が跳ねる。何度も見た笑顔。だけどいつも胸が高鳴って、今も体が熱を持ってしまっていた。


 うつむいて彼の視線から逃れたくなる気持ちを押さえ込んで、ユリアナは「お呼びと聞きましたが」と言う。それを聞くと、彼は花が綻ぶように、喜びを滲ませて笑った。とても美しい笑顔だった。


「ええ、そうよ。実はね、そろそろあなたにアタシの目的を言っておこうかと思って」


 その言葉に、心臓が跳ねた。私に伝えたいこと。もしかして、結婚の申し込みとか……?

 笑みがこぼれるのを抑え込めなかった。嬉しくて、幸せで、心の中で黄色い悲鳴を上げる。だけどこの五年で培った淑女の仮面をつけて、それを表に出さないようにすると、「なんでしょう?」といたって平然と尋ねた。そんなことをしてしまえば幻滅されてしまう、というのは、なんとなく分かっていた。


 ユリアナの声を聞いて、だけどリナは本題を話そうとせず、「まずはプレゼントよ」と言い、自らのドレスのポケットから香水瓶を取り出した。それをコトリ、と机の上に置く。

 プレゼント。胸がどきりとして、落ち着かない。落とさないよう、震える指先を宥めながら、慎重にその香水瓶を手に取った。

 美しく、繊細なものだった。鳥かごと、その上にいる鳥を模しているもののようで、とても可愛らしい。少なくともユリアナにはそう見えた。

 ぼうっと見とれていると、「気に入った?」と声をかけられる。


「ええ、すごく……」


 ぽうっと、熱に浮かされたようにそれを見つめる。プレゼントってだけでも嬉しいのに、こんなに可愛らしく、高価であろうものがもらえるなんて。ひどく幸せで、嬉しくて、今すぐ死んでもいい、とさえ思えた。

 ユリアナの返事に、リナは「それは良かったわ」と笑顔で言うと、立ち上がり、背後に回ってきた。そして後ろから手を伸ばされ、手と手が触れ合う。


「あっ……」


 ひどく恥ずかしくて、思わずうつむいた。それくらいしかできないほど、心臓の音がやかましくて、全身が熱かった。

 彼の指が触れ、香水瓶が開けられる。くらくらとしてしまうほど甘ったるい香りが漂ってきた。思考がぼんやりとしてきて、少しずつ、何も考えられなくなっていく。


「あのね、ユリアナ、お願いがあるのよ――」


「はい、なんでしょう? リナ様の願いなら、なんでも叶えますとも。あなた様のことを愛していますから」そう、言った気がした。だけど言ってないような気がする。よく、分からない。ただとても甘美で、次第に全てがどうでもよくなっていく。この香りに酔いしれたい。そう思った。


「ユリアナ、あなたはイシュタール子爵の養女になるの。そして、これからずっとアタシの言うことを聞いて、その通りに行動して、そして――王太子殿下と結ばれるのよ。分かった?」


 サッ、と血の気が下がった。目の前が真っ暗になる。それでも倒れないよう必死にこらえ、彼の言ったことを反芻する。

 ――王太子殿下と結ばれる? どうして? 私はリナ様のことが大好きなのに……。

 そんなことを思い、戸惑っていると、「ユリアナ」と耳元で囁かれた。


「お願いよ、アタシの願いを叶えて」


 くらくらする。あまり難しいことを考えられなくて、ユリアナはいつの間にか呟いていた。


「はい……」


 背後でリナが笑ったのが、雰囲気だけで伝わった。

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