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四章(7)

シェーラ視点

 シェーラが呆然とローリーを見つめていると、大好きな声が鼓膜を揺らした。


「シェーラ!」


 そちらを見ればイアンが焦ったようにこちらを見ていて、こんな状況にも関わらず胸が高鳴った。お義兄様が私を見てくれている。心配してくれている。それだけで幸せな気持ちが溢れて、泣きたくなってしまう。あのとき、私が夜会に行くのをお義兄様が止めたとき、お義兄様の考えていることが分からないと拒絶したけれど、それでも好きでたまらない。だから、私は――。


 頭にかかっていた霧が僅かに晴れた。ユリアナが静かな面持ちで側にいるのが視界に入り、なんとなく違和感を覚える。リウカマー侯爵に引き合わされて以来、彼女はひどく大人しくなった。まるで、それが本来の彼女とでもいうように、リウカマー侯爵もそれを当然のように受け入れていて……。


 そんなふうに別のことを考えていることが伝わったのだろうか、ローリーが首にまわした腕を僅かに上に持ち上げた。気道が僅かに圧迫されたことによって息が苦しくなり、思わず顔を歪めると、イアンがまたシェーラの名を呼ぶ。けれどそれをかき消すかのように、ローリーの声が耳朶を打った。


「ねぇ、シェーラ、逃げよう。君はここにいたら不幸になる」


 その、妙に確信を持った言い方に、シェーラは思わず首を傾げた。どうしてそんなにも自信を持って言えるのだろう? 未来のことなんて誰も分かりやしないのに……。

 同じことを思ったのだろう。王太子が声を発する。


「どうしてそんなことが言える?」

「だって、侯爵は未来を当てた。それならば、シェーラが不幸になるって言っていたことも当たるに違いない。だから、僕は――」


 ぐっと首が締められる。今まで以上に苦しくなって腕を引き離そうとしたけれど、彼の力は思いのほか強く、ただ余計に苦しくなるだけだった。

「シェーラ!」と呼ぶ声が聞こえる。大好きな声だった。愛する人の声だった。その声を聞くだけで、幸せだという気持ちが胸に満ちて、溢れる。


 ――もう、認めるしかないのだろう。どれだけ拒絶しようとも、否定しようとも、そうなるくらい、シェーラはイアンのことが好きだった。愛していた。

 幼い頃に抱いた淡い恋心は、時間とともに成長して、これほどまでに大きいものとなっていたのだ。


 形容しがたい感情が、胸の底からせり上がってくる。思わず口元を綻ばせたところで、ローリーの声が耳朶を打った。


「ねぇ、シェーラ、一緒に逃げよう? 君のためとはいえ、僕は君を傷つけたくないんだ。だから――」

「ふざけるな!」


 イアンの叫び声がローリーの言葉を遮る。怒りに満ちた声だった。


「シェーラのため? 違うだろ! そのために彼女自身を傷つけたり、意思を確認せずに行動を制限するなんて、そんなの彼女のためじゃない!」


 顎を上げられた状態なため、努力してイアンの方を見れば、彼はひどく苦しげな面持ちでそう叫んでいた。私のことでそんな表情をしてくれる。そのことに嬉しくなって、胸が温かくなった。

 だけどそんな気持ちをローリーが打ち砕く。


「だったら、シェーラのことをちゃんと考えたことあるのか!」


 その言葉に、イアンは僅かに目を見開いた後そっと顔を伏せ、黙りこくる。その、まるで意気消沈したような姿に、シェーラの胸がざわりと揺れた。――確かに、私はお義兄様の気持ちが分からなくなったから、楽をしようと、この場にいて……。

 シェーラが不安げに瞳を揺らせば、ローリーが甘い言葉を囁く。


「ねぇ、シェーラ、君を救うために、僕は頑張ったんだよ。だから僕のところにおいで。ちゃんと君を幸せにするから」


 そう言って、ローリーはにこりと微笑む。どこか歪な笑みで不安を覚えるけれど、彼の申し出を受けたら、この先も、何も考えなくて済むに違いない。

 それはシェーラにとって、たいそう魅力的なことだった。


「私、は――」

「シェーラ」


 何かを告げようとしたところで、凛とした声が鼓膜を揺さぶる。どきりと胸が跳ねてそちらに視線をやれば、イアンが真剣な表情でこちらを見ていた。

 ゆっくりと、形のいい唇から言葉が紡がれる。


「こんなときだけど、ごめん。君は私の考えていることが分からない、と言っていたよね」


 二人以外の誰もが意味が分からないと首を傾げる中、シェーラはこくりと頷いた。――だって、分からなかったんですもの。お義兄様の考えていることが分からなくて、どうすればいいのか分からなくて、だから……逃げた。選択をすることを避けて、リウカマー侯爵の言いなりになった。それはとても、楽だったから。

「だけど、」とイアンが言う。


「私だって、君の考えていることが分からない。君が何を好きなのか、どんなことをされるのが嫌なのかは、ずっと共にいたから分かっているつもりだ。だけど……ちゃんと君の口から聞いたことはない。うちに引き取られてから、君は少しずつ感情を押し殺すようになったからね」


 確かにそうだ。シェーラは引き取られてから貴族らしくあることを求められ、昔のように泣いたり笑ったりなど、感情を表に出すことをあまりしなくなった気がする。そのせいで何を考えているのか全く分からないと言われて、複雑な気持ちになった。ちゃんと恋心を隠せていたのは喜ばしいことだが、何も伝わっていないのは、それはそれで寂しい。


 シェーラがそっと目を伏せると、イアンの声が再度耳朶を打つ。


「だから、多分、私たちは話し合いが足りないんだよ。…………ああ、もう! なんでこんな話しているんだろう!?」


 ――それは私の言葉なんですけど。思わず心の中でそう呟く。おそらくこの場にいる全員がそう思ったのだろう。王太子らは半眼でイアンを見つめるし、ローリーの拘束も僅かに緩んだ。呼吸が僅かに楽になる。

「とにかく!」とイアンが苛立ち紛れに大声を出す。


「シェーラ、()は君のことが好きだよ。……もちろん、一人の男として」

「え……?」


 その言葉に、シェーラは思わず目を見開く。――好き、って言った。私のことを好きだって。嬉しい気持ちが胸の内に溢れ、あまりのことに呆然としてしまう。そんなこと全く想像していなかったから、どうしていいのか分からなくて、ただただイアンを見つめることしかできなかった。

 再度、口が動き出す。


「だから、今まで色んなことをしてきた。シェーラのためになるだろうって勝手に判断してやってきたのは、本当にごめん。――それが僕の考え。君は? 君の考えを教えて。今どうしたいのか、誰かに委ねるのではなく、君自身が選択をするんだ」

「私が、決める……」


 イアンの言葉の意味を反芻し、シェーラはぎゅっと手を握りしめた。今まで自分で決めてきたことなんてほとんどなかった。あったとしてもほんの些細な――たとえばドレスの色とか、それくらいで、こんな大きな決断なんてしたことない。だから戸惑って、どうしていいのか分からなくて――。

 重たい沈黙が辺りに満ちる。


「……あ、そっか、そうだよね……。シェーラは殿下のことが好きだから、こんなこと言われても――」

「違います!」


 自身が王太子のことを勘違いされていることが分かって、シェーラは思わず叫んだ。――違う、そうじゃない。だって、私が愛しているのは――。


「私もお義兄様のことが好きで、だからお義兄様のために、お義兄様が権力を手に入れるために色々やってきたんです!」


 ――言ってしまった。そんな思いが頭を支配する。もう、後には引けない。

 ああ、もう! と心の中で叫びながら、シェーラは言った。


「だから私は、お義兄様と一緒にいたいです!」

これで四章終わりです。明日、エピローグを投稿します。

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